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§ 気色
四
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心は決めてみたものの、仕事も待ってくれないわけで。
「ごめんね亜弥ちゃん。悪いけど、あとお願い。今度埋め合わせするから」
「大丈夫です。もうちょっとですから。お疲れ様でした」
ため息をかみ殺し、申し訳なさそうに帰って行く先輩の背中を見送る。姿が見えなくなったところで、亜弥は止めていた手をまた動かし始めた。
仕事から帰ったら、玄関に灯りが点り『お帰り』と言ってくれる家族が居る。そんな和やかな暮らしを羨ましく思う気持ちはあるけれど。
家の中へ一歩足を踏み入れた次には、先輩が言うところの『大きなひよこと小さなひよこ』が、散らかった部屋でお腹が空いたとぴーぴー鳴いている。
放っておけるわけもなく、疲れた身体に鞭打って、食事の支度に片付け、それが毎日だなんて、とんでもない苦行だわ。亜弥は独り言ちた。
「主婦って大変……」
方や子どもは、といえば——基本的な生活の糧も教育費も、日々繰り返される身の回りの雑事もすべて、大人が整えてくれる。
つまり、どれほど忙しくとも、子どもは自分のことだけしていればいいわけで。さらに言えば、やりたくないことは、後回しにしてみたり。
愛だの恋だのと、御伽噺の王子様に夢中になる余裕が、たっぷりあったのだと、あの頃を思えば亜弥は頷くしかない。
でもいまは。
「仕事が先よ。終わらせなきゃ帰れないもの」
とてもじゃないが、愛だの恋だのどころじゃないわ。大人の現実は甘くない。
おとなになればいつの間にか、マルチタスクは当たり前。しなければならないこと、考えることが常に頭の中にぶら下がり、優先順位を付けて端から片付けて。その点、独り者の亜弥はまだ気楽だけれど——。
「あ、しまった」
モニタの右上に表示されている時刻に、亜弥はちらと目をやった。
帰りがけにスーパーマーケットでセールになっている醤油と明日の朝食用の食パンを買い、夕食用に見切り値札の貼られた惣菜を物色しようと予定を立てていたのに。
この進捗では閉店な際に滑り込めればラッキーということころで、目当ての品が残っている確率は、限りなく低く。
「仕方ない。今日もコンビニだわ……」
ようやく作成し終えた書類を保存し、アプリケーションを閉じた。あとは明日朝一でチームリーダーに決済を仰ぐだけ。午後のミーティングには、十分間に合うだろう。
亜弥は安堵とも落胆とも吐かぬため息をひとつつき、コンピューターの電源を落とした。
「あれ? 亜弥ちゃん、こんな時間にまだ残っていたんだ?」
「あ! 部長? お疲れ様です?」
爽やかな笑顔を浮かべ、通りすがりに自分のデスクへ鞄を置いた敦史が、亜弥の元へと近づいてくる。
「お帰りは、明日の予定じゃなかったんですか?」
「うん。そうなんだけど、亜弥ちゃんに会いたくて帰って来ちゃった」
「え?」
出張先でのスケジュールは、明日の午前中まで埋まっていたはずで、予定変更の連絡も受けていないのに。亜弥の頭の中で、スケジュール帳とメールの履歴が、ぐるぐると回る。
「冗談だよ。向こうのスケジュールが都合つかなくて、面談がキャンセルになったの。おかげで昼過ぎに解放されたから、予定変更して帰ってきたわけ。明日のミーティングに顔出したかったからさ」
「そうだったんですか」
敦史が明日のミーティングに出席してくれるなら、その後の作業は前倒し可で、効率がいい。客先へのプレゼン前のレビューにも余裕が持てる。
頭の中で先の予定を組み立てながら見上げる先には、机に浅く腰をかけ、亜弥の顔を覗き込む敦史がいた。
「亜弥ちゃんに会いたかったのは本当だよ」
会えてよかった。囁く敦史の手のひらに、亜弥の頬が捕らえられた。心做しかひんやりとした手のひらに包まれ、親指が戯れに亜弥の目の下をなぞる。
「隈ができているじゃないか……」
敦史への返事を思い悩んでは、堂々巡りの繰り返し。昔の夢まで見るほどに精神が不安定であったのか、ここ数日、満足に眠れていなかった自覚がある。隈はきっとそのせいだろう。
見つめ合うこと、暫し。小さく笑った敦史の唇が、亜弥の唇へと重ねられる。亜弥は自ら瞼を閉じ、誘われるまま敦史の口づけを受け入れた。
無意識に緩んだ唇の間から、舌が差し込まれ、口蓋の奥で震える亜弥の舌を、敦史の舌先が遠慮がちに突く。
亜弥の舌を、口蓋を、ゆったりと愛撫する敦史の口づけは、優しさの反映なのだろう。その心地よさに身を委ねれば、それまでの迷いや緊張が嘘のように解けていった。
「反応がいつもと違うね」
亜弥の唇を啄みながら呟かれた言葉に応じて、一瞬見せた亜弥の躊躇いを、敦史のほんの少しの強引さが捻じ伏せる。
「これが、きみの答だって……自惚れてもいいんだね?」
亜弥の喉の奥がこくりと小さく鳴った。その微かな音を合図に、敦史の口づけが激しさを増した。
「亜弥……」
愛するより愛されるほうが幸せだと言ったのは、どこの誰だっただろう。
双方の唇からは甘いと息が零れ落ち、左頬を覆う敦史の大きな手のひらも、いつの間にか熱を帯びている。
絡まる舌の先から漏れ出る水音を受け止めながら、亜弥は「これでいいんだ」と、繰り返し自分に言い聞かせていた。
「ごめんね亜弥ちゃん。悪いけど、あとお願い。今度埋め合わせするから」
「大丈夫です。もうちょっとですから。お疲れ様でした」
ため息をかみ殺し、申し訳なさそうに帰って行く先輩の背中を見送る。姿が見えなくなったところで、亜弥は止めていた手をまた動かし始めた。
仕事から帰ったら、玄関に灯りが点り『お帰り』と言ってくれる家族が居る。そんな和やかな暮らしを羨ましく思う気持ちはあるけれど。
家の中へ一歩足を踏み入れた次には、先輩が言うところの『大きなひよこと小さなひよこ』が、散らかった部屋でお腹が空いたとぴーぴー鳴いている。
放っておけるわけもなく、疲れた身体に鞭打って、食事の支度に片付け、それが毎日だなんて、とんでもない苦行だわ。亜弥は独り言ちた。
「主婦って大変……」
方や子どもは、といえば——基本的な生活の糧も教育費も、日々繰り返される身の回りの雑事もすべて、大人が整えてくれる。
つまり、どれほど忙しくとも、子どもは自分のことだけしていればいいわけで。さらに言えば、やりたくないことは、後回しにしてみたり。
愛だの恋だのと、御伽噺の王子様に夢中になる余裕が、たっぷりあったのだと、あの頃を思えば亜弥は頷くしかない。
でもいまは。
「仕事が先よ。終わらせなきゃ帰れないもの」
とてもじゃないが、愛だの恋だのどころじゃないわ。大人の現実は甘くない。
おとなになればいつの間にか、マルチタスクは当たり前。しなければならないこと、考えることが常に頭の中にぶら下がり、優先順位を付けて端から片付けて。その点、独り者の亜弥はまだ気楽だけれど——。
「あ、しまった」
モニタの右上に表示されている時刻に、亜弥はちらと目をやった。
帰りがけにスーパーマーケットでセールになっている醤油と明日の朝食用の食パンを買い、夕食用に見切り値札の貼られた惣菜を物色しようと予定を立てていたのに。
この進捗では閉店な際に滑り込めればラッキーということころで、目当ての品が残っている確率は、限りなく低く。
「仕方ない。今日もコンビニだわ……」
ようやく作成し終えた書類を保存し、アプリケーションを閉じた。あとは明日朝一でチームリーダーに決済を仰ぐだけ。午後のミーティングには、十分間に合うだろう。
亜弥は安堵とも落胆とも吐かぬため息をひとつつき、コンピューターの電源を落とした。
「あれ? 亜弥ちゃん、こんな時間にまだ残っていたんだ?」
「あ! 部長? お疲れ様です?」
爽やかな笑顔を浮かべ、通りすがりに自分のデスクへ鞄を置いた敦史が、亜弥の元へと近づいてくる。
「お帰りは、明日の予定じゃなかったんですか?」
「うん。そうなんだけど、亜弥ちゃんに会いたくて帰って来ちゃった」
「え?」
出張先でのスケジュールは、明日の午前中まで埋まっていたはずで、予定変更の連絡も受けていないのに。亜弥の頭の中で、スケジュール帳とメールの履歴が、ぐるぐると回る。
「冗談だよ。向こうのスケジュールが都合つかなくて、面談がキャンセルになったの。おかげで昼過ぎに解放されたから、予定変更して帰ってきたわけ。明日のミーティングに顔出したかったからさ」
「そうだったんですか」
敦史が明日のミーティングに出席してくれるなら、その後の作業は前倒し可で、効率がいい。客先へのプレゼン前のレビューにも余裕が持てる。
頭の中で先の予定を組み立てながら見上げる先には、机に浅く腰をかけ、亜弥の顔を覗き込む敦史がいた。
「亜弥ちゃんに会いたかったのは本当だよ」
会えてよかった。囁く敦史の手のひらに、亜弥の頬が捕らえられた。心做しかひんやりとした手のひらに包まれ、親指が戯れに亜弥の目の下をなぞる。
「隈ができているじゃないか……」
敦史への返事を思い悩んでは、堂々巡りの繰り返し。昔の夢まで見るほどに精神が不安定であったのか、ここ数日、満足に眠れていなかった自覚がある。隈はきっとそのせいだろう。
見つめ合うこと、暫し。小さく笑った敦史の唇が、亜弥の唇へと重ねられる。亜弥は自ら瞼を閉じ、誘われるまま敦史の口づけを受け入れた。
無意識に緩んだ唇の間から、舌が差し込まれ、口蓋の奥で震える亜弥の舌を、敦史の舌先が遠慮がちに突く。
亜弥の舌を、口蓋を、ゆったりと愛撫する敦史の口づけは、優しさの反映なのだろう。その心地よさに身を委ねれば、それまでの迷いや緊張が嘘のように解けていった。
「反応がいつもと違うね」
亜弥の唇を啄みながら呟かれた言葉に応じて、一瞬見せた亜弥の躊躇いを、敦史のほんの少しの強引さが捻じ伏せる。
「これが、きみの答だって……自惚れてもいいんだね?」
亜弥の喉の奥がこくりと小さく鳴った。その微かな音を合図に、敦史の口づけが激しさを増した。
「亜弥……」
愛するより愛されるほうが幸せだと言ったのは、どこの誰だっただろう。
双方の唇からは甘いと息が零れ落ち、左頬を覆う敦史の大きな手のひらも、いつの間にか熱を帯びている。
絡まる舌の先から漏れ出る水音を受け止めながら、亜弥は「これでいいんだ」と、繰り返し自分に言い聞かせていた。
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