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第3部2章
10 悪魔の提案
しおりを挟むなんで――
「お、お嬢元気出せ……よ。って、ああ、無理だよな! わかる、わりぃ、外出るわ」
「……」
「公女様……」
かわるがわる、私を心配して身に来てくれた人たちは、意気消沈とした私を見て言葉をかけては出て行った。ゼイも、シュタールも……お父様も来てくれたが、私はそれどころではなく、すべてが上の空で返事を返すこともできなかった。
殿下の様態は、今は安定しているらしい。
しかし、その後わかったことによれば、記憶を思い出しそうになると魔法が作用し妨害すると。だから、殿下は思い出したあの時倒れてしまったのだと。命に別状はないが、何度かやると、記憶さえも本当に消えてしまう可能性があるからと、私は殿下から引きはがされてしまった。私がやっていたことがすべて裏目に出てしまったのだ。
何をやっているんだろうかと自分を責めたが、私は一緒にいて笑顔になっていく殿下をみて安心したかったのだろう。傷ついていないつもりでいたが、やはり傷が深く残り、そして、それをいやすために彼と一緒にいたと。また、記憶を取り戻して見せるという約束をしたのに、宣言したのに私は果たせなかった。
また、殿下が襲撃された事件のみならず、彼が記憶喪失になったといううわさが帝国中に広まり、不安の声が上がっている。まだ即位式も済んでいない殿下が記憶喪失に。皇帝陛下はそれをいいことにその座に居座り続ける理由ができたと喜んでいるようだと、マルティンにこそりといわれた。それを殿下が知っただろうだろうか。だが問題はそこではなく、国民の声だ。襲撃されたことだけではなく、記憶も忘れて。私のおかげ、とまではいかないが変わった殿下に少しずつ支持が集まりだし、あの暴君で、戦闘狂ともいわれていた殿下が人にやさしくなったと喜んでいた人がいた。だが、二年前の殿下に戻ったということは――だ。
戦争が今起きたらまずい、と誰しもが思い、不安に駆られている。それがヴァイスの狙いだとするのなら、本当に厄介だと思った。私たちを、恐怖や不安に陥れることを楽しんでいる。まるでモルモットのように、そして自分のシナリオ通りに動かすことができる世界を楽しんでいるのかもしれない。今は、だが。
(いつ、彼の気が変わって戦争を起こして、この世界を……国を、なんて)
こちらも考えたくないシナリオが頭の中に浮かんでは消えていく。
とりあえず、殿下との接触はしばらく禁じられ、私は公爵邸で身を休めることになった。
周りの人たちから、頑張ったといわれ、イーリスにも「絶対に魔法をといて見せるので」と心配され、私は元から心配されていたんだと、周りが見えなくなっていたことに気が付いた。
自分にできることは初めから何もなかった。
それが悲しいだけじゃない。
「アイン……」
本当にもしこのまま記憶が戻らなったらどうしよう。一生私を思い出してくれなかったら。それだけじゃない。もしかしたら、記憶を思い出す以外に、私を好きになることがないような魔法がかけられていたら……ヴァイスのことだからあり得ると、あの白い悪魔のことが頭をよぎる。
どんどん追い詰められているような気がして、私は首を横に振ってどうにか自分の心だけでもと守ることにした。
気分転換に私はメイドに言って庭へ出た。青々としたバラが咲き乱れる庭を見て、ため息が出てくる。その青色が私の心をブルーにしていくから。
殿下と見たこのバラはきれいに思えたのに、一人で見るとまるで、人工的に染めたようなうっとうしい青に気持ちが沈んでいく。
「はあ……」
「ため息なんて。幸せが逃げちゃうよ。ロルベーア」
「……っ」
不意に聞こえた声に私は体と心臓が同時にはねる。
気配も何もしなかった。けれど、その声ははっきりと耳元で聞こえ、そして耳元に彼の吐息が当たりい、私は吐き気も覚えて距離をとる。
「やあ」
「……ヴァイス!」
自分でも驚くぐらい怒りのこもった声が出た。ひねり出してきたような自分の声に驚きつつも、彼がここにいることが信じられず、またやはり近くで見ていたのかという恐怖がやってきて、足がすくんだ。しかし、今回ばかりは怒りが勝って、私は彼をにらみつける。
真っ白な服に、真っ白な靴。汚れを知らないような純白に身を包んだ天使のような悪魔……少したれ目の透き通った水色の瞳が、私を見据えて、それからにこりと細められた。病人のような白さの彼は私が病人とでも言いたげに、いたわるような、でも見下すような目で私をもう一度とらえた。
「覚えていてくれてうれしいよ。ロルベーア」
「貴方のせいで!」
「プレゼント気に入ってもらえてよかった」
と、彼は意味不明なことを言い出した。
(プレゼント? 殿下が記憶喪失になることのどこがプレゼントっていうのよ!)
狂っている。常人では理解できない、サイコパスの領域にいる彼の言葉は何一つ理解できなかった。しかし、彼が絡んでいることだけは明確で、また彼が殿下の記憶を取り戻す唯一のカギだと嫌でも伝えてくる。
それが何よりも憎たらしく、ほかの方法を探そうにも彼に接触してしまったこのチャンスを利用するしかないと私はぎゅっと震える拳を握った。
「どう? 調子は」
「最悪よ」
「思い出してもらえないだろ? もう諦めたら?」
「あきらめる? 私が殿下を? そんな簡単なことじゃないでしょ。貴方には、心がないの?」
「心はあるよ。好奇心ってものが存在するんだから」
そういって、ヴァイスは肩をすくめる。どうやら、彼は怒りに任せてしゃべる人間のことが嫌いなようだった。殿下のことを嫌っていた理由もそれが当てはまっていたからだ。
だが、こちらも冷静ではいられない。今すぐとらえたいところだが、騎士を呼んだところで逃げられるし、来た人たちにも危害が及ぶかもしれない。それは避けたかった。これ以上の犠牲はいらない。
「まあ、そんなことはどうでもいいや。ロルベーアに一つ提案をしに来たんだから」
「提案……?」
「うん。僕と一緒に来てくれれば、皇太子にかけた魔法を解いてあげるよ」
「それを信じろと?」
「君のところの聖女が解けない魔法を誰が解くっていうの? それとも、また無理やり思い出させようとして傷つけたい?」
と、くすくすと笑う。
全部見ていた。見ていたうえでの発言。ヴァイスはどうするかと手を出してきた。
その手は、その提案は悪魔の提案だ。
きっとろくなことじゃない。でも、それしか方法がないのだと、すがれといってくる彼の手を私は取りそうになってしまった。「傷つけたいわけじゃない」
「じゃあ、答えは決まっているでしょ? 今じゃなくていい。でも、早めに決めてね。僕の気持ちが変わらないうちに」
「……どうやって魔法を解くの?」
「ある魔法を唱えればいい。ロルベーアにでもできるよ。でも、今は教えられない。だって今教えたら面白くないし、これは取引なんだから」
ヴァイスはそう言ってくるくると指を回して私をさした。
彼の好奇心の中心に自分がいることに気づき、また足が震える。なぜ執着されるのか理解できない。でも、私が転生者であることを知っている彼は、もしかしたら私のいた世界に干渉したいとまだ思っているのかもしれない。戦争とか、殿下の記憶を封印するとか。そういうのは前座というか、戯れ程度のことで。彼がしたいのはもっと先だと、そんな気がするのだ。
「どうするかは、ロルベーアが決めればいい。けど、あの魔法は解けないよ。そういうふうに設計してある」
「……」
「楽しいでしょ?」
そういってヴァイスは笑って私に近づいてきた。私はその場に縫い付けられたように動けず、彼が目の前に来ても抵抗することができなかった。それこそ、魔法にかかったみたいに。
ヴァイスは私の髪をすくいあげキスを落とすと、にこりと微笑んだ。底の見えない笑顔に、私は眉を顰める。こいつには、目的という目的がない。楽しめればいいとそう思っているのだ。
「楽しくないわよ。楽しいと思っているのは貴方だけ」
「そう、僕だけだよ。それでもいいよ……一週間後の満月の日までに答えを出して。その日に魔法を教えてあげる。どうするかはロルベーア次第……」
「……っ、待ちなさい!」
聞き取れないほど小さな声で呪文を唱えた彼は私が手を伸ばした瞬間に消えてしまった。
断片的な情報しか得られなかった。でも、記憶を取り戻す方法はわかった。最悪だったけれど。
「……アイン」
私が何を大切にしたいのか、守りたいのか。それをはっきりさせる必要がある。
私は風に流され髪の毛にくっついたバラの花弁を手に取って、指の腹に青がうつるまで強くすりつぶした。
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