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第3部3章
07 ごめんなさい
しおりを挟む悪魔――そうとしかいいようのないこの男には、きっと心がないのだろう。
ヴァイス・ディオス。その男の目的は、己の好奇心に従い、また好奇心を満たすことであり、イーリスと対になるような探求心と、満たされぬ好奇心を持った男だった。この世界に転生してきた当時、彼のような悪魔がいるなんて思いもしなくて、一番危険なのは殿下だとすら思っていた。けれど、殿下ほど人間臭く、弱くて強い男はいないと彼とかかわるうちにわかっていった。また、ヒロインであるイーリスも圧倒的な善人であるが、人間らしく尽きぬ探求心から魔法の研究にいそしむ、ある意味オタクのような少女だった。しかし、そんなこの世界にも良心のかけらも持ち合わさない男がいた。
ヴァイスは私が協力した……手を取ったことにより、すべてではないし、嘘も混じっていたかもしれないが、これからのことを放してくれた。フルーガー王国が宣戦布告し、帝国との戦争を始めさせること。どちらかに勝敗がつかないよう設定し、どちらも共倒れにすることなど、この男が考えそうな最悪なシナリオを私に話してくれた。ここまで話してくれたのはきっと信頼や、良心からではなく、殿下と同じようにいつでも私の記憶を消せると考えたからだろう。むろん、私にその魔法をはじき返す力などないわけで、魔法をかけられても私は抵抗一つできずに記憶を消されてしまうかもしれない。
私は、彼と行動を共にした数か月の間、彼に愛でられ、元居た世界の話をした。
ヴァイスは、思った通り私のいた世界に興味を示し、そして私の世界に行く方法を模索していた。
私がこちらに転生できたということは、ヴァイスがあちらの世界にいけるということも可能なのではないかと。もう、あちらの世界には未練はないけれど、それでもこんな男が元居た世界で暴れたらと考えると恐ろしくて、成功してほしくない気持ちにはなる。転生というのが自発的にできるものなのかにももちろんよるけれど。
「そういえば、ロルベーアはあの異分子と仲がいいんだね」
「異分子……貴方、自分の弟のことを」
「殺しておけばよかった」
と、初めて聞いた彼の感情のこもった言葉に、声色に私は驚いた。彼にもそういう感情を処理する機能が損座しているのだと。
ヴァイスは、すぐに取り繕ったように笑ったが、一度見せたその表情を私は忘れないだろう。シュタールはヴァイスに対し、殺意のようなものを抱いていなかった。けれど、ヴァイスは違いシュタールの存在を疎ましく思っていた。それは、シュタールから聞いた通りの話だった。
(魔導士にとっての弱点……もしかしたらほかにもシュタールは隠していることがあるのかもしれないわね)
「ロルベーアもそう思うでしょ?」
「思うわけないじゃない。人を殺すなんてそんな簡単に……! それも、家族を」
「家族なんて血のつながりがあるだけの他人じゃないか」
「血がつながっているから家族なのよ」
「でも、血のつながりがあるだけで同じ思考を共有するとか、相手の考えていることがわかるわけじゃない。家族という枠に押し込められただけで、体が分裂してできたものでもない。個として存在しているんだよ人間は。それをそういう囲いの中に入れてさあ」
そうヴァイスは私には理解できないことを口にして、私に近づいてきた。
身構えてしまうが、逃げることなんてできないと悟り、私はおとなしく彼をにらみつける。
「ロルベーアが今欲しいものを当ててあげよっか?」
「何? ほしいものなんて……かえしてくれるわけじゃないでしょうに」
「そうだね。君は必要なんだ。僕の考えたシナリオに不可欠な存在……あいつらを呼び寄せるために必要な餌なんだ」
「……」
「君が欲しいものは、血からでしょ? ロルベーア」
「力? 私はそんなもの……」
嘘、と耳音でささやかれ、全身の毛が逆立つ。
ヴァイスはくくくと喉を鳴らして、私をなめるように見つめてきた。すべてを見透かした目に貫かれ、私は身動きできなくなる。
「ロルベーアは、僕に誘拐されたとき、もっと自分に力があればって思った。それだけじゃない。あの皇太子を守れる力が欲しいって思っている。自分は非力で、どうしようもなく、足を引っ張ってばかりの存在だって思っているから。だから、力が糒」
「……違う、私は」
「素直になりなよ。ロルベーア。僕がその力を与えてあげるから。君は僕にすべてをさらけ出せばいい」
そういって、ヴァイスは私を抱きしめる。抵抗しようとしたが、体が硬直して動けなかった。殿下と違う匂いに、私は体が拒絶反応を起こして気持ち悪くなる。宿敵に、嫌いな人間の匂いに包まれ、体にねじ込まれるその感覚にひどく嫌悪感を覚えた。そして、彼が私に毒を流し込むように耳元で何かを囁いた。私の奥底にある弱い自分を引っ張り出して、その私から弱みを聞き出ししばりつけ、絡めとって……体の自由が奪われる。カクンと体の中の糸が切れたように、私は彼にもたれかかった。何が起きたかすら理解できていない。ただ、とても眠くて、目を閉じてしまいそうになる。
ヴァイスは私の頭を撫でて、まるで赤子を寝かしつけるようにつぶやく。
「……そう、いい子。ロルベーア」
私の意識が暗い闇へと落ちたのは、それからすぐのことだった。
「ロルベーア、早くしなよ」
無慈悲な命令が下される。でもその前にはっきりと聞こえた、愛しの人の声に、私は操られた体に何とか働きかけ動作を止めるようにと心の中で叫ぶ。
意識ははっきりとあった。だからこそ、目の前で起きようとしている悲劇を何としてでも止めたいと思った。声も出ない、体の自由も効かない。けれど、意識だけははっきりとあって、それだけはと彼の――アインザーム・メテオリートの胸に向けている剣だけはどうか彼の胸を貫かないようにと。しかし、意に反して私の手はぐっと剣を掴んで離さなかった。そうして、下された命令に従い彼の胸を――
「ロルベーア、俺はお前になら殺されてもいい」
「……ぁ、あ、あああああああああっ!」
彼の真紅の髪が散らばる。喉が張り裂けるほど叫び、私はぼろぼろとこぼれた涙でかすんだ視界の中剣を突き立てた。
グサッ――と、鋭利な剣先が、彼の真横に刺さる。
殿下は私の頬に垂れる涙をぬぐって、愛おしそうに名前を呼ぶ。そして、次の瞬間にはこれほど幸せなことはないというように顔をほころばせて私を抱きしめた。私はまだ魔法にかかっているためか、体が彼から距離を取ろうとしたが、それより先に引っ張られるようにして私は彼の胸へ飛び込んだ。
「ロルベーア」
「アイン、あ……わたし、私は!」
「大丈夫だ、死んでいない」
そう言って、彼は私に自身の心臓の音を聞かせる。怖かっただろう。信じていた人に殺されようとしたのだから。それでも彼は大丈夫だと私の背中をさすった。スッとそれまで白と黒の世界にいた意識が戻ってき、私は力なく手を下ろす。先ほど、私はこの手で殿下を殺そうとした。そんな罪悪感から彼を抱き返すことはできなかった。けれども彼は、そんなこと気にしないというように私を抱きしめ続ける。ヴァイスがその間に攻撃してきたらどうするんだといいたかったが、彼はそんなことお構いなしに抱きしめ続ける。
「アイン、私は、私は、アインを」
「だから大丈夫だろ。生きている」
「そうではなく!」
反逆罪など恐ろしい言葉が浮かんだが、殿下はきっと私を罰したりしない。そんな慢心はあるものの、それでも、私自身が許せなかった。いくら操られているとはいえ、殿下に剣を向けるなど、そんなことを、許せるはずもない。
一つ刻まれたトラウマに私は泣くことしかできず、どうにかヴァイスに立ち向かわなければならないのに、できなかった。
数か月ぶりに会えた彼をもっと感じていたい。そして、記憶が戻ったのだと、そんな彼に話を聞きたい。
殿下ともっと一緒にいたいのに。
殿下は、「よく頑張ったな、すまなかった」となぜか謝罪の言葉を口にした。謝るべきは私なのになぜ、と私は彼の顔を見た。すると、彼は数か月前とは比べ物にならないくらいやつれていて、病人のように顔が青白かった。こんなふうになるまで、彼は――
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「ごめんなさい、アイン」
そして、記憶を取り戻して私を抱きしめてくれてありがとう。
殿下は私の言葉を聞いた瞬間、しょうがないな、というふうに笑って「ありがとうでいい」とただ一言そういった。
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