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一三章
劇場での捜索
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ジャックとビリーのコンビはその日さっそく、オペラ座ノワールの支配人の元を訪れました。聞き覚えのない相手からの突然の来訪を受けて支配人は何とも怪訝そうな顔付きでありましたが、ジャックから渡された名刺を受け取るとなおさら怪訝そうな様子となったものでございます。
何とも言えない奇妙な表情で名刺を眺め、縦にしたり、横にしたり、上に向けて灯に空かしてみたり。まるで、隠された秘密の暗号が記されていて、その暗号を見つけ出そうとしている、と言った様子なのでありました。
散々、名刺を見つめた支配人はやがて、呟きました。
「警察ねえ。この霧と怪奇の都にもまだ、警察なんてものがあったんだなあ」
それは完全な独り言であり、純粋な感想であって、なんら悪意のあるものではありませんでした。それでも、以前のジャックであればその一言だけで激昂し、唾を吐き散らしながら怒鳴っていたことでありましょう。
「あいにくだったな! どんな世になろうと警察は健在なんだよ!」と。
ですが、さしもの暴れん坊ジャックもこの頃にはすでにこの手の反応には慣れておりました。というより、慣れざるを得なかったのです。何と言っても霧と怪奇の都は死刑権解放同盟の都市。警察の存在を覚えている市民の方が圧倒的少数派なのですから。ですから、ジャックは唾を吐き散らして怒鳴ったりはしませんでした。ただ、指をボキボキと鳴らしながら『ああ、あいにくとまだ健在なんだよ。法を破るやつは容赦しねえ』と、軽く脅しただけだったのです。その態度を見たビリーはメガネの奥の大きな目を、さらに大きく見開いて言ったものでありました。
「何とおとなになったことか! 君も成長したものだなあ」
ともあれ、公権力の強みを存分に生かしてオペラ座ノワールの支配人と強引に面談したジャックは用件を切り出したのです。新進気鋭の歌姫クリスとはいったい、何者なのか、と。
「さて、何者と言われても……」と、オペラ座ノワールの支配人・モンシャルマンは戸惑った様子で答えました。
と言うより、質問の意図を計りかねていた、と言うことなのでしょう。支配人として、所属する歌姫一人ひとりが『何者か』などとは考えたこともないのですから。モンシャルマンはその思いを率直に口にしました。
「質問の意味が分かりかねますな、刑事さん。『何者』とはどういう意味です? クリスは当劇場に所属する歌姫のひとりであり、それ以上でも、それ以下でもありませんが?」
「そう言うことじゃなくてよ。クリス嬢はここに来る前はどこで、どんな生活をしていたのか。家族はいるのか。いるとしたら構成は、とか、そう言うことを聞きたいわけさ」
「さて、そう言われましても……」と、モンシャルマンはさらに戸惑った様子で答えました。何気ない会話ではありましたがこれは実は大変なことであったのです。霧と怪奇の都の市民が警察を邪魔者扱いしない、それどころか敬語を使って話している! これはまったくめずらしいことでありました。
この霧の怪奇の都でそんな態度を取るのは、死刑権解放同盟に反対するごく少数の変わり者か、さもなければ、誰に対しても分け隔てなく礼儀正しく振る舞う根っからの聖人ぐらいのもの。
実はモンシャルマンとは後者の代表とも言うべき人物でありました。支配人の身でありながら劇場の一番下っ端の雑用係の少年に対してさえ、きちんと敬意を払い、その仕事の価値をを認め、敬語を使って話す人物だとして劇場中の人物から好かれていた御仁なのでありました。
そんな人物でありましたから、ジャックの横暴とも言えるぐらい強引な面談と質問に対してもいやな表情ひとつ見せず、穏やかに語りました。
「実は私もそのことについては何も知らんのですよ」
「知らない? 支配人のあんたがか?」
「ええ。もちろん、普通ならそんなことはありえません。当劇場に所属する人員は――例え、それが見習い待遇の雑用係であれ――きちんと調査をし、身元を確かめてから採用するかどうかを決めます」
何しろ、この都市の誇りたる大劇場ですからな。その構成員は末端に至るまでそのステータスにふさわしい人物でなければなりません。
そのモンシャルマンの言葉はたしかに『傲慢だ!』と非難されても致し方のないものであったでしょう。しかし、それは確かに、劇場の価値に対する限りない誇りと、その価値を守っていこうという高潔なまでの使命感の表れだったのです。
モンシャルマンはつづけました。
「ただ、クリスだけは特別なのです。何しろ、ある日突然、テオドラ――当劇場の主任講師――が連れてきたものですから」
「テオドラって言うと、あれだよな? やたら厳しそうな八〇過ぎのばあさんの……」
「はい」と、モンシャルマンはうなずいたものの、ジャックの無礼を見過ごしはしませんでした。穏やかな口調で、しかし、断固として注意したのです。
「『八〇過ぎのばあさん』という表現はこの場合、不要でしょうな。人を年齢によって判別するなどマナーに違反する振る舞いですぞ」
そう指摘されてジャックは、テーブルマナーの悪さを指摘された田舎者のような表情をしたものでございます。
「そいつは失礼したな。まあ、たしかに年齢なんざどうでもいい。おれが知りたいのは、そのテオドラがクリス嬢を連れてきたときのことだ。クリス嬢について何を言っていたか教えちゃくれねえか?」
「教えろと言われましても……いったい、何を知りたいと言うのですか?」
「だから、さっきも言ったろ。ここに来る前はどこでどうしていたのか、とか、家族はいるのか、とか、まあ、そんなことさ」
「さて。困りましたな。実はその当たりのことはまるで聞いておらんのですよ」
「聞いていない?」と、ジャックは眉をひそめました。
「はい。不審がるのもごもっともでしょうな。当劇場で雇うのに前歴を聞いてもいないなど。しかし、何と言ってもあのテオドラの紹介。何十年にもわたって当劇場のために尽力し、多くの歌姫、踊り子たちを育て上げ、多大な貢献を成してきた主任講師が見込んだ逸材となれば、前歴など気にするまでもありません。テオドラに言われるままに即座に登録しましたよ。ただ……」
「ただ?」
「これだけは言っておりましたな。『クリスはクリスチーヌのひ孫だ』と」
「クリスチーヌ……。確か、大昔の歌姫なんだよな?」
「おお、ご存じでしたか」
モンシャルマンの表情が一転して喜びに輝いたのは、ジャックが七〇年以上も前に活躍した歌姫のことを知っているとあって『見た目のがさつさとは裏腹に、なかなかどうして芸術を愛する心をもった御仁ではないか』と、見直したからでございます。もちろん、それは単なる勘違い。ジャックが仕事以外でオペラなどを鑑賞しようとすれば、ものの五分もたたずにいびきをかいて寝入ってしまう人物であることを知れば、さぞかし失望したことでございましょう。
しかし、この場ではジャックの本性を知ることなど叶いません。ですから、モンシャルマンはその誤解を抱いたままでした。それは双方にとって幸運なことであったでしょう、おそらく。
モンシャルマンは軽く両目を閉じ、過去を懐かしむかのように語り出しました。
「そう。クリスチーヌはかつての……お若いあなた方にとってはたしかに『大昔の人物』と言っていいでしょうな。何しろ、私にとっても自分の生まれる二〇年も前の人物ですからな。ですが、かの人のことは前の支配人からよく聞いております。
伝説の歌姫・クリスチーヌ。その歌声は聞く者を天界へと誘う天上の鐘のごとく。その舞は人を魅了し、水中に引きずり込む人魚のごとく。わずか一五歳にしてそこまで称されるほどの天才的な歌姫であったそうです。その人気はとどまるところを知らず、劇場は常に長蛇の列。やがては、この霧と怪奇の都のみならず世界でも最高峰の歌姫になると期待、いえ、確信されていたそうです。ですが、七〇年以上前のことです。人気絶頂のまま、姿をくらましてしまい、いまにいたるまで行方不明のままで……」
「姿をくらました? 何でまた?」
「さて。それは私には分かりかねます。何しろ、私の生まれる二〇年から前のことですからな」」
「しかし、そんな大スターが行方不明になったなら騒ぎになったはずだ。捜索だってされただろう。なのに、見つからなかったのか?」
モンシャルマンはいかにも『善人』と言った様子で、表情を曇らせました。
「……刑事さん。現役の警察の方の前でこう申し上げるのは心苦しいのですが、『捜索された』というのはどうでしょう。何しろ、当時からこの霧と怪奇の都は死刑権解放同盟の支配下にあり、警察はすでに死に体だったわけですから」
言われてジャックは思い切り顔をしかめました。その表情を見て自分こそが傷ついたような表情を浮かべた当たり、モンシャルマンは本当に善良な人物なのでありました。
「……まあ、捜索されたかどうかはあとで調べればいい。いまはとにかく、あんたの知っていることを教えてくれ。そのクリスチーヌって言うスターは結局、どうなったんだ?」
「ですからいまにいたるまで行方不明のまま。それで終わりですよ」
「ついに発見されなかったわけか」
私の知る限りは、ですが」と、モンシャルマンは念を押すことを忘れませんでした。
「ふむ。それで一年前……でよかったのかな? テオドラがクリス嬢を連れてきたのは」
「ええ。より正確に言うなら一年と四五日前と言ったところですね」
「一年と四五日前、突然、失踪したかつての大スターのひ孫とやらを連れてきたわけだ。そいつは確かなことなのか? クリス嬢がその、かつての大スターのひ孫だってのは?」
「さて。そう言われますと、とくに証拠があるわけでもありません。ただ、私はテオドラを信頼しております。テオドラがそう言うならそうだろうと思っておりますよ」
「しかし、七〇年以上も行方知れずだったんだろう。それがいまになって急にひ孫を連れてくるなんて、おかしかねえか?」
「そう言われればそうかも知れませんな。ですが、テオドラとクリスチーヌには深い関わりがあったのですよ」
「深い関わり?」
「ええ。と言っても、私も先代から聞かされただけで詳しく知っているわけではないのですがね。実は、一〇代の頃のテオドラはクリスチーヌの親友であり、ライバルでもあったのですよ」
「親友であり、ライバル?」
「はい。ふたりは同期でしてね。同じ年に同じ年齢でこの劇場に入り、互いに競いながら劇場を支えていたそうです。それだけに、クリスチーヌの失踪はテオドラにとってもショックだったのでしょうな。その後ほどなくして本人も人気絶頂だったというのに現役を退き、講師の座に就いたのです。そんなテオドラであれば、あるいはクリスチーヌ失踪の真相を知っていて、いつか、その子孫をオペラ座ノワールに戻そうとしていた……などと言うことがあってもおかしくはないと思いますがね」
「ふむ……」
「それに……」
「それに?」
「私からは何とも言えませんが、当時を知るお客さまの言われることにはクリスは本当にクリスチーヌに生き写しだそうですよ。ひ孫どころの話じゃない。本人だとしか思えない。そう言われるお客さままでいるぐらいです」
まあ、七〇年以上も昔のこと。どこまで信じていいのかは分かりませんけどね。
モンシャルマンはそう付け加えました。
「ああ、そうそう。クリスチーヌのことを詳しく知りたいならエイリークに聞くのがよろしいでしょう」
「エイリーク?」
「当劇場一番の古株ですよ。舞台演出の絡繰り部門の、まあ、総大将と言ったところですかな。クリスチーヌとテオドラが入ってきた頃にはま一〇代の見習いで、歳が近いこともあって、ふたりとはとくに仲良くしていたそうですから」
「なるほど。そのエイリークってじいさん――だと思うが――には、すぐに会えるのか?」
『じいさん』という表現はいささか気になりますが……。
モンシャルマンはそう前置きしてから答えました。
「エイリークならいつでも作業室におります。そこに行けば会えるでしょう」
「そうか。それじゃあ、すぐに行ってみるとしよう。ありがとうよ、支配人さん。色々と参考になったぜ」
「どういたしまして。刑事さんも色々大変でしょうが頑張ってください」
ジャックは思わず目を見開きました。何しろ、市民からそのような激励などお世辞にも言われたことのない警察署長です。感激のあまり力の限り抱きついてしまいそうになりました。もし、そんなことをしていれば加減のできない暴れん坊ジャックのこと。親愛のハグはたちまちプロレス技のベアハッグとなり、背骨をへし折っていたことでしょう。
そうならずにすんだのはひとえにビリーのおかげです。相棒の脳筋単細胞ぶりを知り尽くしているかの人が抜く手も見せずに注射器を取り出し、首筋に鎮静剤を打ち込んだのでございます。そのおかげでジャックは、市民に大怪我をさせるという不名誉を背負い込まなくてすんだのでした。
何とも言えない奇妙な表情で名刺を眺め、縦にしたり、横にしたり、上に向けて灯に空かしてみたり。まるで、隠された秘密の暗号が記されていて、その暗号を見つけ出そうとしている、と言った様子なのでありました。
散々、名刺を見つめた支配人はやがて、呟きました。
「警察ねえ。この霧と怪奇の都にもまだ、警察なんてものがあったんだなあ」
それは完全な独り言であり、純粋な感想であって、なんら悪意のあるものではありませんでした。それでも、以前のジャックであればその一言だけで激昂し、唾を吐き散らしながら怒鳴っていたことでありましょう。
「あいにくだったな! どんな世になろうと警察は健在なんだよ!」と。
ですが、さしもの暴れん坊ジャックもこの頃にはすでにこの手の反応には慣れておりました。というより、慣れざるを得なかったのです。何と言っても霧と怪奇の都は死刑権解放同盟の都市。警察の存在を覚えている市民の方が圧倒的少数派なのですから。ですから、ジャックは唾を吐き散らして怒鳴ったりはしませんでした。ただ、指をボキボキと鳴らしながら『ああ、あいにくとまだ健在なんだよ。法を破るやつは容赦しねえ』と、軽く脅しただけだったのです。その態度を見たビリーはメガネの奥の大きな目を、さらに大きく見開いて言ったものでありました。
「何とおとなになったことか! 君も成長したものだなあ」
ともあれ、公権力の強みを存分に生かしてオペラ座ノワールの支配人と強引に面談したジャックは用件を切り出したのです。新進気鋭の歌姫クリスとはいったい、何者なのか、と。
「さて、何者と言われても……」と、オペラ座ノワールの支配人・モンシャルマンは戸惑った様子で答えました。
と言うより、質問の意図を計りかねていた、と言うことなのでしょう。支配人として、所属する歌姫一人ひとりが『何者か』などとは考えたこともないのですから。モンシャルマンはその思いを率直に口にしました。
「質問の意味が分かりかねますな、刑事さん。『何者』とはどういう意味です? クリスは当劇場に所属する歌姫のひとりであり、それ以上でも、それ以下でもありませんが?」
「そう言うことじゃなくてよ。クリス嬢はここに来る前はどこで、どんな生活をしていたのか。家族はいるのか。いるとしたら構成は、とか、そう言うことを聞きたいわけさ」
「さて、そう言われましても……」と、モンシャルマンはさらに戸惑った様子で答えました。何気ない会話ではありましたがこれは実は大変なことであったのです。霧と怪奇の都の市民が警察を邪魔者扱いしない、それどころか敬語を使って話している! これはまったくめずらしいことでありました。
この霧の怪奇の都でそんな態度を取るのは、死刑権解放同盟に反対するごく少数の変わり者か、さもなければ、誰に対しても分け隔てなく礼儀正しく振る舞う根っからの聖人ぐらいのもの。
実はモンシャルマンとは後者の代表とも言うべき人物でありました。支配人の身でありながら劇場の一番下っ端の雑用係の少年に対してさえ、きちんと敬意を払い、その仕事の価値をを認め、敬語を使って話す人物だとして劇場中の人物から好かれていた御仁なのでありました。
そんな人物でありましたから、ジャックの横暴とも言えるぐらい強引な面談と質問に対してもいやな表情ひとつ見せず、穏やかに語りました。
「実は私もそのことについては何も知らんのですよ」
「知らない? 支配人のあんたがか?」
「ええ。もちろん、普通ならそんなことはありえません。当劇場に所属する人員は――例え、それが見習い待遇の雑用係であれ――きちんと調査をし、身元を確かめてから採用するかどうかを決めます」
何しろ、この都市の誇りたる大劇場ですからな。その構成員は末端に至るまでそのステータスにふさわしい人物でなければなりません。
そのモンシャルマンの言葉はたしかに『傲慢だ!』と非難されても致し方のないものであったでしょう。しかし、それは確かに、劇場の価値に対する限りない誇りと、その価値を守っていこうという高潔なまでの使命感の表れだったのです。
モンシャルマンはつづけました。
「ただ、クリスだけは特別なのです。何しろ、ある日突然、テオドラ――当劇場の主任講師――が連れてきたものですから」
「テオドラって言うと、あれだよな? やたら厳しそうな八〇過ぎのばあさんの……」
「はい」と、モンシャルマンはうなずいたものの、ジャックの無礼を見過ごしはしませんでした。穏やかな口調で、しかし、断固として注意したのです。
「『八〇過ぎのばあさん』という表現はこの場合、不要でしょうな。人を年齢によって判別するなどマナーに違反する振る舞いですぞ」
そう指摘されてジャックは、テーブルマナーの悪さを指摘された田舎者のような表情をしたものでございます。
「そいつは失礼したな。まあ、たしかに年齢なんざどうでもいい。おれが知りたいのは、そのテオドラがクリス嬢を連れてきたときのことだ。クリス嬢について何を言っていたか教えちゃくれねえか?」
「教えろと言われましても……いったい、何を知りたいと言うのですか?」
「だから、さっきも言ったろ。ここに来る前はどこでどうしていたのか、とか、家族はいるのか、とか、まあ、そんなことさ」
「さて。困りましたな。実はその当たりのことはまるで聞いておらんのですよ」
「聞いていない?」と、ジャックは眉をひそめました。
「はい。不審がるのもごもっともでしょうな。当劇場で雇うのに前歴を聞いてもいないなど。しかし、何と言ってもあのテオドラの紹介。何十年にもわたって当劇場のために尽力し、多くの歌姫、踊り子たちを育て上げ、多大な貢献を成してきた主任講師が見込んだ逸材となれば、前歴など気にするまでもありません。テオドラに言われるままに即座に登録しましたよ。ただ……」
「ただ?」
「これだけは言っておりましたな。『クリスはクリスチーヌのひ孫だ』と」
「クリスチーヌ……。確か、大昔の歌姫なんだよな?」
「おお、ご存じでしたか」
モンシャルマンの表情が一転して喜びに輝いたのは、ジャックが七〇年以上も前に活躍した歌姫のことを知っているとあって『見た目のがさつさとは裏腹に、なかなかどうして芸術を愛する心をもった御仁ではないか』と、見直したからでございます。もちろん、それは単なる勘違い。ジャックが仕事以外でオペラなどを鑑賞しようとすれば、ものの五分もたたずにいびきをかいて寝入ってしまう人物であることを知れば、さぞかし失望したことでございましょう。
しかし、この場ではジャックの本性を知ることなど叶いません。ですから、モンシャルマンはその誤解を抱いたままでした。それは双方にとって幸運なことであったでしょう、おそらく。
モンシャルマンは軽く両目を閉じ、過去を懐かしむかのように語り出しました。
「そう。クリスチーヌはかつての……お若いあなた方にとってはたしかに『大昔の人物』と言っていいでしょうな。何しろ、私にとっても自分の生まれる二〇年も前の人物ですからな。ですが、かの人のことは前の支配人からよく聞いております。
伝説の歌姫・クリスチーヌ。その歌声は聞く者を天界へと誘う天上の鐘のごとく。その舞は人を魅了し、水中に引きずり込む人魚のごとく。わずか一五歳にしてそこまで称されるほどの天才的な歌姫であったそうです。その人気はとどまるところを知らず、劇場は常に長蛇の列。やがては、この霧と怪奇の都のみならず世界でも最高峰の歌姫になると期待、いえ、確信されていたそうです。ですが、七〇年以上前のことです。人気絶頂のまま、姿をくらましてしまい、いまにいたるまで行方不明のままで……」
「姿をくらました? 何でまた?」
「さて。それは私には分かりかねます。何しろ、私の生まれる二〇年から前のことですからな」」
「しかし、そんな大スターが行方不明になったなら騒ぎになったはずだ。捜索だってされただろう。なのに、見つからなかったのか?」
モンシャルマンはいかにも『善人』と言った様子で、表情を曇らせました。
「……刑事さん。現役の警察の方の前でこう申し上げるのは心苦しいのですが、『捜索された』というのはどうでしょう。何しろ、当時からこの霧と怪奇の都は死刑権解放同盟の支配下にあり、警察はすでに死に体だったわけですから」
言われてジャックは思い切り顔をしかめました。その表情を見て自分こそが傷ついたような表情を浮かべた当たり、モンシャルマンは本当に善良な人物なのでありました。
「……まあ、捜索されたかどうかはあとで調べればいい。いまはとにかく、あんたの知っていることを教えてくれ。そのクリスチーヌって言うスターは結局、どうなったんだ?」
「ですからいまにいたるまで行方不明のまま。それで終わりですよ」
「ついに発見されなかったわけか」
私の知る限りは、ですが」と、モンシャルマンは念を押すことを忘れませんでした。
「ふむ。それで一年前……でよかったのかな? テオドラがクリス嬢を連れてきたのは」
「ええ。より正確に言うなら一年と四五日前と言ったところですね」
「一年と四五日前、突然、失踪したかつての大スターのひ孫とやらを連れてきたわけだ。そいつは確かなことなのか? クリス嬢がその、かつての大スターのひ孫だってのは?」
「さて。そう言われますと、とくに証拠があるわけでもありません。ただ、私はテオドラを信頼しております。テオドラがそう言うならそうだろうと思っておりますよ」
「しかし、七〇年以上も行方知れずだったんだろう。それがいまになって急にひ孫を連れてくるなんて、おかしかねえか?」
「そう言われればそうかも知れませんな。ですが、テオドラとクリスチーヌには深い関わりがあったのですよ」
「深い関わり?」
「ええ。と言っても、私も先代から聞かされただけで詳しく知っているわけではないのですがね。実は、一〇代の頃のテオドラはクリスチーヌの親友であり、ライバルでもあったのですよ」
「親友であり、ライバル?」
「はい。ふたりは同期でしてね。同じ年に同じ年齢でこの劇場に入り、互いに競いながら劇場を支えていたそうです。それだけに、クリスチーヌの失踪はテオドラにとってもショックだったのでしょうな。その後ほどなくして本人も人気絶頂だったというのに現役を退き、講師の座に就いたのです。そんなテオドラであれば、あるいはクリスチーヌ失踪の真相を知っていて、いつか、その子孫をオペラ座ノワールに戻そうとしていた……などと言うことがあってもおかしくはないと思いますがね」
「ふむ……」
「それに……」
「それに?」
「私からは何とも言えませんが、当時を知るお客さまの言われることにはクリスは本当にクリスチーヌに生き写しだそうですよ。ひ孫どころの話じゃない。本人だとしか思えない。そう言われるお客さままでいるぐらいです」
まあ、七〇年以上も昔のこと。どこまで信じていいのかは分かりませんけどね。
モンシャルマンはそう付け加えました。
「ああ、そうそう。クリスチーヌのことを詳しく知りたいならエイリークに聞くのがよろしいでしょう」
「エイリーク?」
「当劇場一番の古株ですよ。舞台演出の絡繰り部門の、まあ、総大将と言ったところですかな。クリスチーヌとテオドラが入ってきた頃にはま一〇代の見習いで、歳が近いこともあって、ふたりとはとくに仲良くしていたそうですから」
「なるほど。そのエイリークってじいさん――だと思うが――には、すぐに会えるのか?」
『じいさん』という表現はいささか気になりますが……。
モンシャルマンはそう前置きしてから答えました。
「エイリークならいつでも作業室におります。そこに行けば会えるでしょう」
「そうか。それじゃあ、すぐに行ってみるとしよう。ありがとうよ、支配人さん。色々と参考になったぜ」
「どういたしまして。刑事さんも色々大変でしょうが頑張ってください」
ジャックは思わず目を見開きました。何しろ、市民からそのような激励などお世辞にも言われたことのない警察署長です。感激のあまり力の限り抱きついてしまいそうになりました。もし、そんなことをしていれば加減のできない暴れん坊ジャックのこと。親愛のハグはたちまちプロレス技のベアハッグとなり、背骨をへし折っていたことでしょう。
そうならずにすんだのはひとえにビリーのおかげです。相棒の脳筋単細胞ぶりを知り尽くしているかの人が抜く手も見せずに注射器を取り出し、首筋に鎮静剤を打ち込んだのでございます。そのおかげでジャックは、市民に大怪我をさせるという不名誉を背負い込まなくてすんだのでした。
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