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一八章 師匠の望みにはあたしがピッタリ

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 「遅れました。すみません。誠司せいじさん。冬菜とうなさん」
 篠崎しのざき伊吹いぶきは礼儀正しく頭をさげて、居間へと入ってきた。
 朝の一仕事を終えての朝食時。居間にはすでに誠司せいじ冬菜とうなまこと、ほだかの四人がいて、食卓の上には目玉焼きに具たっぷりの味噌汁、山盛りのご飯という朝食が並び、食欲をそそる芳香とともに湯気を立てている。
 「なあに、気にすんなって」
 「伊吹いぶきくんはいつも礼儀正しいわねえ。あたしたちのことなんて『おじさん、おばさん』でいいのに」
 誠司せいじが読んでいた新聞から目をあげて答えると、冬菜とうな伊吹いぶきの分のご飯を盛りながらそう言った。ふたりともにやたらとにこにこ顔で伊吹いぶきの存在が嬉しくてたまらないのがよくわかる。
 誠司せいじ冬菜とうなの気さくな態度に対し、伊吹いぶきはあくまでも堅苦しいほどに礼儀正しい態度を崩そうとはしなかった。
 「いいえ。お名前でお呼びするのが当然の礼儀ですから」
 きちんと正座して席に着き、丁寧に礼を言ってご飯茶話を受けとる。
 がっはっはっ、と、誠司せいじは愉快そうに大笑いした。
 「まったく、若いのによくできた御仁だ。まことも見習えよ」
 「本当にねえ。礼儀正しいし、素直だし、本当に良い子だわ。まことが一八の頃なんて挨拶もろくにしなかったのに」
 「……あのな」
 まこと憮然ぶぜんとして呟いた。
 『弟』に親をとられてねるような歳でもないが、
 ――実の親と、他人相手のときと一緒にしないでくれ。
 ぐらいのことは思う。
 確かに、一〇代の頃は親とまともに話すなんて照れくさくて、ほとんど口もきかなかった。しかし、他人の親相手にはきちんと礼儀を守っていたのだ。それにしても――。
 まことはこっそり、ほだかにささやいた。
 「……伊吹いぶきのやつ、うちの親相手だとやけに態度がちがわないか?」
 ――親の前では普通にしてくれ。
 そうは言ったものの、中二病丸出しの伊吹いぶきがこんなにも礼儀正しく振る舞うとは思ってもいなかった。おかげで、両親の間では伊吹いぶきのことはすっかり『礼儀正しくて素直な好青年』である。いや、別に普段の伊吹いぶきが『いやなやつ』というわけではないのだが。
 ほだかは箸をくわえたまま天井を仰いで答えた。
 「ん~。でも、伊吹いぶきって普段はあんな感じですよ。中二病患者になるのは身近な相手だけで」
 「そうなのか⁉」
 「ええ。あまの育館いくだてって礼儀作法には厳しいですから。その点は子どもの頃から容赦なく躾けられますからね」
 「な、なるほど……」
 躾け風景を想像してしまい、ちょっとばかり気圧されるまことであった。集団生活というのも楽しそうな反面、けっこう窮屈な面があるのかも知れない。しかし、自分に対しては最初から中二病患者丸出しだったと言うことは……。
 ――おれのことは最初から友だち認定していたってことか?
 伊吹いぶきより一〇歳歳上の身としては少々、複雑な思いのするまことであった。
 ともかく、朝食が終わり、改めて午前の仕事となった。まこと伊吹いぶきに声をかけた。
 「それじゃ、親父たちの面倒、頼んだぞ。伊吹いぶき
 伊吹いぶきは『誠司せいじの弟子』という位置づけなので、仕事中は誠司せいじたちと行動している。まことやほだかと行動することはない。
 「言われるまでもない。自らの使命は果たす。この身に流れる誇りに懸けて」
 そう答える態度が無愛想と言うより、格好付け満点。誠司せいじ冬菜とうなに対する素直で礼儀正しい態度とは雲泥の差。その姿にまことは思わず腕組みして呟いた。
 「……あれだけ、相手によって態度がちがうといっそ、清々しいかも知れないなあ」

 すでに六月。
 伊吹いぶき小松こまつがわ家で暮らすようになってから二ヶ月が過ぎていた。伊吹いぶきもほだか同様、両親ともすぐに馴染み、いまではすっかり家族同然。
 やはり、物心ついたときから集団生活をしているあまの育館いくだての出身者だけあって、他人と生活するのが上手なのだろう。民泊の経験も何度かあると言うし、その点も他人と親しくなるための役に立っているにちがいない。
 「しかし、まだ一八だろう? それなのに、民泊の経験なんてあるのか?」
 まことは意外な思いでほだかに尋ねた。
 まこと自身は民泊の経験など一度もない。まことも二八歳の男。ひとり旅の経験ぐらいはあるし――国内限定だが――『元彼女』の美咲みさきとふたりで出かけたこともある。
 しかし、見ず知らずの他人の家に泊まるのはやはり抵抗があった。泊まるのは決まって安めの旅館かペンションだった。美咲みさき美咲みさきで『民泊なんていやよ! ちゃんとしたホテルでなきゃいや!』と言うタイプだったので、美咲みさきと出かけるときはなけなしの貯金を切り崩して無理してホテルに泊まっていた。
 そんなまことからすれば、一八歳で民泊の経験があるというのは正直、信じられない。
 しかし、ほだかは当たり前のように答えた。
 「ほら、言うじゃないですか。『かわいい子には旅をさせろ』って。あまの育館いくだてはそれを地でやっているんです。だから、中学ともなれば自分たちだけで旅行に行くのを推奨してます」
 「中学で⁉ さすがに早すぎないか? 問題が起きることってないのか?」
 「たまにはありますね」
 ほだかはケロッとした様子でそう答えた。それから、さらに平然たる態度でつづけた。
 「でも、『おとなの役目は子どもが失敗しないようにお膳立てすることじゃない。自分が側にいられる間に失敗させて、自力で切り抜けられるよう経験を積ませることだ』って言うのが、あまの育館いくだてのモットーですからね。『子どもが失敗したら支えてやればいい。それがおとなの役目だ』って。だからむしろ、小さな失敗ならどんどんするよう勧めています」
 「な、なるほど……」
 まことは思わず唸った。その肝の据わり方、いずれは子どもがほしいと思っている身としては、気が引き締まる思いである。
 「もちろん、大きな失敗をしないよう、事前にちゃんと手は打っていますけどね。教育には力を入れているし、民泊先だってあまの育館いくだてのほうで信頼できそうなところを調べて紹介していますから」
 「なるほど。参考になるな」
 まことはうんうんとうなずいた。すると――。
 ほだかが口元に手を当て、ニンマリと笑って見せた。
 「師匠は、いずれは子どもがほしいんですよねえ?」
 「えっ? ああ、まあ、人並みには。それに……」
 親にはやっぱり、孫を見せてやりたいし。
 そう思うのが『二八歳』という年齢なのだった。
 「でも、いまは子どもを産む気のない女性も多いから、むずかしいんじゃないですか?」
 「ああ。それは、あるかもな」
 ――そう言えば、美咲みさきさんは子どもの話になるといつもはぐらかしてばかりだったな。子どもを産む気がなかったのかな?
 まことはそう思った。ただ単に、まことが『そういう対象』ではなかっただけのことかも知れないが。
 ほだかはますます悪そうにニンマリ笑う。
 「それなら、あたしがお薦めですよお。なにしろ、物心ついたときからの集団生活。大家族には慣れてますし、子どもの世話をした経験もありますから、子どもを産むのに抵抗なんてありません。いくらでもご要望にお応えできます」
 「なんの話だ、いったい⁉」
 「だからあ。師匠の望みにはあたしがピッタリって言う話で。どうです? ここはひとつ、本気で口説いてみません? 上手に落としてくれたら、まことさんの願いを叶えるために張り切っちゃいますよ」
 「な、なにを言ってる⁉ いまは仕事の時間だぞ。そんなことより、さっさと仕事にかかれ」
 「はあい」
 と、ほだかはケラケラ笑いながら前に立って歩きだす。その姿からは本気だったのか、からかっていただけなのか、まったくわからない。
 ――まったく。あいつは、心臓に悪い。
 胸を押さえて、そう心に呟くまことであった。

 月は六月。
 暦のうえでは梅雨時なのだが、そこはいまの時代。
 梅雨とは言っても雨は少なく、太陽は容赦なく照りつけ、気温はグングンあがっていく。梅雨と言うよりすでに夏の装い。もはや『春・梅雨・夏』ではなく『春・夏・激夏』と言った印象。やはりもう、日本の四季の在り方そのものがかわってきているとしか思えない。
 その分、作物の育ち自体はいいのだが、これから『激夏』を迎えるに当たってどうしても注意しておかなくてはならない点がある。
 「それが、水やりだ」
 「水やり、ですか?」
 ほだかがキョトンとした様子で聞き返したのは『そんなの当たり前』という思いがあったからだ。
 「水やりが大切なのは当たり前。そう思っただろう?」
 「はい」
 と、素直に答えるほだかであった。
 「みんな、そう思っていたんだろうな。実は最近まで水やりに関してはほとんど注目されてこなかったんだ」
 「そうなんですか?」
 「ああ。やっぱりみんな『当たり前』のことは大事にしないってことだな。肥料の使い方や農薬の撒き方なんかはくわしく研究されてきたのに、水やりの仕方に関してはほとんど研究されたことがなかったんだ」
 「なるほど。師匠が、あたしの存在を大切に思わないのと同じですね」
 「どういう意味だ⁉ と、とにかく、水やりに関してはみんな、漠然とやっていただけだった。それが、最近になってようやく、注目されはじめてな。水やりに適した時間、適した量。そういったものが研究されはじめている」
 「へえ」
 「とくにいまは、いままでになかった新たしい要素も加わっている」
 「新しい要素?」
 「何度か言っていると思うが、気温が高くなると花粉が死んでしまい、実をつけなくなる。それでは、人間は困る。そこで、なんとか畑を冷やさなくてはならない。かと言って、畑をすっぽりドームで覆ってクーラーをガンガン効かせる……なんて、出来るはずもない。そんなことをしたら一般人は野菜を買えなくなる。費用をかけずに畑を生やすための唯一の実用的な方法は、蒸散効果を利用することだ」
 「蒸散効果っていうと、植物が自分の体内の水分を水蒸気として発散させるあれですね」
 「そうだ。植物はそうすることで自分の体を冷やす。水は蒸発する際にまわりの温度を奪っていくからな。そこで、畑中に草を生やして、それらの草にどんどん蒸散させる。そうすることで畑の気温をさげ、花粉が死なずにすむようにするというわけだ」
 「なるほど」
 「しかし、そのためには畑に充分な水分がないといけない。土のなかの水分がなくなれば、植物は自分のなかの水分を守るために気門を閉じ、水蒸気を発散しなくなるからな。そうなれば気温はどんどんあがってしまう。だから、水切れを起こすわけにはいかない。かと言って、やり過ぎてもいけない。土のなかの水分が多すぎると植物の根は呼吸できなくなり、死んでしまう。水をやりすぎると、土のなかの養分が水に流されて土が痩せてしまうと言う弊害もある。それに……」
 「それに?」
 「……水道代が馬鹿にならない」
 「……ああ。水道の水って意識せずに使ってますけど、水道代はちゃんとかかってますもんね」
 「そういうことだ。節約のために雨水を溜めるようにはしているけど、最近は雨も不足しがちだし……」
 「……切ないですね」
 「とにかく、蒸散効果を最大限、活用するために、しかし、水を無駄にしないために、常に土のなかに適切な水分量が残るよう、水やりしなくてはいけないと言うことだ。そのためには一度にまとめてやるのではなく、一日に何度にもわけて水やりする必要がある」
 「何度も。それは……大変ですね」
 「そう。大変だ。そのために最近では『地下灌漑法』というのも流行っている」
 「ちかかんがいほう? なんです、それ?」
 「地下にパイプを入れて、そのパイプから水をやる方法だ。この方法だと水門を開くだけで畑全体に万遍まんべんなく水を与えてやれる。しかも、水門の高さを調節することで土のなかの水位も自在に調節できる。上から撒くよりずっと早くて、便利だ」
 ほだかは両手を打ち合わせ、明るい笑顔となった。
 「あ、それいいですね。この畑では、やらないんですか?」
 「やろうとしたが、金がかかるんでやめた」
 「……師匠」
 「なんだ?」
 「あたし、絶対にオーバーアートを成功させます! そして、ジャンジャン稼いでちかかんがいほうを実現させます!」
 「ああ、その意気だ。しかし、いまはとにかく手作業でやるしかない。そのためには水やりの技術についてくわしく知っておかなくちゃならない。と言うわけで、これからしばらくは集中的に水やりの技術について学んでもらうぞ」
 「はい! がんばります」
 ほだかは両手をグッと握りしめ、答えた。
 ――そう。がんばるんだ。それしかない。
 まことは心のなかで思った。
 事態はなかなかに切迫しているのだ。
 ほだかに、伊吹いぶきと、新しい従業員が加わって賑やかになったのはよかった。まことの両親も『家族が増えた』と喜んでいる。しかし――。
 もともとが小さな畑で野菜を作り、細々と暮らしてきた零細農家。ふたりの従業員を抱える稼ぎなど最初からないのである。いまはなけなしの貯金を切り崩す形で給料を払っているがもちろん、そんなことをいつまでもつづけられるわけがない。
 畑の宣伝動画はほだかか担当するようになって以来、さすがに本職の仕事だけあってアクセス数が伸びているし、伊吹いぶきの日めくりカレンダーもそれなりに売れている。しかし、『経営の柱』というにはほど遠い。
 伊吹いぶきの『一〇〇億の画家になる!』という気概はともかく、現時点ではまだまだ無名の駆け出し画家に過ぎない。その一途な姿勢は見ていてまちがいなく応援してやりたくなるものではあるが――。
 だからと言って、金が天から降ってくるわけではない。オーバーアートを成功させて一攫千金を実現させないことには潰れるしかないのである。しかし――。
 ――そんなことは承知の上ではじめたことだ。必ず、成功させる。先祖代々の畑は、人々においしい作物を届けるという使命は、必ず守ってみせる。
 改めてそう自分に誓うまことであった。
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