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一七章 師匠のこと、好きですよ

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 四月も半ばを過ぎた。
 四月半ばと言え、いまの時代。すでに太陽は熱く輝き、初夏かと思えるような気温に包まれている。
 気温の上昇とともに土のなかの温度もグングンあがり、土のなかの生き物たちの活動も活発になっていく。遮光シートを全面にかぶせられたまことの畑でもすでに活発な生き物たちのドラマが展開されていた。
 遮光シートの下では雑草たちが目を覚まし、新芽を伸ばしては、日の光を遮られて枯れていく。枯れた草はコマツナの残りとともに土のなかの小さな虫たちに食われ、糞となって排泄される。その糞をさらに小さな微生物たちが分解し、土に戻していく。
 そうして、枯れ果てた草たちは養分となって土のなかにとどまり、次の生命を育てる糧となる。
 人の目の届かない土のなか。
 しかし、そこでは確かに生命の循環が行われている。
 一方、苗を育てるためのハウスのなかでは、セルトレイに蒔かれた夏野菜の種が次々に芽を出し、幼苗となって育っていた。
 ほだかは毎日まいにち熱心に世話をしては、小さな苗が育ち、天に向かって伸びていくさまを食い入るように見つめている。その目も、表情も、まるでこの世界をはじめて見た子どものよう。この世の謎と神秘に魅せられ、たまらなく惹きつけられている顔だ。
 「不思議ですよねえ」
 ほだかは苗の世話をしながら呟いた。その口調はあまりにもしんみりとしたもので、ほだかが内心で感じている感動の深さを物語っていた。
 「なにがだ?」
 幼苗育成の指導をしながら見てまわっているまことが尋ねた。
 ほだかはグッと両手を握りしめると、いまにも抱きつかんばかりの勢いでまことに迫った。生気に満ちたかわいい顔でいきなり迫られ、まことは思わず仰け反った。
 二八歳独身、フラれ男の心情など知ったことではないほだかは、真剣そのものの目で訴えた。
 「だって! あんな小さな種がこんな苗に育つんですよ! 不思議じゃないですか。しかも、いまはこんなヒョロッとした小さな苗なのに、いずれはグングン育って大きくて立派な苗になって、今度は自分がたくさんの種をつけるんでしょう? これぞ、まさに生命の神秘ですよ」
 「あ、ああ……」
 ほだかの勢いに押されながら、まことはどうにかうなずいた。キスされそうなぐらい接近されているので、ほのかに頬を赤くして後ろにしりぞき、距離をとる。
 「……それは、おれも毎年、思う。もちろん、細胞分裂がどうのって言う理屈は知っているけど、実際に生命が育っていく姿を見ていると、そんな理屈とは全然ちがう次元で感動するよな」
 「はい! あたし、感動してます」
 ほだかは両手をギュッと握りしめ、力強く答えた。
 「師匠。あたし、ここに来てよかったです。こんな不思議で感動できる光景に毎日、出会えるんですから。やっぱり、生命に勝る芸術はありません。あたし、絶対にこの感動を世界中に届けてみせます」
 ほだかはそう宣言すると、熱心に苗の撮影をはじめた。ほだかは毎日、欠かさずこうして苗を撮影し、生命が育つさまを記録に残している。必要な世話はきちんとした上でのことだし、毎日の成長記録をつけるのは農家にとって大切な作業なので、それを担当してくれるのはまことにとってもありがたい。
 夢中になってシャッターを切るほだかの姿を見ていると――。
 ――かわいい。
 どうしても、そう思ってしまうまことだった。
 ――いやいや。勘違いするなよ、おれ。ほだかはあくまで自分の作品のためにうちに働きに来ただけなんだ。おれ個人をどうこうって言うんじゃないからな。
 胸が締めつけられるようなその思いを振り払おうと、まことは必死に自分に言い聞かせる。
 すると、そんな思いに水をかけるかのような言葉が……。
 「生命に勝る芸術はないだと? ふん。素材は素材。世界を写せし神の御業のぬしの手によって芸術に昇華された、世界の現し身の魅力に敵うものか」
 伊吹いぶきであった。
 なぜか、毎日、やってきては苗床や畑の様子をスケッチしていく伊吹いぶきが、中二病丸出しの斜に構えた口調でそう言ったのだ。伊吹いぶきの横には今日もきょうとて兄貴分の白馬はくばが――男同士にしてはやけに近い距離で――ついている。
 「なに言ってるんです。本物の魅力に偽物が勝てるわけがないでしょう」
 「素材をそのまま食うより、丁寧に調理した方がうまい。当然のことだ。それと同じ。画家という才能の加わった絵の魅力は素材に勝る」
 「本当においしい食材は、なにも手を加えず生で食べるのが一番おいしいんです」
 ほだかは両手を腰に当てると胸を張り、『ふん!』とばかりに頬をふくらませて断言した。
 そんなふたりのやりとりを尻目にまこと伊吹いぶきに声をかけた。
 「毎日、うちに来てスケッチしてるけどなにが理由があるのか?」
 「……ふん」
 と、伊吹いぶきは小さく鼻を鳴らすとそっぽを向いた。失礼と言えば失礼にはちがいないのだが伊吹いぶきの場合、中二病患者特有の照れ隠しだとわかっているので腹も立たない。ただし、『兄貴分』としては躾の必要を感じたらしい。白馬はくばが指の背で伊吹いぶきの頭をコツンと叩いた。
 「こら、いつも言っているだろう。礼儀はちゃんと守れ」
 「……ふん」
 「こいつ、ゴッホをライバル視してるんですよ」
 ほだかがかわりに説明した。
 「『ゴッホの『ひまわり』が五〇億なら、おれは一〇〇億の絵を描いてやる!』なんて、子どもの頃から言ってましたからね。植物の絵を描くためのスケッチに来てるんですよ」
 「一〇〇億⁉ そんな絵を描けるものなのか?」
 「描けない理由がなにかあるのか?」
 「えっ?」
 あまりに真っ正面からそう切り替えされたので、まことは思わず言葉を失った。
 「描けないと思う理由があるなら言ってみろ」
 「あ、いや、それは……」
 「出来ない理由がないなら出来る! それが、あまの育館いくだてのモットーです」
 「その通り」
 ほだかが胸を張ってそう宣言すると、伊吹いぶきも力強くうなずいた。さすがにともにあまの育館いくだてで育った『きょうだい』。こういうところではきちんと気が合う。
 「こら、伊吹いぶき
 と、白馬はくばがまたも弟分の頭をコツンとやりながら言った。
 「今日はまことに頼みに来たんだろう。勝手なことを言っていないできちんと説明しろ」
 「頼み?」
 「……この世界を我が手にて写し取り、電子の世界に解きはなち、人々の魂を揺さぶり、その高揚を味わいたい。その許しを得にやってきた」
 「人にものを頼むときぐらい、わかりやすい言葉を使え」
 「……ここの畑の風景を作品にして、おれのサイトで売り出したい。その許可をもらいたい」
 伊吹いぶきのその言葉に――。
 「普通の話し方も出来たのか⁉」
 まことは目を丸くして驚いた。
 「ふん」
 と、伊吹いぶきは忌々しそうにそっぽを向いた。『普通の言葉を使う』など、伊吹いぶき風に言えば『己の誇りを捨てて、堕落と退廃の道を歩む』忌むべき行為なのだろう。
 「だけど、サイトで売り出すって。君の作品は白馬はくばの画廊で売ってるんじゃないのか?」
 「白馬はくばの画廊でも売っているが、それとは別に自分のサイトでも売りに出している」
 「なるほど。いまは、そういうことが出来る時代だものな」
 「そういうことだ。そこで、一日一枚、ここの畑の風景を描いて日めくりカレンダーのようにして売り出したい。そのための許可をもらいたい」
 「ああ、それは別にかまわないけど……」
 まことがそう言うと、なぜか白馬はくばがニッコリ微笑んだ。
 「よし、決まりだ! では、ここからは僕の出番だ。取り分をきちんと決めないとね」
 「取り分?」
 「君の……というより、この畑の持ち主に対して支払う分だよ」
 「いや、別にそんなのいらないけど」
 伊吹いぶきが自分で絵にして、自分で売るのに、なにもしていないこちらが支払いを受けるとか気が引ける。
 「うちの畑の風景を絵にして売ってもらえれば宣伝になるし、それで充分だし」
 まことはそう言ったが、白馬はくばは首を横に振った。
 「そうはいかない。この畑には所有者がいて、この畑の風景はその所有者が丹精込めて世話した結果だ。つまり、一種の著作だと言える。その風景を商用目的で利用させてもらう以上、著作権料は払わないといけない」
 こう言うことはきちんとしておかないとね。
 白馬はくばはいかにも画商らしいことを言った。
 「そうですよ、師匠」
 ほだかも口をそろえた。
 「畑の風景を芸術作品として売る。それが普通になれば、苦労して作物を育てている農家さんたちも報われます。そのためにも、最初の段階で農家さんの利益になる取り決めをきちんと交しておくべきです」
 「そ、それはそうかも知れないけど……」
 まことの頭のなかには他の農家のことまではなかった。このあたりの視野の広さと契約に関する感覚の鋭さはさすが『グローバル企業の大幹部並の教育を受けている』と豪語するだけのことはあった。
 ――こういった姿勢は手本にしなければ。
 そう思う。
 とは言え――。
 まこととしてはやはり、自分がなにもしていないのに金を受けとるのは抵抗がある。が、そこでふと気付いた。
 「ああ、そうだ。それなら、伊吹いぶき。君もうちの従業員にならないか?」
 「従業員?」
 「そう。君がうちの従業員になれば、絵の収入もうちの畑の売りあげのうちになる。それなら、おれとしても受けとりやすい。それに、毎日まいにちうちに来て絵を描いて帰って行くのも大変だろう? 住み込みの従業員になればそんな手間はなくなるし、自分で自分の描きたい風景を作ることもできる。どうだ? 悪い話じゃないだろう?」
 部屋の心配ならいらないぞ。うちの家は古いだけあって、広さと部屋数だけはたっぷりあるからな。
 まことはそう付け加えた。
 両手を叩き、大喜びしたのはほだかである。
 「あ、それいい! 伊吹いぶきも一緒にいればもっと賑やかになりますもんね。そうしなさいよ、伊吹いぶき
 と、自身、下宿人の分際で新たな下宿を勧めるほだかであった。
 伊吹いぶきは首をひねった。
 「……確かに。日々の空間移動に時をかけるなど非効率だ。その時間を世界を写しとるとに使えるならそれに越したことはないな」
 「ああ。そうするといい。遠慮はいらない。ただし、条件がひとつ」
 「条件?」
 聞き返す伊吹いぶきに向かい、まことは真顔で言った。
 「うちの親の前では普通にしてくれ」
 「……承知している」
 「では、決まりだね」
 白馬はくばが笑顔で両手を打った。
 「だけど、まこと。契約は公平でなくてはいけない。伊吹いぶきを従業員にすることで不当に利益を得ようというなら看過できない。その点は法律に基づいてきっちり決めさせてもらうよ」
 「もちろんだ。その点は任せる」
 それから二、三、細かい点を詰め、書類を交し、伊吹いぶきの就職と住み込みが正式に決まった。とりあえず、今日のところは荷物をとりに行くためにアパートに帰っていった。もちろん、その横には白馬はくばがピッタリと寄り添っている。
 「あはは。これでますます楽しく過ごせますね」
 ほだかが手を合わせて無邪気に笑った。
 「ああ。だけど、お前たちには頭があがらないな。お前たちのおかげでどんどん新しい挑戦が出来る。なにかお礼をしたいんだけど、なにがいいかな?」
 「ん~」
 と、ほだかは顎に指を当て、唇をとがらせた。空を見上げながら答えた。
 「別に、お礼なんていいんじゃないですかねえ。あたしも、伊吹いぶきも、自分のやりたいことをやっているだけですし。どちらかと言うと、あたしたちの方が挑戦する場所を与えてもらったお礼をすべきだと思いますし」
 「でも、それじゃおれの気がすまない。ほだかはどうだ? なにか好きなものとかないのか?」
 ――よし、自然に聞けたぞ!
 まことは心のなかでガッツポーズをとった。
 話の流れのなかで自然に聞けた。これなら、下心があるとか疑われずにすむだろう。おそらく。多分。きっと。
 ほだかは迷いなく答えた。
 「師匠のこと、好きですよ」
 その無邪気な一言がまことの精神的背骨を粉々に打ち砕く。
 立っていられないほどの衝撃を受けて、それでもまことはどうにか踏みとどまった。
 ――お、落ち着け、おれ! ほだかはあくまで『人として好き』と言っているんだ。断じて、決して、絶対に、そっちの意味で『好き』って言っているんじゃないんだからな。
 「それに……」
 ほだかは両手を合わせ、さらに無邪気な笑顔で付け加えた。
 「お父さんのことも、お母さんのことも大好きですよ」
 「あ、ああ……」
 「だから……」
 ほだかはしんみりした口調で言った。
 「もし、あたしにお礼したいと思うなら、ずっと一緒にいさせてください」
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