5 / 32
五章
えっ、天国? それとも、ただの聞き間違い?
しおりを挟む
朝日の差し込む部屋のなかをかん高い目覚し時計の音が響きわたる。
真梨子はベットの上でもぞもぞと身じろぎした。ぼうっとしている頭が徐々に目を覚ましはじめる。
――そっか。あのまま眠っちゃったんだ……。
子供のように泣きつかれて眠ってしまったことに気がついてなんともばつの悪い思いをした。知っている人間が誰もいないのが救いだ。ひとり暮らしにもたまにはいいこともある。
それにしても喉が渇いていた。皮膚という皮膚がすべて水分を失い、かさかさになっているかのよう。湯船のなかに二四時間でもつかっていなければもとに戻らないかも。
ミイラになったような気のする腕をのろのろと伸ばし、けたたましくベルを鳴らしつづける目覚し時計を手にとった。目ヤニのたまった充血した寝ぼけ眼で文字盤を見る……。
「やばっ! もうこんな時間」
仰天して飛び起きる。急がないと遅刻だ。落ち込もうが、泣きつかれて眠ってしまおうが、八年間つづけてきた習性は失われるものではない。
ベッドから飛び降りた。ぼさぼさの髪を指てすいた。服のまま眠ってしまったことを思い出してこんなことでは間に合わないとあわてふためく。
「ああ、もう!」
苛々と叫びながら服に手をかけた。服から、下着から、すべて乱暴に脱ぎすて、その場に放り出し、バスルームに直行。女らしさのかけらもないふるまいだが誰も見ていないからいいのである。
熱いシャワーと冷たいシャワーを交互に浴びて頭をしゃっきりさせ、ミイラになったような皮膚にうるおいを取り戻す。すぐに飛び出してろくに体を拭きもしないままクローゼットに飛びつき、着ていく服を引っかきまわす。が……。
「うそでしょお」
絶望のうめきを上げた。目をつぶって天を仰いだ。下着がない。ここ数日、洗濯をさぼっていたのを思い出した。おかげで下着の棚は空っぽ。
「じょ、冗談じゃないわよ! ノーパンで仕事になんか行けるわけないでしょお。だから、洗濯は毎日きちんとしろって言ってるのに……昨日までのあたしのバカ! 責任とれ!」
自分で自分を罵りながら、せめて下着の一枚や二枚、ないものかとクローゼットのなかを掘り起こす。
「一枚や二枚、あるはずよ! だって、買ってきた下着をそのまま放り込んで忘れているなんてしょっちゅうだもの。おかげで、買った覚えもない下着が見つかるなんてざらなんだから」
後で冷静になってみれば、あまりにだらしない暮らしぶりに自殺したくなるようなことを言いながら、探しつづける。すると――。
たしかにあった。クローゼットの奥のおく、ズボラな主人の手を逃れて無事に潜んでいた下着の勇者が。
「……やった!」
と、安堵したのもつかの間、広げて見せたその下着はなんと淡い紫のレース……。
「な、なんでこんなのが……ああ、そうか」
もう何年前のことだろう。デートともすっかり縁遠くなったまま、下着専門店によったとき、ふと見かけ、『こんなセクシーな下着でもつけてたら何かかわるかも……』という淡い期待とも予感ともつかぬものを抱いて買ったのだ。結局、一度も身につけることなくクローゼットの奥に押しこめられていたけれど。
しかし、こんなにセクシーだったとは。あらためて見ればみるほど顔が赤らんでくる。とても職場につけていけるような下着ではない。まして、あたしは弁護士。お堅い職業だ。こんな下着はつけていけない。こんなのはいたら、まるでAV女優のコスプレ……。
「……ああ、でも他にないものね。仕方がない。ノーパンよりはましだわ」
――とうせ、誰かに見せるわけでもなし。
ほとんどやけくそでそう呟き、やむにやまれず身につけた。それからスーツを取り出し、何とか身仕度を整える。そこで時計を確認する。まだ少しはある。キッチンの棚からこういうときのために常備してあるコーンフレークをひっぱりだし、パンの袋についているシールを集めてもらった皿にぶちまけ、牛乳をかけて立ったまま一気にかきこむ。安物のインスタント・コーヒーを普段よりも濃い目にいれて、一息に飲み干す。熱さと渋みとついでに不快なエグミとが舌と喉を直撃し、真梨子は思いきり顔をしかめた。でも、おかげで何とか腹ごしらえもできたし、頭もすっきりした。皿を洗うのは帰ってからのことにしてテーブルの上に放り出したまま部屋を出た。つっかけるようにして靴を履き、まだ濡れている髪を手で整えながら駅に向かって駆けていく。
「お早うございます!」
息を切らせて顔中を汗て濡らして事務所に飛び込んだ。すでに他のメンバーは席について朝のミーティングの準備中。視線が一斉に真梨子に向いた。
会議席の一番向こうに裁判官のような態度で立っている島村がおもむろに腕を上げ、腕時計に目をやった。いかにも残念そうに舌打ちする。
「惜しかったな。あと五秒遅ければ減給してやれたのに」
金の亡者な島村は部下の給料をけずるチャンスは見逃さない。朝のミーティングに遅れた場合、分刻みどころか秒刻みで減給されるのだ。
『わずかな金を惜しんでのことじゃない。弁護士として常に緊張感を保って仕事をしてもらうためだ』
などという言い訳は一切せず、『一円でも出したくないから』と公言してはばからないその態度がいっそ潔い。
真梨子は作り笑いを浮かべながら席に着いた。
――給料しか期待できない職場なのに減給なんてされてたまるもんですか。
と、心のうちで毒つきながら。
ミーティングがはじまった。
そのほとんどはいつも通りの内容で真梨子の気を引くようなものはなかった。だが、最後の最後で真梨子の脳天を直撃する名前が現れた。島村は資料をめくりながら言ったのだ。
「ええと、それから……今日は新しい依頼人がくる。名前は森山鴻志……」
真梨子はベットの上でもぞもぞと身じろぎした。ぼうっとしている頭が徐々に目を覚ましはじめる。
――そっか。あのまま眠っちゃったんだ……。
子供のように泣きつかれて眠ってしまったことに気がついてなんともばつの悪い思いをした。知っている人間が誰もいないのが救いだ。ひとり暮らしにもたまにはいいこともある。
それにしても喉が渇いていた。皮膚という皮膚がすべて水分を失い、かさかさになっているかのよう。湯船のなかに二四時間でもつかっていなければもとに戻らないかも。
ミイラになったような気のする腕をのろのろと伸ばし、けたたましくベルを鳴らしつづける目覚し時計を手にとった。目ヤニのたまった充血した寝ぼけ眼で文字盤を見る……。
「やばっ! もうこんな時間」
仰天して飛び起きる。急がないと遅刻だ。落ち込もうが、泣きつかれて眠ってしまおうが、八年間つづけてきた習性は失われるものではない。
ベッドから飛び降りた。ぼさぼさの髪を指てすいた。服のまま眠ってしまったことを思い出してこんなことでは間に合わないとあわてふためく。
「ああ、もう!」
苛々と叫びながら服に手をかけた。服から、下着から、すべて乱暴に脱ぎすて、その場に放り出し、バスルームに直行。女らしさのかけらもないふるまいだが誰も見ていないからいいのである。
熱いシャワーと冷たいシャワーを交互に浴びて頭をしゃっきりさせ、ミイラになったような皮膚にうるおいを取り戻す。すぐに飛び出してろくに体を拭きもしないままクローゼットに飛びつき、着ていく服を引っかきまわす。が……。
「うそでしょお」
絶望のうめきを上げた。目をつぶって天を仰いだ。下着がない。ここ数日、洗濯をさぼっていたのを思い出した。おかげで下着の棚は空っぽ。
「じょ、冗談じゃないわよ! ノーパンで仕事になんか行けるわけないでしょお。だから、洗濯は毎日きちんとしろって言ってるのに……昨日までのあたしのバカ! 責任とれ!」
自分で自分を罵りながら、せめて下着の一枚や二枚、ないものかとクローゼットのなかを掘り起こす。
「一枚や二枚、あるはずよ! だって、買ってきた下着をそのまま放り込んで忘れているなんてしょっちゅうだもの。おかげで、買った覚えもない下着が見つかるなんてざらなんだから」
後で冷静になってみれば、あまりにだらしない暮らしぶりに自殺したくなるようなことを言いながら、探しつづける。すると――。
たしかにあった。クローゼットの奥のおく、ズボラな主人の手を逃れて無事に潜んでいた下着の勇者が。
「……やった!」
と、安堵したのもつかの間、広げて見せたその下着はなんと淡い紫のレース……。
「な、なんでこんなのが……ああ、そうか」
もう何年前のことだろう。デートともすっかり縁遠くなったまま、下着専門店によったとき、ふと見かけ、『こんなセクシーな下着でもつけてたら何かかわるかも……』という淡い期待とも予感ともつかぬものを抱いて買ったのだ。結局、一度も身につけることなくクローゼットの奥に押しこめられていたけれど。
しかし、こんなにセクシーだったとは。あらためて見ればみるほど顔が赤らんでくる。とても職場につけていけるような下着ではない。まして、あたしは弁護士。お堅い職業だ。こんな下着はつけていけない。こんなのはいたら、まるでAV女優のコスプレ……。
「……ああ、でも他にないものね。仕方がない。ノーパンよりはましだわ」
――とうせ、誰かに見せるわけでもなし。
ほとんどやけくそでそう呟き、やむにやまれず身につけた。それからスーツを取り出し、何とか身仕度を整える。そこで時計を確認する。まだ少しはある。キッチンの棚からこういうときのために常備してあるコーンフレークをひっぱりだし、パンの袋についているシールを集めてもらった皿にぶちまけ、牛乳をかけて立ったまま一気にかきこむ。安物のインスタント・コーヒーを普段よりも濃い目にいれて、一息に飲み干す。熱さと渋みとついでに不快なエグミとが舌と喉を直撃し、真梨子は思いきり顔をしかめた。でも、おかげで何とか腹ごしらえもできたし、頭もすっきりした。皿を洗うのは帰ってからのことにしてテーブルの上に放り出したまま部屋を出た。つっかけるようにして靴を履き、まだ濡れている髪を手で整えながら駅に向かって駆けていく。
「お早うございます!」
息を切らせて顔中を汗て濡らして事務所に飛び込んだ。すでに他のメンバーは席について朝のミーティングの準備中。視線が一斉に真梨子に向いた。
会議席の一番向こうに裁判官のような態度で立っている島村がおもむろに腕を上げ、腕時計に目をやった。いかにも残念そうに舌打ちする。
「惜しかったな。あと五秒遅ければ減給してやれたのに」
金の亡者な島村は部下の給料をけずるチャンスは見逃さない。朝のミーティングに遅れた場合、分刻みどころか秒刻みで減給されるのだ。
『わずかな金を惜しんでのことじゃない。弁護士として常に緊張感を保って仕事をしてもらうためだ』
などという言い訳は一切せず、『一円でも出したくないから』と公言してはばからないその態度がいっそ潔い。
真梨子は作り笑いを浮かべながら席に着いた。
――給料しか期待できない職場なのに減給なんてされてたまるもんですか。
と、心のうちで毒つきながら。
ミーティングがはじまった。
そのほとんどはいつも通りの内容で真梨子の気を引くようなものはなかった。だが、最後の最後で真梨子の脳天を直撃する名前が現れた。島村は資料をめくりながら言ったのだ。
「ええと、それから……今日は新しい依頼人がくる。名前は森山鴻志……」
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。
にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。
父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。
恋に浮かれて、剣を捨た。
コールと結婚をして初夜を迎えた。
リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。
ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。
結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。
混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。
もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと……
お読みいただき、ありがとうございます。
エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。
それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
夫から国外追放を言い渡されました
杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。
どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。
抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。
そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる