上 下
26 / 128
第1部3章

05 名前を呼ぶ、ただそれだけ

しおりを挟む


(今、何ていったの?)


 確かにロルベーアと、殿下が私の名前を呼んだ気がする。聞き間違えでなければ、いや、聞き間違うはずがない。だって、こんなにも静かなのに、誰かが喋ればその音も、息づかいさえも聞えてくるはずだから。
 だから、今、殿下が私の名前を呼んで――


(私の名前を呼んだの?)


 理解が追いついたはずなのに、今度は、その事実を受け止めきれていない自分がいた。
 マルティンも、イーリスも口を開けたまま私と殿下を見ているし、心なしか部屋の温度が何度か上がった気がする。依然殿下は、怒ったような、恥ずかしそうな顔をして、耳を赤く染め私を見ている。
 私が殿下に声をかけようとすれば、また「ロルベーア」と名前を呼ばれる。彼を見れば真っ赤な顔で私を見つめていて――いや、見つめてはいなくてただ気まずくて目を合わせられないだけのように見えるが、再度私の名前を呼ぶので顔を上げざるを得なかった。


「な……なんですか殿下?」


 動揺から言葉を詰まらせてしまったものの、何とか声を出すことに成功する。


「殿下何か言って下さい」
「名前を呼んだ」
「はい、そうですね」
「それだけだ」
「は、はい!?」


 いきなり名前を呼んだかと思えば、それだけだ、と殿下は答えると顔を逸らしてしまった。何をしたかったのか分からないまま、殿下がそれ以上何も言うなといわんばかりのオーラを放つので、私は黙ることにした。
 名前を呼んだ、それだけだ、以上だ、といわれて納得する人間が何処にいるというのだろうか。全く理解できなかったが、今のは少しだけ可愛いと思った。


(か、可愛いって何!? 殿下が!? あの殿下を私は今、可愛いと思ったの!?)


 殿下にそんな感情を抱く日が来るなんて思いもしなかった。それだけではなく、殿下に名前を呼ばれるたというその事実に喜びを覚えている自分がいたのも驚きだった。どうかしている。
 殿下の行動はいつも不明だ。
 番だから、という理由を私はつけるけど、彼は番のために動くような男じゃない。なら、何で私に構うのだろうかと。彼の行動原理が分からなかった。
 でも、彼に名前を呼んでもらえたその事実に舞い上がってしまった私は、頬を緩ませながら殿下の方を見る。すっかり熱が冷めてしまったような顔をした殿下は、私の視線に気づくと、こめかみをピクリと動かした。私に馬鹿にされていると勘違いしたのだろう。大方あっているが、合っていない。


「殿下」
「何だ、公女」


 既に、公女呼びに戻っていた殿下は、私が何を言おうとしているのか理解していないようで身構えているようだった。あんなにも余裕の殿下が珍しい。


「殿下は、見返りを求めるタイプでしょうか」
「見返り? いきなり質問とは、公女も隅に置けないな」
「それで、どうなんですか」
「……ッチ。見返りは求めない。だが、それ相応の意思は示して貰いたいとは思うがな」


(それを、見返りを求めるっていうんじゃないの?)


 あいかわらず、めちゃくちゃだ、と思いつつも、殿下らしくて笑えてきてしまう。
 ということは、殿下が言うに、殿下は名前を呼んで欲しい……という解釈であっているのだろうか。それ相応の意思……行動……であるなら、私がとるべき行動は一つしかないのではないかと。


「私も、殿下の事名前で呼んでみてもよろしいでしょうか」
「何故だ?」
「殿下がそうしたからです。見返りは求めるタイプでしょう? 殿下は。では――」
「待て、いいといっていないだろう」
「ダメなのですか? それとも、そういう意味じゃなかったと」
「心の準備が……ッチ。そういう意味で言ったわけじゃない」
「今、何か言いましたか?」
「いいや、何も言っていない。公女の空耳だろう」
「……では――アインザーム殿下」
「……」
「アインザーム様……アイン」
「公女」
「は、はいっ」


 もしかして、愛称を呼んだのは不味かったか、と顔を上げれば先ほどまで離れていた殿下が私の目の前まで来ており、肩に掛かった髪をすくい上げると、銀色の輝く私の髪に優しく口づけをした。あまりにも流れるようなその仕草に、心臓が飛び出してしまいそうになった。私はこのままではいけないと、一歩引こうとしたが、腰を抱かれ逃げることは敵わなくなった。


「悪くないな。公女、もう一度呼んでみろ」
「嫌です。殿下は、何を考えているのか分からないので」


 私は彼を睨むが、殿下は笑ってみせた。これまでにみたことがないくらいの満面の笑みだった。親に誉められたときの子供のような、邪気のない笑顔がそこにはあった。綻んだ笑顔を、見ていると、母性がくすぐられる。そんなふうに笑えるのかと。でも、何が嬉しいのかさっぱり分からなかった。一般人とはツボが違うのかも知れない。
 けれど、この笑顔に惑わされてしまうのだ。その顔の良さで、大抵の事は許されるような気がしてくる。今回はそうはいかないけれど……本当は少し、怖いけど、殿下の顔がタイプであることを最近自覚した。こんなの自覚したくなかったけれど。
 また何かしてくるのではないかと警戒していたものの、一向にそんな様子はないし、もう満足したのか私の側から離れてしまったのでホッと胸を撫で下ろした。
 だが、安心した、その時だった――「いいな」という消えるような儚い声が聞えてきたのは。


「せ、聖女様?」
「いいな……殿下、私も名前を呼んでいただけないでしょうか」
「え?」


 イーリスも、いきなり可笑しなことをいいだした。彼女の顔を見ていると、黒真珠の瞳を輝かせて、手を顔の前でキュッと握りながら殿下を見つめている。殿下は私を庇うように前に立つと、イーリスの方を見た。ここからじゃ顔が見えないと移動しようとしたが、殿下に腕を捕まれ、移動することができなかった。顔を見られたくないのだろうか。


(な、何、いきなり……)


 こんなの小説にはなかった。互いに興味を持つ、というのはあり得たけれど、イーリスは今のやりとりからどんな興味を持ったというのだろうか。彼女の心が読めたら苦労しないが、そうもいかないし……
 後ろから彼らの動向を見守ることしか出来なくなり、私の心にはまた不安が渦巻き始める。


「何故だ、聖女。俺達は、番同士だが、聖女は全くの部外者だろう。それに、何の意味がある」
「意味というか……その羨ましいなと思いまして。皆さんが、私のこと聖女様、聖女、と呼ぶので、『聖女』と呼ばれるのは慣れてきてはいるんですけど……でも、やっぱり、何か自分の中ではしっくりこなくて。聖女なんて言われるほどたいした存在じゃないですし、それに、私にだって名前があるのに……だから」


と、イーリスはいいにくそうに言うと潤んだ瞳を殿下に向けた。女の私でも可愛い、と思うその笑顔を見てさすがの殿下も心を動かされたのではないかと、ツバを飲み込む。だって本来そういう物語。大分ズレてしまったけれど、ここで軌道修正するのだろうと。
 でも、ただそれだけで――


(なんで、こんなに焦っているの?)


 自分の心臓が、煩いほど脈打っているのが分かった。それも、嫌な脈打ち方。まるで、その言葉を、先をいわないでと言っているようでならなかった。
 そして、恐れていたじたいが次の瞬間には起こってしまった。


「確かにそうだな。別に俺も、聖女のことを聖女と思っていないからな。聖女というのはおかしいかも知れないな」
「殿下! なりません、聖女様は聖女様ですよ! いくら殿下でも聖女様のことは丁重に扱わなければ」


と、マルティンが横から口を挟む。しかし、殿下はそんな言葉を気にする様子もなく、イーリスの名前を口にした。


「イーリス――これでいいのか?」
「は、はいっ。アインザーム様っ」
「……」
「そうか、ではこれからそう呼ぶとしよう。イーリス」
「ありがとうございます。アインザーム様」
「ハッ、たかが名前を呼んだだけだろう。そこまで喜ぶ理由が分からないな」


 花が咲くような笑顔がそこにある。パッと光を浴びたようなそのヒロインの笑顔を見て、私はフッと顔を逸らした。殿下が、イーリスに対して名前を呼ぶことを許可したということは、そういうことなのではないか。さっきは、嫌がっていたくせに、この数秒でどんな心境の変化があったというのだろうか。でも、おかしくない……だって、ヒロインとヒーローなのだから。

 これでいい――これでいいはずなのだ。
 緩んだ殿下の手を払って、私は彼に背を向ける。


「公女?」
「少し疲れたので、部屋に戻らせて頂きます。殿下は、聖女様ともう少しお話し下さい。では」


 その場で止ったらまた腕を捕まれそうな気がした。だから、私は慣れないヒールで廊下を走った。何だか女々しいなと自分でも思う。
 分かっていたことなのに、雲行きが怪しくなり始めた頃からそうじゃないかと思っていたけれど、目の前であれをみせられるのは辛かった。甘い雰囲気じゃなかったかも知れない。ただ、名前を呼んだ、呼ばれた、ただそれだけ。でも、私にはそう見えた。イーリスと、アインザーム様と、そう呼び合う彼らを見て、鈍器で殴られたようなそんな痛みを頭に受けた。

 ――何で?

 何でこんなに胸が痛いんだろうか。たかだか、名前を呼び合っただけ。彼らのその後なんて知らないし、考えたくもないけれど。あれから恋が始まるとか馬鹿馬鹿しいのに、始まってしまいそうな気がして。


「はあ……はあっ……」


 部屋に飛び込んで鍵をかける。ずるずると、扉にもたれ掛りながら顔を手で覆うようにしてふさぎ込む。
 痛い、痛かった。張り裂けそうだ。


「……何でよ。馬鹿」


 何でこんなに痛むのか。認めたくない、きっと私が彼を意識してしまっているからだ。それが、好き、とか、恋、とか名前を付けてしまったら終わりの感情を、きっと彼に――

 いつから? 

 そんなことを思いながら、膝を抱え、さらにそこに顔を埋めた。どこか、期待していた自分がいた。それが恥ずかしかったからか。違う……そうじゃなくて。


「名前……呼んでもらえたのに…………」


 ロルベーアって。本当は、びっくりしたけど、嬉しくもあった。公女じゃなくて、ただ一人の人間としてみられて気がして。でも、全てヒロインが持っていってしまった。当然だ。それが、そうなる物語だから。
 まだ私の脳内で、私の名前を呼ぶ殿下と、イーリスの名前を呼ぶ殿下の顔が、あの真紅の彼がちらついていた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

番探しにやって来た王子様に見初められました。逃げたらだめですか?

ゆきりん(安室 雪)
恋愛
私はスミレ・デラウェア。伯爵令嬢だけど秘密がある。長閑なぶどう畑が広がる我がデラウェア領地で自警団に入っているのだ。騎士団に入れないのでコッソリと盗賊から領地を守ってます。 そんな領地に王都から番探しに王子がやって来るらしい。人が集まって来ると盗賊も来るから勘弁して欲しい。 お転婆令嬢が番から逃げ回るお話しです。 愛の花シリーズ第3弾です。

君は番じゃ無かったと言われた王宮からの帰り道、本物の番に拾われました

ゆきりん(安室 雪)
恋愛
ココはフラワーテイル王国と言います。確率は少ないけど、番に出会うと匂いで分かると言います。かく言う、私の両親は番だったみたいで、未だに甘い匂いがするって言って、ラブラブです。私もそんな両親みたいになりたいっ!と思っていたのに、私に番宣言した人からは、甘い匂いがしません。しかも、番じゃなかったなんて言い出しました。番婚約破棄?そんなの聞いた事無いわっ!! 打ちひしがれたライムは王宮からの帰り道、本物の番に出会えちゃいます。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

転生したら竜王様の番になりました

nao
恋愛
私は転生者です。現在5才。あの日父様に連れられて、王宮をおとずれた私は、竜王様の【番】に認定されました。

急に運命の番と言われても。夜会で永遠の愛を誓われ駆け落ちし、数年後ぽい捨てされた母を持つ平民娘は、氷の騎士の甘い求婚を冷たく拒む。

石河 翠
恋愛
ルビーの花屋に、隣国の氷の騎士ディランが現れた。 雪豹の獣人である彼は番の匂いを追いかけていたらしい。ところが花屋に着いたとたんに、手がかりを失ってしまったというのだ。 一時的に鼻が詰まった人間並みの嗅覚になったディランだが、番が見つかるまでは帰らないと言い張る始末。ルビーは彼の世話をする羽目に。 ルビーと喧嘩をしつつ、人間についての理解を深めていくディラン。 その後嗅覚を取り戻したディランは番の正体に歓喜し、公衆の面前で結婚を申し込むが冷たく拒まれる。ルビーが求婚を断ったのには理由があって……。 愛されることが怖い臆病なヒロインと、彼女のためならすべてを捨てる一途でだだ甘なヒーローの恋物語。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(ID25481643)をお借りしています。

彼女が心を取り戻すまで~十年監禁されて心を止めた少女の成長記録~

春風由実
恋愛
当代のアルメスタ公爵、ジェラルド・サン・アルメスタ。 彼は幼くして番に出会う幸運に恵まれた。 けれどもその番を奪われて、十年も辛い日々を過ごすことになる。 やっと見つかった番。 ところがアルメスタ公爵はそれからも苦悩することになった。 彼女が囚われた十年の間に虐げられてすっかり心を失っていたからである。 番であるセイディは、ジェラルドがいくら愛でても心を動かさない。 情緒が育っていないなら、今から育てていけばいい。 これは十年虐げられて心を止めてしまった一人の女性が、愛されながら失った心を取り戻すまでの記録だ。 「せいでぃ、ぷりんたべる」 「せいでぃ、たのちっ」 「せいでぃ、るどといっしょです」 次第にアルメスタ公爵邸に明るい声が響くようになってきた。 なお彼女の知らないところで、十年前に彼女を奪った者たちは制裁を受けていく。 ※R15は念のためです。 ※カクヨム、小説家になろう、にも掲載しています。 シリアスなお話になる予定だったのですけれどね……。これいかに。 ★★★★★ お休みばかりで申し訳ありません。完結させましょう。今度こそ……。 お待ちいただいたみなさま、本当にありがとうございます。最後まで頑張ります。

婚約破棄とか言って早々に私の荷物をまとめて実家に送りつけているけど、その中にあなたが明日国王に謁見する時に必要な書類も混じっているのですが

マリー
恋愛
寝食を忘れるほど研究にのめり込む婚約者に惹かれてかいがいしく食事の準備や仕事の手伝いをしていたのに、ある日帰ったら「母親みたいに世話を焼いてくるお前にはうんざりだ!荷物をまとめておいてやったから明日の朝一番で出て行け!」ですって? まあ、癇癪を起こすのはいいですけれど(よくはない)あなたがまとめてうちの実家に郵送したっていうその荷物の中、送っちゃいけないもの入ってましたよ? ※またも小説の練習で書いてみました。よろしくお願いします。 ※すみません、婚約破棄タグを使っていましたが、書いてるうちに内容にそぐわないことに気づいたのでちょっと変えました。果たして婚約破棄するのかしないのか?を楽しんでいただく話になりそうです。正当派の婚約破棄ものにはならないと思います。期待して読んでくださった方申し訳ございません。

番が見つけられなかったので諦めて婚約したら、番を見つけてしまった。←今ここ。

三谷朱花
恋愛
息が止まる。 フィオーレがその表現を理解したのは、今日が初めてだった。

処理中です...