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六章 樹の畑にて

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 「うわあっ!」
 笑苗えなは思わず声をあげていた。
 いかにも古い民家と言った風情の平屋建ての一軒家。そのまわりに畑と田んぼが広がっている。畑にはあちこち三メートルほどの背丈の木が植わり、腰の高さほどの高さの畝が並んでいる。その畝の上に種々様々な野菜が育っている。さらに、畝と畝の間にはアーチ状の支柱が立てられ、その支柱に絡ませるようにしてツル性の植物が伸びている。
 田んぼにビッシリと稲が植わっているが、七月のいまはまだ穂はついていない。青々とした草姿を見せている。素人目には『米』とはわからないだろう。単なる『草ボウボウ』だ。しかし、秋になればこれが一面、黄金色の『米』にかわる。
 そこが、新道しんどういつきの住む家であり、かのの城とも言うべき田畑だった。
 はじめての場所だし、住所だけ聞いてもわからないだろうと言うことで学校前で待ち合わせ、ここまで連れてきてもらった。
 「すごいねえ。広くて、おっきくて、緑がいっぱい」
 笑苗えなは当たり前と言えば当たり前のことを口にした。
 畑なんて、小学校のときに体験学習で連れて行かれたとき以来。そのときに見た畑とはずいぶんと印象がちがうけど、なにしろ、家と家がぎっしり詰まった住宅地でしか暮らしたことのない身。広々とした田畑の風景はもうそれだけで圧倒されるものだった。
 「町のなかに、こんな広い畑の残っている場所があったのね」
 「まあ、日本なんて、昔は全国どこに行っても畑と田んぼだらけだったわけだから。町中でも、残っているところには意外と残っているよ。このあたりには他にも畑や果樹園がいくつかある。採り放題なんかもやってるしね」
 「へえ、そうなんだ」
 「まあ、せまい畑ではあるけどね」
 「せまい⁉ これで?」
 笑苗えなは驚いて叫んだ。笑苗えなの目にはだだっ広い緑の野にしか見えない。
 「一ヘクタール程度の小さな畑だ。海外の大農場と比べたら猫の額にもならない。まあ、日本の農地なんてこれぐらいか、もっとせまいところがほとんどだけどね。それでも、一ヘクタールあれば二〇人分ぐらいの食糧は生産できる」
 そう付け加えたあたりに『食糧のあるじ』としての誇りが滲み出ていた。
 いつき笑苗えなを連れて畑を突っ切り、家の方に向かった。
 「この家はじいさんの家だ。いまはおれひとりで住んでいる」
 「新道しんどうって、ひとり暮らしだったの」
 「ああ。父さんは農業は継がないと決めた時点で家を出たからな。いまでは母さんとふたりでアパート暮らしだ。おれは田畑を継ぐことにしたときからこの家に住んでいる。じいさんが死んでからはおれひとりだ」
 ひとりで住むにはちょっと広いけどね。
 いつきはそう付け加えた。
 ――いや、そう言う問題じゃないでしょ
 笑苗えなは内心、パニックになりながら心に叫んだ。
 ――ひとり暮らしなんて聞いてないわよ! 知っていれば、あたしの家に呼んでいたのに……。
 てっきり、両親と一緒に住んでいるものとばかり思っていた。だから、『料理を教えて!』と頼んだのだ。それが、ひとり暮らしだなんて……。
 いままで何人もの男子と付き合ってきたし、デート回数は数えきれない。でも、男子の家でふたりきりになったことはない。
 ――ひとり暮らしの家に女の子を呼ぶなんて……新道しんどうって実は、やり手だったの?
 そんなタイプとは思ってもいなかった。日頃の態度から奥手で純情なタイプだと思っていた。それなのに……。
 イメージとちがう姿を見せつけられたような気がして、心のなかに不安と警戒心が渦巻いた。ジトッと疑いの視線を向けてしまう。知らずしらず体が後ろにさがり、距離をとっていた。
 しかし、いつき笑苗えなを家のなかに誘おうとはしなかった。いつきが向かったのは家の側、簡単な屋根がかけられ、流しと棚があり、いくつかの食器類や調理器具が置かれた場所だった。
 「ここは?」
 「野外キッチン、と言ったところだな」
 「野外キッチン?」
 「そう。ほら。畑に囲まれて料理するなんて、なんだか開放感があっていいじゃないか。だから、作ったんだ。野外キッチンがあれば、やりたくなったときにはいつでも畑の野菜を採ってきてバーベキューなんてことも出来るからね」
 「な、なるほど。それはたしかに楽しそうね」
 笑苗えなは思わずうなずいた。
 畑から採ってきたばかりの新鮮野菜で、広々とした畑を見ながらバーベキューなんて想像するだけでもおいしそう。まさに、毎日がキャンプ状態。それに――。
 ――ここならまあ、ヤバい雰囲気にもならずにすむかな。
 そう思って、安心もした。
 なにしろ、見晴らしのいい野外キッチン。先祖代々の畑が残っているぐらいだからギチギチの住宅地、と言うわけではないが、それなりに家もあるし、畑の前には道路も通っている。車も通っていれば、人通りもある。
 人目は充分にあるわけだ。ちょっと声を出せばまわりの家に届くだろう。ヤバい雰囲気になるには明るすぎる場所だった。
 笑苗えなの気を知って知らずか、いつき笑苗えなのことを『女』として意識していないかのような淡々とした口調で告げた。
 「それじゃ、さっそくはじめようか」
 言われて笑苗えなは思い出した。今日は卵焼きの作り方を教わるためにやってきたのだ。
 「はいっ! よろしくね、新道しんどう先生」
 ――新道しんどう先生。
 まんざら冗談でもなくそう言うと、いつきはちょっと照れたようだった。
 「じゃ、じゃあ、卵焼きにとりかかろう。今朝はちょうど、ニワトリたちが四個の卵を産んでくれた。二個ずつ使って作ろう」
 「はいっ!」
 「まず、最初に、卵焼きに限らず料理全般のコツを言っておく。調味料は控えめに。火加減は弱火でゆっくりだ」
 「調味料は控えめ?」
 「そう。どんな食材でもそれ自体の味がある。調味料がなければ食べられないと言うことはない。逆に調味料――特に塩や醤油が多すぎると食えたものじゃなくなる。調味料を控えめにするよう心がければ、物足りない味になることはあっても食えなくなることはない」
 「な、なるほど……」
 笑苗えなは神妙な面持ちでうなずいた。
 塩と醤油を入れすぎたばかりに、見た目ばかりが味までスライム級になってしまった卵焼きを思い出せば、納得するしかない。
 「それと、火加減。これはあくまで弱火でゆっくり。表面が焦げてなかは生焼け……って言うのは、強火で一気に焼いた結果だ。弱火でゆっくり火を通せばその心配はない」
 いつきはそう言うといったん言葉を切った。笑苗えなをじっと見た。その真剣な眼差しが笑苗えなをたじろがせた。
 「な、なに……?」
 思わず尋ねる。
 いつきは真剣な面持ちのまま言った。
 「では、ここで問題。強火、中火、弱火のちがいはなんだと思う?」
 「えっ? それって、火の大きさのちがいじゃ……」
 「それは正確じゃない。正確には強火、中火、弱火のちがいは火と鍋の距離だ」
 「火と鍋の距離?」
 「そうだ。火の勢いが強くて鍋底全体に当たっているのが強火、火の先端が鍋底に当たっているのが中火、火の先端が鍋底と火口の中間ぐらいにあって鍋底に直接、当たってはいないのが弱火。このことを理解して、料理によって使いわけるのが大事だ。すなわち……」
 いつきは息を吸った。吐いた。両腕を組んで、重々しく告げた。
 「間合いを制するものは料理を制す」
 おおっ、と、笑苗えなは思わず唸ってしまう。
 「『リバウンドを制するものはゲームを制す』みたいね」
 「『左を制するものは世界を制す』という言葉もあるな。とにかく、料理にとって火加減は最重要の点であり、火加減とは間合いのことだ。そのことを理解して使いわけることが大事だ。と言っても、家庭料理ではほとんどの場合、弱火だけでいいけどね。弱火でゆっくり火を通してやれば、黒焦げと生焼けが一緒になって食べられない……ということにはまずならない」
 「な、なるほど」
 笑苗えなは力強くうなずいた。コンロの炎を全力全開にして、卵焼きとは名ばかりのスライムを生みだしてしまった身としては、心に刺さるばかりの忠告である。
 「じゃあ、はじめよう。まずは、調味料から。塩、砂糖、醤油、出汁をスケールできちんと計って、小皿に入れて」
 「えっ? 先に卵を割るんじゃないの?」
 「うまい料理を作る第一歩は段取りを整えることだ。まずは調味料をきちんと計ってすぐに使えるように用意しておく。メインの食材の用意はそれからだ」
 ――そっか。調味料って卵を割り入れたあとにドパッー、チョロチョロって感じで直接、入れるものじゃなかったのね。
 料理の秘訣を教わり、ひとつ賢くなった気のする笑苗えなだった。
 塩、砂糖、醤油、出汁を、一グラム単位で計れるデジタルスケールで計量し、いつきに言われたとおりの量をそれぞれの小皿に入れる。次はいよいよ卵の割り入れである。
 「じゃあ、卵をボウルに割り入れて」
 「はいっ!」
 笑苗えなは渡されたふたつの卵を手に答えた。これは最初から出来ていたのだ。卵の割り入れには自信がある。その自信通り、つつがなくボウルに卵を割り入れた。
 「では、次。卵焼きをきれいに焼くコツは、まずはコシをしっかり切ることだ」
 「コシを切る?」
 「黄身と白身をきちんと混ぜて色ムラをなくすことだ。ここできちんとコシを切っておかないと黄身と白身が充分に混ざらず、焼きあがりがまだらになる」
 ――なるほど、あたしの卵焼きがきれいな色にならなかったのはそのせいか。
 「では、どうやってコシを切るかというと、こう……」
 と、いつきは自分の分で実践して見せた。
 「菜箸さいばしの間を広げ、左右に一文字を描くようにシャカシャカ混ぜる。これでしっかりコシが切れる」
 「……なるほど。そうするのね」
 どうりで、菜箸さいばしでグルグルやっただけでは黄身と白身がうまく混ざらず、まだら模様になったわけだ。
 「卵を混ぜたら、塩、砂糖、醤油、出汁を混ぜてす」
 「す? そんなことまでするの?」
 「この一手間でなめらかに仕上がるんだ」
 「へえ」
 正直、面倒ではあったけど、いまは教えを受けている身。文句を言わずに卵液をした。
 「では、いよいよ焼いていこう。フライパンに油を引き、弱火にかける。それから、卵液を四分の一――これは、大体でいいけど――入れる」
 「四分の一? 全部は入れないの?」
 「全部まとめて入れると下は焼けても上は焼けていない。だから、巻こうとしてもグチャグチャになる。回数をわけて卵液を入れることで、上までしっかり焼けた薄い卵焼きを作り、それを巻いていくんだ。それを繰り返すことできれいな卵焼きが出来る」
 ――なるほど。つまり、あたしの作った卵焼きがデロデロのスライムになっちゃったのは、卵を一度に全部、入れちゃったのが原因ってことね。
 笑苗えなは心から納得した。
 その間にもいつきの手本はつづいている。
 「フライパンを傾けても卵液が流れなくなったところで卵を巻いていく。それからまた四分の一の卵液を流し入れ、同じように焼いて、巻く、を繰り返す。少しぐらい形が崩れても気にすることはない。最後には巻きすで形を整えるからね」
 「巻きす? そんなことまでするの?」
 「その一手間がきれいに作るコツだ」
 「なるほど」
 笑苗えなは真面目くさってうなずいた。年頃の女子としてはやはり、インスタ映えするような見た目きれいな料理を作りたい。
 いつきに言われたように卵液を流して焼き、巻いては卵液を流して、焼いて、巻く……を繰り返す。焼きあがった卵を巻きすを使って形を整える。そうして出来上がった卵焼きは――。
 「わあっ!」
 笑苗えなが思わず声をあげ、笑顔になるような出来だった。
 もちろん、いつきの作に比べれば色ムラもあるし、焼き加減も均一とは行かないし、形も悪い。それでも、デロデロのスライムと比べれば雲泥の差、ちゃんと卵焼きに見える。
 ――これは……まさに『卵焼きとスライム』!  あたしは『月とスッポン』に並ぶことわざを作りあげてしまったのかも知れない。
 などとひとり、意味不明の自信にあふれる笑苗えなだった。
 しっかり焼けて、型崩れしない卵焼きを一切れ、箸でつまみ、口に運ぶ。ドキドキものだったが、その味は――。
 「おいしいっ!」
 思わず笑顔で飛びあがりたくなるぐらい、おいしいものだった。
 「あたしにこんなおいしい卵焼きが作れるなんて……感動だわあっ」
 思わず両目を閉じ、フルフルと頭を振る笑苗えなだった。
 そんな笑苗えないつきは優しく微笑む。
 「料理は物理だ。正しい作り方をすれば必ずおいしく出来上がる。料理がうまくできないのは腕が悪いからじゃない。正しい作り方を知らないからだ」
 「なるほどねえ。なんでも基本を学ぶのは大切ってことね」
 「そういうこと」
 それぞれの卵焼きを半分ずつ交換して平らげた。お腹以上に心が満たされる一食だった。
 それからふたりで食器を洗い、後片付けをして、しばらく畑で過ごした。畑に育つ野菜を直接、つまんで口に運んだり、元気よく走りまわるニワトリを見たり……というのは、笑苗えなにとっては新鮮な経験だった。
 やがて、日が傾きはじめた。いつきが気がついたように言った。
 「もうこんな時間か。そろそろ帰った方がいい。遅くなるとご両親が心配する」
 「あ、ああ、そうね……」
 結局、いつきは最後まで笑苗えなを家に入れようとはしなかった。ずっと、人目のある畑で過ごしていた。そのことに安心しつつも、ちょっと拍子抜けする気分の笑苗えなだった。
 「近くまで送るよ」
 「あ、いいわよ、そこまでしてくれなくても。まだ日が暮れてるってほどでもないんだから」
 「そうはいかない。おれの家に来た帰りになにかあったら、君のご両親に顔向けできない」
 生真面目にそう言ういつきだった。
 結局、いつきの言うとおり家の近くまで送ってもらった。手を振って別れた。後ろ姿を見ながら笑苗えなは思った。
 ――あたしを家に入れなかのって……やっぱり、あたしに気を使ってくれたのよね?
 うん、やっぱり、良いやつ!
 そう再確認できて嬉しくなった。
 ――よしっ! 早く帰ってメールを送らなくちゃ!
 笑苗えなはそう思い、小走りに家に向かったのだった。
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