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九章 農家の現実

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 「冷えます! 凍えます! 寒すぎます!」
 畑に出た途端――。
 ほだかは夜明け前の強烈な寒気にあてられて身をちぢこませた。両腕でその身を抱きすくめ、全身をガクガク震わせながら猛抗議した。
 そんなほだかに対してまことは、寒気にも負けない冷ややかな口調で答えた。
 「当たり前だ。三月の夜明け前だぞ。それで寒くなかったら問題だ」
 もし、温暖化が一気に進行してこの時期の、この時間、Tシャツ一枚で余裕で過ごせる……などということになれば、そのときはもう夏の地球は人間の住める環境ではなくなっているにちがいない。
 まことはほだかに向かってさらに言った。
 「この程度の寒さにも耐えられないようで、農家に弟子入りしたのか? 農業というものがいつでも暖かく、晴れわたった空のもとで仕事が出来るとでも思っていたのか? そんな甘い考えなら農業なんて無理だ。さっさとあきらめて暖房の効いた部屋のなかで布団にくるまって眠ってろ」
 自分こそいますぐ部屋に帰ってそうしたい、と言う思いを胸に秘め、まことはそう言い放った。
 「大体、さっきまでの威勢はどうしたんだ。風景カメラマンは夜明け前の活動ぐらい当たり前なんじゃなかったか?」
 「風景カメラマンには夜明け前から行動しなきゃいけない理由があります! 夜が明けて朝日が昇るまさにその瞬間にしか撮れない写真というものがあるんです! でも、農業はなんだってこんな暗くて、寒い時間に仕事しなくちゃならないんです⁉ お日さまが昇ってからはじめたっていいじゃないですか!」
 ほだかはまことを睨みつけながらそうまくし立てた。
 幼さを残したかわいい顔がプリプリ怒っている。瑞々しいほっぺたがそれこそリンゴのように真っ赤になっているのは寒さのためもあるだろうが、怒りのためでもあるにちがいない。
 「農業にだって夜明け前に作業しなくちゃいけない理由はある。日の光を浴びれば野菜は成長をはじめる。成長をはじめればせっかく体内に蓄えた栄養素は成長のために使われてしまう。つまり、栄養価がさがるし、味も落ちる。まだ夜明け前の、日の当たっていない野菜を収穫するのがベストなんだ」
 「ベストって……ほんとに、こんなつらい思いをしてまでやらなきゃいけないほどの差があるんですか?」
 ほだかはあくまでも疑わしそうだった。
 まことはあっさりとうなずいた。
 「ないかもな」
 「師匠⁉」
 「確かに、朝日が昇ってすぐに収穫してもそれほどの差はないかも知れない。でもな。農家っていうのは人々の食を支える職業なんだ。食は生命そのもの、人生そのもの。どんな食べ物を食べているかで人生はかわる。だからこそ、少しでもおいしく、栄養のあるものを届ける。
 それが、農家の誇りだ。
 少なくとも、うちは代々そうしてきた。親父も、じいさんも、その親も、そうして夜明け前から畑に出て、最高の状態の野菜を収穫し、人々に届けようとしてきた。うちに弟子入りしようとするなら当然、その覚悟は受けつがなくちゃならない。その覚悟をもてないと言うならいますぐ帰って、二度とここには来るな」
 ――まだ一八歳の女の子相手に、ちょっとキツすぎたかな?
 まこと自身、そう思う言い方ではあった。もちろん、自分の言っていることが正論だということはわかっている。だけど、言い方というものはあるだろう。
 美咲みさきに対してはこんなことは一度も言ったことはない。それはもちろん、美咲みさきには農家の仕事に関わる気など最初からなく、ほだかは自分から弟子入りしてきたというちがいがあるからなのだが。
 それにしても、ほだか相手だとついつい遠慮がなくなりすぎる気がする。こんなことは美咲みさき相手にはなかったことだ。
 ――美咲みさき……さん相手にはいつも気を使っていたんだけどな。篠崎しのざき相手にももっと気を使うべきだよな。
 まことはその点でちょっと後悔した。ところが――。
 「わかりました!」
 ほだかは叫んだ。
 その声には大きさと張りがあり、いままでの寒さに負けた声とはまるでちがっていた。その表情にも、仕種にも、いかにも溌剌はつらつとしたほだからしさが戻っており、いままではとは全然ちがう。
 「夜明け前の仕事にそんな熱い理由があったとは! 感じ入りました、感動しました。ますます師匠の弟子になりたくなりました!」
 ほとばしる熱い思いとともに吐き出される台詞の羅列に、まことの方が圧倒されてしまった。どうやら、ほだかにはまことの言葉は『キツい』どころか、どストライクだったようである。
 ――もし、美咲みさきさんにこんなことを言っていたら絶対、怒っていただろうにな。
 まことはそう思ったが、ほだかの反応はそれとは真逆のものだった。
 「この篠崎しのざきほだか! その魂を見事受け継ぎ、誰もが認める師匠の弟子になってみせます!」
 「あ、ああ……」
 キラキラと輝くどこまでもまっすぐな瞳で訴えかけられ、まことはドキマギしてしまった。
 「そ、それじゃ、とにかく収穫をはじめよう。話をしていて、気がついたら日が昇っていた……なんてことになったら、ただのバカだ」
 「はい!」
 というわけで、ふたりは並んで収穫をはじめた。
 「菜花なばなはつぼみが堅く引き締まっている間が旬だ。つぼみが開きはじめたものは味も落ちるし、栄養もさがる。と言って、つぼみが小さすぎては菜花なばなとしての価値がない。開きすぎず、小さすぎず、ちょうど良い頃合いのつぼみを見つけて収穫しなくてはならない」
 「はい!」
 「頃合いを見誤ってあまりに多くの苗を無駄にしてしまえば、それまでの労力も資金もすべて無駄になる。もちろん、収入だって減る。零細農家としては死活問題だ。やっていくためには無駄にする苗はひとつでも少なくしなくちゃならない。
 そのためにはとにかく、野菜の状態をよく見ることだ。毎日、畑に出て、様子を見て、匂いを嗅いで、どの苗がいつ収穫適期かをきちんと把握しておくことだ。風が吹こうが、雨が降ろうが、雪が降ろうが休んでなんかいられないぞ」
 「はい!」
 ほだかはさすがに、風景カメラマンとして夜明け前の行動に慣れているだけあって優秀だった。最初こそ文句を言っていたものの、夜明け前に作業しなくてはいけない理由に納得してからは不満ひとつ、弱音ひとつこぼさずにキビキビ動いて収穫作業に励んだ。
 夜明け前の寒気も、身を切るような冷たい風も、まことの言葉を受けて燃えあがった心の火で吹き飛ばしたらしい。いまではそのなめらかな肌に汗まで浮いている。
 そんな『弟子』の横顔をチラチラ眺めながらまことはふと、あることに気がついた。
 「あれ? そう言えば篠崎しのざきって……」
 「『ほだか』って呼んでください」
 「はっ?」
 「他はみんな『ほだかちゃん』なのに、師匠だけ『篠崎しのざき』じゃわかりずらいですよ。それに、あたし自身『篠崎しのざき』って呼ばれるの、慣れてないんです。その名前で呼ばれてもしっくりきません」
 「呼ばれ慣れてないって……なんで?」
 自分の名字なのだ。どこでも、誰にでも呼ばれるだろうに。その名前に呼ばれ慣れてないなどあり得るだろうか?
 「『篠崎しのざき』っていうのは、あたしの育ったあまの育館いくだての館長の姓なんです。名前のわからない子はみんな『篠崎しのざき』。同じ名字ばっかりでまぎらわしいからみんな、名前で呼びあっていたんです」
 「あ、ああ、なるほど……」
 ほだかがあまの育館いくだて出身であることをつい失念していた。なるほど、確かに『孤児院』出身ならそんなこともあるかも知れない。
 「と言うわけで、あたしのことは『ほだか』って呼んでください」
 「それじゃ、ほだかさん……」
 「師匠が弟子に『さん』付けなんておかしいですよ」
 「いや、でも……」
 「他はみんな『ほだかちゃん』なんですから。師匠もそう呼んでくれればいいんです」
 「いちいち『ほだかちゃん』なんて呼んでられるか! それぐらいなら『ほだか』と呼び捨てにした方がマシだ!」
 ニカッ、と、ほだかは笑って見せた。『かかった!』と言わんばかりの会心の笑みだった。
 「はい、決まりですね。それじゃ、あたしのことは『ほだか』と呼び捨てということで」
 そう言ってニコニコ笑う。その様子に、
 ――ハメられた!
 と、己のうかつさを呪うまことであった。
 しかし、ハメらめたにせよ、そうでないにせよ、こうなっては仕方がない。まことは覚悟を決めて弟子の名を呼んだ
 「ほ、ほだか……」
 「はい!」
 と、ほだかはやけに嬉しそうに返事する。
 彼女にフラれたばかりの独身男にはかわいすぎて、見るのがつらい姿であった。
 「ほだかは、いつも朝からうちに来ていたけど、いまはどこに住んでいるんだ? あまの育館いくだてはもう卒業してるんだろう?」
 「この近くにテント張って暮らしてますよ」
 「テント⁉」
 まことはさすがに驚いて叫んだ。
 「若い女の子が、たったひとりでテント暮らしなんてしてるのか⁉」
 「心配ご無用」
 と、ほだかはドン! と、胸を叩いて見せた。それでもすぐに収穫作業に戻るあたりが『優秀な弟子』なのだった。
 手を休めることなく収穫をつづけながら、ほだかは説明した。
 「風景カメラマンにとってはテントこそ我が家。理想のマイホーム。中学生の頃からあちこちにテントを張って暮らしてきましたからね。テント暮らしはすでにベテラン。手慣れたもんです」
 「いや、そういうことじゃなくてだな」
 若い女の子、それも、こんな元気で溌剌はつらつとしたかわいい女の子が防犯もままならないテントでひとり暮らし。もし、なにかあったら……。
 「決めた。ほだか、君は今日からうちに住め」
 「師匠の家に?」
 「そうだ。若い女の子にテント暮らしなんてさせてられないからな」
 まことは年長者ぶってそう言った。
 本来、男の家に若い未婚女性を住まわせるなど、その方が問題だろう。しかし、ひとり暮らしというわけではなく両親も同居だし、古い家なので広さだけはたっぷりある。部屋数も多くて、使っていない部屋が幾つもあるのでその点で問題はない。そもそも、ほだかはいまではれっきとした小松こまつがわ家の弟子、つまり、従業員なのだ。住み込みの従業員になってもおかしなことはなにもない。
 ――そうだ。そうだよな。なにも問題ないよな?
 そう自分に言い聞かせ、納得させるまことであった。
 ほだかはそんなまことをジッと見つめた。ニコッと微笑んだ。額に片手を当てて敬礼の仕種をして一言、
 「らじゃ」
 その姿があまりにもかわいくて――。
 悶絶寸前のまことであった。

 とにもかくにも朝の収穫を終えて軽トラックに詰め込み、スーパーへ。手続きをすませ、帰宅。ほだかは家に帰ってから領収書をマジマジと見つめた。そして――。
 「これだけですか?」
 そう尋ねてきた。
 「あんなに寒くて、つらい思いをして、収穫して、それなのにたったこれだけの売りあげなんですか⁉」
 「そうだ」
 と、まことはこの世の絶対真理を説くがごとく答えた。
 「そうだって……いいんですか⁉ あんな重労働の対価がたったこれだけだなんて」
 「良い悪いの問題じゃない。仕方ないんだ。食糧は生きていく上での必需品。誰もが買える価格でなければならない。一定水準を超えて高く売ることは絶対に出来ない。それが農家の宿命なんだよ」
 「誰ですか⁉ 『農業でのんびりスローライフ』とか言ってるのは!」
 そんな叫びをあげたところ見るとほだか自身、農業に対してそんなイメージをもっていたのだろう。
 「それに関しては農家は全員『農業、舐めんな』って怒ってるよ。そもそも、スローライフというのは本来『時間をかけて自分やる』っていう意味だからな。
 本来の意味でのスローライフなんてしようと思えば、朝から晩まで働きどおし。のんびりする暇なんてどこにもない。のんびり暮らしたければ代行サービスと便利家電に囲まれた都会暮らしをしていることだ」
 「師匠、あたし決めました!」
 「はっ?」
 間抜けな声で聞き返すまことに対し、ほだかはどこまでもまっすぐな燃える瞳で訴えかけた。
 「世のため、人のため、使命感に燃えて日々、つらい思いをしながら食糧生産する人たちが、こんなわずかな利益しか得られない。そんなのまちがってます! まちがいは正さなくちゃ行けません。農業を大金を稼げる夢のある仕事にするんです!
 そのために、オーバーアートを絶対に成功させましょう! そして、世界中に広めるんです。一緒にオーバーアートの力で農業を一攫千金を狙える夢のある職業にしましょう!」
 ガシッ! と、ばかりに力強くまことの手を両手で握り、熱い視線で見つめてくる。熱意のあまりにまことの手を胸のふくらみが当たる位置までもっていってしまっていることに、本人は気がついているだろうか……。
 「やりましょう! 目指せ、農家富豪です!」
 「あ、ああ……」
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