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第1部 第1章 無一文と嫌われ者の第三皇子
03 俺のもとで働かないか?
しおりを挟む(いや、顔近い……)
壁に足をついたまま、ぐっと顔を近づけてきたその男は、人を殺すんじゃないかという目つきで俺を凝視してきた。食べようと思っていたオレンジの片割れは地面に落ち、すでにアリが集まってきているようだった。これじゃあもう食べられない、もったいない……なんて思いながらも、そもそも今後俺が食事にありつけるかどうかもわからない状況になっていることに、背筋が凍る。
どうして俺なんかを、という疑問に目の前の男が答えてくれるかはわからなかった。
「えーと。あの、足、どけてもらっても……」
俺は、そろっとその男の足をどかそうと手をかける。すると男は俺の行動にイラっときたのか舌打ちをした。
そして、そのまま顔をさらに近づけると同時に俺の顎を掴むと無理やり上を向かせるようにする。首が痛いし、何より怖い。
(今度こそ、死んだ……)
「探したっていうのに、冷たいなあ。お前……あの日の威勢はどうした?」
「あの日のって……いや、マジで人違いで」
「人違いじゃねえ」
「…………じゃあ、俺に何の用で? 呼び止める必要あったんですか。俺みたいなコソ泥を。殺したほうが早くないですか?」
「ああ? 殺すために呼び止めたんじゃねえよ。それに、不法侵入であったとしても、俺はそんなことで怒るほど器の小さい男じゃねえよ。それに、あそこには何もなかったしな。盗まれてまずいもんも、見られてまずいもんも何もない。空っぽの箱だ」
と、そういって男は手を離した。だからと言って、逃げられるような状況ではなく、ジッと俺は彼から目を離さないようにした。
(……アーベント・ヴォルガ第三皇子殿下。噂には聞いていたけど、本当に悪人面)
切れ長の目、長いまつ毛が影を落とすととなった顔立ち。少し下まつ毛が長くて、見惚れてしまいそうだが、その瞳の奥に何か良からぬものが渦巻いていることに気づいて背筋に嫌なものが走る。常に不機嫌なのか、眉間にはしわがよっていた。おとぎ話に出てくるようなキラキラとした皇子様からはかけ離れている、悪人面だった。
帝国記念パーティーやパレード、その他式典にもめったに顔を出さない不良皇子。それが、アーベント・ヴォルガ第三皇子殿下だ。
噂では、家臣もいなければ、使用人もことごとく解雇する問題児。魔法の才能はあれど、性格に問題あり。一度戦場に投げ込まれたことがあったらしいが、一人で敵を制圧するほどの戦闘狂。誰もとめられない戦車のような男、血に飢えた狂人、人間不信の孤独な皇子様……すべて風の噂でしか聞いたことがなかったが、彼に関するいいうわさはこれまで一つも聞いたことがなかった。
そして、ここ最近の噂では皇太子殿下に毒を盛った犯人……だとか。
とにかく、ろくでもない人間であることだけは確かだった。歴史あるヴォルガ一族の中でもとくに性格にも、持っている力にもすべてに問題がある異端児だと。睨まれれば凍り付き、彼の行く道を阻めば殺される。彼の後ろには血だまりができているなんて言われている皇族だ。
そんな皇族様がなんで俺を探していたのか。それも、ただのコソ泥を殺さず引き留めた理由が俺にはよくわからなかった。彼を理解してくれる人なんてきっとこの世界探しても一人もいないだろう。
だからこそ、出を窺って殿下の機嫌をとることしか俺にはできなかった。
「殺すためでもなければ、捕まえるためでもない……なら、何のためですか」
「お前、仕事に困っていないか?」
「え?」
どんな言葉が出てくるかとびくびくしていると「仕事に困っていないか」なんて。そんな言葉が出てくるなんて予想がつくわけもなく、俺は小さな耳に何かが詰まってたんじゃないかと耳に指を突っ込む。
「おい、聞いてんのか」
「え、仕事。仕事ー困ってないこともないこともないですけど。何でですか」
「使用人が足りてないから雇ってやろうと思ってんだよ。ちょうど、男手が欲しかったところだ」
「第三皇子である、アーベント・ヴォルガ殿下の使用人が足りていないってどういうことですか。お金なら有り余るほどあるでしょ。皇族なんですから」
「皇族でも、金があっても、関係ねえよ。俺のもとに残ってくれる、付き従ってくれるやつがいねえって話」
「えぇ、アンタそれ嫌われ……」
危ない、と俺は口をふさいだ。
目の前のこの男が、殿下が嫌われていることなんて誰でも知っていることだった。あの風の噂を知っているからこそ、彼のもとに仕えようなんていう人はいないんじゃないかと。殿下のいう通り、王族であっても、お金があっても、結局はその人のもとで働きたいかというところに落ち着く。そうなったとき、いつ殺されるかわからない、首を切られるかわからない人間のもとで働きたくはないだろう。どれだけお金を積まれても、結局は命のほうが大事だから。
俺の言葉を聞いていたのか、ますますその眉間にしわがよるのを感じた。ぴくぴくとシュッと整った眉毛が動いている。
働く人がいないから、働き手として雇いたい。その言葉は嘘ではないのだろう。実際、今どれほど殿下のもとで働いている人がいるかは知らないが、俺もできるなら働きたくなかった。だが、ここで断ればその時点で首が飛ぶんじゃないかと恐ろしくて仕方がない。彼が、あの夜俺の顎の骨を折るんじゃないかってくらいバカ力を持っていることを知ったから。
「ああ、嫌われているさ。嫌われている理由は、尾ひれがついてあることないこと足されていったがな。だが、噂だけをうのみにするのはどうだ?」
「あ、あはは……」
「それで、はいか、イエスしか俺は受け付けないが。拒むんだったら不法侵入の罪で今ここで殺すが?」
「拒否権やっぱり、最初からないだろ……」
男手なら俺じゃなくてもいいはずだ。一週間も探したなんて意味がわからない。
殿下の目を見ても、真意がわからず困惑するしかなかった。もとから、人の心を読みのは苦手で、空気を読むのも苦手だった。だからこそ、これがいい誘いなのか、騙そうとしているのかもわからない。はいと言わなければ死ぬのはわかっていも、結局この人の下で働いて命があるかと言われたらないに等しいのではないかと。
目をつけられたが最後、この人から逃れられることなんてできやしないのだと。
(でも、話が突飛すぎる)
きっと、殺して口封じをすることだって簡単にできるはずだ。探したなんて嘘をついて、俺を安心させてから殺すことだって簡単に違いない。そうやって人のいい顔をして近づいてくる人間はたくさんいるのを知っているし、俺はそういう人しか信用してこなかったから。
この人の性格からして、楽しんでいるのではないかと。一週間探したなんて嘘で、ちょうどここら辺を通っていたときに俺を見つけたから……そう、これはゲームだ。この人が楽しもうとしているだけの。
「…………殿下の下で働くのは嫌です」
「はいか、イエスしか選択肢はないといったが?」
「だって、アンタめっちゃ上から目線だし! 俺、ちょー苦手なタイプなんだもん!」
信じられない、信じられる、好条件云々じゃなく、この人のことが人として無理だと思った。バッと顔を上げて叫んだのち、俺は隙をついて殿下のもとから逃げ出した。
腐っても貴族だったから魔法は多少なりに使えた。苦手だったため、あまりうまく使いこなせなかったが、逃げ足を早くする魔法程度は心得ている。こんなところで、役にも立たない魔法が役に立つとは思っていなかった。殿下も殿下で、反応が遅れたのか後ろからクソッといら立った声が聞こえた。どんな顔をしているか怖くて想像もしたくないし、振り返りたくもないので走ったが、殿下もなぜか全力で俺を追いかけてくる。
「待て!」
(待つわけないっての、捕まったら死ぬんだろ!?)
走るのは苦手ではないが、運動神経がいい方ではないし足が速いというわけでもない。対して、後ろを追いかけてくる彼は人間離れした身体能力をしているのか、明らかに距離を詰められていた。体力があるタイプなのか、呼吸が乱れることもなく一定の距離を保っている。魔法で加速しているというのに、それについてくるなんて化け物だと思った。足よ浮いてくれってくらい必死に走ってみだが、距離は縮まるばかりだった。
「いやいやいや、何で追いかけてくんの!」
「ハッ、追いかけっこか。あの夜の続きかよ?」
「いや、違うから! マジで! 追いかけてこないでくれ!」
「おせえよ」
(あ、やばい。これ俺死んだ)
殿下のその言葉が耳に届いた瞬間だった。ドンと背中に強い衝撃が走ったかと思うと、そのまま前に倒れこむように転んだ。その拍子に頭を地面にぶつけて一瞬意識が飛びかけたがすぐに戻ってくる。だが、起き上がろうとしてもうまく体に力が入らなかった。否、上に乗られたのだ。
距離を詰められ、そして背後から蹴られた。だから転んだのだろう。顔がじんじんと痛かった。
「やべぇ……死ぬ」
「だから殺さねえって。つか、お前しっかり食べてんのか? こんなヒョロガリ……おい!」
「あーやば、ねむ。てか、腹減った……」
相手が殿下でなければ、おなかが空いていなければ捲けたかもしれない。けど、眠さと空腹が相まって、意識を保つことができなかった。痛くないなら一思いにやっちゃってもらったほうがいい、そんなことを考えながら「おい!」なんてちょっとばかり、心配したような殿下の声を聴きながら俺は意識を手放した。
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