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一九章 小規模農家の哲学

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 日はまだ昇っていない。
 しかし、東の空はすでに明るく白みはじめている七月の早朝。早朝と言っても気温はすでに高く、畑の野菜たちは朝露にしっとりと濡れている。
 そんななかを、ふたりの人影がよりそうにして歩いている。
 ひとりは中肉中背のアラサー男。ひとりはちょっと見には元気いっぱいな少年にも見えるけど、きちんと見れば繊細な顔立ちのかわいい女の子だとわかる。
 互いに師弟関係にあるふたり、まこととほだかである。
 『日を浴びる前の最高の野菜を人々に』をモットーとする小松こまつがわ家の朝はいつも早い。そして、日の出の早い夏はとくに早い。今日もきょうとて、冬であれば早朝と言うよりも深夜と言った方がいい時刻に朝飯前の一仕事。
 「うわあっ。今日も元気ですねえ」
 ほだかが朝露に濡れた野菜たちを見ながら喜びの声をあげた。その目が純粋な子どものようにキラキラと輝いている。
 七月を迎え、小松こまつがわ家の畑の野菜たちはグングン育っていた。ほだかが担当するオーバーアート用の区画も例外ではない。池に浮かせたハスからは長い茎が伸びて美麗な花を咲かせているし、そのまわりには旺盛に育ったタネツケバナが緑の葉をいっぱいに広げ、緑の絨毯を作っている。
 三段構えの畝を見れば、カボチャのツルがジャングルのように伸び、大きな黄色い花を咲かせている。その花にはすでにハチやアブなど、花粉と蜜目当ての虫たちがとまっている。その上にはオクラ。こちらも大きく美しい花を日の出前の白い空気のなかで誇らしげに咲かせている。
 そして、そのさらに上にはトマト。ズラリと並んだトマトの茎にはすでに数えきれないほどの実がついている。そのなかでも成長の早い実はすでに真っ赤に熟している。緑の茎葉のなかに、混じりけのないルビーのような真っ赤な実が浮き出るその光景はそれはそれは美しく、そして、食欲をそそるものだった。
 舞台の生育も順調なら、オーバーアートの制作も順調。がっちりと固定されたカメラは毎日、決まった時間に動き、決められた通りの時間、動画を撮影している。それに対抗意識を燃やしているのかなんなのか、伊吹いぶきもまた時間の許すかぎり、絵筆とキャンバスを持ち出して風景画を描いているが。
 「どうです、師匠! はじめてでこれだけ出来るなんて、すごいでしょう⁉」
 ダンサーのようにクルリクルリと回転しながら、ほだかがドヤ顔でそう言ってのける。
 まことは素直にうなずいた。
 「ああ。大したものだよ、本当に」
 お世辞でも、励ましでもない。まったくの本心である。
 まことがはじめてトマトを作ったときなどは、よく育てたい一心で水と肥料をやり過ぎてしまった。おかげて、茎葉は成長したものの、花は実をつけることなくポロポロと落ちてしまった。
 肥料をやり過ぎると却って実がつかなくなる。
 そんなことも知らない素人丸出しの結果だった。
 一所懸命、世話をしたのにひとつも実らず花が落ちていく。その様を見て、思わず涙ぐんだものである。それに比べれば、ほだかのはじめては一万倍も見事なものだ。
 「本当に、よくがんばったからな。自然栽培についても熱心に学んだし、毎日まいにち欠かさず畑に出て見回りもした」
 「はい! あたし、がんばりました」
 ほだかは悪びれもせずに胸を張った。その笑顔が自分に対する誇りに満ちている。
 「毎日欠かさず見てまわって、混みあっている茎葉を切りとって風通しをよくして、病気の葉っぱや、虫を見つければ指でつまんで焼却処分して……あたしは本当によくがんばりました。褒めてください」
 「偉い、偉い」
 と、まことはその場で拍手した。
 以前ならこんなことは決してしなかったのだが、いつの間にか、ほだかのペースに慣らされてしまったのだろう。照れもせず褒めていた。
 褒められたほだかは『えっへん!』とばかりにふんぞり返る。
 「実際、本当によくやっているよ。遺伝子組み換え作物に除草剤……なんていう化学農業なら簡単にすむけど、自然栽培となるととにかく手間暇をかけなくちゃならないからな。その手間暇をかけつづける根気は本当に大したものだ」
 「師匠の弟子ですから」
 と、ほだかは胸を張る。
 「でも、そう言えば、うちの畑では遺伝子組み換え作物は使わないんですか?」
 形式上、単なる『居候』に過ぎないくせに、当たり前のように『うちの畑』という言葉を使うほだかだった。
 まこともいまさらそんなことに違和感を感じたりしないので、そこはスルーしてうなずいた。
 「使わない」
 「どうしてです? やっぱり、安全性の問題ですか?」
 「いいや。安全性は気にしていない。おれも、親父たちもな。『我々は遺伝子組み換え作物を何十年も食べてきたが、それで死んだ人間はいない。遺伝子組み換え作物を危険視するのは非科学的だ』という生産者たちの言い分はもっともだからな。その事実を無視して遺伝子組み換え作物を危険視するのは、原発処理水を危険視するようなものだ。これは、安全性ではなく、哲学の問題と言った方がいい」
 「哲学?」
 思いもかけない言葉に、ほだかは目をパチクリさせた。
 「どんな世界を求めるかの問題、と言ってもいいな。遺伝子組み換え作物にせよ、原発にせよ、きわめて巨大な技術だ。そんなものを作り、管理できるのは、ごくごく限られた人間だけ。それも、金持ちだけだ。おれたち自身では作ることも、管理することも出来ない。
 そんな技術に頼ることは、自分自身の『生きる力』を他人にゆずりわたすのと同じだ。そこにあるものは資源を通じて支配するものと支配されるもののの関係、そして、冨の一極集中。それは、きわめて不公平で危険な世界だ。だから、公平で安全な世界を手にするために巨大技術には頼らない。非効率でも自分の手で作る。
 それが、小規模農家の思いだ。
 非効率であることは長所なんだ。それは、世界の富が多くの人間の手に渡ることを意味するんだからな。だから、世界中の小規模農家はいま、作物だけではなくエネルギーも自分たちで作ろうとしている。自分たちの『生きる力』を自分たちの手に握りつづける、そのために」
 「師匠!」
 ほだかは感極まって叫んだ。
 「すごいです! そんな目的があってのことなんですね。感動しました。あたしも師匠の弟子として、公平で安全な世界を目指してがんばります。そのために、オーバーアートを必ず成功させます。オーバーアートが世界中に広まって、小規模でも懸命にがんばっている農家の人たちが大金を手に入れられるようになれば、同じ道を目指す人もふえるし、力ももてる。公平で安全な世界を実現できる。あたし、絶対にやり遂げます!」
 「あ、ああ……」
 ほだかの勢いに押され、思わずたじろぐまことであった。
 「さあ! そうと決まればさっそく収穫しましょう!」
 ほだかは嬉々として今朝の分を収穫しはじめた。
 キラキラと輝く瞳。生きいきとした表情。透明な汗が額に浮かび、充実感に満ちた笑顔の上を流れ落ちていく。そんなほだかの姿を見てまことは、
 ――うう。やっぱり、かわいい。
 胸が締めつけられるような思いとともにそう思う。
 かわいいだけではない。ほだかはいつも一途で、ひたむきで、自分の人生に全力で生きている。なにより、自分のことを認めてくれる。ほだかが認めてくれるからまこと自身、自分の言うことを信じられる。そのために本気で生きようと思える。
 ――こんな相手と人生を送れたら……。
 そう思う。
 そこで、我に返り、頭を振った。
 ――なにを言ってる。ほだかはまだ一八歳。おれより一〇歳も下なんだぞ。そんなことになるわけないじゃないか。
 まことは必死に、自分にそう言い聞かせる。
 そんなまことの思いなど知らない、ほだかの明る声が響いた。
 「師匠、なにしてるんです。早く収穫しないと今朝の出荷に間に合わなくなりますよ」
 「あ、ああ……」
 ほだかに促されて、まことも今朝の武の収穫をはじめた。
 寄り添うようにして収穫を終わらせ、荷車いっぱいに野菜を載せて畑のなかを運んでいく。ほだかは真っ赤に熟したトマトをひとつつまむと口に運んだ。シャリっと健康的な音を立ててかぶりつく。両目をとじ、天を仰ぎ、身を震わせる。その姿がさながら『至福』と題された彫像のよう。その姿を写真に収めれば、それこそ立派な芸術作品として通用しそうな姿だった。
 「あ~、おいしい! 感動的なおいしさ! 甘くて、コクがあって、でも、さわやかな酸味もあって……スーパーで買ってたトマトと全然ちがいます」
 「スーパーのトマトは完熟前に収穫したものだからな。完熟してから収穫したんじゃ日持ちしないから。うちも以前はしぶしぶ完熟前の実を収穫していたんだけど、たかしの店で引き取ってもらえるようになって完熟した実だけを収穫出来るようになった。最高のトマトだけを提供できるようになったんだ。作り手としてもこんなに嬉しいことはない。お前がたかしを紹介してくれたおかげだよ。本当にありがとう」
 「いえいえ。もっと言ってください」
 と、ほだかは鼻高々に胸を張る。
 「あ、店って言えば、聞きました? 神崎物産のこと」
 「えっ? ああ、そう言えば、ニュースで言っていたな。脱税とかなんとか……」
 「他にも賄賂やらなにやら、きな臭いことがあるみたいですね。さすが、あまの育館いくだてに寄付を断られた企業だけのことはあります。創業者一族が追放されるなんて話もありますし、そうなると、あの御曹司もただの人、ですね」
 「絵に描いたような転落人生、と言うことになるのかな」
 「でも、そうなると、美咲みさきさんはどうするんでしょうね」
 「えっ?」
 「だって、あの人、お金目当てに御曹司を選んだんでしょう? その御曹司がただの人になっちゃったら結婚する理由がないじゃないですか。どうするのか気になりません?」
 ほだかに言われて、まことは虚をつかれた気持ちになった。今のいままで美咲みさきのことがまったく思い浮かばなかったことに気がついたのだ。
 「……そう言えば全然、気にならなかったな。と言うか、思い浮かびもしなかった」
 。「ふ~ん。なるほど」
 「なんだ、その『ふ~ん』って言うのは?」
 「師匠にはもう、あたしがいるってことですよ」
 ほだかはそう言うとまことの腕に自分の腕を絡めたのだった。
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