【R18】貴方の傍にいるだけで。

樹沙都

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§ 勝負の行方

01

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「駅に着いたら軽く食事をして、それから車を借りよう」
「うん」

 灰色のビル群が遠ざかると、生活の匂いのする街並みが広がり、緑の木々も少しずつ増えていく。そのうち、線路の両側がところどころに紅赤や黄色の混ざる濃い緑に覆われたかと思うと、突然視界が開け、小さな水飛沫を上げて流れる浅い川や、濃緑色の山々が顔を覗かせる。
 時折聞こえる亮の言葉に、ほぼ上の空で頷きながら、移り変わっていく景色を飽きずに眺めていた。

 帰国してから、旅行をするのは初めてだ。ましてや温泉。何年ぶりだろう。小夜には何度か誘われたことがあるが、遠出をするのが億劫で、いずれそのうち暇ができたら、と、先延ばしにしていた。
 あの頃はまさか、一緒に温泉旅行をする男性が現れるなんて思ってもみなかった。あとで小夜に恨まれるかも知れない。誘われたときに断らず、ふたりで来ればよかった、と、少々の罪悪感で胸が痛んだ。

「もうすぐ着くよ」

 亮がバックパックに読みかけの本とふたり分のドリンクボトルを仕舞い、小さなテーブルを戻して立ち上がる。私も、と、腰を浮かせると、私のバッグを手に持った亮にコートを広げて、袖を通すように促された。

「降りたら少し寒いから、ちゃんとコートを着ていなさい」

 また子ども扱いだ。私のためを思い気を配ってくれるのはありがたいが、ちょっとだけ気分が悪い。

 新宿駅から約一時間半、特急電車に揺られ到着した箱根湯本駅は、連休初日とあって行楽客で賑わっていた。

 駅前の商店街には、地元の特産物や名産品、観光客向けの土産物店が軒を連ねている。通り一杯に商品を広げた店先からは、ウインドウショッピングを楽しむ観光客に声をかける売り子の声が聞こえ、店頭の大きな蒸籠からは白い湯気が立ち上っている。
 特産物やお菓子に目を惹かれ夢中になっていると、耳元でため息が聞こえた。

「買い物は帰りで十分だろう。行くぞ」
「あ、うん」

 周囲を木々に囲まれた静かな佇まいのその宿は、芦ノ湖を見下ろす高台にあった。
 門を入ると美しく整えられた和風庭園に目を奪われて立ち止まる。そこでも背を押され、正面玄関を入り、ロビーの広さにもまた驚きながら案内されたラウンジで、お抹茶と茶菓子を出され一休み。天井まで前面ガラス張りの窓からは、雅な風情の中庭を一望できた。中央の池には、色とりどりの鯉が優雅に泳いでいる。
 海外生活の長かった私には、そのすべてが珍しくてきょろきょろと落ち着かない。本当は気の赴くまま散策をしたくてうずうずしているのだけれど、亮の傍を離れるわけにもいかず。おとなしく座って景色を眺めながら、渋いお抹茶を少しずつ舐めた。


 案内された部屋もまた素晴らしいのひと言だった。

「うわぁ! 畳だぁ!」

 仲居さんがしてくれる部屋の説明なんて、まるっきり聞いちゃいない。

「畳が珍しいの?」
「うん。久しぶりだもん。ねえ、寝転んでもいい?」
「ご自由に」

 たった一言の返事を待つのももどかしく、ごろんと横になって手足を伸ばした。青臭い藺草の匂いが、鼻を擽る。

「天井たかぁい。床に寝るってなんか変な感じ」

 座卓にお茶を並べながら私を見て微笑んでいる仲居さんと目が合って、きまりが悪くなり照れ笑いを浮かべた。

 一通りの説明とお茶出しを終え、夕食の時刻を告げて仲居さんが部屋を出て行くと、亮とふたりきりになる。いつもの部屋にふたりでいるのとは、なにかが違う。突然静まりかえった空気に妙な緊張を覚え、むくっと体を起こし、座椅子に座った。

「足、崩したら?」

 座卓で向かい合い、静かにお茶をすすっている亮の言葉で、無意識に正座をしていた自分に気づいた。慌てて上半身を浮かせて座り直そうと試みたが、時既に遅し。足が痺れて感覚が無い。

「今日はこれからどうするの?」
「そうだな、移動で疲れただろう? まずは温泉に浸かって、それから、少し散歩でもして夕食までゆっくりしようか」
「温泉……」

 亮の肩越しに、窓の外にある露天風呂へと視線を向ける。

「一緒に入るか?」

 視線を戻すと、亮が意地悪そうに笑っている。私が想像したことなんて、完璧にお見通しだ。

「冗談……」

 白い目で一瞥し、ぷいっと顔を背けた。亮がくくくっと声を出して笑い、立ち上がる。

「瑞稀はどうする? 他人と一緒に入るのに慣れないのなら、ひとりでゆっくり入ってもいいよ。俺は大浴場へ行くから」

 大きなお風呂かぁ。

 大浴場も、魅力的な響きではある。けれども、やはり、他人と一緒は気が引けた。まだ明日もあるからとの彼の言葉に甘え、ひとり部屋付の露天風呂を堪能させてもらうことにする。

 私たちが泊まるその部屋は二間続きで、手前の和室には、分厚い座布団が敷かれた座椅子と中央には重量感のある座卓、奥の間は洋室のベッドルームだった。寝心地のよさそうなキングサイズのベッドの向こう側は、大きな窓に面してソファが置かれ、その外にはこの部屋専用の露天風呂がある。

 露天風呂へ続く掃き出し窓を開けると同時に、室内へひんやりとした空気が流れ込んでくる。肌寒さを堪えて浴衣を脱ぎ、足先を満々と湯を湛える檜の湯船に浸ければ、少し熱めの湯が冷えた足先をぴりっと刺激した。
 ゆっくりと全身を沈め縁に手をかけて、景色を眺める。鬱蒼とした木立の中、時折、聞こえるのは鳥の囀りと、風がさらさらと葉を揺らす音だけ。

「来てよかった」

 目の前の木々に向かってそっとつぶやき、息を吐いて微笑んだ。柔らかい湯に浸かり、風の音に耳を傾ける。喧騒の中でのいつもの暮らしが、夢のように思えた。

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