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三章
歌姫は人魚姫に恋をする
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その同じ頃、都市の闇のなかをひとりの男が歩いておりました。
歳の頃は二〇代前半。鋼のように強靱な一八〇センチ以上の長身を、なんとも時代がかったヴィクトリア朝英国風のスーツに包み、トレードマークの帽子をかぶった男。暴れん坊ジャックこと、霧と怪奇の都警察署長たるジャック・ロウでありました。
日課である市内のパトロール中のこと、ジャックは大きなくしゃみをひとつすると、右手の人差し指で鼻をこすりながら、忌々しそうに呟きました。
「うっ~、やっと、主人公の登場だぜ。まったく、世話が焼けるったらありゃしねえ」
そんな意味不明の呟きを漏らしたときのことでございます。研ぎ澄まされた刑事の耳がその音を聞き取ったのは。
それは水音。何か大きくて重いものを勢いよく水に叩き込んだときの、水の跳ねる音でありました。
決して大きな音ではありませんでした。むしろ、『かすかな』と言った方がいいぐらいの音量でありました。正確に言うと『本来は大きな音なのに、距離があるのでかすかな音にしか聞こえない』という、そんな音でありました。
実際、並の人間ならば聞き逃していたことでありましょう。しかし、ジャックは刑事であり、生まれついての猟犬でありました。その耳は異変の音を聞き逃すことはなく、その勘は事件の予兆を見逃すことはございません。その音を聞いた途端、ジャックは電流に打たれた自動人形のような勢いで走り出しました。
「チイッ! 誰か川に落とされたか、それとも、自殺でもしやがったか」
どちらにせよ放っておくことなどできるはずもございません。
――市民を守るのは警察の仕事。
それこそが市警察署長、暴れん坊ジャックの揺らぐことのない信念。いかに霧と怪奇の都が死刑権解放同盟の都市であり、死刑権が万人に解放された権利として認められていようとも、そのことによってジャックの行動が掣肘をうけることはないのです。
ジャックは水音のした現場に向かって全速力で駆けつづけました。オリンピックの代表選手でさえかくやというほどの驚異的なスピードとスタミナ。陸上競技のコーチが見れば一目で惚れ込み、熱烈にスカウトする、そんな姿でありました。
複雑に入り組んだ都市の道をしかし、ジャックはためらうことなく走りつづけます。迷う心配などありませんでした。訓練された猟犬が獲物の居場所を間違えるはずがないように、ジャックもまた事件の現場を間違えることなど有り得なかったのです。
走る、
走る、
走りつづける。
都市の闇のなかを人の姿のハウンドドッグが駆け抜けます。
ジャックは音のした現場へとたどり着きました。いまだ水面のざわめきの消えやらぬ川辺へと。そして、見たのです。その川の中央、現れては消える波紋をかきたてて、もがき苦しむ人の姿を。
――人が溺れてるっ! 若い女だ!
ジャックはそう直感しました。その人物との間はまだかなりの距離がありました。しかも、闇に包まれた真夜中のことでございます。どんなに目の良い人間でもせいぜいシルエットしか見ることはできず、年齢や、まして性別など分かるはずもございません。普通なら。しかし、ジャックの感覚は普通ではありませんでした。鍛えぬかれた刑事の勘はそこにいる人物が若い女性であることを見抜いていたのです。
ジャックはもちろん、ためらいませんでした。その人物が何者で、なぜ、こんな時間に、こんなところで溺れる羽目になったのか。そんなことはジャックにはどうでもいいことでございました。ジャックにとって重要なのはただ一点。
――市民を守るのは警察の仕事だ。
と言う、ただそれだけでありました。
ジャックはかの人の唯一の贅沢品とも言うべきヴィクトリア朝英国風スーツの上着を脱ぎ捨てると、勢いよく川に飛び込みました。上着は脱ぎ捨ててもトレードマークである帽子だけはしっかりとかぶっているのがなんともジャックらしいところ。生まれついての猟犬は、今度は水泳のコーチが涎を垂れ流して欲しがるダイナミックな泳ぎを披露して謎の人物のもとへと向かいました。
「ふんばれっ! すぐ行くぞ!」
叫びながら水をかく力感に満ちたその姿。オリンピックの金メダリストでさえ、敗北感に打ちのめされたことでしょう。『市民を守る』という、刑事としての使命感によって強化されたジャックの身体能力の前では人類最高峰のアスリートと言えど顔色ないのでした。
ジャックはグングン謎の人物に近づきます。その謎の人物もまた、尋常ならざる体力の持ち主のようでした。水に落ちてからすでにかなりの時間が立っているはずなのに水面でもがくことを決してやめず、水に沈むことはありませんでした。
――よし、その調子だ。ふんばれっ! もうじき助けてやるからな。
謎の人物の奮闘がジャックの刑事魂にさらなる火を付けました。ジャックはさらに加速して謎の人物のもとに向かいます。やがて、『手を伸ばせば届く』という所まで近づきました。
「おい、無事か⁉ よくふんばった。さあ、つかまれ」
ジャックは必死に腕を伸ばします。すると、
「えっ?」
美しい少女の顔が不思議そうにジャックを見つめておりました。
「えっ?」
ジャックは思わず問い返しました。溺れていたはずの少女はさも不思議そうに尋ねます。
「どうしたんです、いったい?」
「どうって……あんたが溺れていたから助けに……」
「溺れて?」
少女は小首をかしげて不思議がります。その様子を見てジャックはようやく気がつきました。少女が一切動くことなくその場に立っていることを。そして、自分の足がしっかりと川底を踏みしめていることを。
ジャックはマジマジと少女を見つめ、少女はさも不思議そうにジャックを見返します。
そこはジャックの腰ほどしかない浅い川なのでありました。
「ふふ。ごめんなさい。勘違いさせてしまったようですね」
ふたり並んで岸に上がると、少女はすっかり水に濡れて重くなった髪を絞りながらそう言いました。そう言ったときのかすかな笑顔がとても魅力的で、ジャックは年甲斐もなくドギマギしてしまったほどでした。
「あ、あ~、いや、市民を守るのは警察の仕事であるからして……」
「警察?」と、少女は小首をかしげて尋ねます。『わざとやっているのか』と疑いたくなるほどの小悪魔の仕種。もし、わざとでないなら、それこそ生まれついての魔性と言える存在であったでしょう。
ジャックはトレードマークの帽子を胸に掲げ、背筋を伸ばし、『これぞ紳士!』と自らが信じる姿勢で名乗りました。
「霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウです」
「ジャック・ロウ……まあ、あなたが」
少女は驚きのあまり、目を見張りました。そんな表情がまたとてつもなく愛らしく、ジャックは心臓を捕まれそうになりました。
「私をご存じなので?」
ジャックはようやくそう尋ねました。少女はうなずきました。
「ええ。有名ですもの。霧と怪奇の都名物、暴れん坊ジャック。とってもやんちゃな方だと聞いています」
「やんちゃとは失敬な。刑事としての職務を果たしているだけです」
「ふふ。ごめんなさい」
少女はおかしそうに笑います。その笑顔にジャックは体温が上がるのを感じました。
「ところで……その、あなたは?」
ジャックに問われて少女はハッとした表情になりました。あわてて名乗りました。
「あ、ごめんなさい。うっかりしてました。あたしはクリス。オベラ座ノワールの歌姫です」
と言っても、まだまだ駆け出しですけど。
少女――クリス嬢はそう付け加えました。
「オペラ座ノワール。その名は知っています」
知っていると言うだけで一度も訪れたことはないのに、せいぜい格好付けて語るジャックでありました。
「霧と怪奇の都随一の劇場でしたな。しかし……失礼ですが、あなたはずいぶんとお若く見えますが幾つなのです?」
「一七です」
「一七……。その若さで最高峰の劇場に所属するとは、いや、大したものだ」
ジャックに言われてクリス嬢は困ったような、曖昧な微笑を浮かべました。
「……いえ、たまたまある人に見出してもらえて」
「しかし、そのオペラ座ノワールの歌姫ともあろう方が、こんな時間に、こんな川のなかで何をしていたのです?」
「それは……」
ジャックに言われてクリス嬢は恥ずかしそうに身をちぢ込ませました。その仕種がまた、男性であれば『キュン!』とならざるを得ないようなものでして、ジャックもまた例外ではなかったのでございます。
「実はその……あたしは舞台で人魚姫を演じるのが夢で」
「人魚姫?」
「はい。ご存じでしょう? アンデルセン童話の。人魚姫を演じるときのことをあれこれ思い描いていたら川の音が聞こえてきたものですから……いても立ってもいられなくなって水のなかで稽古してしまっていたんです」
ごめんなさい、お騒がせして。
そう小さく詫びるクリス嬢でした
「なるほど。そうでしたか。思わず稽古してしまうとはまさに役者の鑑。大したものです。ですが、気持ちは分かりますよ。『人魚姫』と言えば世界的に有名な悲恋物語ですからね」
自分だってそれぐらいは知っている。
ジャックはそう言いたげに胸を張りました。
ジャックにしてみればそう言ったのは好意の表明というものでありました。ですが、意外なことにクリス嬢は気分を害したようでした。キッとジャックを睨み付けるとキッパリとした口調で言ったものでございます。
「ちがいます。『人魚姫』は悲恋物語なんかじゃありません」
「悲恋物語じゃない?」
「はい。『人魚姫』は『玉の輿狙いで都会に出た娘が自分の足で歩きだすまでの物語』なんです」
「はい?」
「みんな、誤解していますけどね。人魚姫は王子に恋して地上に出たんじゃないんです」
「ちがうんですか?」
「はい」
「王子に恋して地上に出たって聞いていましたけどね。では、何で地上に上がったんです?」
「魂を手に入れるためです」
「魂?」
「はい。人魚は三〇〇年の寿命を持っています。でも、人間とちがい、魂をもたない。人魚姫はそれが悲しかった。魂を手に入れたかった。そして、聞いたんです。『人間に愛されれば魂を得ることができる』と。だから、人魚姫は人間の愛を得るために地上に上がったんです」
「しかし、結局、その愛とやらは得られずに死んだ。目当ての王子にフラれて、海の泡となって消えた。立派な悲恋物語だと思うけど」
「ちがいますよ」
「ちがう?」
「はい。海の泡になったのは確かですけどね。でも、人魚姫はそこで死んだんじゃないんです。『空気の娘』に転生したんです」
「空気の娘? なんだ、そりゃ?」
「その名の通り、空気を司る娘です。空気の妖精と言えば近いですかね。暑い地方で人間たちを冷やすために冷たい空気を送るのが仕事です。この空気の娘も魂を持っていません。ですが、二〇〇年間その仕事に励むことで魂を得ることができるんです」
「二〇〇年⁉ 二〇〇年も働けってのか?」
「はい」
「そりゃまたひどいノルマだな。ブラック企業としてしょっ引いてやりたいぐらいだ」
「でも、人魚姫は空気の娘に転生することで、自分の力で、自分の働きで、魂を手に入れられるようになったんです。それがどういうことか分かりますか?」
「いや……」
「人魚姫は最初は王子さまに愛されることで魂を手に入れようとした。でも、最後には自分の力で魂を手に入れる道を選んだんです。『玉の輿狙いの田舎娘が自分の足で歩きだすまでの物語』というのはそう言う意味です」
「はあ、なるほど」
「あたしは思うんです。人魚姫が王子を殺さなかったのは愛していたからじゃない。愛していなかったからだって。普通は人魚姫は愛していたから王子を殺せなかったと言われますよね。でも、ちがう。そうじゃない。あたしはそう思うんです。愛している相手なら他人に渡さないために殺すこともできるでしょう。でも、愛していない相手なら? 自分のために殺すことが出来ますか?」
「……いや、そりゃまあ、無理だろうな」
「でしょう? 王子を殺すかどうか。その選択を迫られたとき、人魚姫は気付いたんです。自分は王子を愛していない。愛してもいない王子を自分のために殺すことはできない。だから、王子を殺すことなく泡になった。そして、空気の娘へと転生した。
自分は王子を愛してはいない。
そう自覚したとき、人魚姫は他人の力で引き立ててもらうんじゃない。自分の力で望むものを手にれることを誓った。あたしはそう思うんです。
だからこそ、あたしは人魚姫に憧れた。人魚姫を演じたいと思った。そして、誓ったんです。他人に引き立ててもらうんじゃない。自分の力で、自分の足で、望むものを手に入れよう、と」
歳の頃は二〇代前半。鋼のように強靱な一八〇センチ以上の長身を、なんとも時代がかったヴィクトリア朝英国風のスーツに包み、トレードマークの帽子をかぶった男。暴れん坊ジャックこと、霧と怪奇の都警察署長たるジャック・ロウでありました。
日課である市内のパトロール中のこと、ジャックは大きなくしゃみをひとつすると、右手の人差し指で鼻をこすりながら、忌々しそうに呟きました。
「うっ~、やっと、主人公の登場だぜ。まったく、世話が焼けるったらありゃしねえ」
そんな意味不明の呟きを漏らしたときのことでございます。研ぎ澄まされた刑事の耳がその音を聞き取ったのは。
それは水音。何か大きくて重いものを勢いよく水に叩き込んだときの、水の跳ねる音でありました。
決して大きな音ではありませんでした。むしろ、『かすかな』と言った方がいいぐらいの音量でありました。正確に言うと『本来は大きな音なのに、距離があるのでかすかな音にしか聞こえない』という、そんな音でありました。
実際、並の人間ならば聞き逃していたことでありましょう。しかし、ジャックは刑事であり、生まれついての猟犬でありました。その耳は異変の音を聞き逃すことはなく、その勘は事件の予兆を見逃すことはございません。その音を聞いた途端、ジャックは電流に打たれた自動人形のような勢いで走り出しました。
「チイッ! 誰か川に落とされたか、それとも、自殺でもしやがったか」
どちらにせよ放っておくことなどできるはずもございません。
――市民を守るのは警察の仕事。
それこそが市警察署長、暴れん坊ジャックの揺らぐことのない信念。いかに霧と怪奇の都が死刑権解放同盟の都市であり、死刑権が万人に解放された権利として認められていようとも、そのことによってジャックの行動が掣肘をうけることはないのです。
ジャックは水音のした現場に向かって全速力で駆けつづけました。オリンピックの代表選手でさえかくやというほどの驚異的なスピードとスタミナ。陸上競技のコーチが見れば一目で惚れ込み、熱烈にスカウトする、そんな姿でありました。
複雑に入り組んだ都市の道をしかし、ジャックはためらうことなく走りつづけます。迷う心配などありませんでした。訓練された猟犬が獲物の居場所を間違えるはずがないように、ジャックもまた事件の現場を間違えることなど有り得なかったのです。
走る、
走る、
走りつづける。
都市の闇のなかを人の姿のハウンドドッグが駆け抜けます。
ジャックは音のした現場へとたどり着きました。いまだ水面のざわめきの消えやらぬ川辺へと。そして、見たのです。その川の中央、現れては消える波紋をかきたてて、もがき苦しむ人の姿を。
――人が溺れてるっ! 若い女だ!
ジャックはそう直感しました。その人物との間はまだかなりの距離がありました。しかも、闇に包まれた真夜中のことでございます。どんなに目の良い人間でもせいぜいシルエットしか見ることはできず、年齢や、まして性別など分かるはずもございません。普通なら。しかし、ジャックの感覚は普通ではありませんでした。鍛えぬかれた刑事の勘はそこにいる人物が若い女性であることを見抜いていたのです。
ジャックはもちろん、ためらいませんでした。その人物が何者で、なぜ、こんな時間に、こんなところで溺れる羽目になったのか。そんなことはジャックにはどうでもいいことでございました。ジャックにとって重要なのはただ一点。
――市民を守るのは警察の仕事だ。
と言う、ただそれだけでありました。
ジャックはかの人の唯一の贅沢品とも言うべきヴィクトリア朝英国風スーツの上着を脱ぎ捨てると、勢いよく川に飛び込みました。上着は脱ぎ捨ててもトレードマークである帽子だけはしっかりとかぶっているのがなんともジャックらしいところ。生まれついての猟犬は、今度は水泳のコーチが涎を垂れ流して欲しがるダイナミックな泳ぎを披露して謎の人物のもとへと向かいました。
「ふんばれっ! すぐ行くぞ!」
叫びながら水をかく力感に満ちたその姿。オリンピックの金メダリストでさえ、敗北感に打ちのめされたことでしょう。『市民を守る』という、刑事としての使命感によって強化されたジャックの身体能力の前では人類最高峰のアスリートと言えど顔色ないのでした。
ジャックはグングン謎の人物に近づきます。その謎の人物もまた、尋常ならざる体力の持ち主のようでした。水に落ちてからすでにかなりの時間が立っているはずなのに水面でもがくことを決してやめず、水に沈むことはありませんでした。
――よし、その調子だ。ふんばれっ! もうじき助けてやるからな。
謎の人物の奮闘がジャックの刑事魂にさらなる火を付けました。ジャックはさらに加速して謎の人物のもとに向かいます。やがて、『手を伸ばせば届く』という所まで近づきました。
「おい、無事か⁉ よくふんばった。さあ、つかまれ」
ジャックは必死に腕を伸ばします。すると、
「えっ?」
美しい少女の顔が不思議そうにジャックを見つめておりました。
「えっ?」
ジャックは思わず問い返しました。溺れていたはずの少女はさも不思議そうに尋ねます。
「どうしたんです、いったい?」
「どうって……あんたが溺れていたから助けに……」
「溺れて?」
少女は小首をかしげて不思議がります。その様子を見てジャックはようやく気がつきました。少女が一切動くことなくその場に立っていることを。そして、自分の足がしっかりと川底を踏みしめていることを。
ジャックはマジマジと少女を見つめ、少女はさも不思議そうにジャックを見返します。
そこはジャックの腰ほどしかない浅い川なのでありました。
「ふふ。ごめんなさい。勘違いさせてしまったようですね」
ふたり並んで岸に上がると、少女はすっかり水に濡れて重くなった髪を絞りながらそう言いました。そう言ったときのかすかな笑顔がとても魅力的で、ジャックは年甲斐もなくドギマギしてしまったほどでした。
「あ、あ~、いや、市民を守るのは警察の仕事であるからして……」
「警察?」と、少女は小首をかしげて尋ねます。『わざとやっているのか』と疑いたくなるほどの小悪魔の仕種。もし、わざとでないなら、それこそ生まれついての魔性と言える存在であったでしょう。
ジャックはトレードマークの帽子を胸に掲げ、背筋を伸ばし、『これぞ紳士!』と自らが信じる姿勢で名乗りました。
「霧と怪奇の都警察署長ジャック・ロウです」
「ジャック・ロウ……まあ、あなたが」
少女は驚きのあまり、目を見張りました。そんな表情がまたとてつもなく愛らしく、ジャックは心臓を捕まれそうになりました。
「私をご存じなので?」
ジャックはようやくそう尋ねました。少女はうなずきました。
「ええ。有名ですもの。霧と怪奇の都名物、暴れん坊ジャック。とってもやんちゃな方だと聞いています」
「やんちゃとは失敬な。刑事としての職務を果たしているだけです」
「ふふ。ごめんなさい」
少女はおかしそうに笑います。その笑顔にジャックは体温が上がるのを感じました。
「ところで……その、あなたは?」
ジャックに問われて少女はハッとした表情になりました。あわてて名乗りました。
「あ、ごめんなさい。うっかりしてました。あたしはクリス。オベラ座ノワールの歌姫です」
と言っても、まだまだ駆け出しですけど。
少女――クリス嬢はそう付け加えました。
「オペラ座ノワール。その名は知っています」
知っていると言うだけで一度も訪れたことはないのに、せいぜい格好付けて語るジャックでありました。
「霧と怪奇の都随一の劇場でしたな。しかし……失礼ですが、あなたはずいぶんとお若く見えますが幾つなのです?」
「一七です」
「一七……。その若さで最高峰の劇場に所属するとは、いや、大したものだ」
ジャックに言われてクリス嬢は困ったような、曖昧な微笑を浮かべました。
「……いえ、たまたまある人に見出してもらえて」
「しかし、そのオペラ座ノワールの歌姫ともあろう方が、こんな時間に、こんな川のなかで何をしていたのです?」
「それは……」
ジャックに言われてクリス嬢は恥ずかしそうに身をちぢ込ませました。その仕種がまた、男性であれば『キュン!』とならざるを得ないようなものでして、ジャックもまた例外ではなかったのでございます。
「実はその……あたしは舞台で人魚姫を演じるのが夢で」
「人魚姫?」
「はい。ご存じでしょう? アンデルセン童話の。人魚姫を演じるときのことをあれこれ思い描いていたら川の音が聞こえてきたものですから……いても立ってもいられなくなって水のなかで稽古してしまっていたんです」
ごめんなさい、お騒がせして。
そう小さく詫びるクリス嬢でした
「なるほど。そうでしたか。思わず稽古してしまうとはまさに役者の鑑。大したものです。ですが、気持ちは分かりますよ。『人魚姫』と言えば世界的に有名な悲恋物語ですからね」
自分だってそれぐらいは知っている。
ジャックはそう言いたげに胸を張りました。
ジャックにしてみればそう言ったのは好意の表明というものでありました。ですが、意外なことにクリス嬢は気分を害したようでした。キッとジャックを睨み付けるとキッパリとした口調で言ったものでございます。
「ちがいます。『人魚姫』は悲恋物語なんかじゃありません」
「悲恋物語じゃない?」
「はい。『人魚姫』は『玉の輿狙いで都会に出た娘が自分の足で歩きだすまでの物語』なんです」
「はい?」
「みんな、誤解していますけどね。人魚姫は王子に恋して地上に出たんじゃないんです」
「ちがうんですか?」
「はい」
「王子に恋して地上に出たって聞いていましたけどね。では、何で地上に上がったんです?」
「魂を手に入れるためです」
「魂?」
「はい。人魚は三〇〇年の寿命を持っています。でも、人間とちがい、魂をもたない。人魚姫はそれが悲しかった。魂を手に入れたかった。そして、聞いたんです。『人間に愛されれば魂を得ることができる』と。だから、人魚姫は人間の愛を得るために地上に上がったんです」
「しかし、結局、その愛とやらは得られずに死んだ。目当ての王子にフラれて、海の泡となって消えた。立派な悲恋物語だと思うけど」
「ちがいますよ」
「ちがう?」
「はい。海の泡になったのは確かですけどね。でも、人魚姫はそこで死んだんじゃないんです。『空気の娘』に転生したんです」
「空気の娘? なんだ、そりゃ?」
「その名の通り、空気を司る娘です。空気の妖精と言えば近いですかね。暑い地方で人間たちを冷やすために冷たい空気を送るのが仕事です。この空気の娘も魂を持っていません。ですが、二〇〇年間その仕事に励むことで魂を得ることができるんです」
「二〇〇年⁉ 二〇〇年も働けってのか?」
「はい」
「そりゃまたひどいノルマだな。ブラック企業としてしょっ引いてやりたいぐらいだ」
「でも、人魚姫は空気の娘に転生することで、自分の力で、自分の働きで、魂を手に入れられるようになったんです。それがどういうことか分かりますか?」
「いや……」
「人魚姫は最初は王子さまに愛されることで魂を手に入れようとした。でも、最後には自分の力で魂を手に入れる道を選んだんです。『玉の輿狙いの田舎娘が自分の足で歩きだすまでの物語』というのはそう言う意味です」
「はあ、なるほど」
「あたしは思うんです。人魚姫が王子を殺さなかったのは愛していたからじゃない。愛していなかったからだって。普通は人魚姫は愛していたから王子を殺せなかったと言われますよね。でも、ちがう。そうじゃない。あたしはそう思うんです。愛している相手なら他人に渡さないために殺すこともできるでしょう。でも、愛していない相手なら? 自分のために殺すことが出来ますか?」
「……いや、そりゃまあ、無理だろうな」
「でしょう? 王子を殺すかどうか。その選択を迫られたとき、人魚姫は気付いたんです。自分は王子を愛していない。愛してもいない王子を自分のために殺すことはできない。だから、王子を殺すことなく泡になった。そして、空気の娘へと転生した。
自分は王子を愛してはいない。
そう自覚したとき、人魚姫は他人の力で引き立ててもらうんじゃない。自分の力で望むものを手にれることを誓った。あたしはそう思うんです。
だからこそ、あたしは人魚姫に憧れた。人魚姫を演じたいと思った。そして、誓ったんです。他人に引き立ててもらうんじゃない。自分の力で、自分の足で、望むものを手に入れよう、と」
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