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§ 疵痕
一
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二、三、言葉を交わしたのち、男はワインリストを閉じてソムリエに手渡した。
白いクロスに覆われたダイニングテーブルを挟んで向かい合う宮藤亜弥は、場慣れした男の様子を目に映しながら、ぼんやりと笑みを浮かべている。
開け放たれた全面ガラス張りの窓の外には、宝石を散りばめたような都心の夜景が広がっている。都内有数の高級ホテル地上三十四階に位置するこの三つ星フレンチレストランは、まるで天空に浮かぶ城だ。
瞬く光の渦に吸い込まれそうで、胸の奥がぞわぞわと騒めく。亜弥は畏れを感じながらも外界を見下ろしたい欲求を止められずにいた。
シックで都会的に洗練された店内に流れているのは、格調高いチェロの調べ。
それぞれテーブルの中央に置かれた透明なカットグラスの中で揺れるキャンドルの小さな炎が、薄暗い店内にキラキラと反射し、ロマンチックなムードを高めている。
「たまにはこういう所で食事するのもいいでしょう? ここはね、ジビエがお勧めなんだけれど、そうだな、いまならハトはどうだろう? さっぱりと癖がなくて食べやすいと思うよ。どうする? 苦手なら無理に勧めはしないけれど、試してみるかい?」
先輩から「特急でよろしく」と押し付けられた営業資料がほぼ完成し、一息つけたのは、終業時刻の少し前。
亜弥の向かい側で微笑むこの男性、上司である佐々木敦史が、業務終了後のデスクで、凝り固まった背を伸ばす亜弥の肩をたたき、夕食を共にしようと誘う。
それは、部内の人間には毎度見慣れた微笑ましい光景であり、この日の亜弥もいつもと同様、なんの躊躇いもなくその誘いを受けたのだが——。
こんなはずではなかった。
パスタがおいしい駅前のイタリアンか、じゃなければ細い路地を一本入った南仏家庭料理の小さなお店もいい。
それとも、今日の気分は、こだわりの日本酒がずらりと並ぶ、大盛り料理の居酒屋だろうか。升酒をちびちびと舐めるのもよさそうだ、と、気軽に誘いを受けてしまった考えの無さに、亜弥は臍を噬む。
上品なおとなたちが記念日を祝い、愛を深めているテーブルの狭間で、己に向けられる敦史の熱い眼差しに困惑し、テーブルの下で汗ばんだ両手を握り締めていた。
頃合いを見計らい運ばれる芸術的に盛り付けられた麗しい皿たちに続く、不可思議な呪文の如き口上。
意味不明なフランス語の料理名や、長く難解な蘊蓄を滑らかに語るギャルソンの声に耳を傾ける振りをしながら、重厚なメニューの角を指先で弄ぶ。
知らぬものを知る術はこの場に無く、彼の詞を理解しようと努めても、難解なものは難解なだけ。
食事なんておいしく食べられればいいだけなのに、なぜこうもいちいち小難しく面倒くさいのか。
亜弥は内心で小さく毒づき作り笑いを引き攣らせた。
内心の毒をあたかも自然な笑顔で覆い隠し、敦史の挙動をそれとなく盗み見ては、左右にずらりと並んだカトラリーに手を伸ばす。
滅多なことでは口に入らないであろうそれらの料理を、上品な所作(本人比)で口へと運び、舌の上で転がし咀嚼するけれども、口内が冷たかったり熱かったりするばかりで、味なんてさっぱりわからない。
食べ進めれば進めただけ、お腹の辺りの重苦しさが増すだけだった。
コーヒーの香りとともに緊張するばかりの食事から解放された亜弥の前に、手のひらサイズのチョコレートケーキがサーブされた。中央に灯された蝋燭の脇には「HAPPY BIRTHDAY」のプレートが飾られている。
「亜弥ちゃん、誕生日おめでとう。おっと……蝋燭、吹き消さないと」
「あ、はい」
つーっと滴る蝋に意識を向けながら、幾分慌てて炎に息を吹きかける亜弥をクスリと笑った敦史が、胸ポケットから取り出した長方形の小箱を差し出した。
「はいこれ。ささやかだけど、亜弥ちゃんに誕生日プレゼント」
十字に掛けられた金色のリボンが、カットグラスに揺らめく炎を映し、きらきらと輝いている。
記憶の底から、十七年前のあの日あの時の光景が、亜弥の脳裏に浮かび上がった。
当たり前の幸せなんて、儚い夢と同じ。ほんの一瞬の隙に消えてしまう。
愛情に恵まれた温かな家庭も初めての恋も、事実亜弥は瞬きをする間に失った。
誕生日なんて、思い出したくもなかった。
亜弥にとっての今日という日は、終わりのない悪夢へと突き落とされた、はじまりの日でしかない。
めでたくなんてないし。
顔に出さないようにこっそり自嘲する。
「どうしたの? 開けてみてよ」
「あ、うん」
期待に目を輝かせている敦史に促され、亜弥は小箱を手に取り、リボンを解く。蓋を開けば、シンプルな一粒ダイヤモンドがきらりと輝いた。
「気に入ってくれるといいんだけど、どうかな? なかなかこれっていうのが見つけられなくてさ、誕生日に間に合わないかと思って結構焦ったよ」
こんなに高価なプレゼントを貰う謂れはない。喉元までで掛かったその言葉は、敦史の笑顔に遮られた。
「これは、僕の気持ちだから受け取って欲しい。返事はいまじゃなくてかまわないけれど、頼むから突き返すのだけは無しにして」
「……でも」
わたしには、あなたに愛される資格なんてないんです。
「いいから」
もの言いたげな亜弥の瞳が、僅かに揺れて伏せられた。
白いクロスに覆われたダイニングテーブルを挟んで向かい合う宮藤亜弥は、場慣れした男の様子を目に映しながら、ぼんやりと笑みを浮かべている。
開け放たれた全面ガラス張りの窓の外には、宝石を散りばめたような都心の夜景が広がっている。都内有数の高級ホテル地上三十四階に位置するこの三つ星フレンチレストランは、まるで天空に浮かぶ城だ。
瞬く光の渦に吸い込まれそうで、胸の奥がぞわぞわと騒めく。亜弥は畏れを感じながらも外界を見下ろしたい欲求を止められずにいた。
シックで都会的に洗練された店内に流れているのは、格調高いチェロの調べ。
それぞれテーブルの中央に置かれた透明なカットグラスの中で揺れるキャンドルの小さな炎が、薄暗い店内にキラキラと反射し、ロマンチックなムードを高めている。
「たまにはこういう所で食事するのもいいでしょう? ここはね、ジビエがお勧めなんだけれど、そうだな、いまならハトはどうだろう? さっぱりと癖がなくて食べやすいと思うよ。どうする? 苦手なら無理に勧めはしないけれど、試してみるかい?」
先輩から「特急でよろしく」と押し付けられた営業資料がほぼ完成し、一息つけたのは、終業時刻の少し前。
亜弥の向かい側で微笑むこの男性、上司である佐々木敦史が、業務終了後のデスクで、凝り固まった背を伸ばす亜弥の肩をたたき、夕食を共にしようと誘う。
それは、部内の人間には毎度見慣れた微笑ましい光景であり、この日の亜弥もいつもと同様、なんの躊躇いもなくその誘いを受けたのだが——。
こんなはずではなかった。
パスタがおいしい駅前のイタリアンか、じゃなければ細い路地を一本入った南仏家庭料理の小さなお店もいい。
それとも、今日の気分は、こだわりの日本酒がずらりと並ぶ、大盛り料理の居酒屋だろうか。升酒をちびちびと舐めるのもよさそうだ、と、気軽に誘いを受けてしまった考えの無さに、亜弥は臍を噬む。
上品なおとなたちが記念日を祝い、愛を深めているテーブルの狭間で、己に向けられる敦史の熱い眼差しに困惑し、テーブルの下で汗ばんだ両手を握り締めていた。
頃合いを見計らい運ばれる芸術的に盛り付けられた麗しい皿たちに続く、不可思議な呪文の如き口上。
意味不明なフランス語の料理名や、長く難解な蘊蓄を滑らかに語るギャルソンの声に耳を傾ける振りをしながら、重厚なメニューの角を指先で弄ぶ。
知らぬものを知る術はこの場に無く、彼の詞を理解しようと努めても、難解なものは難解なだけ。
食事なんておいしく食べられればいいだけなのに、なぜこうもいちいち小難しく面倒くさいのか。
亜弥は内心で小さく毒づき作り笑いを引き攣らせた。
内心の毒をあたかも自然な笑顔で覆い隠し、敦史の挙動をそれとなく盗み見ては、左右にずらりと並んだカトラリーに手を伸ばす。
滅多なことでは口に入らないであろうそれらの料理を、上品な所作(本人比)で口へと運び、舌の上で転がし咀嚼するけれども、口内が冷たかったり熱かったりするばかりで、味なんてさっぱりわからない。
食べ進めれば進めただけ、お腹の辺りの重苦しさが増すだけだった。
コーヒーの香りとともに緊張するばかりの食事から解放された亜弥の前に、手のひらサイズのチョコレートケーキがサーブされた。中央に灯された蝋燭の脇には「HAPPY BIRTHDAY」のプレートが飾られている。
「亜弥ちゃん、誕生日おめでとう。おっと……蝋燭、吹き消さないと」
「あ、はい」
つーっと滴る蝋に意識を向けながら、幾分慌てて炎に息を吹きかける亜弥をクスリと笑った敦史が、胸ポケットから取り出した長方形の小箱を差し出した。
「はいこれ。ささやかだけど、亜弥ちゃんに誕生日プレゼント」
十字に掛けられた金色のリボンが、カットグラスに揺らめく炎を映し、きらきらと輝いている。
記憶の底から、十七年前のあの日あの時の光景が、亜弥の脳裏に浮かび上がった。
当たり前の幸せなんて、儚い夢と同じ。ほんの一瞬の隙に消えてしまう。
愛情に恵まれた温かな家庭も初めての恋も、事実亜弥は瞬きをする間に失った。
誕生日なんて、思い出したくもなかった。
亜弥にとっての今日という日は、終わりのない悪夢へと突き落とされた、はじまりの日でしかない。
めでたくなんてないし。
顔に出さないようにこっそり自嘲する。
「どうしたの? 開けてみてよ」
「あ、うん」
期待に目を輝かせている敦史に促され、亜弥は小箱を手に取り、リボンを解く。蓋を開けば、シンプルな一粒ダイヤモンドがきらりと輝いた。
「気に入ってくれるといいんだけど、どうかな? なかなかこれっていうのが見つけられなくてさ、誕生日に間に合わないかと思って結構焦ったよ」
こんなに高価なプレゼントを貰う謂れはない。喉元までで掛かったその言葉は、敦史の笑顔に遮られた。
「これは、僕の気持ちだから受け取って欲しい。返事はいまじゃなくてかまわないけれど、頼むから突き返すのだけは無しにして」
「……でも」
わたしには、あなたに愛される資格なんてないんです。
「いいから」
もの言いたげな亜弥の瞳が、僅かに揺れて伏せられた。
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