上 下
21 / 32
二一章

『彼』という言葉を使うときが来るなんて

しおりを挟む
 「いったい、あいつはどうなってるんだっ!」
 島村武雄の怒声が鳴り響く、土曜日の昼下がりの弁護士事務所。真梨子は自分の部屋まで押しかけてきて怒鳴りつける雇い主を前に、完全ないやがらせのために両耳に指をつっ込んだ仏頂面でその怒声を聞き流した。
 ようやく怒声が鳴りやんだと見て指を放す。ツンケンした声で尋ね返す。
 「あいつって誰のことです?」
 「あいつだよ、あいつ! あの金持ち、金ヅル、金の卵を産むガチョウ……」
 「セクハラ・マニアのヒヒおやじですか?」
 「そう……じゃない! ヒヒおやじもたしかに貴重な金ヅルだが、それ以上のほら、あのSF屋だよ! あいつはどうなったんだ、あれ以来、音沙汰なしじゃないか!」
 「知りませんよ。何であたしに聞くんです?」
 「応対したのはお前だろっ! それに、おふくろさんに聞いたぞ! この前、わざわざ住所を聞いて会いにいったそうじゃないか」
 「あたしの私用です。仕事のこととは関係ありません」
 「どんな私用だ?」
 「話す必要はありません。とにかく、所長にも仕事のこととも関係ないことです」
 「関係ないですむか! お前、この頃なまいきだぞ、おれが雇ってるんだってこと忘れるなよ、だいたい……」
 島村はいよいよヒートアップし、こめかみに血管が浮き上がった。そこへ、秘書の荒井啓子、通称・おふくろさんが恰幅のいい体躯を揺らして現れ、来客を告げた。
 島村の表情の変わり方はまったく見物だった。怒り狂っていた顔から完全無欠の営業用スマイルへ。変身に要した時間は推定〇.〇五一秒。ハリウッドの特撮映画でも不可能だろうと思わせるほどの速やかかつ徹底した変貌振り。弁護士事務所なんか開いてるより芸人になったほうが大好きなお金が稼げるんじゃない? と、真梨子は意地悪く考えた。
 島村は営業用スマイル全開で飛び出して行った。真梨子は大きく息を吐き出した。おふくろさんはそんな真梨子にしみじみと声をかけた。
 「何があったか知らないけど……挑発するのもほどほどにしておきなよ。あいつ、底が浅そうに見えて、実際にはもっと浅いけど、人使いにはシビアなやつだからね。やりすぎたら即、クビにされるよ」
 「わかってる」
 真梨子はデスクの角に両手をつき、思いきり両腕をつっぱった。ため息をつきながらつづける。
 「……いっそ、その方がいいかもね。そうしたらふんぎりもつくだろうし」
 呟く真梨子をおふくろさんは不思議そうに見つめていた。
 「なに……?」
 「あんた……何かかわったね」
 「そう?」
 「まっ、いいさ。あんたもいいおとななんだから、自分のことは自分で決められるだろうし」
 肩をすくめながら言うおふくろさんに真梨子は思わず苦笑した。
 「何だか、本当のおかあさんみたいな言葉ね」
 「あたしはそのつもりだよ」
 おふくろさんは真顔で呟いた。
 「何しろあたしは、この事務所全員の『おふくろさん』なんだからね」
 そう言い残しておふくろさんは部屋を出ていった。
 真梨子はおふくろさんの温かい心にふれた喜びに胸を躍らせた。カレンダーを見る。小さくため息をついた。明日は日曜日。鴻志と過ごした日から丸一週間になる。その間、秋子や美里からは一本の電話もない。真梨子に超レアものの彼氏がいる――うそだけど――と知って、いままでのようにダシには使えないと警戒しているのだろう。いい気味だ。ふたりが苛立っているのを想像すると実に爽快な気分になる。
 鴻志からもやはり、何の連絡もない。まあ、当然なんだけど。真梨子としては鴻志に会いたい。日曜日とはいえ、どうせすることはない。洗濯して、掃除して、近くの公園をぶらりとして、それからビデオを借りてひとりっきりの部屋で見るぐらい。
 いままではそれがいやさに秋子や美里と付き合ってきた。でももうそんなことはしたくない。
 鴻志に会いたい。またあんな楽しい一時を過ごせたらと思う。でも、会いに行く口実がない。理由もなく遊びに行けるほど親しい関係とは言えないし……。
 そんなことを思っていると妹の喜美子から電話がかかってきた。
 『ああ、姉さん。今度の水曜日、だいじょうぶでしょうね?』
 「何かあったっけ?」
 デスクの上のボールペンなどいじりながら答える。
 受話器の向こうから妹のあきれた声が聞こえてくる。
 『何言っててんの。博喜の誕生日じゃない』
 「ああ、そうだっけ」
 すっかり忘れていた。博喜は喜美子の二番目の子供で長男。今年、三歳になる。
 『パーティー開くんだから、ちゃんときてよね。姉さんの甥っ子の誕生日なんだから』
 喜美子はふいに口をつぐんだ。言いづらそうにしているのが受話器越しにもはっきりと伝わってくる。
 真梨子はその理由をそれとなく察した。それで、少しばかり優越感を感じた。『妹思いのやさしい姉』と言った様子で声をかけた。
 「どうしたの?」
 『……そのう、ほら、秋子さん家のパーティーにきてた姉さんの彼……』
 「彼がどうかした?」
 かりそめとはいえ『彼』という単語を会話のなかで使えることに気恥しい喜びを感じる。真梨子ははずむような声で答えた。
 『そのう……言いづらいんだけど、彼は連れてこないでほしいの』
 喜美子の声はいかにも『後ろめたいことを口にしている』という様子のひそひそ声になった。身をかがめながら口許を押さえ、あたりの様子をうかがっているのが目に見えるような声だった。
 『何しろ、うちの旦那が何て言うか、彼のこと気に入らないみたいで……ちょっとでも話題にすると怒り出すのよ。だから、ね? 姉さんだけきてくれる?』
 「わかったわ」
 近年、ちょっと感じたことのない勝利感をかみしめながら真梨子は答えた。
 「ひとりで行くわ。どうせ、彼は人込みきらいだしね」
 『よかったあ。じゃあ、水曜日にね』
 喜美子は心から安堵した様子で電話を切った。真梨子は何とも言えない、いい気分だった。だが、受話器を置いた途端、あることに気がついて怖くなった。もし、『ぜひとも彼を連れてきて』なんて言われていたら……。
 まさか、二度もあんなお芝居に付き合ってくれるはずもなし。どうなっていたことか。それを思うと背筋が寒くなる。博信が鴻志をきらってくれていて本当によかった。真梨子は心からそう思った。
 「……さて、プレゼントはどうしよう」
 そう呟いたとき、ひとつの光景が頭に浮かんだ。ゆっくりとうなずいた。
 「口実にはなるわね」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

死の守り神は影に添う

星見守灯也
ライト文芸
 11月、東京では吸血鬼による被害が続いていた。  生松アオはその駆除のため上京する。東京駅で吸血鬼の眷属、食人鬼と対峙する少女を助けることになった。彼女はユエンと名乗り、かつて神と呼ばれていた妖精だと言った。  吸血鬼事件を追うなか、ユエンは吸血鬼の少年を拾いコウと名づける。ユエンとアオ、コウ、そして吸血鬼事件の被害者であり画家のシガンによる奇妙な共同生活が始まった。  コウは人のように生活し、成長していく。そのうちに自分の「だいじなもの」を見つけ……。一方、吸血鬼事件はおさまることなく被害が増え続けていた――。 他サイトで投稿したものです

さくらの花はおわりとはじまりをつげる花

かぜかおる
ライト文芸
年が明けてしばらくしてから学校に行かなくなった私 春休みが終わっても学校に通わない私は祖父母の家に向かうバスに乗っていた。 窓から見える景色の中に気になるものを見つけた私はとっさにバスを降りてその場所に向かった。 その場所で出会ったのは一人の女の子 その子と過ごす時間は・・・ 第3回ライト文芸大賞エントリーしています。 もしよろしければ投票お願いいたします。

病んでる彼女の独白日記

杏栞
ライト文芸
今日も静かに、誰にも言えない独り言を書く。 貴方達には、理解出来ないわよ。私の気持ちなんて ***************** 国語力が皆無です。 とても、とても短いです。 この話はすべてフィクションです。実際の人物、団体、サイト、アプリ等とは全く関係ありません。ご了承ください 小説家になろうでも、同時進行で投稿しております。

『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?

釈 余白(しやく)
ファンタジー
HOT 1位!ファンタジー 3位! ありがとうございます!  父親が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。  その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。  最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。 その他、多数投稿しています! https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

君が笑うから僕も笑う

神谷レイン
ライト文芸
神様に選ばれた善人だけが、死んだ命日から四年後、四日だけこの世に帰ってくる。 それは友人や家族、恋人、大切な人に会いに様々な想いを抱えて。 これはそんなお話が詰まった五作の短編集。 亡くなった人たちが残された人達に語りかける言葉とは?

どうやら私(オタク)は乙女ゲームの主人公の親友令嬢に転生したらしい

海亜
恋愛
大交通事故が起きその犠牲者の1人となった私(オタク)。 その後、私は赤ちゃんー璃杏ーに転生する。 赤ちゃんライフを満喫する私だが生まれた場所は公爵家。 だから、礼儀作法・音楽レッスン・ダンスレッスン・勉強・魔法講座!?と様々な習い事がもっさりある。 私のHPは限界です!! なのになのに!!5歳の誕生日パーティの日あることがきっかけで、大人気乙女ゲーム『恋は泡のように』通称『恋泡』の主人公の親友令嬢に転生したことが判明する。 しかも、親友令嬢には小さい頃からいろんな悲劇にあっているなんとも言えないキャラなのだ! でも、そんな未来私(オタクでかなりの人見知りと口下手)が変えてみせる!! そして、あわよくば最後までできなかった乙女ゲームを鑑賞したい!!・・・・うへへ だけど・・・・・・主人公・悪役令嬢・攻略対象の性格が少し違うような? ♔♕♖♗♘♙♚♛♜♝♞♟ 皆さんに楽しんでいただけるように頑張りたいと思います! この作品をよろしくお願いします!m(_ _)m

処理中です...