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第一話 わたしは戦争を殺す旅に出る
六章 わたしは戦争を殺す旅に出る
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「もうすぐ、正式な婚約発表の場じゃな」
霧の立ちこめる湿地帯。丘のように大きな旧いカメの甲羅の上に建てられた屋敷のなかで、謎の老人、その名も『誰?』はそう口にした。
「ええ」
メインクーンは短く答えた。かの人はいまも『誰?』のもとを訪れ、この世のありとあらゆる事象について学び、鍛錬していた。それはもちろん、トリトン公国の大公妃となるためではなかったのだけど。
「しかし、意外じゃな。お前さんがここでこうして学んでおるのは戦争を殺すためじゃと思っていたんじゃが」
言われるまでもない。もともとはそのための学び。かつての自分をわずか三歳で殺し、いまの自分を母親もろとも苦境に落とし込んだ戦争を殺す。
そのためにこそ学んできたのだ。
鍛練を積んできたのだ。
この五年間、そのことを忘れたことは一日もない。平穏なトリトン公国を出て戦乱渦巻く中央に赴き、戦争と対決する。
それを思った回数は手足の指ではとうてい足りない。しかし――。
そのたびに頭の奥底からひとつの光景が思い浮かぶ。それは、二本の手。合わせた手のひらの上に熱いスープを盛り、真っ赤に焼けただれた母親の手。自分のためにあれほどの犠牲を払ってくれた母親をおいて出て行くわけには行かない。もともと病弱だった母親がより一層弱々しくなり、もはや旅になど耐えられない以上、メインクーンもまたトリトン公国を離れるわけには行かなかった。
「……ねえ」
「何じゃ?」
「何かを成すために一番、大切なことって何?」
「捨てることじゃ」
「捨てる?」
「そう。目的のためならすべてを捨てる、犠牲にする。それだけの覚悟なくして大事は成せんよ」
「大事なものを捨てられないようでは大きなことは成し遂げられない?」
「そう言うことじゃ」
きっぱりとそう言われて、メインクーンはうなずいた。
「いいわ。なら、わたしは大事を成せる器じゃなかった。それだけのこと」
『誰?』の屋敷からの帰り道、メインクーンはその胸にひとつの決意を込めていた。
――トリトン公国の大公妃となり、国の発展に尽力する。
自分には母親は捨てられない。ならば、その道を選ぶしかない。
もとより、トリトン公国は流浪の身であった自分たち母娘に安住の地を与えてくれた。はじめて人並みの暮らしをさせてくれた国。大勢の人に親切にもしてもらった。
恩義がある。
受けた恩を返さないものは人間にも劣る。
それが、〝知恵ある獣〟の生き方。
受けた恩を返すためにトリトン公国とそこに住む人々のために尽くす。それもまた、立派な生き方。〝知恵ある獣〟として意義ある生き方だ。
夫となるラージリーフもボンボン過ぎてうんざりさせられるとは言え、悪い人間ではない。それなりにうまくやっていけるだろう。愛妾をとっかえひっかえするぐらいのことはするだろうけど、それは問題ない。と言うより、むしろ、好都合。もともと、〝知恵ある獣〟に結婚などと言う習慣はないのだ。世継ぎの子供さえ出来れば、あとは愛妾でも、側室でも、好きなだけ作って楽しく暮らしていればいい。産まれた子供を立派な世継ぎとして育てればいいだけの話だ。
「わたしは大公妃となってこの国を発展させる」
家に帰り着く頃にはその決意を固めていた。
「ただいま」
玄関を開けて、なかに入り、そう声をかける。異変にはすぐに気付いた。ひんやりした空気が流れている。物理的な温度が低い、と言う意味ではない。〝知恵ある獣〟の野性の感覚が捉えた冷気。
それは、生命の火のなさ。
この家のなかでただひとつ、弱々しいけれどたしかに燃えているはずの生命の火。その生命の熱が感じられなかったのだ。
「母さん!」
メインクーンは叫んだ。寝室に飛び込んだ。いつも、母が寝ているはずのベッド。そこには誰もいなかった。どこに行ったのだろう。もう、ベッドから起きあがるのさえ辛いはずなのに。
「母さん!」
メインクーンは家のなかを探し回った。そして、見つけた。さして広くもない居間の中央。そこに、何かをつかむかのように手を伸ばした格好で、母のカオマニーが倒れていた。その体からは生命の火の一片も立ちのぼってはいなかった。
「母さん!」
メインクーンは母親を抱きかかえた。けれど――。
母はすでに死んでいた。
荘厳な葬儀、と言うわけではなかった。いくら、一度は大公ナローリーフのお気に入りの愛妾のひとりであり、未来の大公妃の母親であったとしても、正式にはあくまでも一時、宮廷付きのメイドであったというに過ぎない。国葬として執り行われるはずもなく、ごく親しい人間だけを招いての質素な葬儀だった。
それでも、規模はどうあれ、心のこもった葬儀であったことは間違いない。アコルスや宿屋の女将をはじめ、交流のあったほとんどの人が並び、驚いたことには大公ナローリーフと公子ラージリーフの親子も参列していた。このことは紛れもなくこの親子の善良さを示すものであったろう。
「メインクーンよ。此度は誠に残念であった」
葬儀の最中、ナローリーフが言った。漁色家としての軽薄な面は影を潜め、責任ある大公としての真摯な表情になっていた。
「母親思いのそなたのこと。さぞ辛いだろう。しかし、あえて言う。気を落とすな。もし、余がカオマニーの立場であれば、何より辛いのは残していった子供が悲しむこと。それぐらいなら親のことなど忘れ、幸せになってもらいたい。カオマニーも必ずやそう思っておるはず。安らかな眠りを望むなら心配はかけぬことだ。これからは余がそなたの親。何なりと頼り、そなた自身の幸せをつかむことだ」
「その通りだ、メインクーン」
父の言葉を受けて、ラージリーフも言った。
「お前はおれの妻だ。お前の側にはおれがいる。おれが必ず、お前を幸せにしてみせる」
ラージリーフの表情は真剣そのもので、その言葉に一切の嘘がないことは明らかだった。ボンボンなのにと言うべきか、むしろ、ボンボンだからこそと言うべきか、ラージリーフは本質的にはきわめて善良な人間なのだ。ただ、何事に付け無邪気過ぎる。ただ、それだけ。
メインクーンはうなずいた。短く答えた。
「ありがとうございます」
その夜。メインクーンは人々の去った家のなかでただひとり、母の遺影に対峙していた。静かに話しかける。
「……母さん。あなたはなぜ、死んだの。本当に自然死だったの?」
母は居間で死んでいた。ベッドから起きあがるのも辛いはずだったのに。どうして、わざわざ自分からベッドを離れ、居間に入ったのか。何かをつかむかのように伸ばされていた腕は何を意味しているのか。もし、そのすべてがメインクーンの考えているとおりだとしたら……。
メインクーンの胸のなか。そこにいま、ひとつの新しい誓いが生まれていた。
国中が沸き立っていた。国民という国民が歓喜に騒いでいた。公子ラージリーフの一七歳の誕生がやってきたのだ。予定ではこの日、ラージリーフが正式にナローリーフの後継者として指名され、同時に、メインクーンとの婚約も発表される。そのはずだった。ところが、その予定は一部、変更となっていた。ラージリーフの強い要望により、婚約の段階をすっ飛ばしてメインクーンとの婚礼の儀を挙げることになったのだ。
――母親を亡くし、ひとりきりになったメインクーンを一日でも早く家族として迎えてやろう。
その思いからだった。
そのことはすでに国中に発表されていた。人々が沸き立っていたのはそのため。メインクーンが弱冠一五歳の身ですでに幾つもの政治的な業績を上げていることは広く知られていた。そのメインクーンが未来の大公妃となるのだ。きっと、いままでにない良い時代が来るにちがいない。誰もがそう感じ、浮かれ騒いでいた。
その日は一週間に及ぶ大祭の初日だった。仮装した人々が大通りを練り歩き、楽隊が音楽を奏で、大小様々な山車が繰り出される。荘厳なるパレード。街道を埋め尽くす人々が花吹雪をまき散らし、国中が花霞に覆われる。夜には宮殿での舞踏会。国中の貴族、名士、富裕者たちが集められ、荘厳な音楽に乗って踊りを踊る。普段なら決して加わることを許されない平民たちにも参加が許され、慣れないステップに悪戦苦闘したり、見たこともないほど豪勢な宮廷料理に舌鼓を打っている。
そのなかにあって大公ナローリーフは気が気ではなかった。一方の主賓である花嫁メインクーンが姿を見せないのだ。不安に駆られた大公は花嫁に関して息子に尋ねた。息子の方も父親に負けず劣らず不安に駆られ、要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。
「……余興を用意してあるからまっているように言われたんだけど」
「余興だと? この晴れの日に花嫁たる身がどんな余興を行うというのだ?」
「さあ……。そこまでは教えてくれなかったから」
婚礼の儀と言えど、それが一国の公子との間のものなら立派な公務。今日のメインクーンの仕事は常にラージリーフの側にあり、国の内外の有力書の挨拶を受けること。それがわからないメインクーンではあるまいに。
ナローリーフはそう思い、腹が立つやら、不安に駆られるやらだった。
舞踏会の会場にざわめきが起きたのはそのときだった。大公親子も思わずそのざわめきを目で追った。そこにはいたのは人の姿に獣の耳と尻尾を生やし、忍び装束に身を包んだ少女。今日の主賓、公子殿下の花嫁たるメインクーンだった。
絢爛たるドレスに埋め尽くされた舞踏会会場という場にあって、あまりにも場違いな忍び装束。にもかかわらず、ドレスをまとった他のどの令嬢たちよりも蠱惑的に映るのが、〝知恵ある獣〟の野性の美しさというものだった。
メインクーンは平然たる態度でざわめきを引き連れて会場を通り、大公親子の前に出た。未来の父たる大公ナローフリーに挨拶し、それから、未来の夫たる公子殿下の前に跪いた。「公子殿下」と、静かに声をかける。
「メ、メインクーン……? その格好は……」
さすがに意味が分からず目を白黒させるラージリーフに向かい、メインクーンは言った。
「公子殿下。これが余興にございます。我がトリトン公国は他国から遠く離れ、常に魔物や怪物たちの脅威にさらされております。である以上、次期大公殿下たるお方には国を守る強さが必要とされます。ならば、多くの人が集ういま、この場にて、公子殿下のお強さを示していただくことこそ最善と考えます」
「強さを示すだと?」
「はい。わたし、メインクーンが国一番の戦士であることはすでに広く知られております。そのメインクーンを殿下が制した。それを見れば人々は殿下のお強さに感銘を受け、安心し、公子殿下に対する忠誠をより一層たしかなものとすることでしょう。まさに、それこそが安定と発展への道」
「なるほど。それはおもしろい」
ラージリーフは愉快そうに舌なめずりした。善良ではあるが考えなしのボンボンらしさが出て、すっかり乗り気になっている。それでも一応、父たる大公に許しは求めた。
「よろしいですね、父上」
「……うむ」
ナローリーフの考えはもちろん、ラージリーフのように単純ではない。息子がメインクーンに勝てるはずがない。いくら、親の欲目があると言ってもそれぐらいのことはわかる。ならば、なぜ、メインクーンはわざわざ息子に試合をけしかけたのか。自分が勝つと分かっているのに。まさか、自分の夫を負かして恥をかかせるのが目的ではあるまいに……。
――なるほど。わざと、負けることで忠誠を示すというわけか。それに、ラージがメインクーンに勝ったという評判がたてば、反王家の貴族たちもおいそれとは手を出せなくなると言うわけだ。
さすが、余の見込んだ嫁だ。
ナローリーフは自らの慧眼に大いに満足し、うなずいたのだった。
「よかろう。ラージ、我が息子よ。皆の目の前でお前の強さを証明するがいい」
「はっ!」
かくして、舞踏会会場の真ん中で前代未聞の余興がはじまることとなった。
ラージリーはパーティー用の正装から騎士の制服に着替えていた。試合が始まるやいなや、ラージリーフが動いた。相変わらずの防御完全無視の無謀な突っ込み。メインクーンは正面からまともに受けるような真似はしなかった。体を斜めにかわし、剣を合わせ、軽くひねって力の方向をずらす。ただ、それだけでラージリーフはあっけなく床に転がっていた。
その場にいる誰もが呆気にとられていた。その場にいる誰ひとりとして、まさかメインクーンがこんなにも露骨にラージリーフに恥をかかせるなどとは思ってもいなかったのだ。
もちろん、誰よりも呆気にとられていたのはラージリーフ本人である。しばらく、床の上でぽけっとした表情をしていたが、何が起きたのかを理解すると猛然と怒りを示し、立ちあがった。善良ではあってもボンボンらしく、感情の起伏が激しくて自らを制御できないラージリーフである。恥をかかされた怒りに我を忘れ、まなじりを吊り上げて猛然と突っ込む。メインクーンはまたも軽く合わせた剣をひねってラージリーフを転がした。ラージリーフはますます怒り狂って立ちあがり、突進する。そして、またも転がされる。その繰り返し。
訓練場で仕合ったときには恥をかかせるわけにはいかないので、こんな真似をするわけには行かなかった。しかし、そんな枷さえなければラージリーフの単純すぎる突進をあしらうなどメインクーンにとっては至極簡単なことだった。
突っ込み、
受け流され、
転がされる。
その繰り返し。父の、貴族の、名士の、平民たちの見ている前で、ラージリーフは何度もなんどもダルマのように転がされた。最初は遠慮しながらも笑って見ていた人々も、やがて気遣わしげな表情を浮かべ、ついには嫌悪感を示すようになった。メインクーンの目的がラージリーフに恥をかかせることそれ自体にあることが明らかになってきたからだ。ナローリーフなど思わぬ展開に青くなったり、赤くなったり、その顔から鮮やかな絵の具が採取できるのではないかと思えるほどだった。
ラージリーフが息を切らしはじめた。しょせん、気が向いたときにしか稽古をしない気まぐれ者。こんな力任せの突進を何度もしていればすぐに体力は底をつく。それこそが、メインクーンのまっていた瞬間だった。
メインクーンが一歩、踏み込んだ。ラージリーフの力ませかの突進に比べれば一万倍も洗練され、計算された武芸者の動き。メインクーンの手にした長刀が閃き渡った。長刀が閃くつど、布きれが跳び、ラージリーフは裸に剥かれていく。肌には傷ひとつ付けずにその衣服だけを正確に切り刻んでいく腕の冴えはさすがという他はなかったが、多くの人々の見ている前で性器まで露出させられた側としてはそんなことに感心してはいられない。ラージリーフはその場にへたり込んだ。尻餅をついた。信じられないものを見る目でメインクーンを見上げていた。メインクーンはそんなラージリーフの眼前に長刀を突きつけた。
「情けない姿ね、ラージリーフ」
その言葉に――。
ラージリーフの怒りが爆発した。
「こ、こここここの恩知らず! お、おおおおおお前との婚約などこの場で破棄だ、追放だ、どこへなりと消えるがいい!」
「そうだ、この無礼な獣人め!」
顔を真っ赤にしてそう怒鳴りながらメインクーンに詰め寄ったはの誰あろう、大公ナローリーフその人だった。
「行く当てもないきさまら母娘をひろってやった恩も忘れおって! その獣臭い顔など二度と見たくもない! いますぐこの国から出て行け!」
唾を吐き出してがなり立てるその姿はどうひいき目に見ても大公たる身にはあるまじきものだった。『獣人』という蔑みの言葉を使うのも何とも品性に欠ける行為だった。だからと言って『息子に恥をかかされて本性が出た』と言うのは酷だろう。成長を楽しみにしていた息子の一世一代の晴れ舞台で、それも、自ら息子の嫁にと願った娘の手でこんなひどい恥をかかされたのだ。親であれば怒り狂って我を忘れるのが自然だった。
メインクーンは怒り狂うナローリーフに対して、『これぞ貴族』とでも言うべき優美な一例を残し、その場を去った。
――これでいい。
メインクーンは思う。
トリトン公国にはまちがいなく恩義があるし、ナローリーフとラージリーフの親子は自分に対して善意と好意とを示してくれた。例えそれが、独りよがりの一方的なものであったとしても。
それを裏切り、出て行くためには、自分が悪者になる必要があった。これたけやっておけばすべての悪評は自分に集中する。ナローリーフ親子に傷が付くことはないだろう。……まあ、性器まで露出させてしまったのはやり過ぎたったかも知れないけど、そこはほら。五年にわたってあまりのボンボン振りにうんざりさせられてきた歴史があったから。
ともあれ、メインクーンはこれでまた行く当てすらない流浪の身となった。一〇年に渡る人並みの暮らしは終わりを告げ、いま再び、立場もなければ住む家すらない、ただの放浪者となったのだ。だが、そのかわり――。
――これで戦争と戦える。
メインクーンはそう思う。
――待っていなさい。かつてのわたしをわずか三歳で殺し、いまのわたしを母と共に苦しめた戦争。今度は……。
メインクーンは決意を込めて心に呟く。
――わたしがお前を殺す。
……後に冨の力をもって世界を制し、戦争を殺す者。『大商王メインクーン』の伝説がここにはじまる。
第一話完
第二話につづく
霧の立ちこめる湿地帯。丘のように大きな旧いカメの甲羅の上に建てられた屋敷のなかで、謎の老人、その名も『誰?』はそう口にした。
「ええ」
メインクーンは短く答えた。かの人はいまも『誰?』のもとを訪れ、この世のありとあらゆる事象について学び、鍛錬していた。それはもちろん、トリトン公国の大公妃となるためではなかったのだけど。
「しかし、意外じゃな。お前さんがここでこうして学んでおるのは戦争を殺すためじゃと思っていたんじゃが」
言われるまでもない。もともとはそのための学び。かつての自分をわずか三歳で殺し、いまの自分を母親もろとも苦境に落とし込んだ戦争を殺す。
そのためにこそ学んできたのだ。
鍛練を積んできたのだ。
この五年間、そのことを忘れたことは一日もない。平穏なトリトン公国を出て戦乱渦巻く中央に赴き、戦争と対決する。
それを思った回数は手足の指ではとうてい足りない。しかし――。
そのたびに頭の奥底からひとつの光景が思い浮かぶ。それは、二本の手。合わせた手のひらの上に熱いスープを盛り、真っ赤に焼けただれた母親の手。自分のためにあれほどの犠牲を払ってくれた母親をおいて出て行くわけには行かない。もともと病弱だった母親がより一層弱々しくなり、もはや旅になど耐えられない以上、メインクーンもまたトリトン公国を離れるわけには行かなかった。
「……ねえ」
「何じゃ?」
「何かを成すために一番、大切なことって何?」
「捨てることじゃ」
「捨てる?」
「そう。目的のためならすべてを捨てる、犠牲にする。それだけの覚悟なくして大事は成せんよ」
「大事なものを捨てられないようでは大きなことは成し遂げられない?」
「そう言うことじゃ」
きっぱりとそう言われて、メインクーンはうなずいた。
「いいわ。なら、わたしは大事を成せる器じゃなかった。それだけのこと」
『誰?』の屋敷からの帰り道、メインクーンはその胸にひとつの決意を込めていた。
――トリトン公国の大公妃となり、国の発展に尽力する。
自分には母親は捨てられない。ならば、その道を選ぶしかない。
もとより、トリトン公国は流浪の身であった自分たち母娘に安住の地を与えてくれた。はじめて人並みの暮らしをさせてくれた国。大勢の人に親切にもしてもらった。
恩義がある。
受けた恩を返さないものは人間にも劣る。
それが、〝知恵ある獣〟の生き方。
受けた恩を返すためにトリトン公国とそこに住む人々のために尽くす。それもまた、立派な生き方。〝知恵ある獣〟として意義ある生き方だ。
夫となるラージリーフもボンボン過ぎてうんざりさせられるとは言え、悪い人間ではない。それなりにうまくやっていけるだろう。愛妾をとっかえひっかえするぐらいのことはするだろうけど、それは問題ない。と言うより、むしろ、好都合。もともと、〝知恵ある獣〟に結婚などと言う習慣はないのだ。世継ぎの子供さえ出来れば、あとは愛妾でも、側室でも、好きなだけ作って楽しく暮らしていればいい。産まれた子供を立派な世継ぎとして育てればいいだけの話だ。
「わたしは大公妃となってこの国を発展させる」
家に帰り着く頃にはその決意を固めていた。
「ただいま」
玄関を開けて、なかに入り、そう声をかける。異変にはすぐに気付いた。ひんやりした空気が流れている。物理的な温度が低い、と言う意味ではない。〝知恵ある獣〟の野性の感覚が捉えた冷気。
それは、生命の火のなさ。
この家のなかでただひとつ、弱々しいけれどたしかに燃えているはずの生命の火。その生命の熱が感じられなかったのだ。
「母さん!」
メインクーンは叫んだ。寝室に飛び込んだ。いつも、母が寝ているはずのベッド。そこには誰もいなかった。どこに行ったのだろう。もう、ベッドから起きあがるのさえ辛いはずなのに。
「母さん!」
メインクーンは家のなかを探し回った。そして、見つけた。さして広くもない居間の中央。そこに、何かをつかむかのように手を伸ばした格好で、母のカオマニーが倒れていた。その体からは生命の火の一片も立ちのぼってはいなかった。
「母さん!」
メインクーンは母親を抱きかかえた。けれど――。
母はすでに死んでいた。
荘厳な葬儀、と言うわけではなかった。いくら、一度は大公ナローリーフのお気に入りの愛妾のひとりであり、未来の大公妃の母親であったとしても、正式にはあくまでも一時、宮廷付きのメイドであったというに過ぎない。国葬として執り行われるはずもなく、ごく親しい人間だけを招いての質素な葬儀だった。
それでも、規模はどうあれ、心のこもった葬儀であったことは間違いない。アコルスや宿屋の女将をはじめ、交流のあったほとんどの人が並び、驚いたことには大公ナローリーフと公子ラージリーフの親子も参列していた。このことは紛れもなくこの親子の善良さを示すものであったろう。
「メインクーンよ。此度は誠に残念であった」
葬儀の最中、ナローリーフが言った。漁色家としての軽薄な面は影を潜め、責任ある大公としての真摯な表情になっていた。
「母親思いのそなたのこと。さぞ辛いだろう。しかし、あえて言う。気を落とすな。もし、余がカオマニーの立場であれば、何より辛いのは残していった子供が悲しむこと。それぐらいなら親のことなど忘れ、幸せになってもらいたい。カオマニーも必ずやそう思っておるはず。安らかな眠りを望むなら心配はかけぬことだ。これからは余がそなたの親。何なりと頼り、そなた自身の幸せをつかむことだ」
「その通りだ、メインクーン」
父の言葉を受けて、ラージリーフも言った。
「お前はおれの妻だ。お前の側にはおれがいる。おれが必ず、お前を幸せにしてみせる」
ラージリーフの表情は真剣そのもので、その言葉に一切の嘘がないことは明らかだった。ボンボンなのにと言うべきか、むしろ、ボンボンだからこそと言うべきか、ラージリーフは本質的にはきわめて善良な人間なのだ。ただ、何事に付け無邪気過ぎる。ただ、それだけ。
メインクーンはうなずいた。短く答えた。
「ありがとうございます」
その夜。メインクーンは人々の去った家のなかでただひとり、母の遺影に対峙していた。静かに話しかける。
「……母さん。あなたはなぜ、死んだの。本当に自然死だったの?」
母は居間で死んでいた。ベッドから起きあがるのも辛いはずだったのに。どうして、わざわざ自分からベッドを離れ、居間に入ったのか。何かをつかむかのように伸ばされていた腕は何を意味しているのか。もし、そのすべてがメインクーンの考えているとおりだとしたら……。
メインクーンの胸のなか。そこにいま、ひとつの新しい誓いが生まれていた。
国中が沸き立っていた。国民という国民が歓喜に騒いでいた。公子ラージリーフの一七歳の誕生がやってきたのだ。予定ではこの日、ラージリーフが正式にナローリーフの後継者として指名され、同時に、メインクーンとの婚約も発表される。そのはずだった。ところが、その予定は一部、変更となっていた。ラージリーフの強い要望により、婚約の段階をすっ飛ばしてメインクーンとの婚礼の儀を挙げることになったのだ。
――母親を亡くし、ひとりきりになったメインクーンを一日でも早く家族として迎えてやろう。
その思いからだった。
そのことはすでに国中に発表されていた。人々が沸き立っていたのはそのため。メインクーンが弱冠一五歳の身ですでに幾つもの政治的な業績を上げていることは広く知られていた。そのメインクーンが未来の大公妃となるのだ。きっと、いままでにない良い時代が来るにちがいない。誰もがそう感じ、浮かれ騒いでいた。
その日は一週間に及ぶ大祭の初日だった。仮装した人々が大通りを練り歩き、楽隊が音楽を奏で、大小様々な山車が繰り出される。荘厳なるパレード。街道を埋め尽くす人々が花吹雪をまき散らし、国中が花霞に覆われる。夜には宮殿での舞踏会。国中の貴族、名士、富裕者たちが集められ、荘厳な音楽に乗って踊りを踊る。普段なら決して加わることを許されない平民たちにも参加が許され、慣れないステップに悪戦苦闘したり、見たこともないほど豪勢な宮廷料理に舌鼓を打っている。
そのなかにあって大公ナローリーフは気が気ではなかった。一方の主賓である花嫁メインクーンが姿を見せないのだ。不安に駆られた大公は花嫁に関して息子に尋ねた。息子の方も父親に負けず劣らず不安に駆られ、要領を得ない返事を繰り返すばかりだった。
「……余興を用意してあるからまっているように言われたんだけど」
「余興だと? この晴れの日に花嫁たる身がどんな余興を行うというのだ?」
「さあ……。そこまでは教えてくれなかったから」
婚礼の儀と言えど、それが一国の公子との間のものなら立派な公務。今日のメインクーンの仕事は常にラージリーフの側にあり、国の内外の有力書の挨拶を受けること。それがわからないメインクーンではあるまいに。
ナローリーフはそう思い、腹が立つやら、不安に駆られるやらだった。
舞踏会の会場にざわめきが起きたのはそのときだった。大公親子も思わずそのざわめきを目で追った。そこにはいたのは人の姿に獣の耳と尻尾を生やし、忍び装束に身を包んだ少女。今日の主賓、公子殿下の花嫁たるメインクーンだった。
絢爛たるドレスに埋め尽くされた舞踏会会場という場にあって、あまりにも場違いな忍び装束。にもかかわらず、ドレスをまとった他のどの令嬢たちよりも蠱惑的に映るのが、〝知恵ある獣〟の野性の美しさというものだった。
メインクーンは平然たる態度でざわめきを引き連れて会場を通り、大公親子の前に出た。未来の父たる大公ナローフリーに挨拶し、それから、未来の夫たる公子殿下の前に跪いた。「公子殿下」と、静かに声をかける。
「メ、メインクーン……? その格好は……」
さすがに意味が分からず目を白黒させるラージリーフに向かい、メインクーンは言った。
「公子殿下。これが余興にございます。我がトリトン公国は他国から遠く離れ、常に魔物や怪物たちの脅威にさらされております。である以上、次期大公殿下たるお方には国を守る強さが必要とされます。ならば、多くの人が集ういま、この場にて、公子殿下のお強さを示していただくことこそ最善と考えます」
「強さを示すだと?」
「はい。わたし、メインクーンが国一番の戦士であることはすでに広く知られております。そのメインクーンを殿下が制した。それを見れば人々は殿下のお強さに感銘を受け、安心し、公子殿下に対する忠誠をより一層たしかなものとすることでしょう。まさに、それこそが安定と発展への道」
「なるほど。それはおもしろい」
ラージリーフは愉快そうに舌なめずりした。善良ではあるが考えなしのボンボンらしさが出て、すっかり乗り気になっている。それでも一応、父たる大公に許しは求めた。
「よろしいですね、父上」
「……うむ」
ナローリーフの考えはもちろん、ラージリーフのように単純ではない。息子がメインクーンに勝てるはずがない。いくら、親の欲目があると言ってもそれぐらいのことはわかる。ならば、なぜ、メインクーンはわざわざ息子に試合をけしかけたのか。自分が勝つと分かっているのに。まさか、自分の夫を負かして恥をかかせるのが目的ではあるまいに……。
――なるほど。わざと、負けることで忠誠を示すというわけか。それに、ラージがメインクーンに勝ったという評判がたてば、反王家の貴族たちもおいそれとは手を出せなくなると言うわけだ。
さすが、余の見込んだ嫁だ。
ナローリーフは自らの慧眼に大いに満足し、うなずいたのだった。
「よかろう。ラージ、我が息子よ。皆の目の前でお前の強さを証明するがいい」
「はっ!」
かくして、舞踏会会場の真ん中で前代未聞の余興がはじまることとなった。
ラージリーはパーティー用の正装から騎士の制服に着替えていた。試合が始まるやいなや、ラージリーフが動いた。相変わらずの防御完全無視の無謀な突っ込み。メインクーンは正面からまともに受けるような真似はしなかった。体を斜めにかわし、剣を合わせ、軽くひねって力の方向をずらす。ただ、それだけでラージリーフはあっけなく床に転がっていた。
その場にいる誰もが呆気にとられていた。その場にいる誰ひとりとして、まさかメインクーンがこんなにも露骨にラージリーフに恥をかかせるなどとは思ってもいなかったのだ。
もちろん、誰よりも呆気にとられていたのはラージリーフ本人である。しばらく、床の上でぽけっとした表情をしていたが、何が起きたのかを理解すると猛然と怒りを示し、立ちあがった。善良ではあってもボンボンらしく、感情の起伏が激しくて自らを制御できないラージリーフである。恥をかかされた怒りに我を忘れ、まなじりを吊り上げて猛然と突っ込む。メインクーンはまたも軽く合わせた剣をひねってラージリーフを転がした。ラージリーフはますます怒り狂って立ちあがり、突進する。そして、またも転がされる。その繰り返し。
訓練場で仕合ったときには恥をかかせるわけにはいかないので、こんな真似をするわけには行かなかった。しかし、そんな枷さえなければラージリーフの単純すぎる突進をあしらうなどメインクーンにとっては至極簡単なことだった。
突っ込み、
受け流され、
転がされる。
その繰り返し。父の、貴族の、名士の、平民たちの見ている前で、ラージリーフは何度もなんどもダルマのように転がされた。最初は遠慮しながらも笑って見ていた人々も、やがて気遣わしげな表情を浮かべ、ついには嫌悪感を示すようになった。メインクーンの目的がラージリーフに恥をかかせることそれ自体にあることが明らかになってきたからだ。ナローリーフなど思わぬ展開に青くなったり、赤くなったり、その顔から鮮やかな絵の具が採取できるのではないかと思えるほどだった。
ラージリーフが息を切らしはじめた。しょせん、気が向いたときにしか稽古をしない気まぐれ者。こんな力任せの突進を何度もしていればすぐに体力は底をつく。それこそが、メインクーンのまっていた瞬間だった。
メインクーンが一歩、踏み込んだ。ラージリーフの力ませかの突進に比べれば一万倍も洗練され、計算された武芸者の動き。メインクーンの手にした長刀が閃き渡った。長刀が閃くつど、布きれが跳び、ラージリーフは裸に剥かれていく。肌には傷ひとつ付けずにその衣服だけを正確に切り刻んでいく腕の冴えはさすがという他はなかったが、多くの人々の見ている前で性器まで露出させられた側としてはそんなことに感心してはいられない。ラージリーフはその場にへたり込んだ。尻餅をついた。信じられないものを見る目でメインクーンを見上げていた。メインクーンはそんなラージリーフの眼前に長刀を突きつけた。
「情けない姿ね、ラージリーフ」
その言葉に――。
ラージリーフの怒りが爆発した。
「こ、こここここの恩知らず! お、おおおおおお前との婚約などこの場で破棄だ、追放だ、どこへなりと消えるがいい!」
「そうだ、この無礼な獣人め!」
顔を真っ赤にしてそう怒鳴りながらメインクーンに詰め寄ったはの誰あろう、大公ナローリーフその人だった。
「行く当てもないきさまら母娘をひろってやった恩も忘れおって! その獣臭い顔など二度と見たくもない! いますぐこの国から出て行け!」
唾を吐き出してがなり立てるその姿はどうひいき目に見ても大公たる身にはあるまじきものだった。『獣人』という蔑みの言葉を使うのも何とも品性に欠ける行為だった。だからと言って『息子に恥をかかされて本性が出た』と言うのは酷だろう。成長を楽しみにしていた息子の一世一代の晴れ舞台で、それも、自ら息子の嫁にと願った娘の手でこんなひどい恥をかかされたのだ。親であれば怒り狂って我を忘れるのが自然だった。
メインクーンは怒り狂うナローリーフに対して、『これぞ貴族』とでも言うべき優美な一例を残し、その場を去った。
――これでいい。
メインクーンは思う。
トリトン公国にはまちがいなく恩義があるし、ナローリーフとラージリーフの親子は自分に対して善意と好意とを示してくれた。例えそれが、独りよがりの一方的なものであったとしても。
それを裏切り、出て行くためには、自分が悪者になる必要があった。これたけやっておけばすべての悪評は自分に集中する。ナローリーフ親子に傷が付くことはないだろう。……まあ、性器まで露出させてしまったのはやり過ぎたったかも知れないけど、そこはほら。五年にわたってあまりのボンボン振りにうんざりさせられてきた歴史があったから。
ともあれ、メインクーンはこれでまた行く当てすらない流浪の身となった。一〇年に渡る人並みの暮らしは終わりを告げ、いま再び、立場もなければ住む家すらない、ただの放浪者となったのだ。だが、そのかわり――。
――これで戦争と戦える。
メインクーンはそう思う。
――待っていなさい。かつてのわたしをわずか三歳で殺し、いまのわたしを母と共に苦しめた戦争。今度は……。
メインクーンは決意を込めて心に呟く。
――わたしがお前を殺す。
……後に冨の力をもって世界を制し、戦争を殺す者。『大商王メインクーン』の伝説がここにはじまる。
第一話完
第二話につづく
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