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§ 気色
五
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「すみません……なんか、わざわざお土産買ってきていただいちゃって」
「偶然店の前通ったの。亜弥ちゃん好きでしょ? ここの豚まん」
中央二大きく赤い数字とアルファベットが印刷された白地のバッグ。日中、人通りの多い場所でこれをぶら下げていたら、その中身に気づく人はきっと多い。それにしても。
もらっておいてこんなことを思うのは、些か申し分けがないけれど——敦史とこの袋は、なんてミスマッチなのだろう、と、亜弥は笑いをかみ殺した。
「なにがおかしいの?」
「え?」
「笑っているじゃない」
「笑ってませんってば」
少しでも長く一緒に居たいから。亜弥の耳元で囁くと、敦史は表通りでタクシーを停めた。
敦史が亜弥を送り届けるのはよくあるけれど、今日は少々勝手が違う。手を繋いで歩く気恥ずかしさが手伝ってか、いつもよりふたりの舌は滑らかだ。
決まりの悪さをごまかすように、亜弥は話題を変えた。
「……食べきれるかな」
「そこをちゃんと考慮して六個入りにしたんだよ。今日の夕飯と明日の朝、もし残ったら明日の夕食。ほらね、問題ない」
「そんなに一度に幾つも食べられませんよ」
豚まん、幾食連投すればなくなるかしら。
「そうかな? 亜弥ちゃんならいけるんじゃない?」
「部長は……人をなんだと思ってるんですか」
交わす軽口の矛先は、すぐに亜弥へと向いてしまう。敦史の言葉選びも、いつもと違う。何故か少し強引で——いつからそうなのだろう。
なにがいままでと違うのか。志向の海に沈みそうになる亜弥を、敦史の詞が呼び戻した。
「ねえ、まだ部長?」
「あ……すみません」
この状況で部長はないか。
敦史が立ち止まり、亜弥を見下ろした。この沈黙が恐い。
「あ、あの……佐々木、さん?」
今度は苦虫を噛み潰したような顔をする。どうやらまた間違えたらしい。
「僕の名前は、敦史だよ。亜弥ちゃん、知っているよね?」
「……もうっ」
意地悪な物言いに拗ねた亜弥が唇を尖らせれば、敦史は途端に笑みを引っ込めて、眉尻を下げた。
「ごめん。悪かった。浮かれすぎだね」
表通りから一本道を入っただけで、簡素な下町らしさを見せる住宅街の一角に、亜弥の住むアパートはある。
タクシーを降り、どれほどゆっくり歩いても、所詮はものの五分で到着してしまう距離。アパートはもう目の前だ。
今日からは上司と部下ではあるけれど、恋人同士。家まで送り届けてくれた恋人に「上がってお茶でもどうですか」の一言くらい、あって然る可し。なのだけれど。
「失敗したな。土産なんか買ってこなければ、食事に誘えたのに」
「……もう遅いですよ?」
「亜弥ちゃんの部屋で一緒に豚まんを食べるのでもいいね」
「……なんか……すみません」
亜弥には、殺風景な自分の部屋へ、敦史を向かい入れる覚悟が、まだない。
「冗談だって。今日はもう遅いし明日も仕事だし、おとなしく返るに決まっているでしょう? ただ……」
「あっ」
敦史は隙を突くように、亜弥の腰を引き寄せ、抱き締めて。当たり前に押し付ける唇にも、遠慮はない。強く深く舌を搦め捕る敦史は、唇の端に歓喜を浮かべ、息つく間も与えず、亜弥の口腔を貪った。
「次は、期待してもいいよね?」
息が切れ、目尻に涙を浮かべた亜弥に、敦史は問う。
「こそこそ様子を窺って唇を盗み取る必要はもうないんだと思うと、やっぱり嬉しくて舞い上がっちゃうな」
亜弥ちゃんには、悪いけれど遠慮なく、と、また唇を塞がれる。
「んっ、ふっ……」
ちゅっと音を立てて亜弥の唇を吸い破顔する敦史に釣られるように、亜弥も口元を緩ませた。
「こうして堂々と抱き締めることもできるんだ」
すごいでしょ、と、言わんばかりに浮かべられた満面の笑み。亜弥の細いからだを抱き締める敦史の両腕に力が込められる。
衣擦れするたび立ち上る淡い柑橘系の香りで、おとなしく身を任せている亜弥の胸もいっぱいになった。
「ねえ、亜弥ちゃん。僕、前にも話したと思うけれど……」
ほんの少し視線を上げれば、すぐその先には愛おしげに亜弥を見つめる瞳がある。
「僕はきみとの関係を一時の感情で望んでいるんじゃないんだ。一生の……つまり、きみと結婚するつもりでいるんだってことを、理解していて欲しい。僕の背景を考えたら、障害もあるだろうし、すんなりいくとは思っていない。きっと亜弥ちゃんにも苦労をかけると思う。辛い思いもさせてしまうかも知れないけれど……ああ、違う。前もってこんなことを言うから、散々悩ませて二の足踏まれて……慎重なのも善し悪しだな、って、なにを言っているんだろう僕は」
真剣な詞を重く受け取られすぎないように、かといって、軽く流れていかないように。敦史はいつにないほど慎重に言葉を選んでいる。
かわいい人。
年上の男性をかわいいと形容するのは、ちょっと変だけれど。真剣な想いを伝えようとしてくれる敦史の優しさが嬉しくて、つい亜弥の口角も上がってしまう。
「どうしたの? なにかおかしい?」
「いえ、違うんです。これは、その……」
嬉しかったから。
ほんの少し背伸びして敦史の耳元で囁き、首筋に額を擦り付けた。
背に回した両手で、ジャケットをぎゅっととつかむ。首筋から伝わる耳の温度が、敦史に亜弥の羞恥と想いを伝えた。
「なにがあっても僕が守るよ。だから。ずっと僕の傍に居て欲しい」
愛している。
敦史の囁きは、亜弥の心に濃く沁み込んでいった。
「偶然店の前通ったの。亜弥ちゃん好きでしょ? ここの豚まん」
中央二大きく赤い数字とアルファベットが印刷された白地のバッグ。日中、人通りの多い場所でこれをぶら下げていたら、その中身に気づく人はきっと多い。それにしても。
もらっておいてこんなことを思うのは、些か申し分けがないけれど——敦史とこの袋は、なんてミスマッチなのだろう、と、亜弥は笑いをかみ殺した。
「なにがおかしいの?」
「え?」
「笑っているじゃない」
「笑ってませんってば」
少しでも長く一緒に居たいから。亜弥の耳元で囁くと、敦史は表通りでタクシーを停めた。
敦史が亜弥を送り届けるのはよくあるけれど、今日は少々勝手が違う。手を繋いで歩く気恥ずかしさが手伝ってか、いつもよりふたりの舌は滑らかだ。
決まりの悪さをごまかすように、亜弥は話題を変えた。
「……食べきれるかな」
「そこをちゃんと考慮して六個入りにしたんだよ。今日の夕飯と明日の朝、もし残ったら明日の夕食。ほらね、問題ない」
「そんなに一度に幾つも食べられませんよ」
豚まん、幾食連投すればなくなるかしら。
「そうかな? 亜弥ちゃんならいけるんじゃない?」
「部長は……人をなんだと思ってるんですか」
交わす軽口の矛先は、すぐに亜弥へと向いてしまう。敦史の言葉選びも、いつもと違う。何故か少し強引で——いつからそうなのだろう。
なにがいままでと違うのか。志向の海に沈みそうになる亜弥を、敦史の詞が呼び戻した。
「ねえ、まだ部長?」
「あ……すみません」
この状況で部長はないか。
敦史が立ち止まり、亜弥を見下ろした。この沈黙が恐い。
「あ、あの……佐々木、さん?」
今度は苦虫を噛み潰したような顔をする。どうやらまた間違えたらしい。
「僕の名前は、敦史だよ。亜弥ちゃん、知っているよね?」
「……もうっ」
意地悪な物言いに拗ねた亜弥が唇を尖らせれば、敦史は途端に笑みを引っ込めて、眉尻を下げた。
「ごめん。悪かった。浮かれすぎだね」
表通りから一本道を入っただけで、簡素な下町らしさを見せる住宅街の一角に、亜弥の住むアパートはある。
タクシーを降り、どれほどゆっくり歩いても、所詮はものの五分で到着してしまう距離。アパートはもう目の前だ。
今日からは上司と部下ではあるけれど、恋人同士。家まで送り届けてくれた恋人に「上がってお茶でもどうですか」の一言くらい、あって然る可し。なのだけれど。
「失敗したな。土産なんか買ってこなければ、食事に誘えたのに」
「……もう遅いですよ?」
「亜弥ちゃんの部屋で一緒に豚まんを食べるのでもいいね」
「……なんか……すみません」
亜弥には、殺風景な自分の部屋へ、敦史を向かい入れる覚悟が、まだない。
「冗談だって。今日はもう遅いし明日も仕事だし、おとなしく返るに決まっているでしょう? ただ……」
「あっ」
敦史は隙を突くように、亜弥の腰を引き寄せ、抱き締めて。当たり前に押し付ける唇にも、遠慮はない。強く深く舌を搦め捕る敦史は、唇の端に歓喜を浮かべ、息つく間も与えず、亜弥の口腔を貪った。
「次は、期待してもいいよね?」
息が切れ、目尻に涙を浮かべた亜弥に、敦史は問う。
「こそこそ様子を窺って唇を盗み取る必要はもうないんだと思うと、やっぱり嬉しくて舞い上がっちゃうな」
亜弥ちゃんには、悪いけれど遠慮なく、と、また唇を塞がれる。
「んっ、ふっ……」
ちゅっと音を立てて亜弥の唇を吸い破顔する敦史に釣られるように、亜弥も口元を緩ませた。
「こうして堂々と抱き締めることもできるんだ」
すごいでしょ、と、言わんばかりに浮かべられた満面の笑み。亜弥の細いからだを抱き締める敦史の両腕に力が込められる。
衣擦れするたび立ち上る淡い柑橘系の香りで、おとなしく身を任せている亜弥の胸もいっぱいになった。
「ねえ、亜弥ちゃん。僕、前にも話したと思うけれど……」
ほんの少し視線を上げれば、すぐその先には愛おしげに亜弥を見つめる瞳がある。
「僕はきみとの関係を一時の感情で望んでいるんじゃないんだ。一生の……つまり、きみと結婚するつもりでいるんだってことを、理解していて欲しい。僕の背景を考えたら、障害もあるだろうし、すんなりいくとは思っていない。きっと亜弥ちゃんにも苦労をかけると思う。辛い思いもさせてしまうかも知れないけれど……ああ、違う。前もってこんなことを言うから、散々悩ませて二の足踏まれて……慎重なのも善し悪しだな、って、なにを言っているんだろう僕は」
真剣な詞を重く受け取られすぎないように、かといって、軽く流れていかないように。敦史はいつにないほど慎重に言葉を選んでいる。
かわいい人。
年上の男性をかわいいと形容するのは、ちょっと変だけれど。真剣な想いを伝えようとしてくれる敦史の優しさが嬉しくて、つい亜弥の口角も上がってしまう。
「どうしたの? なにかおかしい?」
「いえ、違うんです。これは、その……」
嬉しかったから。
ほんの少し背伸びして敦史の耳元で囁き、首筋に額を擦り付けた。
背に回した両手で、ジャケットをぎゅっととつかむ。首筋から伝わる耳の温度が、敦史に亜弥の羞恥と想いを伝えた。
「なにがあっても僕が守るよ。だから。ずっと僕の傍に居て欲しい」
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