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§ 疵痕

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 優しい人。それが、佐々木敦史の第一印象だった。

 猫の手よりはまだ役に立つだろうからと名指しされた亜弥は、営業部への異動を命じられた。

 アシスタント業務とはいえ、営業部は亜弥にとって畑違いもいいところ。

 配属早々不慣れな亜弥に、容赦なく投げつけられるたくさんの仕事。企画の手伝い書類作りは当たり前。
 顧客からの要望とその対応、時にはクレームの処理に至るまで、と、目の回る忙しさだ。

 総務部とはまるっきり違う張り詰めた空気感や素早い時間の流れ。飛び交う隠語に専門用語。

 戸惑い、失敗をしては自己嫌悪に陥る悪循環に囚われ、坂道を転がり落ちるように疲弊していく亜弥。
 その辛い日々を支え、救い上げてくれたのが、当時、直属の上司の佐々木敦史だった。

 人に添い、けっして傲ることなく、忍耐強く実績を上げ、信頼と和を築いていく。

 敦史の方針の下で仲間と支え合い、亜弥も夢中で成果を追い求めた。
 そうやって過ごす五年もの月日は、強固に築かれた亜弥の心の壁すら、溶かしていく。

 並行して信頼と尊敬に基づいた上司と部下としての交流が、互いへの個人的な感情を伴うものへと育つのも、ごく自然なこと。もちろんそれは、敦史の並々なる想いがあってこそではあるが。

 疚しさの欠片も見せずに公然と連れ立って食事にでかけるふたりの進展は、部内の誰もがひっそりと見守っていたし、社内全域に噂が巡り、関係が公のものとなるのも、単に時間の問題でしかなく。

 当然の結果として、佐々木敦史の恋人に祭り上げられた亜弥は、否応なしに人々の目を集めた。
 しかし、その表向きの関係が、亜弥の毎日を充実させてくれるその一方、息苦しさを感じる要因となっていたことも否めない。

 敦史は仕事の能力も一流なら、生まれも経営者一族の嫡流と、超一流。所謂『御曹司』と呼ばれる立場の人間だった。

 性格も温和で誠実。情に厚く気遣いも細やか、と、人としての資質も申し分なし。さらには容姿までもが人目を引くとなれば、まさに才色兼備。社内外から完璧な逸材と評されているのも当然といえる。

 その敦史が現在、亜弥へと向ける好意は、誰の目にも明らかであり、勘違いなどを考慮する隙もないまったくの事実だ。
 亜弥自身も最近になってようやく、敦史の気持ちを理解するに至り——もちろん、敦史の気持ちが真剣なものであることも、だ。

 敦史との恋愛はまるで、現代のシンデレラストーリー。女性なら誰しも、敦史のような男性に想いを寄せられれば、身も心も舞い上がり平静を欠くことだろうし、亜弥自身も第三者であれば、そう考えるに違いない。

 けれども当事者となったいま、亜弥がこの現実をすんなりと受け入れられるかと問われれば、亜弥には亜弥の事情があり、それとこれは別、となる。

 ことここに至るまでも亜弥は、それとなく向けられた好意には、さりげない断りを。明確に向けられる好意には、やんわりと、しかし、明らかな拒絶の意思を。と、周囲に気取られ不快に思われない程度に、己の意思を示してはいるのだが。

 髪を撫で、そっと抱かれる肩。

 ほんの僅かな隙を突き、掠めるように触れる唇。

 亜弥を不快にさせないよう、絶妙にコントロールされた身体的接触。
 己の気持ちをアピールしつつも、亜弥が無意識に設定している最低限の距離を強引に逸脱しない思いやり。

 友人以上恋人未満の曖昧なこの距離は、亜弥の意図するところではないが、信頼関係の上に成り立つそれらは、敦史を拒みきれないひとつの要因でもあった。

 故意に付け込まれているのか、或いは無意識の為せる技なのか。

 亜弥のささやかな抵抗は功を奏することもなく、大切に守っているはずのテリトリーはいまも、海辺へ打ち寄せる波が砂粒を引き込むように浸食され続けている。

 事象のひとつひとつはほんの些細なもの。けれどもそれらは、亜弥の心に敦史を拒絶することへの抵抗感や罪悪感をも芽生えさせ、諦めと多少の苛立ちを伴って、小さな闇をおとしていた。


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