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1巻

1-3

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 ここにいる修道女は問題児ばかりだと思っていたけど、そうじゃない人もいるのね。
 家庭の事情とはいえ、何も悪くない子女が修道院に投げ込まれてしまうなんて、あんまりだわ!

「まぁ、なんてひどい!」

 思わず感情が高ぶって声を荒らげると、彼女の語尾も強くなる。

「貴女もそう思うでしょ!? 本当にひどいんです、あの義母! お兄様は私の味方だから必死に説得してくれたみたいだけど、義母がお父様を言いくるめてしまって……でも、いいんです。ここでの生活は大変だけど、邪魔者扱いされないし、みんな私を必要としてくれる」
「そんなことが……ご実家での生活はとても大変でしたね」
「はい、いつもピリピリした空気で辛かったです。それに、もうあの家には戻りたくない。だから、家を出ても困らないように、ここで働き方を学んでいます」

 なるほど、確かに令嬢がいきなり家を出ても食べていけないだろう。本来なら修道院行きになり絶望するところを、この子は働き方を学んで生かそうとしている。その前向きな姿勢は私も見習いたい。
 きっとこの子なら、万が一義母から家を追い出されても生きていけるだろう。

「貴女はとても強いのね。私も見習って、働き方を学んで行きたいわ。あ、お名前をうかがっていなかったので教えていただいてもいいでしょうか」
「あ、ごめんなさい。つい熱く語ってしまって。私はクロエ・ド・マルクです」

 マルク家と言えば、代々男子は騎士として国に貢献する名門の侯爵家だわ。

「私はイザベル・フォン・アルノーです」
「あるのー……って、あのアルノーですか!? も、もしかして公爵家の!?」

 私の名前を聞くなり急に慌てる修道女、もといクロエ様。
 十代であれば貴族同士の家格の違いについてすでに学んでいるので、このような態度になるのは仕方ないのだけど。
 でも、クロエ様は素直でガッツのある子のようだし、私と気が合いそう。このまま仲良くしてほしいな。

「そんなに恐縮なさらないで。ここでは今日来たばっかりの新人だもの、対等に接してほしいわ」
「で、でも」
「いいの、いいの。ほら、親も見てないし。仲良くしてくれると嬉しいわ」
「は、はぁ。私でよければ、ぜひ」
「ちなみに、クロエ様はここに来てどれくらい経ちますの?」
「え、えっと、半年ほどになります。イザベル様は今日からですか?」
「はい、先程来たばかりなの」

 クロエ様は私の発言に対して疑問に思ったのか、首を傾げている。

「あの、イザベル様はもしかして子守りの経験がおありなのですか? さっきの感じだと随分と慣れているように見えたので」

 人助けのつもりがあだになるとは。前世での育児経験が身に染みついちゃってるのよね。どうしよう、なんて誤魔化そうかしら。

「え、えーと……本! そう、本に書いてあって」

 本ならどこの国にもあるよね。よし、これで押し通そう。

「確か、アルノー家の書物庫に育児本みたいなものがあったんです」
「へー、そんな物があるのですね。初めて聞きました」
「ほ、ほら、うちの家は書庫が広いから本がいっぱいあって。あははは」
「でも、本を読んだだけでこんなにお世話出来るなんて……」

 あああ、さすがに無理があるかしら!? ど、どうしよう、次はなんて言い訳しよう!?
 言葉に詰まっていると、クロエ様は「どうしよう、イザベル様は私の理想そのものだわ」とか何とかつぶやいた後、すごい力で私の手を握り締める。

「イザベル様って実は天才ですね!? それに、高貴な身分なのに気さくで、とても優しくて、美人で! か、完璧すぎます!!」

 とりあえず、その場を誤魔化せたようだ。っていうか、クロエ様がやたら興奮しているのは何故!?

「イザベル様のこと、かつて国を治めたエリス様のように尊敬してもいいでしょうか!?」
「ええ!? そ、それはちょっと」

 エリス様といえば、初の女王として諸国を統治していた英雄じゃない! そんな方と同等の扱いだなんて、どんな羞恥しゅうちプレイ!?
 クロエ様への対応に困っていると、ルーシーさんが私達の方に向かってくるのが見えた。
 助かったと思ったのも束の間、ルーシーさんの表情は険しい。
 やばい、クロエ様とおしゃべりして子守りをサボっていたのがバレている。

「貴女達、先程から何をしているのですか! 子供達を安全に遊ばせるのも貴女達の仕事ですよ!?」

 ルーシーさんはキツい口調で注意する。

「はい」
「すみません」

 ああ、初日からやらかしてしまった。次からは気を付けないと。
 私がシュンとしている姿を反省しているととらえたようで、ルーシーさんはため息を吐き、「次回からは気を付けるように」とだけ付け加え、それ以上叱ることはなかった。

「さ、気持ちを切り替えて子供達の面倒を見てもらいましょう。あそこの子供達の輪に二人とも加わって下さい」

 ルーシーさんはそう言うと、子供達に向かって声を張り上げた。

「皆さん、今からこちらの二人が遊びに加わって下さいます! たくさん遊んであげて下さいね」
「はーーい!!」

 子供達はルーシーの言葉に反応して、ワラワラと私達のもとへやって来る。

「お姉ちゃん、遊ぼ!」
「あっちのお砂場で遊びたい!」
「見て見て! 枝拾ってきたから騎士ごっこしようよ」

 元気いっぱいの子供達に囲まれた私とクロエ様は、そのまま外遊びに付き合わされることになった。
 ああ、走り回るにはイザベルの身体は重過ぎる。
 ゼーハーゼーハーと息を切らし体力の限界を感じ始めた頃、ルーシーさんが子供達を呼び戻しに来た。

「皆さん、そろそろ夕食の時間ですよ。戻っていらっしゃい!」
「はーーい!!」

 子供達が孤児院に走って戻っていく。あー、疲れた。こりゃ、明日は筋肉痛になりそうだわ。
 そんなことを考えていると、私のもとへやって来たルーシーさんが、この後のスケジュールについて話し始めた。

「イザベルさん、これから夕食なので子供達と一緒に食事を取りましょう。食事が済んだら子供達の身を清め、寝かし付けを行います。夜に祈りの時間があるので、子供の見守りをする修道女以外は大聖堂に行き、夜の祈りを捧げたら本日の仕事は終了です。それまで頑張って下さいね」

 ヒー!! まだそんなに仕事があるのか!
 ゲンナリしながらも返事をして、残りの仕事に取り掛かる。
 息を吐く暇もないほど目まぐるしい時間を過ごした後、私は大聖堂へと足を運んだ。
 椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せる。授業中に居眠り経験がある人は何となく分かるだろうが、祈りの言葉のトーンがこれまた静かなので、まるで子守歌のように良い感じに眠りを誘う。
 ほとんど意識を飛ばしていた私だったが、ぐっすり寝ているわけではないので当然疲れは取れない。終わった頃には疲労のあまりぐったりと教会の長椅子にもたれ掛かってしまった。
 ああ、みんなはこのスケジュールをこなしているのに、私だけこんなに疲れているなんて。明日からの仕事に身体がついていけるだろうか。

「やれやれ、初日だし無理もないですね。では、明日のシフトを夜勤に変えましょう。そうすれば夕方まで休めますし、翌日は休日になりますから」

 ああ、それは嬉しい提案。体力のない今の身体には助かる。

「ありがとうございます」
「では、これより自由時間になりますから、ゆっくり過ごして下さい。もし、生活上の不便があれば、直接私に言いに来て下さいね。では、お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でした」

 鉛のように重たく感じる身体を引き摺り自室へ戻った私は、ベッドにゴロンと仰向あおむけになる。
 あー、今日一日よく働いたわ。
 うつらうつらと眠くなっていく中で、ふと今日気になった子供達の様子が脳裏をよぎる。
 人に関心を持とうとしない子、いきなり抱き付いてママの代わりになってほしいとねだる子。
 私の前世の育児知識が正しければ、もしかしたらあの子達は『愛着障害』ではないだろうか。幼少期に充分な愛情を受けることが出来なかったことで、人格形成に障害が出ているのかもしれない。その場合、何もケアをしなければ、いずれ対人関係でつまずいたり精神面が不安定になる可能性が高くなる。
 このまま見て見ぬふりをするのは、子供達にとって良くないわ。
 よし、明日ルーシーさんに提案をしてみよう。


     ☆ ☆ ☆


 んん、何だかまぶしい。
 はっとして目を開けると、外はすっかり明るくなっていた。
 ああ、昨日は疲れていたから寝落ちしちゃったのか。
 起きようと体勢を変えた途端、うぐっ!? か、身体が痛い!
 あちゃ~、やっぱり昨日の労働で全身筋肉痛になっているみたい。
 でも、今日も仕事をしなきゃいけないし、ヨガでもやって身体をほぐしておこう。
 ノロノロとベッドから下りた私は地べたに座り込み、試しに前屈をしてみる。
 ぐぐぐ、イザベルの身体は硬いわね。
 そのままゆっくり呼吸をしながら、前世で習っていたヨガのポーズをしていると、コンコンッと扉を叩く音が聞こえた。

「イザベルさん、失礼します」
「え、あっ」

 ちょうど天秤のポーズをしていたため、すぐに動けずにいると、ガチャッと勢いよく扉が開いた。ルーシーさんに、真っ正面から天秤のポーズを見られる。
 ルーシーさんは見てはいけないものを見てしまったと思ったのか、そのまま無言で扉を閉めた。

「……イザベルさん、昼食の時間になりましたので呼びに来ました。替えの修道服は扉の外に置いておきますので、身支度が済んだら広間まで来て下さい」

 あああ、上司に変な姿を見られるとか気まず過ぎる!
 羞恥心しゅうちしんで思わずその場に座り込むと、ぐうとお腹が鳴った。
 このまま部屋に籠ってご飯を食いっぱぐれてしまったら困るし、そろそろ支度を始めなきゃ。
 私はぱぱっと身支度を済ませて広間に向かう。

「ルーシーさんお待たせしました」
「ああ、イザベルさん。昨夜はよく眠れたみたいですね。朝食の時間帯はノックをしても反応がなかったので声掛けしませんでしたが、お腹空いているでしょう?」
「ええ」
「子供達も今大食堂で昼食を取っていますので、クロエさんが来てから行きましょう」

 なるほど、子供達も大食堂にいるのか。あれ、クロエ様も一緒ってことは、もしかして今日の勤務が一緒なのかしら。

「ルーシーさん、今日はクロエ様と三人でお仕事なのですか?」
「ああ、言い忘れていましたね。今日の夜勤は私と貴女とクロエさんが担当することになりました」

 昨日たくさん話して仲良くなったし、知らない人と一緒に仕事をするより心強いわね。
 そんなことを思っていると、奥からクロエ様がやって来た。

「おはようございます、ルーシーさん、イザベル様」
「おはようございます」
「では、みなさん揃いましたので大食堂に行きましょうか」

 昨日の夕飯も子供達と大食堂で食べたが、ここでは軽食以外は基本的にそこで食事を取るスタイルらしい。
 孤児院を出て回廊の中ほどにある平屋の扉を開けると、食べ物のいい匂いと子供達の声が広がる。
 ちなみに大食堂では自分達でトレーを持って中央の受け渡し口まで行き、調理員が配膳してくれるスタイルだ。
 なんだか小学校の給食を思い出すなぁ。私、きなこと砂糖が付いた揚げパンと、たまに出るコーヒー牛乳が好きだったんだよね。
 おお、今日の食事は煮込み料理とパンね。香りが良くて美味おいしそうだわ。
 食事を受け取り、空いている席に三人仲良く座る。

「いただきます」

 あー、トマト風味のこの煮込み、優しいお味で身体に染み渡るわぁ。うん、美味うまい!
 朝食を取っていなくて空腹だったこともあり、黙々と食事を口に運ぶ。その時、ふっと昨日考えていた『愛着障害』のことを思い出した。
 食事時なら話しやすいし、今ならちょうどいいタイミングだわ。

「あの、ルーシーさんにお話ししたいことがあります」

 ルーシーさんは食事の手を止めて私の方を見た。
 ルーシーさんって言い方は厳しいところもあるけど、しっかりと顔を見て話を聞いてくれる。こういうところ、とても好感を持てるわ。
 前世では何度か転職をしており、その中には新人を教育する気がないのか、簡単な説明の後にマニュアルだけポンと渡すような適当な企業もあったっけ。ここではいい人に恵まれたな。

「はい、何でしょう」
「えっと。昨日お世話をして気付いたのですが、愛着障害の症状が出ている子供が何人かいるみたいですね」
「……アイチャクショウガイ?」

 あれ? もしかしてこれって、この世界には存在しない言葉なのかな。
 昨日の子守りのことといい、私ったらまた余計なことをしちゃったのかしら!?

「私も、アイチャクショウガイという言葉は初めて聞きました。どういう意味なんですか?」

 隣で聞いているクロエ様も首を傾げている。
 あああ、どうしようかな。えーと、えーと……はっ! 昨日は本の知識ってことで誤魔化せたよね!? それと同じ感じで押し通せないかしら!?

「ええと、実は家で読んだ本に書かれていた言葉なのです」

 二人は初めて聞く言葉に興味津々といった様子だ。
 よし、ここは教師になった気分で前世の育児知識を語ってみよう。

「その本にはこう書かれていました。幼い時に養育する者がすぐに入れ替わったり愛情に触れる機会が少なかったりすると、他人との距離が上手くつかめず、対人関係でトラブルが起きたり精神的に不安定になったりすることがあると」
「まぁ、そんなことがあるのですね。ああ、でも思い返してみると、孤児院を出て仕事をしても感情的になってすぐにやめてしまったり、暴力的な態度に出たりする子がいるわね」

 ああ、何となく想像はしていたけど、やっぱり。
 孤児になるだけでも子供達の心には大きな傷が出来ているはず。それに加えて特定の大人ときずなを深める場がなければ、彼らの心は健全には育たないだろう。

「実際にそういった子が出ているなら、子供達の心の発達に適していないやり方をしてしまっているかもしれないですね」
「では、アイチャクショウガイにならないようにはどうしたらいいのかしら」

 お、ルーシーさんは愛着障害について興味を持ってくれたみたい。それならこの提案も聞き入れてくれるかしら。

「本には、赤ちゃんから二歳くらいまではなるべくお世話をする人間を固定した方がいいと書かれていました。なので、二歳まではお世話する人をあまり変えない方針にするのはいかがでしょうか?」

 私の提案を聞いた途端、ルーシーさんの表情が曇る。

「その話が本当なら、そうしてあげるのが子供達にとってもいいでしょう。でも、孤児院は万年人手不足で、子供一人に修道女一人を付けるなんて無理だわ」

 ああ、うん、ここの労働環境を見ているとそんな感じだよね。じゃあ、この方法ならどうかしら。

「確かに、今の修道女の数では足りないですよね。では、こうしてみてはどうでしょう。昨日見た感じだと、子供達は年齢に関係なくまとめて面倒を見ていますよね?」
「ええ、そうしているわね」
「それを、大まかな年齢に分けて面倒を見るんです。その上で年齢ごとに担当を置いてグループを作ります。それだけでもお世話をする人が固定されますよね」
「ああ、確かにそうね」
「ただ、それでグループ全ての子供達の成長を見守るのは難しいと思います。そこで、グループの担当とは別に、二歳までの子については二、三人に一人の割合で修道女を付けるんです。その修道女に、愛情を注ぐ親代わりになってもらうのはどうでしょうか」
「なるほど」
「親代わりの相手といっても、その子だけにかかりきりになるわけではありません。全体の様子を見つつ、担当の子を優先的に面倒を見る、といった位置付けにすれば、他の仕事も柔軟に対応出来るのではないかと思います。それに、月齢が近い子供を集めればお世話もまとめてしやすくなりますし」

 そこまで説明すると、ルーシーさんは黙り込んでしまった。
 前世の知識として、クラス制と担当児制のことも盛り込んで提案してみたのだけど……うーん、ダメだったかな。

「あの……やっぱり、無理ですかね」
「ああ、ごめんなさい。貴女の話がとても良かったから、採用出来るか考えていたの。イザベルさんは事前に聞いていた話と違って真面目に仕事をこなしてくれるし、仕事も正確で速いわ。私は知らなかったけれど、理にかなった内容だったので取り入れてみたいと思って。それに、子供達のことを考えたら、アイチャクショウガイという症状も放置してはいけないと分かりましたから」

 おお、私の話を前向きに検討してくれている!?

「さっそく勤務体制を見直して、院長にお話ししてみます。許可が出たらすぐに体制を変更しましょう」
「ありがとうございます!」

 やったー! 仕事のプレゼンが成功したような気分だわ、嬉しい!!

「さて、残りの食事が済んだら一旦部屋に戻りましょうか」

 そうだった、まだご飯の途中だったわ。
 残りを食べ終えて孤児院に戻り、夕方の勤務まで部屋で待機することになった。
 せっかくの空き時間なので家族に向けて手紙を書いていたのだけど、いつの間にか勤務時間が迫っている。
 書いた手紙を一旦引き出しにしまって広場に出ると、ルーシーさんがすでに待機していた。

「イザベルさん、ゆっくり出来ましたか?」
「はい、家族に手紙を書いていました」
「そうでしたか。手紙を書き上げたら、大聖堂の前に郵便入れがありますので入れておいて下さい。後で担当の者がまとめて業者に渡しますから」
「ありがとうございます」

 実家では侍女が全てやってくれていたし、ここでは前世のような郵便ポストがなかったから出し方分からなかったのよね、聞けて良かった。

「さて、持ち場に行きましょう」

 ルーシーさんは歩きながら勤務体制の説明をしてくれる。

「成人前の修道女については基本的に夜勤から外れますが、どうしても人手が足りない時はこうして少しだけ大人の修道女のお手伝いをしてもらうことがあります。今は一月に一度お願いする程度ですが、本人の希望があれば可能な限り時間を調整しますし、もちろん辛ければ仮眠室で寝てしまっても大丈夫ですよ」

 確かにこの年で夜勤だと成長に問題が出そうだもんね。そのあたりはしっかり配慮してくれているのか。
 いつもの広間を抜け、ルーシーさんが奥の扉をそっと開けると、クロエ様がすでに乳児達のお世話をしていた。

「ここは一歳になるまでの赤子が過ごす部屋になります。私は引き継ぎをしてきますので――クロエさん、その間だけイザベルさんの指導を任せてもいいかしら」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、よろしく頼みましたよ」

 ルーシーさんはそう言い残し、足早に部屋を後にする。
 するとクロエ様はお世話の手を止めて、私のもとへ歩み寄った。

「イザベル様は私と同じ十三歳でしたよね? 赤ちゃんのお世話も初めてですか?」
「ええ、そうですわ」

 この世界では赤ちゃんのお世話は初めてでも、前世では朝から晩までがっつりワンオペでお世話していたけどね。産後の身体で夜間授乳するもんだから、寝不足でいつも意識が朦朧もうろうとしていたなぁ。当時はしんどかったけど、今となってはいい思い出だ。

「では、私がまず手本を見せますね」

 クロエ様は張り切った様子でそう言うと、一旦止めていたお世話を再開する。
 ん? オムツ交換の仕方があれだとやりにくいのでは。

「あの、クロエ様。新しいオムツを先に下に敷いておかないと、衣類に汚物が付いてしまいませんか?」
「え?」
「新しいオムツを汚れたオムツの下に置いて、綺麗に身体を拭いた後にこうして汚れたオムツを引き抜くと……ほら、この方が汚れないと思いますよ」
「あ、本当だ! 確かにこれだと急に動いても周りを汚さずに済みますね。イザベル様、さすがですわ」
「あ、ありがとうございます」

 そんなに褒められるとなんかむずがゆい気分だわ。でも役に立てたなら良かった。
 とはいえ照れ臭いので小さくお礼を言うと、クロエ様は頬を赤らめて「イザベル様からお礼を言われたわ、うふふ」と何やらつぶやいている。
 不意に、大きな泣き声が部屋に響き渡る。どうやら二人同時に赤ちゃんが泣き出したようだ。

「大変、赤ちゃんが泣いてるわ」

 クロエ様は慌てた様子で近くの子の面倒を見る。だが、もう片方の赤ちゃんは泣かせっぱなしで、このままではあっちの子が可哀相だ。
 私は泣いている赤ちゃんをそっと抱き抱えてみた。ほのかにミルクの匂いがする、温かくて小さい身体。久しぶりに抱っこしたけど、赤ちゃんってやっぱり可愛いな。
 確認してみたけれどオムツが汚れているわけでもなく、身体にも異常がない。ということは、お腹が空いているか、上手く寝られなくてぐずっているかのどちらかね。
 お腹が空いているならミルクか母乳をあげなきゃ泣き止まないよなぁ、と思って辺りを見回すと、ちょうどクロエ様が赤ちゃんにミルクを用意しているところだった。

「クロエ様、この子、お腹が空いているんだと思います。ミルクを分けてもらってもいいかしら」
「え? はい、ちょうど多めに用意したのでお分けしますね」

 ミルクの側には小さなうつわがいくつか置いてあった。これにミルクを入れて哺乳瓶として使っているのね。私は近くのうつわにミルクを移し替えて、先程の赤ちゃんのところに戻る。

「よーしよし、泣かないで。今ミルクをあげますね」

 優しく赤ちゃんを抱っこしながら飲ませてみると、やはりお腹が空いていたようで、勢い良くミルクを飲んでいる。
 その流れでゲップ出しと寝かし付けを済ませた私を見て、クロエ様がきょとんとした顔をしていた。

「イザベル様、赤ちゃんのお世話はしたことないって言っていたのに……」

 やば、私ったらまた流れでついお世話をしちゃった!

「イザベル様は本当に何でも出来るのですね、すごいわ! 私もイザベル様みたいに仕事の出来る女になって、将来は家を出て商売がしたいです!!」

 クロエ様は興奮しているようで、どんどん声のトーンが大きくなる。


 あわわわ、せっかく寝かし付けしたのに赤ちゃんが起きちゃう!

「ク、クロエ様、もう少しお静かに……」
「私、イザベル様に弟子入りをしたいです! どうか私の師匠になっていただけませんか!?」
「え、ええ?」
「マルク家は騎士の家系ですので、あるじと決めた者に生涯忠義を尽くすことを美徳としています。 私、決めました! イザベル様を私の師匠として――いえ、あるじとして忠義を尽くすことをここに誓いますわ!」
「わ、分かったから、ちょっと落ち着いて」
「マルク家の誓いを受け入れていただけるのですね!? ああ、なんと光栄な……!」
「分かった! 分かったから、声を小さくして!」
「はっ、ごめんなさい、私ったら」

 幸運にも泣き出しそうな赤ちゃんはいなかったので、ほっと胸を撫でおろす。クロエ様を見ると、彼女は命令を待っているワンコのような純粋な眼差しで私を見つめていた。

「イザベル師匠、これからよろしくお願いします」
「し、師匠!?」

 なんかどさくさに紛れて師匠認定されてません!? 困るんだけど!

「そんな、困るわ。今まで通り普通に接して下さい」
「そんなこと出来ませんわ。私の大切な師匠なのですから」
「えええ……」

 困ったなぁ、なんかクロエ様の変なスイッチを押してしまったみたいだわ。


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