【R18】貴方の傍にいるだけで。

樹沙都

文字の大きさ
上 下
47 / 67
§ 追いかけてきた過去

09

しおりを挟む
 半透明のポリ袋の底に、割れた卵の黄色が流れ出ているのが見える。潰れた食パン、卵に塗れたハーゲンダッツの容器。きっともう溶けきって食べ頃すら逸してしまっただろう。
 立ち上がった私はポリ袋をつかみ、キッチンの端に置いてあるゴミ箱の蓋を開けるや否や、それを仇の如く投げ入れ、啓に背を向けた。

「あいつが親友だから庇ったとでも思ってるのか? おまえは、俺がそんな奴だと思ってるのか?」

 ハーゲンダッツ。一口くらい食べたかったな。

 卵に塗れぐちゃぐちゃに潰れたダッツのカップが破れて、中身が流れ出ている。どれほど惜しくても、ひとたび溶けてしまったアイスクリームに再生は有り得ない。

「あなたがどうだろうと、事実は変わらない」

 価値がなくなれば、捨てられる。私もそうだっただけ。

「瑞稀、おまえはなにもわかってない!」

 荒げられた声と同時に強引な腕に引き寄せられた。なにが起きているのか。力強い腕に背を搦め捕られ胸を押し潰されては、呼吸すらままならない。

「ぃ……や。はな、し……て、くる……し」

 肺の中にささやかに残った空気を吐き出して出た掠れ声が耳に届いたのだろうか。ふと、締め付けが緩んだ。けれども、ほっと息をつく間も無く代わりに押し当てられた唇に戦慄する。開きかけた唇を強引に割って入り込んでくるぬるっとした感触。気持ちが悪い。口腔いっぱいに不快感が広がった。

 自由を奪われていない手で拳を握り啓の肩を、背を、叩くのが精一杯。顔を背けようにも、後頭部を押さえつける大きな手に邪魔され、身体を引き剥がそうともがけば、腰に回された腕の拘束がきつくなる。

 必死に抵抗したところで所詮、成人男性の本気には敵わない。呼吸ができない。血の気が失せるように頭の天辺から背筋へとひんやりとしたなにかが広がっていく。きつく抱き締められているのに、啓の体温すら感じられない。

「瑞稀、俺は……おまえを守りたかっただけなんだ。あの頃のおまえはガラス細工の人形のようにきれいで……素直で、かわいくて……。おまえに俺の気持ちがわかるか? 俺が……智史におまえを譲らなければよかったと、どれほど後悔したかわかるか? いなくなったあいつを必死に探すおまえを見ていた俺の気持ちがわかるか?」

 この人、なにを言っているの?

「……その痣のあるおまえの顔を初めて見たとき、俺がどんな気持ちだったと思う? あいつを忘れられなくて変わってしまったおまえを毎日見ている俺の辛さがわかるか? それでも……それでも俺は、おまえの傍にいておまえをずっと守りたかった。それなのにどうして? どうして俺じゃないんだよ! 俺が……こんなにおまえを愛してるのに」

『俺が……こんなにおまえを愛しているのに』

 私の中で、ぱりん、と、なにかが砕ける音がした。

 薄れゆく意識の中、鳴き声にも似た荒い息づかいだけが耳に突き刺さる。

 醜い痣を宿した人形。その瞳にはなにも映らない。ただ、彼の唇が頬を滑り、首筋を吸い上げる。髪を留めていたゴムはどこかに飛ばされてしまった。釦が外れたシャツの隙間から覗く下着。裾までも引き出され、露わになる白い肌に温度はない。

 いったいなにが行われているのだろう。離れた場所からもうひとりの私が、彼の挙動を静かに眺めている。


 なにかがぶつかった衝撃で、肩に鋭い痛みを感じた。

「止めてっ! 瑞稀になんてことしてんのよ!」

 小夜が叫びながらいつもの大きなバッグを振り回し、啓を殴っている絵が目に飛び込んできた。

 茫然とそれを見ている私の頬に触れた手の感触に、ひゅっと息を飲み身体を硬くする。肩にかけられた人肌の温もりが残るコートから、慣れ親しんだ亮の匂いがする。コートごと抱き寄せられ温もりに顔を埋めてはじめて、私の身になにが起きたのかを理解した。

「瑞稀を傷つけないで!」

 怒りに震える小夜の声と遠ざかる足音。啓は出て行ったのだ。

 顔を上げれば、目に涙を溜めた小夜が、私を見下ろしている。

「瑞稀……大丈夫?」
「うん」

 大丈夫かと訊かれたら大丈夫と答える以外、他になにを言えばいい?
 亮の腕の中で小夜の瞳が語るその意味を考えながら無理やり微笑む私の顔はきっと、泣き顔よりも醜く歪んでいると思う。

「立てるか?」

 抱え上げられて立ち上がり、椅子に座った。亮は跪き、肩にかけてくれたコートの前を合わせ髪の乱れを整えてくれる。ただ、その探るような視線が苦しくて、思わず目を逸らしてしまった。

「ごめんなさい」

 ようやく絞り出した謝罪の言葉に、小夜の明快なお小言が畳み掛けられる。

「そうよー、心配したんだからね! 松本さんにちゃんと謝りなさいよ! なにかあったんじゃないかって私にまで電話してきたんだから」
「電話?」

 バッグから取り出し起動した携帯電話の画面に延々と並ぶ着信履歴に驚いた。

「ごめんなさい。ぜんぜん気がつかなかった」
「いいよ。おまえが無事なら、それでいいんだ」

 微笑み、私の頭を撫でる亮の手が、少し震えている。

「じゃあ私、帰るわ。まだ仕事残ってるし」

 この大嘘つき。徹夜仕事なんてさすがにあるわけないでしょう?

「うん。ごめんね小夜。忙しいのに」
「いいって。さて、今日は何時に上がれるかな? んじゃ、お先ね」

 スリッパを履く余裕すらもなかったのだ、と、音も無く玄関へ走る小夜の後ろ姿を見送りながら、先ほどまでの状況を思い浮かべた。

 騙すつもりはなかった、傷つけたくなかった、守りたかった、と、言った啓のその言葉は本当の思いだったのか。だったらなぜ——。

 親友だと、信じていた。彼の思いなんぞなにも知らず私は、五年もの間、疑いひとつ持たなかった。

 出口を探し彷徨うように、啓の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。あの目、あの表情、あの言葉。ひとつひとつが、錆びて刃こぼれだらけになったナイフで切りつけられるように、歪な傷をつけていく。

 そうか。私が、愚かだっただけだ。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

ハメられ婚〜最低な元彼とでき婚しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
久しぶりに会った元彼のアイツと一夜の過ちで赤ちゃんができてしまった。どうしよう……。

ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

瀬崎由美
恋愛
穂香は、付き合って一年半の彼氏である栄悟と同棲中。でも、一緒に住んでいたマンションへと帰宅すると、家の中はほぼもぬけの殻。家具や家電と共に姿を消した栄悟とは連絡が取れない。彼が持っているはずの合鍵の行方も分からないから怖いと、ビジネスホテルやネットカフェを転々とする日々。そんな穂香の事情を知ったオーナーが自宅マンションの空いている部屋に居候することを提案してくる。一緒に住むうち、怖くて仕事に厳しい完璧イケメンで近寄りがたいと思っていたオーナーがド天然なのことを知った穂香。居候しながら彼のフォローをしていくうちに、その意外性に惹かれていく。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...