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第一部 旅立ち篇
一一の扉 卑怯者の勝利
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国王アルフレッドが再びラベルナの前に姿を現わしたのは、それからしばらく立ってからのことだった。
その間も民衆の怒りは収まることはなかった。
いくら抗議の声を張りあげても、いくら生活の苦しみを訴えても、国王アルフレッドは何ひとつ具体的な政策を示すことはなく、ただひたすら『すべてはカーディナル家の魔女の仕業なのだ!』と繰り返すばかりなのだから無理もない。
抗議する群衆が暴徒化することも多くなり、国内のあちこちで軍との衝突が起きはじめていた。
このままでは国民が一斉蜂起し、内戦に発展する。
そう危惧されるほどの状況になっていた。
そのなかでラベルナはかわらず拷問を受けていた。
人をいたぶり、苦しめることに快楽を見出す獄吏たちによる拷問の数々。
そのすべてにラベルナは耐えた。
耐え抜いた。
代々、人の身命を守ってきたカーディナル家の矜持。ただ、それだけを支えにして。
その姿は性根の腐り果てているはずの獄吏たちにさえ、ある種の畏怖を抱かせるものとなっていた。本来なら、獄吏たちにとって強靱な意志の持ち主は大歓迎のはずだった。
強靱な意志と誇りをもち、それ故にどんな責め苦にも屈しない。
そんな人間を苦しめ、責めつづけ、ついには堕とす。
もうやめてくれと叫ばせる。
拷問から逃れるためには獄吏の靴も喜んで舐める。
誇り高く、矜持に満ちた人間を自らの手でそこまで堕とす快感。
それこそ、獄吏たちをしてこの仕事に就かせている最大の動機。
そんな獄吏たちにとってラベルナは格好の相手のはずだった。
誇り高く、矜持に満ち、強靱な意志と知性をもった若く、美しい女性。
これほどまでに責め、いたぶり、心を折るための対象として魅惑的な存在はないはずだった。獄吏たちは嬉々として拷問にいそしみ、ラベルナを苦しませつづける。そのはずだったのだ。
いままでは、まぎれもなくそうだった。
いつラベルナがその誇りを投げ捨て、『もうやめて!』と哀願するか、いつ、言われるままに自分たちの靴の裏を舐めるようになるか。そのときを楽しみに拷問をつづけてきたのだ。しかし――。
ラベルナの意志の強靱さ、誇りと矜持の高さはそんな獄吏たちの想像をも超えたものだった。
――おかしい。
段々とそう思うようになっていた。
――なぜ、ここまで苦しめてなお、かわらずにいられる?
普通なら――。
普通の人間なら、とっくに誇りも矜持も投げ捨て、自分たちの前に這いつくばって許しを請うようになっているはずだった。それが、人間というものじゃないか。
そう思う。
いままでに何人も、何十人も拷問にかけ、誇りに懸けて抗おうとする人間たちを堕としてきた。だから、わかる。
この女は普通ではない、と。
そのことに気が付いたとき、何とも言えない不気味さと薄気味悪さを感じはじめた。
それは言ってみれば殺しても、殺しても生き返り、向かってくる敵を相手にしているような恐ろしさ。その恐ろしさがつづくうち、それは畏怖の念にまで高まっていった。
ラベルナのあくまでも家門の矜持を守り抜こうとする姿、己の誇りに殉じようとするその姿は、これ以上ないほどに堕落し、腐敗しているはずの獄吏たちの心に『畏れ多い』という感情を呼び覚ました。
獄吏たちはラベルナに容易には近づけなくなっていた。
女王に仕える下僕のように恭しく接するようになっていった。
ラベルナの誇りは獄吏たちに打ち勝った。
その威光をもって獄吏たちを従えたのだ。
立場は完全に逆転していた。いまや、ラベルナこそがこの地下世界の主だった。
国王アルフレッドが姿を現わしたのはまさに、そんなときだった。
アルフレッドはもはや骨なしとなった獄吏たちを追い払うとひとり、ラベルナに対峙した。ラベルナはキッとかつての主君、本来であれば義理の父となっていた男を睨み付けた。
獄吏たちこそ拷問をつづける心を折られ、こっそりまともな食事を差し入れするようになった結果、ラベルナの体はかつての美しさをわずかながら取り戻していた。そして、それ以上に気力がみなぎっていた。その身に込められた静かな気迫は牢獄のなかに閉じ込められている身でありながら、国王の肩書きをもつこの男を圧倒するほどのものだった。
光り輝く令嬢とくすんだ中年男。
事情を知らずに見るものがいればラベルナこそがこの場の主であり、アルフレッドこそが地下世界に幽閉されている囚人だと思ったことだろう。ふたりの間にはそれほどの輝きの差があった。
「何をしにきたのです?」
ラベルナが尋ねた。
それはもはや詰問と言っていい口調だった。
「何度こられようと無駄なことです。わたしの心は決して折れません。無実の罪を認めることなど金輪際、あり得ないことです」
それは虚勢でもなければ、単なる強がりなどでもない。単なる事実。ラベルナがこれまでに耐えてきて責め苦の数々。それを知るものなら誰もがそう納得し、信じたことだろう。
国王アルフレッドは溜め息をついた。
「たしかにそうだな」
「えっ?」
アルフレッドの態度は意外なものだった。
ラベルナは眉をひそめた。まさか、この男がいまさらこんな素直な反応を見せるとは予想もしていなかった。
アルフレッドは言った
「おぬしの頑固さには負けた、ラベルナよ。たしかに、おぬしの言うとおり、おぬしの心を折るのは無理だ。そのことを認めよう」
――勝った!
ラベルナの心を喜びが走り抜けた。
ついにやった。
わたしは勝った。
ありとあらゆる責め苦に耐え、理不尽を打ち砕き、この国王の名に値しない卑怯者の心を打ち砕いたのだ。そう信じた。しかし――。
ラベルナにとっての最大の責め苦はその直後にやってきた。
アルフレッドはこう言ったのだ。
「そこでだ。奥の手を使うことにした」
「奥の手?」
ラベルナはその言葉に不穏な気配を感じ、眉をひそめた。
アルフレッドはニヤリといやらしい笑みを浮かべると指を鳴らした。鎧をまとったふたりの兵士が姿を現わした。そのふたりに挟まれ、腕をつかまれて運ばれてくる少年を見たとき、ラベルナの表情がかわった。
「ユーマ!」
「……姉上」
それは、ラベルナのたったひとりの弟。生まれ付き病弱だったため、療養のためにのどかな地方領主のもとに養子に出された弟だった。
「なぜ、ユーマがここに⁉」
ラベルナは叫ぶ。
アルフレッドはニヤニヤと賤しい笑みを浮かべていた。『そうそう。きさまのその苦しむ表情が見たかったのだ』と言いたげに。
「奥の手と言ったであろう? おぬしがあくまでも拒むと言うなら残念ながら、この少年に死んでもらうことになる。どうだ? それでも、まだ自分の罪を告白する気にはなれんか?」
「卑怯者!」
ラベルナは叫んだ。
怒りのあまり、白い頬が真っ赤に染まっている。
しかし、その怒りはむしろ、自分自身に向けたものだった。大切な弟。たったひとりの弟。その弟を人質に取られながら助けることも出来ず、こんな無意味な叫びをあげるしかない自分に対する怒りだった。
無意味な叫び?
そう。
その通りだ。
どこの世界に『卑怯者』と呼ばれて心を動かす卑怯者がいると言うのか。
そんな矜持を持ち合わせていないからこそ、卑怯者なのだ。
そんな罵声を浴びせられたところでアルフレッドがわずかでも恥じ入ったり、変心したりするはずがなかった。
「姉上!」
屈強な兵士ふたりに両腕をつかまれ、身動きできなくされている少年が叫んだ。
この小柄な少年のどこにこんな力があるのか。そう思わせるほどに大きく、力強い叫びだった。いかにも貴族の少年らしい上品な顔立ちに覚悟の色が浮いていた。
「僕のことはかまわないでください! 僕だってカーディナル家の男です。姉上が生命を懸けてカーディナル家の矜持を守ろうと言うなら僕だって殉じてみせます!」
「ユーマ……」
少年の叫びはまちがいなく姉の心を揺り動かした。
ああ、ユーマ。あんなにも小さく、弱々しかった生命。それがこんなに立派に成長したのね。あなたはまちがいなくカーディナル家の一員。その誇りと矜持を立派に受け継いでいる……。
ラベルナの思いを踏み砕いたのは国王アルフレッドの怒声だった。
「ええい、生意気抜かすな、この小僧めが!」
ヒュッ、と、鋭い音を立てて鞭が振るわれ、少年の頬を打った。ユーマの病弱故に抜けるように白い頬が裂かれ、血が吹き出した。さすがに日々、腹立ち紛れに使用人たちを鞭で打ち据えているだけあってアルフレッドは鞭の扱いに長けていた。
ラベルナの顔色がかわった。
「やめなさい! 抵抗できない子供をいたぶるなんて、それでもあなたは国王なのですか⁉」
ラベルナの叫びにしかし、アルフレッドはニタリと笑って見せた。
「ほう? 面白いことを言う。余に向かって『国王ではない』と抜かしたのはどこの誰だったかな? 国王でないなら何をしても文句を言われる筋はないな。それとも、余を国王と認め、余の命に服すか? そうすれば、国王らしくふるまってやってもよいぞ」
「くっ……」
ラベルナは歯がみした。
この根っからの卑怯者に対して何を言っても無駄なのだと改めて知った。思い知らされた。
「……アンバー子爵は?」
ラベルナは尋ねた。
「アンバー子爵夫妻はどうしたのです? まさか……」
ラベルナの心を暗雲が立ちこめた。
ユーマの療養のため、両親の願いを聞き入れ、ユーマを養子として迎え入れてくれたアンバー子爵夫妻。のどかな地方貴族であり、カーディナル家に比べれば吹けば飛ぶような小貴族。国政への野心もなく、片田舎でのんびりと暮らしていた。心優しく、領民たちから慕われていた夫妻。
アルフレッドはあのふたりに何をしたのだろう?
実の両親に劣らずユーマのことを愛し、慈しんでくれていたアンバー夫妻のことだ。ユーマが連れて行かれるのを黙って見ていたはずがない。必死に抵抗したはずだ。その上でユーマを連れてきたと言うなら……。
「まさか、アンバー子爵夫妻を……」
「ご安心ください、姉上」
答えたのはユーマだった。
白い頬からダラダラと真っ赤な血を流しながら、姉を安心させるために少年は早口に言った。
「義父上と義母上はご無事です。おふたりは僕を守るために戦おうとしてくださいました。ですが、僕を愛してくださったおふたりにそんな危険を冒させるわけにはいきません。僕が陛下に従うことを条件にアンバー子爵家全員、隣国へ逃れることにしてもらいました。義父上たちが出立するのを見届けてから僕はここにやってきました。義父上たちはご無事です」
「そう……」
ラベルナはそう語る弟の姿を見ながらある種の衝撃を受けていた。
生まれ付き病弱で弱々しかった弟。誰かの世話にならなければ生きていけない。そう思っていた小さなちいさな生命。
その生命がいま、こんなにも力強く輝き、政治的な駆け引きまでもやってのけるとは。
ラベルナは静かにうなずいた。
他人の世話にならなければ生きていけなかった弱々しい子供はもういない。ここにいるのは立派に貴族の誇りをもつひとりの人間だった。
「よくやりました、ユーマ。あなたは紛れもなくカーディナル家の一員です」
「ありがとうございます、姉上」
そう語るユーマの表情には限りない誇りが浮いていた。
それはカーディナル家の一員として認められたことへの喜び。その矜持に殉ずることへの覚悟。ユーマはこのとき、確信していた。尊敬する姉が自分を見捨て、カーディナル家の矜持を守るために戦い抜いてくれることを。しかし――。
皮肉なことに、ユーマのその姿は姉の心をかの人の願いとは逆方向へと動かしていた。
「国王陛下」
ラベルナはアルフレッドに向き直った。
アルフレッドはなんとも忌々しそうな表情で誇りに満ちたきょうだいのやり取りを見ていたが、ラベルナの声に我に返ったようだった。
「わかりました。承知しましょう」
「おおっ!」
「姉上っ!」
国王の歓喜の声が轟き、少年の悲鳴が響く。
ユーマが自分ひとりの身命を惜しみ、アルフレッドに対して媚びるような態度を取っていたなら、『僕のために承知してください!』と命乞いするようなら、逆に見捨てることが出来たかも知れない。
「あなたもカーディナル家の生まれならその矜持に殉じなさい」
そう言い捨て、犠牲にしていたかも知れない。
しかし、まだ年端もいかない少年の身で一族の誇りに殉じようとするする健気な姿を見せられては、犠牲にすることなどとうてい出来なかった。
承知するしかなかった。
「ですが、ひとつだけ……」
「うん?」
「ひとつだけ、条件がございます」
「条件だと?」
その間も民衆の怒りは収まることはなかった。
いくら抗議の声を張りあげても、いくら生活の苦しみを訴えても、国王アルフレッドは何ひとつ具体的な政策を示すことはなく、ただひたすら『すべてはカーディナル家の魔女の仕業なのだ!』と繰り返すばかりなのだから無理もない。
抗議する群衆が暴徒化することも多くなり、国内のあちこちで軍との衝突が起きはじめていた。
このままでは国民が一斉蜂起し、内戦に発展する。
そう危惧されるほどの状況になっていた。
そのなかでラベルナはかわらず拷問を受けていた。
人をいたぶり、苦しめることに快楽を見出す獄吏たちによる拷問の数々。
そのすべてにラベルナは耐えた。
耐え抜いた。
代々、人の身命を守ってきたカーディナル家の矜持。ただ、それだけを支えにして。
その姿は性根の腐り果てているはずの獄吏たちにさえ、ある種の畏怖を抱かせるものとなっていた。本来なら、獄吏たちにとって強靱な意志の持ち主は大歓迎のはずだった。
強靱な意志と誇りをもち、それ故にどんな責め苦にも屈しない。
そんな人間を苦しめ、責めつづけ、ついには堕とす。
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誇り高く、矜持に満ちた人間を自らの手でそこまで堕とす快感。
それこそ、獄吏たちをしてこの仕事に就かせている最大の動機。
そんな獄吏たちにとってラベルナは格好の相手のはずだった。
誇り高く、矜持に満ち、強靱な意志と知性をもった若く、美しい女性。
これほどまでに責め、いたぶり、心を折るための対象として魅惑的な存在はないはずだった。獄吏たちは嬉々として拷問にいそしみ、ラベルナを苦しませつづける。そのはずだったのだ。
いままでは、まぎれもなくそうだった。
いつラベルナがその誇りを投げ捨て、『もうやめて!』と哀願するか、いつ、言われるままに自分たちの靴の裏を舐めるようになるか。そのときを楽しみに拷問をつづけてきたのだ。しかし――。
ラベルナの意志の強靱さ、誇りと矜持の高さはそんな獄吏たちの想像をも超えたものだった。
――おかしい。
段々とそう思うようになっていた。
――なぜ、ここまで苦しめてなお、かわらずにいられる?
普通なら――。
普通の人間なら、とっくに誇りも矜持も投げ捨て、自分たちの前に這いつくばって許しを請うようになっているはずだった。それが、人間というものじゃないか。
そう思う。
いままでに何人も、何十人も拷問にかけ、誇りに懸けて抗おうとする人間たちを堕としてきた。だから、わかる。
この女は普通ではない、と。
そのことに気が付いたとき、何とも言えない不気味さと薄気味悪さを感じはじめた。
それは言ってみれば殺しても、殺しても生き返り、向かってくる敵を相手にしているような恐ろしさ。その恐ろしさがつづくうち、それは畏怖の念にまで高まっていった。
ラベルナのあくまでも家門の矜持を守り抜こうとする姿、己の誇りに殉じようとするその姿は、これ以上ないほどに堕落し、腐敗しているはずの獄吏たちの心に『畏れ多い』という感情を呼び覚ました。
獄吏たちはラベルナに容易には近づけなくなっていた。
女王に仕える下僕のように恭しく接するようになっていった。
ラベルナの誇りは獄吏たちに打ち勝った。
その威光をもって獄吏たちを従えたのだ。
立場は完全に逆転していた。いまや、ラベルナこそがこの地下世界の主だった。
国王アルフレッドが姿を現わしたのはまさに、そんなときだった。
アルフレッドはもはや骨なしとなった獄吏たちを追い払うとひとり、ラベルナに対峙した。ラベルナはキッとかつての主君、本来であれば義理の父となっていた男を睨み付けた。
獄吏たちこそ拷問をつづける心を折られ、こっそりまともな食事を差し入れするようになった結果、ラベルナの体はかつての美しさをわずかながら取り戻していた。そして、それ以上に気力がみなぎっていた。その身に込められた静かな気迫は牢獄のなかに閉じ込められている身でありながら、国王の肩書きをもつこの男を圧倒するほどのものだった。
光り輝く令嬢とくすんだ中年男。
事情を知らずに見るものがいればラベルナこそがこの場の主であり、アルフレッドこそが地下世界に幽閉されている囚人だと思ったことだろう。ふたりの間にはそれほどの輝きの差があった。
「何をしにきたのです?」
ラベルナが尋ねた。
それはもはや詰問と言っていい口調だった。
「何度こられようと無駄なことです。わたしの心は決して折れません。無実の罪を認めることなど金輪際、あり得ないことです」
それは虚勢でもなければ、単なる強がりなどでもない。単なる事実。ラベルナがこれまでに耐えてきて責め苦の数々。それを知るものなら誰もがそう納得し、信じたことだろう。
国王アルフレッドは溜め息をついた。
「たしかにそうだな」
「えっ?」
アルフレッドの態度は意外なものだった。
ラベルナは眉をひそめた。まさか、この男がいまさらこんな素直な反応を見せるとは予想もしていなかった。
アルフレッドは言った
「おぬしの頑固さには負けた、ラベルナよ。たしかに、おぬしの言うとおり、おぬしの心を折るのは無理だ。そのことを認めよう」
――勝った!
ラベルナの心を喜びが走り抜けた。
ついにやった。
わたしは勝った。
ありとあらゆる責め苦に耐え、理不尽を打ち砕き、この国王の名に値しない卑怯者の心を打ち砕いたのだ。そう信じた。しかし――。
ラベルナにとっての最大の責め苦はその直後にやってきた。
アルフレッドはこう言ったのだ。
「そこでだ。奥の手を使うことにした」
「奥の手?」
ラベルナはその言葉に不穏な気配を感じ、眉をひそめた。
アルフレッドはニヤリといやらしい笑みを浮かべると指を鳴らした。鎧をまとったふたりの兵士が姿を現わした。そのふたりに挟まれ、腕をつかまれて運ばれてくる少年を見たとき、ラベルナの表情がかわった。
「ユーマ!」
「……姉上」
それは、ラベルナのたったひとりの弟。生まれ付き病弱だったため、療養のためにのどかな地方領主のもとに養子に出された弟だった。
「なぜ、ユーマがここに⁉」
ラベルナは叫ぶ。
アルフレッドはニヤニヤと賤しい笑みを浮かべていた。『そうそう。きさまのその苦しむ表情が見たかったのだ』と言いたげに。
「奥の手と言ったであろう? おぬしがあくまでも拒むと言うなら残念ながら、この少年に死んでもらうことになる。どうだ? それでも、まだ自分の罪を告白する気にはなれんか?」
「卑怯者!」
ラベルナは叫んだ。
怒りのあまり、白い頬が真っ赤に染まっている。
しかし、その怒りはむしろ、自分自身に向けたものだった。大切な弟。たったひとりの弟。その弟を人質に取られながら助けることも出来ず、こんな無意味な叫びをあげるしかない自分に対する怒りだった。
無意味な叫び?
そう。
その通りだ。
どこの世界に『卑怯者』と呼ばれて心を動かす卑怯者がいると言うのか。
そんな矜持を持ち合わせていないからこそ、卑怯者なのだ。
そんな罵声を浴びせられたところでアルフレッドがわずかでも恥じ入ったり、変心したりするはずがなかった。
「姉上!」
屈強な兵士ふたりに両腕をつかまれ、身動きできなくされている少年が叫んだ。
この小柄な少年のどこにこんな力があるのか。そう思わせるほどに大きく、力強い叫びだった。いかにも貴族の少年らしい上品な顔立ちに覚悟の色が浮いていた。
「僕のことはかまわないでください! 僕だってカーディナル家の男です。姉上が生命を懸けてカーディナル家の矜持を守ろうと言うなら僕だって殉じてみせます!」
「ユーマ……」
少年の叫びはまちがいなく姉の心を揺り動かした。
ああ、ユーマ。あんなにも小さく、弱々しかった生命。それがこんなに立派に成長したのね。あなたはまちがいなくカーディナル家の一員。その誇りと矜持を立派に受け継いでいる……。
ラベルナの思いを踏み砕いたのは国王アルフレッドの怒声だった。
「ええい、生意気抜かすな、この小僧めが!」
ヒュッ、と、鋭い音を立てて鞭が振るわれ、少年の頬を打った。ユーマの病弱故に抜けるように白い頬が裂かれ、血が吹き出した。さすがに日々、腹立ち紛れに使用人たちを鞭で打ち据えているだけあってアルフレッドは鞭の扱いに長けていた。
ラベルナの顔色がかわった。
「やめなさい! 抵抗できない子供をいたぶるなんて、それでもあなたは国王なのですか⁉」
ラベルナの叫びにしかし、アルフレッドはニタリと笑って見せた。
「ほう? 面白いことを言う。余に向かって『国王ではない』と抜かしたのはどこの誰だったかな? 国王でないなら何をしても文句を言われる筋はないな。それとも、余を国王と認め、余の命に服すか? そうすれば、国王らしくふるまってやってもよいぞ」
「くっ……」
ラベルナは歯がみした。
この根っからの卑怯者に対して何を言っても無駄なのだと改めて知った。思い知らされた。
「……アンバー子爵は?」
ラベルナは尋ねた。
「アンバー子爵夫妻はどうしたのです? まさか……」
ラベルナの心を暗雲が立ちこめた。
ユーマの療養のため、両親の願いを聞き入れ、ユーマを養子として迎え入れてくれたアンバー子爵夫妻。のどかな地方貴族であり、カーディナル家に比べれば吹けば飛ぶような小貴族。国政への野心もなく、片田舎でのんびりと暮らしていた。心優しく、領民たちから慕われていた夫妻。
アルフレッドはあのふたりに何をしたのだろう?
実の両親に劣らずユーマのことを愛し、慈しんでくれていたアンバー夫妻のことだ。ユーマが連れて行かれるのを黙って見ていたはずがない。必死に抵抗したはずだ。その上でユーマを連れてきたと言うなら……。
「まさか、アンバー子爵夫妻を……」
「ご安心ください、姉上」
答えたのはユーマだった。
白い頬からダラダラと真っ赤な血を流しながら、姉を安心させるために少年は早口に言った。
「義父上と義母上はご無事です。おふたりは僕を守るために戦おうとしてくださいました。ですが、僕を愛してくださったおふたりにそんな危険を冒させるわけにはいきません。僕が陛下に従うことを条件にアンバー子爵家全員、隣国へ逃れることにしてもらいました。義父上たちが出立するのを見届けてから僕はここにやってきました。義父上たちはご無事です」
「そう……」
ラベルナはそう語る弟の姿を見ながらある種の衝撃を受けていた。
生まれ付き病弱で弱々しかった弟。誰かの世話にならなければ生きていけない。そう思っていた小さなちいさな生命。
その生命がいま、こんなにも力強く輝き、政治的な駆け引きまでもやってのけるとは。
ラベルナは静かにうなずいた。
他人の世話にならなければ生きていけなかった弱々しい子供はもういない。ここにいるのは立派に貴族の誇りをもつひとりの人間だった。
「よくやりました、ユーマ。あなたは紛れもなくカーディナル家の一員です」
「ありがとうございます、姉上」
そう語るユーマの表情には限りない誇りが浮いていた。
それはカーディナル家の一員として認められたことへの喜び。その矜持に殉ずることへの覚悟。ユーマはこのとき、確信していた。尊敬する姉が自分を見捨て、カーディナル家の矜持を守るために戦い抜いてくれることを。しかし――。
皮肉なことに、ユーマのその姿は姉の心をかの人の願いとは逆方向へと動かしていた。
「国王陛下」
ラベルナはアルフレッドに向き直った。
アルフレッドはなんとも忌々しそうな表情で誇りに満ちたきょうだいのやり取りを見ていたが、ラベルナの声に我に返ったようだった。
「わかりました。承知しましょう」
「おおっ!」
「姉上っ!」
国王の歓喜の声が轟き、少年の悲鳴が響く。
ユーマが自分ひとりの身命を惜しみ、アルフレッドに対して媚びるような態度を取っていたなら、『僕のために承知してください!』と命乞いするようなら、逆に見捨てることが出来たかも知れない。
「あなたもカーディナル家の生まれならその矜持に殉じなさい」
そう言い捨て、犠牲にしていたかも知れない。
しかし、まだ年端もいかない少年の身で一族の誇りに殉じようとするする健気な姿を見せられては、犠牲にすることなどとうてい出来なかった。
承知するしかなかった。
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「うん?」
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