弟の恋人〜はじめての恋は最後の恋〜

樹沙都

文字の大きさ
上 下
1 / 47
§ 疵痕

しおりを挟む
 二、三、言葉を交わしたのち、男はワインリストを閉じてソムリエに手渡した。

 白いクロスに覆われたダイニングテーブルを挟んで向かい合う宮藤亜弥くどうあやは、場慣れした男の様子を目に映しながら、ぼんやりと笑みを浮かべている。

 開け放たれた全面ガラス張りの窓の外には、宝石を散りばめたような都心の夜景が広がっている。都内有数の高級ホテル地上三十四階に位置するこの三つ星フレンチレストランは、まるで天空に浮かぶ城だ。

 瞬く光の渦に吸い込まれそうで、胸の奥がぞわぞわと騒めく。亜弥は畏れを感じながらも外界を見下ろしたい欲求を止められずにいた。

 シックで都会的に洗練された店内に流れているのは、格調高いチェロの調べ。
 それぞれテーブルの中央に置かれた透明なカットグラスの中で揺れるキャンドルの小さな炎が、薄暗い店内にキラキラと反射し、ロマンチックなムードを高めている。

「たまにはこういう所で食事するのもいいでしょう? ここはね、ジビエがお勧めなんだけれど、そうだな、いまならハトはどうだろう? さっぱりと癖がなくて食べやすいと思うよ。どうする? 苦手なら無理に勧めはしないけれど、試してみるかい?」

 先輩から「特急でよろしく」と押し付けられた営業資料がほぼ完成し、一息つけたのは、終業時刻の少し前。

 亜弥の向かい側で微笑むこの男性、上司である佐々木敦史ささきあつしが、業務終了後のデスクで、凝り固まった背を伸ばす亜弥の肩をたたき、夕食を共にしようと誘う。

 それは、部内の人間には毎度見慣れた微笑ましい光景であり、この日の亜弥もいつもと同様、なんの躊躇いもなくその誘いを受けたのだが——。

 こんなはずではなかった。

 パスタがおいしい駅前のイタリアンか、じゃなければ細い路地を一本入った南仏家庭料理の小さなお店もいい。

 それとも、今日の気分は、こだわりの日本酒がずらりと並ぶ、大盛り料理の居酒屋だろうか。升酒をちびちびと舐めるのもよさそうだ、と、気軽に誘いを受けてしまった考えの無さに、亜弥は臍を噬む。

 上品なおとなたちが記念日を祝い、愛を深めているテーブルの狭間で、己に向けられる敦史の熱い眼差しに困惑し、テーブルの下で汗ばんだ両手を握り締めていた。

 頃合いを見計らい運ばれる芸術的に盛り付けられた麗しい皿たちに続く、不可思議な呪文の如き口上。

 意味不明なフランス語の料理名や、長く難解な蘊蓄を滑らかに語るギャルソンの声に耳を傾ける振りをしながら、重厚なメニューの角を指先で弄ぶ。

 知らぬものを知る術はこの場に無く、彼の詞を理解しようと努めても、難解なものは難解なだけ。

 食事なんておいしく食べられればいいだけなのに、なぜこうもいちいち小難しく面倒くさいのか。
 亜弥は内心で小さく毒づき作り笑いを引き攣らせた。

 内心の毒をあたかも自然な笑顔で覆い隠し、敦史の挙動をそれとなく盗み見ては、左右にずらりと並んだカトラリーに手を伸ばす。

 滅多なことでは口に入らないであろうそれらの料理を、上品な所作(本人比)で口へと運び、舌の上で転がし咀嚼するけれども、口内が冷たかったり熱かったりするばかりで、味なんてさっぱりわからない。
 食べ進めれば進めただけ、お腹の辺りの重苦しさが増すだけだった。


 コーヒーの香りとともに緊張するばかりの食事から解放された亜弥の前に、手のひらサイズのチョコレートケーキがサーブされた。中央に灯された蝋燭の脇には「HAPPY BIRTHDAY」のプレートが飾られている。

「亜弥ちゃん、誕生日おめでとう。おっと……蝋燭、吹き消さないと」

「あ、はい」

 つーっと滴る蝋に意識を向けながら、幾分慌てて炎に息を吹きかける亜弥をクスリと笑った敦史が、胸ポケットから取り出した長方形の小箱を差し出した。

「はいこれ。ささやかだけど、亜弥ちゃんに誕生日プレゼント」

 十字に掛けられた金色のリボンが、カットグラスに揺らめく炎を映し、きらきらと輝いている。
 記憶の底から、十七年前のあの日あの時の光景が、亜弥の脳裏に浮かび上がった。

 当たり前の幸せなんて、儚い夢と同じ。ほんの一瞬の隙に消えてしまう。
 愛情に恵まれた温かな家庭も初めての恋も、事実亜弥は瞬きをする間に失った。

 誕生日なんて、思い出したくもなかった。

 亜弥にとっての今日という日は、終わりのない悪夢へと突き落とされた、はじまりの日でしかない。

 めでたくなんてないし。

 顔に出さないようにこっそり自嘲する。

「どうしたの? 開けてみてよ」

「あ、うん」

 期待に目を輝かせている敦史に促され、亜弥は小箱を手に取り、リボンを解く。蓋を開けば、シンプルな一粒ダイヤモンドがきらりと輝いた。

「気に入ってくれるといいんだけど、どうかな? なかなかこれっていうのが見つけられなくてさ、誕生日に間に合わないかと思って結構焦ったよ」

 こんなに高価なプレゼントを貰う謂れはない。喉元までで掛かったその言葉は、敦史の笑顔に遮られた。

「これは、僕の気持ちだから受け取って欲しい。返事はいまじゃなくてかまわないけれど、頼むから突き返すのだけは無しにして」

「……でも」

 わたしには、あなたに愛される資格なんてないんです。

「いいから」

 もの言いたげな亜弥の瞳が、僅かに揺れて伏せられた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

モース10

藤谷 郁
恋愛
慧一はモテるが、特定の女と長く続かない。 ある日、同じ会社に勤める地味な事務員三原峰子が、彼をネタに同人誌を作る『腐女子』だと知る。 慧一は興味津々で接近するが…… ※表紙画像/【イラストAC】NORIMA様 ※他サイトに投稿済み

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

赤貧令嬢の借金返済契約

夏菜しの
恋愛
 大病を患った父の治療費がかさみ膨れ上がる借金。  いよいよ返す見込みが無くなった頃。父より爵位と領地を返還すれば借金は国が肩代わりしてくれると聞かされる。  クリスタは病床の父に代わり爵位を返還する為に一人で王都へ向かった。  王宮の中で会ったのは見た目は良いけど傍若無人な大貴族シリル。  彼は令嬢の過激なアプローチに困っていると言い、クリスタに婚約者のフリをしてくれるように依頼してきた。  それを条件に父の医療費に加えて、借金を肩代わりしてくれると言われてクリスタはその契約を承諾する。  赤貧令嬢クリスタと大貴族シリルのお話です。

処理中です...