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§ 一夜だけの男
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洗面台には、きれいに畳まれた真っ白で柔らかそうなバスタオルとフェイスタオルが置かれ、その中央には、新品の歯ブラシと歯磨き粉が並んでいる。
そうだ。化粧品がどうとか言ってたっけ。
男の言葉を思い出し、指示されたとおり戸棚の扉を開けると、女性用高級ブランド化粧品がずらりと並んでいる。メイクアップリムーバーから化粧水、乳液、クリーム、パックに至るまで、基礎化粧品が一式すべて揃っていた。
「すごい。全部、シャネル。そういえば、このガウンも……」
女がいる。
明らかに使用感のあるノーマルサイズの化粧品一式。女物のガウン。男の一人暮らしの部屋に常備するには、凡そ似つかわしくない代物だ。
どう見ても三十代半ばにしか見えない男なのだから、恋人どころか、奥さんがいてもおかしくはない。
ただ、この部屋の雰囲気は、如何にも男性の一人暮らし。つまり、同居とまではいかなくとも、日常的にこの部屋で寝泊まりする女がいる、そう考えるのが自然だろう。
特定の相手がいるにも拘わらず、酒場で出会った女を自宅へ連れ込んでいるのだとしたら。まさか私が初めて?——いや、そんなわけもないだろう。
慣れた様子で女の身体を弄ぶ男の、平然とした様子が思い浮かぶ。
だからといって、ここで悶々としていても、何の意味もないのだけれど。
冷たいシャワーを浴びて、血が上った頭を冷やそうと、私はシャワールームへ入った。
まだ九月に入ったばかりのこの時期。夏の暑さが残っているとはいえ、水道水をそのまま浴びるのはさすがに冷たい。あんなヤツのために風邪を引くなんてバカバカしいと思い直し、やはり湯を浴びようと決めた。
しまった。先に化粧を落とせばよかった。
少々後悔しつつ、レバーハンドルを上げる。頭上から流れ落ちる熱い湯を浴びながら気持ちを落ち着け、昨夜の記憶を辿った。
私には、ストレスが限界に達すると、掃除をしたり物を捨てたくったりする癖がある。昨日はまさにその状態で、朝から一日中、部屋を掃除していた。
親友の青木小夜は、客先に突発事項発生、と、会社から呼び出され、約束していた食べ放題ランチを泣く泣くキャンセル。ぽっかり空いた休日の午後は、暇つぶしにと水回りの清掃に精を出した。
その後、仕事終わりの小夜を会社近くの駅で待ち構えて軽めの食事を済ませ、行きつけのカフェバーへ足を運んだ。やっと得た休日らしい遊びの時間だ。
合羽橋商店街にあるそのカフェバーは、雑誌に紹介されるほどの人気店。混んでいるのが常なのだけれど、昨日は生憎の天気のせいか客が少なかった。私と小夜はこれ幸いと、いつものカウンターではなく、テーブル席のソファで寛ぎ、お気に入りのカクテルを数種類楽しんだ。
自覚はある。昨日の私は大荒れに荒れていた。
満足するだけ掃除をして仕事のストレスを発散し、休日出勤上がりの親友と楽しいお酒を飲むはずだったのに。入店直前に受けた、母の電話は毎度おなじみ、断っても断っても持ち込んでくる見合いと、一方的なお小言だった。
母にとってのかわいい我が子は、優秀な兄だけだ。私はといえば、見栄え以外にはなんの価値も無い、不出来なお人形。家の都合に合う相手との縁を結ぶための道具でしかない。
母が私に向かって口を開く、それ即ち命令またはお小言で。不平不満を言うことも自己主張をすることも、意味をなさないことくらい、子どもの頃に弁えた。
母に何を言われても、軽く受け流せばそれでいい。腹を立てる必要もない。わかってはいるけれども、その簡単なことができない自分に、結局、いつも苛立ってしまう。
昨夜も同じ。悪態をつきまくる私に、相変わらず大変ね、と、小夜は苦笑し、愚痴の相手をしてくれていた。
思い出した。カウンターに座っていた、あの二人組。そのうちのひとりが、あの男だった。もうひとりはたしか——眼鏡をかけていたような。やたら馴れ馴れしく話しかけられたような気もするけれど、よく覚えていない。
彼らの奢りでもカクテルを——そう、ブルームーンを頼んだ。あなたたちとのお付き合いなんてありえない、と、断りを入れたつもりだったのに。
カクテルの意味すら知らないのか、それとも知っていて無視されたのかは定かでないが、案外、小夜が乗り気で、彼らと一緒に飲み始めた。その後、いつのまにやらあの男とふたりきりになっていたところまでは、朧げに記憶がある。だが、なぜ、この状況に発展したのかまでは、思い出せない。
ただひとつ、小夜が私を捨てて先に帰ってしまった。それだけは、たしかだ。
「小夜め。帰ったら絶対にシメる」
キュッとシャワーを止め、低い、これ以上ないほど低い声で呟いた。
そうだ。化粧品がどうとか言ってたっけ。
男の言葉を思い出し、指示されたとおり戸棚の扉を開けると、女性用高級ブランド化粧品がずらりと並んでいる。メイクアップリムーバーから化粧水、乳液、クリーム、パックに至るまで、基礎化粧品が一式すべて揃っていた。
「すごい。全部、シャネル。そういえば、このガウンも……」
女がいる。
明らかに使用感のあるノーマルサイズの化粧品一式。女物のガウン。男の一人暮らしの部屋に常備するには、凡そ似つかわしくない代物だ。
どう見ても三十代半ばにしか見えない男なのだから、恋人どころか、奥さんがいてもおかしくはない。
ただ、この部屋の雰囲気は、如何にも男性の一人暮らし。つまり、同居とまではいかなくとも、日常的にこの部屋で寝泊まりする女がいる、そう考えるのが自然だろう。
特定の相手がいるにも拘わらず、酒場で出会った女を自宅へ連れ込んでいるのだとしたら。まさか私が初めて?——いや、そんなわけもないだろう。
慣れた様子で女の身体を弄ぶ男の、平然とした様子が思い浮かぶ。
だからといって、ここで悶々としていても、何の意味もないのだけれど。
冷たいシャワーを浴びて、血が上った頭を冷やそうと、私はシャワールームへ入った。
まだ九月に入ったばかりのこの時期。夏の暑さが残っているとはいえ、水道水をそのまま浴びるのはさすがに冷たい。あんなヤツのために風邪を引くなんてバカバカしいと思い直し、やはり湯を浴びようと決めた。
しまった。先に化粧を落とせばよかった。
少々後悔しつつ、レバーハンドルを上げる。頭上から流れ落ちる熱い湯を浴びながら気持ちを落ち着け、昨夜の記憶を辿った。
私には、ストレスが限界に達すると、掃除をしたり物を捨てたくったりする癖がある。昨日はまさにその状態で、朝から一日中、部屋を掃除していた。
親友の青木小夜は、客先に突発事項発生、と、会社から呼び出され、約束していた食べ放題ランチを泣く泣くキャンセル。ぽっかり空いた休日の午後は、暇つぶしにと水回りの清掃に精を出した。
その後、仕事終わりの小夜を会社近くの駅で待ち構えて軽めの食事を済ませ、行きつけのカフェバーへ足を運んだ。やっと得た休日らしい遊びの時間だ。
合羽橋商店街にあるそのカフェバーは、雑誌に紹介されるほどの人気店。混んでいるのが常なのだけれど、昨日は生憎の天気のせいか客が少なかった。私と小夜はこれ幸いと、いつものカウンターではなく、テーブル席のソファで寛ぎ、お気に入りのカクテルを数種類楽しんだ。
自覚はある。昨日の私は大荒れに荒れていた。
満足するだけ掃除をして仕事のストレスを発散し、休日出勤上がりの親友と楽しいお酒を飲むはずだったのに。入店直前に受けた、母の電話は毎度おなじみ、断っても断っても持ち込んでくる見合いと、一方的なお小言だった。
母にとってのかわいい我が子は、優秀な兄だけだ。私はといえば、見栄え以外にはなんの価値も無い、不出来なお人形。家の都合に合う相手との縁を結ぶための道具でしかない。
母が私に向かって口を開く、それ即ち命令またはお小言で。不平不満を言うことも自己主張をすることも、意味をなさないことくらい、子どもの頃に弁えた。
母に何を言われても、軽く受け流せばそれでいい。腹を立てる必要もない。わかってはいるけれども、その簡単なことができない自分に、結局、いつも苛立ってしまう。
昨夜も同じ。悪態をつきまくる私に、相変わらず大変ね、と、小夜は苦笑し、愚痴の相手をしてくれていた。
思い出した。カウンターに座っていた、あの二人組。そのうちのひとりが、あの男だった。もうひとりはたしか——眼鏡をかけていたような。やたら馴れ馴れしく話しかけられたような気もするけれど、よく覚えていない。
彼らの奢りでもカクテルを——そう、ブルームーンを頼んだ。あなたたちとのお付き合いなんてありえない、と、断りを入れたつもりだったのに。
カクテルの意味すら知らないのか、それとも知っていて無視されたのかは定かでないが、案外、小夜が乗り気で、彼らと一緒に飲み始めた。その後、いつのまにやらあの男とふたりきりになっていたところまでは、朧げに記憶がある。だが、なぜ、この状況に発展したのかまでは、思い出せない。
ただひとつ、小夜が私を捨てて先に帰ってしまった。それだけは、たしかだ。
「小夜め。帰ったら絶対にシメる」
キュッとシャワーを止め、低い、これ以上ないほど低い声で呟いた。
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