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第3章
05 異常事態
しおりを挟む「な、何で……狼が。これって、狩猟大会の獲物……ですよね」
「……シュトラール公爵令嬢。スピカを安全な場所に避難することってできますよね」
「ええ、でも、お二方はどうするの?」
「倒したら戻る。レオの手は煩わせない」
「あら、ですって。スピカちゃん」
今まで見たことのない緊迫感。
ユーデクス様や、殿下、そしてヴェリタ様はこの状況が呑み込めているようで、すでに撤退のことまで考えているようだった。そして、私がここにいたら思うように動けないから避難してくれというようにも聞こえた。何も知らないのは私だけ。
目の前の狼たちは、私が知っているものとは比べ物にならないほど大きく、毛も逆立っているように見えた。グウゥゥウウと今までに聞いたことのないような飢えた唸り声を発し、血色の瞳がこちらを睨んでいる。下手に動けば飛び掛かられそうで、私は、ユーデクス様の服を握りこんでしまう。
「大丈夫だよ。スピカ」
「で、でも……その」
「本当なら、スピカを守ってかっこいいところ見せたいんだけど……今はそんな余裕なさそうだしね。かっこ悪いところは見せたくないし……それに、スピカの安全が最優先だ」
「ユーデクス様は?」
「俺は大丈夫だよ。だから、待ってて」
と、ユーデクス様は微笑むと、私の身体をヴェリタ様に預けた。彼女と目配せし、こくりと頷いたユーデクス様は、黒い鞘から英雄の剣を引き抜いた。細い鞘から引き抜かれたその刀身は引き抜かれたと同時に輝き、とても人が持てる大きさではない大剣へと変貌した。
(すごい……間近で見るの、久しぶりだけど、綺麗……)
彼が握っているからだろうか。宝石よりも輝いて見えたそれは、夢で何度も私を殺したものだというのに、美しかった。人を引き付けるが、ある一定の距離には寄せない引力と拒絶が感じられ、彼だけが握ることを許された剣なのだと主張してくる。
あの剣を握っているのは本物の英雄だと、そう私たちに訴えてくるように。
「ユーデクス様……」
「スピカちゃん、ここはいったん逃げましょう。あの狼、かなり興奮しているようだし、ここは危ないわ」
「わ、分かるんですか?」
「ええ、まるで魔法で興奮状態にさせられているように……ね」
「そうなんですか……」
私にはさっぱり分からない。でも、ヴェリタ様がいうのなら本当なのだろう。
私は、ヴェリタ様に支えられつつ、私たちに逃げる隙を与えるように狼に向かっていくユーデクス様の背中を見つめることしかできなかった。そして、行け! とユーデクス様に声で背中を押され、ヴェリタ様の手を握りながら彼女の転移魔法によって、私は会場へと戻った。
「――と、ここまでこれば……どうやら、ダメそうね」
「え……嘘」
会場に戻ってきた私たちが目にした光景は悲惨なもので、何人もの騎士が、会場に入ってきた獣たちを食い止めるため剣を振るっていた。会場は混乱しておりあちこちから悲鳴が聞こえ、逃げ惑う人であふれかえっていた。
ここなら安心だと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
「何でこうなったの……?」
「理由は分からないけれど、ここも危なさそうね。スピカちゃん、私から離れないで」
「は、はい」
心強い。
そんな言葉を吐けるのは、ヴェリタ様だからだろう。私も応戦できればいいけれど、何も力がないわけだし。
(お兄様も大丈夫かしら……)
誰かの仕業かもわからなかったが、仕組まれたことではないかということだけは理解できた。誰も口にしないが、きっと隣国の仕業だろうと。嫁をよこせと威張っていたのに、この騒ぎ――決めつけるのはよくないが、帝国が恨みを買っていると言えば、その国か、もう一つの国だろう。周りに敵が多いせいで、誰が、というのも特定しづらいが……
(でも、もし、内側に裏切者がいたら?)
それも分からない。ただ、この混乱を楽しんでいる人はいるだろう。狩猟大会は決まった日に行われるわけだし、それに応じて――
けれど、警備が手薄なわけでもない。それに、魔法が使えるものが多いわけじゃないから、魔法で計ものたちを操ってなんて……
きゃあああっ! と甲高い悲鳴が聞こえたかと思えば、どしん、どしん、と地面が揺れるような音が響き黒い影が会場へ現れる。悲鳴を上げたのは、先ほどのピンクドリル令嬢で、彼女はその場で腰を抜かし、迫りくる何かに怯えているようだった。
その視線の先を見れば、先ほどの狼とはまた違うが、黒毛におおわれた三つの頭を持つ犬のようなものが会場のど真ん中に現れたのだ。
「け、ケルベロス……」
「あれは厄介そうね。早く、戻ってきてくださるといいんだけど」
「ヴェ、ヴェリタ様、ここは危ないです。逃げましょう!」
「……でも、逃げる場所なんてないわ。きっと、このケルベロスに触発されて森の中にいた獣たちも興奮状態になってしまっているんでしょう。ケルベロスがその元凶ね……でも、こんな大きいのがいればすぐに見つかってしまうはずなんだけど」
「……ち、小さくして会場に持ち込んだとかでは?」
「その線もあり得るわね。スピカちゃん頭いいわね」
と、ヴェリタ様は自分事のように嬉しそうに私の頭を撫でた。
嬉しい……じゃなくて! この状況で、そんなのんきなこと思っていられるはずもなく、森に逃げたとしても、ケルベロスによって興奮状態になった獣たちに襲われるがおちである。かといって、海上で逃げ回っていてもいつかは踏みつぶされてしまうだろう。体長五メートルをゆうに超える犬だ。踏みつぶされればぺしゃんこになってその血がインクになってしまうに違いない。
腰が今にも抜けそうな身体を何とか踏ん張ってみるけれど、三つの頭を持つケルベロスに、死角などなく、後ろから攻撃しようとした騎士もその尻尾で跳ね飛ばされていた。
「隙さえ作ってくれれば、少しは戦えるかもだけど……」
「ヴェリタ様あれと戦う気ですか!?」
「そうよ?」
「そうよ? って。危ないって言ったじゃないですか!?」
「でも、楽しそうじゃない? それに、倒したらサンプルとして……いいえ、生け捕りにしてペットにしたいくらいだもの。ふふふ」
ヴェリタ様は愉快そうに笑うと、口元に手を当てた。それがどうしても本気で言っているような気がしてならず、私は信じられずに口が開いたままだった。
その間にも、ケルベロスによる被害は拡大していき、天幕が壊され、地面がえぐられ、悲鳴もよりいっそ大きいものに変わっていった。
(……う、気持ち悪い)
「大丈夫? スピカちゃん」
「は、はい……大きな音とか、騒音とか、苦手で。社交の場に出ないのも、その、せいもあって」
「聴覚過敏ね。分かるわ。それに、人がパニックになっているところを見て、平常心を保っている方が難しもの」
「で、でも、ヴェリタ様は?」
「私は大丈夫よ」
さすがです、と口にすることもできないくらいめまいがして、私は早く逃げなければならないのに、と彼女によれかかることしかできなかった。ヴェリタ様を守らなければ、と思うのに彼女は戦う気満々だから、私が止められるはずもない。
(……ユーデクス様は?)
彼のことも心配だ。彼がいくら強いとはいえ、五匹も同時に狼を相手するなんて。それも、五匹だけじゃないかもしれない。森の中の獣たちが興奮状態にあるから、次から次に湧いてくるだろう。せっかく会えたと思ったのに、それも引き裂かれて……
「……スピカちゃんっ」
「――え?」
ドンッと爆発音がするように、私たちのいた場所に大きなクレーターが出来る。何? と思っていればケルベロスのしっぽが地面にたたきつけられたらしかった。いつの間に距離を詰められていたのだろうか。
ヴェリタ様に押されていなければ、私は踏みつぶされていたかもしれない。
「ヴェ、ヴェリタ様!?」
「私は大丈夫よ。早く離れましょう」
「そう、ですけど……」
逃げるところがない――そう思い、先ほどよりも近くに来ていたケルベロスを見上げれば、曇天の空を切り開くように、何かがケルベロスの背中に落下してきた。刹那、ケルベロスの三つの頭が悲鳴を上げて上を向く。
「あ……っ」
ケルベロスの大きな体から鮮血の花弁が吹き上げ、私の頬に付着する。
ケルベロスは苦しみに悶え、身体をひねらせる。上に落ちてきた何かは、振り落とされるようにして跳ね飛ばされたが、私の前に華麗に着地すると、その大きな剣を横に振った。
「ユーデクス様ッ!」
「スピカ怪我はない?」
颯爽と現れた彼――黄金色の髪も、真っ白な騎士服も返り血で濡れていたが、傷一つない初恋の人が、こちらを振り返り、安心させるような笑みを向けていた。
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