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八章 ふたりのはじまり

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 「……と、言うわけでだ」
 まだ日の昇らない早朝。深夜と言ってもいいその時刻に、まことはほだかを自分の部屋で呼び出した。
 朝の早い農家の仕事前、と言うことでこの時刻になったわけだが、本来なら人を呼び出すなど非常識な時間。まして、一八歳の若い女性を男の部屋に呼び出すなどはなはだ非礼な振る舞いではあった。しかし、まことが父親の誠司せいじと話をしている間、ほだかはほだかで母親の冬菜とうなと話をしていたらしく、ずっと起きていたようだ。
 まことにしても徹夜明けのテンションの高さと、父親との話し合いの結果の高揚感とに支配されていたのでついつい呼び出してしまった。その場のノリ、と言っていい行動だった。
 それはともかく、呼び出されたほだかは不満げな表情ひとつせず、まことの前で礼儀正しく座っている。その表情はキラキラと希望に輝き、不満どころか『喜び勇んで』という言葉の見本のよう。なんの話か、承知しているのだろう。
 まことは座布団の上にあぐらをかき、背筋をピン! と、伸ばして、胸の高さで両腕を組んでいた。まるで、父親の誠司せいじが乗り移ったかのような格好。もっとも、正直な女子高生あたりが見れば思わず吹きだしながら『お父さんにはまだまだ、威厳も貫禄も敵わないけどね』と、言っていたにちがいないのだが。
 それでも、その表情を見れば『一皮むけた』おとなびたものになっていたのは確かである。
 ともかく、まことは意識してか、せずにか、父親を真似た格好でほだかに切り出した。
 「これからは、おれも本気でライフ・ウォッチング・オーバーアートに取り組ませてもらう。先祖代々の畑を守っていく、そのために」
 「そうこなくっちゃです!」
 ほだかは身を乗り出すと、両手を胸の高さに掲げてグッと拳を握りしめた。浮かぶ笑顔が目にまぶしい。
 「先祖代々の畑を守るため男一匹、大バクチ! まことさん、格好良いです!」
 若く、かわいい女の子にそう言われて――。
 まことは思わず得意になった。
 自然と鼻の下が伸びてしまう。おかげで、言い出した本人でさえ『大バクチ』と思っていることは聞き逃してしまった。が、この際はその方が良かったかも知れない。
 「とにかく、やることになったからには成功させないと意味がない。そのためにお互い、学ばなきゃいけないことが山ほどある。まず、君には農業のことを知ってもらわないといけないわけだけど……」
 「はい! がんばります。いくらでも鍛えてください、師匠!」
 師匠! と、いきなりそう呼ばれたことは胸に刺さったが、まことは年上の男としての矜持きょうじを総動員して平静を装った。それが成功したかどうかは、ほだかのみぞ知る……というところだが。
 ゴホン、と、わざとらしく咳払いしてからまことは言った。
 「『師匠』なんて呼ばなくていい。確かに、農業に関してはおれが君にものを教える立場だ。だけど、オーバーアートに関してはおれが君に教わる立場なんだ。言ってみれば、お互いに相手の師匠であって、弟子でもあるんだからな。同格の立場だ。普通に名前で呼んでくれればいい」
 「いいえ、それはちがいます。オーバーアートに関してはあたしだってはじめての挑戦。。どちらかがどちらかに教えるとかではなくてお互い、協力して作り出していくんです。である以上、農業に関して教わる立場なんですから、あたしはあくまで弟子。『師匠』と呼ばせていただきます」
 どこまでもまっすぐにそう言ってくるほだかの態度に、まことは思わず気圧されてしまう。
 「そ、そうか……。まあ、君がそう言うならそれでいいんだけど」
 「はい! では、改めて……」
 ほだかはそう言うと、居住まいを正した。畳の上にそっと三つ指をつき、お辞儀をすると、普段の賑やかな姿からは想像も出来ないほど静かで、落ち着いた、しかも、清楚な仕種と口調で言ってのけだ。
 「ふつつかものですが、よろしくお願い申しあげます」
 ――嫁か⁉
 と、思わず心のなかで叫んでしまうぐらい動転するまことであった。
 「そうと決まればさっそくはじめましょう! これから、仕事なんでしょう?」
 ほだかはいつもの調子に戻って立ちあがった。その姿が、全身からエナジーを吐き出すアンドロイドのよう。力感に満ちたその勢いにもだが、ネコの瞳のようにコロコロと印象がかわる姿にはどうにも圧倒されてしまう。
 「そ、そうなんだけど……寝なくていいのか? お袋と話していて寝てないんだろう?」
 まことはそう言ったが、ほだかは自信たっぷりに腕まくりして見せた。小柄な外見からは想像も出来ないような鍛えられた腕が現われる。
 「風景カメラマンを舐めないてください。夜通し、山のなかを歩きまわってそのまま撮影……なんて日常チャメシゴトですよ」
 『チャメシゴト』などと言って見せたのは、余裕を演出するためのシャレだろうか。自信の笑顔が『心配ご無用!』と、断言している。
 ――カメラマンって……まだ『志望』だろう。
 まことは心のなかでそうツッコんだが、口に出している余裕はなかった。ほだかが、
 「さあ、行きましょう!」
 と、勢いよく宣言してまことの腕をとり、引っ張ったからだ。その力は確かに、一八歳の女の子とは思えないほど強いものだった。
 行き先はどうあれ、一八歳のかわいい女の子からの力強い誘い。彼女に捨てられたばかりの独身男に逆らえるはずもない。まことはほだかに引っ張られるままに立ちあがり、連れ出されるようにして畑に向かった。が、問題は、
 「ちょ、ちょっと、近いんだがな……」
 まことは思わず顔を赤らめながらそう言った。
 ほだかがまことの腕を引っ張ったまま、と言うこともあるにはあるが、それにしてもその距離の近さは恋人級。それも、恋愛初期の一番、熱烈な時期の恋人並。『ぴったり寄り添う』という言葉の見本のような至近距離だ。
 ほだかはキョトンとした表情になった。
 「そうですか? これぐらい、普通でしょう?」
 「いや、普通じゃないだろ! まるで……」
 恋人同士見たいじゃないか!
 とは、さすがに口に出しては言えなかった。
 「そうは言われても、あたしは物心ついたときから集団生活で、男子に対してもいっつもこんな感じでしたしねえ」
 「おれはあまの育館いくだての出身じゃないんだよ!」
 「それもそうですね。わかりました」
 「分かってくれたか……」
 と、まことはホッと胸をなで下ろした。しかし、その直後のほだかの爆弾発言がまことの魂を冥王星まで吹き飛ばした。
 「つまり、師匠が女子慣れしていないのが問題なんです。女子慣れすれば問題解決。と言うわけでまずは、一緒のお風呂からはじめましょう」
 「なんでそうなる⁉」
 「『裸の付き合い』ってやつですよ。師匠と弟子なんだから、それぐらい当然。今日から一緒にお風呂に入りましょう」
 「当然じゃない! 大体、うちには親父もお袋もいるんだから、そんなことを知られたら……」
 「お父さんとお母さんは喜びますよ。あたしを師匠の嫁として狙っているんですから」
 ほだかはそう言って、口元に手を当ててニマニマ笑う。上目遣いのその表情がまさに小悪魔というか、メスガキというか……。
 普段は『やんちゃな男の子』という感じなのに時折、急に小悪魔めいた表情を見せる。しかも、その表情がやたらとかわいい。そのギャップが、かわいさが、彼女に捨てられたばかりの哀れな男の心に刺さる、刺さる。
 「よ、嫁って……。そんなことまで言われたのか⁉」
 「言われてはいませんけど、態度でわかりますよ。なんでも師匠、嫁候補だった彼女にフラれたそうじゃないですか。そりゃあ、親御さんとしては息子の将来が心配だし、新しい候補を見つけたくもなりますよねえ。ここはひとつ、そっちの期待にも応えちゃいます?」
 「ば、馬鹿言うな……! まだ、知り合ったばかりなのに」
 「お兄ちゃん!」
 「なんだ、いきなり⁉」
 「お父さんとお母さん。師匠があんまりふがいないようならこの家から追い出して、あたしを養子に迎えて跡継ぎにするつもりだったそうじゃないですか。あ、これは、お母さんからはっきり聞きましたよ」
 「……そんなことまで言ったのか」
 思わず、頭を抱えたくなるまことであった。
 「実際、あたし、親いないし、成人してるしで、養子に入るのにも大して面倒はないんですよねえ。オーバーアートを展開していくためにもその方が便利かも知れないし。そうなると、あたしは師匠の妹。『師匠』と『お兄ちゃん』と、どっちの呼び方がいいです? それとも、『あ・な・た』?」
 「普通に名前で呼べえっ!」
 これから、朝飯前の一仕事がはじまる夜明け前。
 人知れず、まことの絶叫が響いたのだった。
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