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はじまりの部
最後の希望(3)
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そこで目が覚めた。
いまにもくずれ落ちそうな天井が目に入った。
「……また、あの夢か」
呟いた。舌打ちした。額にべったりとはりついた汗をぬぐった。小屋の窓から橙色の光が差し込んでいた。ギクリとした。あの怪物、《すさまじきもの》がやってきて破壊してまわっているのか。
そう思ったのだ。
そうではないことはすぐにわかった。外からは悲鳴も、泣き叫ぶ声も聞こえない。聞こえるのは楽しげな歌声だけだった。
シュランドは起きあがった。窓に近付いた。外をのぞき込んだ。橙色の光が少年の顔を赤く染めあげた。
そこでは宴の真っ最中だった。巨大な篝火がたかれ、そのまわりを村人全員で囲んでいる。歌い、踊り、肉を食い、酒を飲み交わしている。熊ほどの大型動物をしとめることができるのは年にそう何回もあることではない。まして、森の主ともいうべき巨熊ならなおさらだ。それだけの大量の肉が手に入ったのだ。我を忘れて浮かれ騒ぐのも当然だった。
シュランドはしばらくの間、窓辺からその光景をじっと見つめていた。やがて、背を向けた。藁の山に戻ろうとした。『宴に参加しよう』などとはちらりとも思わなかった。シュランドがそう願ったところで村人たちが許してくれない。シュランドが宴に参加すれば神聖なる祭りを汚すことになる。それは村人たちにとって絶対に許容できないことだった。
一体、いままでに何度、自分もせめて気分だけでも味わいたいとこっそり近づき、発見されて半殺しの目にあったことか。いまさらそんなことを繰り返すのはごめんだ……。
ふと気が付くと、窓辺に握り飯が三つ、転がっていた。シュランドの分の夕食だ。シュランドが寝ている間に当番の誰かが窓から放り込んでいったのだろう。シュランドはそれをひろい、藁の山の前に座り込んだ。火をおこし、握り飯を食った。小さな熊の毛皮を火であぶり、その裏にこびりついているわずかばかりの肉と脂を舐めるようにして食った。
「……みじめな姿」
突然、声がした。感情というものを感じさせない冷淡そのものの口調。少年の境遇にわずかばかりの同情さえ感じていない声。
シュランドはその声にびくりと身を震わせた。それはシュランドのよく知る声、聞かされるたびに『二度と聞きたくない』と思う声だった。
声はさらに言った。
「最後の陰陽師ともあろうものが家畜以下の扱いに甘んじている。その気になれば彼ら全員、打ち倒して、逆に支配することもできるのに」
シュランドは声の主を見た。
そこにいたのはひとりの少女。シュランドとさほどかわらない体格をした小柄で華奢な女の子だった。短く整えられたさらさらの銀の髪。紅玉よりも赤く輝く深紅の瞳。ぬけるような白い肌。感情というものをなにひとつ持ち合わせていないかのような淡々とした表情。
《姫》。
シュランドがそう呼んでいる存在だった。
「……また、お前か」
シュランドは吐き捨てた。迷惑がっていることを隠そうともしていない。
「つれない態度。ほんの子供の頃からの付き合いなのに」
「そのせいでおれは迷惑したんだ!」
シュランドは怒鳴った。
昔から《姫》はシュランドの前にしか現われなかった。他人がいるときには決して現われなかった。シュランド以外の村人の前に現われることもない。だから、シュランドがいくら《姫》のことを言っても村人たちの誰ひとりとして信用してはくれなかった。
――『あの穢れ』がまたつまらん嘘を。
そうとしか思われなかった。
「お前のおかげでおれは嘘つき呼ばわりされたんだぞ!」
「どうせ、嘘つき呼ばわりされて困るほどのまともな扱いは受けていない」
「そりゃそうだけど……」
シュランドは渋々、言った。そう言われては認めるしかない。たしかに、嘘つき呼ばわりされようがされまいが、シュランドの『家畜以下』の扱いにちがいがあるわけではない。
「それより、なにしにきたんだ?」
シュランドが尋ねた。
「別に」と、《姫》。
「ただ、最後の陰陽師がいつまでこんな暮らしに甘んじているのかが気になる。そろそろ恨みを晴らそうという気にならない?」
「馬鹿いえ。おれは村の人たちを恨んでなんかいない。おれの親父のせいで高天原を滅ぼされたんだ。おれのことを殺しても飽き足らなく思うのも当然だ。殺されなかっただけ感謝してるさ」
「つまり、村人たちを恨んでいる」
「なに?」
「わたしは『村人への恨み』なんて言っていない。恨んでいるのでなければそう受け取るはずがない」
シュランドはムッとした様子で押し黙った。視線をそらし、唇を噛み締めた。
「……村の人たちを恨んでなんかいない」
シュランドは小さな声でそう呟いた。
「父親への恨みは?」
「なに?」
「人類を裏切り、あなたをこんな境遇に追い落とした父親への恨みはない? あなたの父親さえ人類を裏切らなければこんなことにはならずにすんだのに」
「あるさ、決まってるだろ!」
シュランドは叫んだ。立ちあがった。手のひらに爪が食い込んで血がにじむほどに強く、拳を握り締め、憎悪にたぎる目で《姫》を見た。これに関しては本心を隠す必要も、目をそらせる必要もなかった。
「あいつのせいでこんなことになったんだ! 高天原は滅び、生き延びた人々は小さな村を作って細々と暮らしていくのがせいいっぱい。いつ《すさまじきもの》に襲われ、殺されるかも知れないという不安を抱えながらその日暮しをつづけなきゃならなくなったんだ。こんなもの、人間の暮らしと言えるか!」
シュランドはむき出しの地面を蹴り付けた。
「おれたちはもう人間じゃない。道具を使うだけの動物の群れだ。それもこれもすべてはあいつ、ヤシャビトが裏切ったせいなんだ。恨まずにいられるものか!」
「では、どうする?」
「なに?」
「その恨みを抱えたまま、一生、家畜以下の扱いを受けて過ごす?」
「馬鹿いえ。誰がこんな暮らしをつづけていくか。いつかは……そうさ、いつかはこの村を出て……」
「出てどうする?」
「……ヤシャビトを捜す」
「探してどうする?」
「殺す」
きっぱりと、いささかの迷いもなくシュランドは言い切った。そう言い切ったときのシュランドの目は一点の曇りもない、純粋すぎるほどに純粋なものだった。
「そうだ。やつがなんで人類を裏切ったのか。そんなことはどうでもいい。とにかく、やつは人類を裏切った。その報いは受けさせてやる。必ずな。そして……そして……」
「そして?」
「おれが《すさまじきもの》を倒す」
はじめて――。
表情というものをもたない《姫》の顔に表情らしきものが浮かんだ。
「あなたが?」
聞き返した。
シュランドは力強くうなずいた。
「ああ、そうだ。《すさまじきもの》を倒し、高天原を再興させる。もう一度、みんなにあの暮らしをさせてやるんだ。平和で、豊かで、なんの心配もなく過ごせていたあの暮らしをな」
「できるつもり? あなたはまだ陰陽師としての力にも目覚めていないのに」
「目覚めてやるさ。おれは最後の陰陽師だ。《すさまじきもの》を倒し、高天原を再興させるのはおれの義務であり、責任なんだ。なんとしてもやり遂げてやる」
「そう……」
《姫》は小さく呟いた。深紅の瞳がふと遠くを見たようだった。
「……期待している」
その一言を残し――。
《姫》は小屋のなかから姿を消した。
ひとり、小屋のなかにとり残されたシュランドはポツリと呟いた。
「……いつかは、か。それは、いつだ? その『いつか』っていつのことなんだ?」
――いまだ。
そう思った。
自分はもう無力な子供などではない。幾人ものおとなの狩人たちを食い殺したあの巨熊さえ、自分は打ち倒したではないか。たとえ、陰陽師としての能力はなくても戦士としての技量はもう充分に備わっている。旅立つ準備はできているはずだ。
あるいは……そう、あるいはその巨熊が現われたのは自分にとっての試練ではなかったか。この村を出、父を探す時機がきたことを告げるため、あの巨熊は自分の前に現われたのではないか。いま思えばそんな気がする。それは正しいことのように思えた。
「……そう。いまこそその『いつか』だ。すぐにでも旅立つべきだ」
もとより、この村に未練を残す理由はない。決心すればためらうことはない。シュランドは準備に取り掛かった。家々をめぐり、小さな鍋や釜など、旅に必要なものを最小限失敬した。宴に浮かれる間に盗み出すのはシュランドにとっては造作もないことだった。
シュランドは小屋に戻った。失敬した品々を袋に詰め込んだ。そして、一枚の毛布を大切に手に取った。ぼろぼろに擦り切れた古い毛布。すっかり薄くなり、穴も開いている。まだほんの小さい頃に与えられたただ一枚の毛布。もうシュランドの全身をおおうことはできないけれど……それでもシュランドはこの毛布を置いていく気にはなれなかった。寒い夜にシュランドの身を包み温めてくれたのはこの毛布だけだった。シュランドにとってはこの毛布だけがたったひとりの家族なのだ。
シュランドは毛布を丁寧に袋のなかにしまった。袋の口を締め、肩に担いだ。小屋を出た。胸の奥の不安を忘れようとするかのように浮かれ騒ぐ人々に背を向けて、少年は歩き出した。
空を見上げた。白銀の月が空に浮いていた。その向こう、向かい側の大地はいまごろ、太陽の光に照らされているはずだ。
――あそこまで行けば……。
ふと、そんなことを思った。
――あそこまで行けばおれを受け入れてくれる人たちがいるかも知れない。
自分がなにものか知らない人たちのところにいけば、自分でも普通に暮らせるかも知れない。他の人たちと笑って過ごせるかも知れない。それにもしかしたら……恋人だってできるかも知れない。あそこまで行けば……。
シュランドはかぶりを振った。自分に言い聞かせるためにあえて口に出して言った。
「……それはだめだ。おれは最後の陰陽師。裏切り者の息子。おれには人々を救う義務があり、責任がある。人並みの暮らしなんて、望んではいけないんだ」
シュランドは顔をあげた。それからはもう迷うことはなく、真っすぐに前だけを見つめて歩き出した。
そんなシュランドの後ろ姿をひとり、静かにたたずみながら見つめているものがいた。
《姫》である。
「『最期の力』がついに旅立った」
そう呟く《姫》の表情はシュランドの前にいるときからは想像もできないほど引き締まり、恐いほどの真摯さに満ちていた。
「……いまだに目覚めないとはヤシャビトの封印のなんという強さ。破るためには相当の仕掛けが必要。
それに、目覚めたところで人類につくとは限らない。すべてを知ればヤシャビトと同じ道を行くかも知れない。そうなればこの世は滅びる。でも、それでも、彼が目覚めなければこの世は終わる。彼に賭けるしかない」
その呟きを残し、《姫》は消え去った。
いまにもくずれ落ちそうな天井が目に入った。
「……また、あの夢か」
呟いた。舌打ちした。額にべったりとはりついた汗をぬぐった。小屋の窓から橙色の光が差し込んでいた。ギクリとした。あの怪物、《すさまじきもの》がやってきて破壊してまわっているのか。
そう思ったのだ。
そうではないことはすぐにわかった。外からは悲鳴も、泣き叫ぶ声も聞こえない。聞こえるのは楽しげな歌声だけだった。
シュランドは起きあがった。窓に近付いた。外をのぞき込んだ。橙色の光が少年の顔を赤く染めあげた。
そこでは宴の真っ最中だった。巨大な篝火がたかれ、そのまわりを村人全員で囲んでいる。歌い、踊り、肉を食い、酒を飲み交わしている。熊ほどの大型動物をしとめることができるのは年にそう何回もあることではない。まして、森の主ともいうべき巨熊ならなおさらだ。それだけの大量の肉が手に入ったのだ。我を忘れて浮かれ騒ぐのも当然だった。
シュランドはしばらくの間、窓辺からその光景をじっと見つめていた。やがて、背を向けた。藁の山に戻ろうとした。『宴に参加しよう』などとはちらりとも思わなかった。シュランドがそう願ったところで村人たちが許してくれない。シュランドが宴に参加すれば神聖なる祭りを汚すことになる。それは村人たちにとって絶対に許容できないことだった。
一体、いままでに何度、自分もせめて気分だけでも味わいたいとこっそり近づき、発見されて半殺しの目にあったことか。いまさらそんなことを繰り返すのはごめんだ……。
ふと気が付くと、窓辺に握り飯が三つ、転がっていた。シュランドの分の夕食だ。シュランドが寝ている間に当番の誰かが窓から放り込んでいったのだろう。シュランドはそれをひろい、藁の山の前に座り込んだ。火をおこし、握り飯を食った。小さな熊の毛皮を火であぶり、その裏にこびりついているわずかばかりの肉と脂を舐めるようにして食った。
「……みじめな姿」
突然、声がした。感情というものを感じさせない冷淡そのものの口調。少年の境遇にわずかばかりの同情さえ感じていない声。
シュランドはその声にびくりと身を震わせた。それはシュランドのよく知る声、聞かされるたびに『二度と聞きたくない』と思う声だった。
声はさらに言った。
「最後の陰陽師ともあろうものが家畜以下の扱いに甘んじている。その気になれば彼ら全員、打ち倒して、逆に支配することもできるのに」
シュランドは声の主を見た。
そこにいたのはひとりの少女。シュランドとさほどかわらない体格をした小柄で華奢な女の子だった。短く整えられたさらさらの銀の髪。紅玉よりも赤く輝く深紅の瞳。ぬけるような白い肌。感情というものをなにひとつ持ち合わせていないかのような淡々とした表情。
《姫》。
シュランドがそう呼んでいる存在だった。
「……また、お前か」
シュランドは吐き捨てた。迷惑がっていることを隠そうともしていない。
「つれない態度。ほんの子供の頃からの付き合いなのに」
「そのせいでおれは迷惑したんだ!」
シュランドは怒鳴った。
昔から《姫》はシュランドの前にしか現われなかった。他人がいるときには決して現われなかった。シュランド以外の村人の前に現われることもない。だから、シュランドがいくら《姫》のことを言っても村人たちの誰ひとりとして信用してはくれなかった。
――『あの穢れ』がまたつまらん嘘を。
そうとしか思われなかった。
「お前のおかげでおれは嘘つき呼ばわりされたんだぞ!」
「どうせ、嘘つき呼ばわりされて困るほどのまともな扱いは受けていない」
「そりゃそうだけど……」
シュランドは渋々、言った。そう言われては認めるしかない。たしかに、嘘つき呼ばわりされようがされまいが、シュランドの『家畜以下』の扱いにちがいがあるわけではない。
「それより、なにしにきたんだ?」
シュランドが尋ねた。
「別に」と、《姫》。
「ただ、最後の陰陽師がいつまでこんな暮らしに甘んじているのかが気になる。そろそろ恨みを晴らそうという気にならない?」
「馬鹿いえ。おれは村の人たちを恨んでなんかいない。おれの親父のせいで高天原を滅ぼされたんだ。おれのことを殺しても飽き足らなく思うのも当然だ。殺されなかっただけ感謝してるさ」
「つまり、村人たちを恨んでいる」
「なに?」
「わたしは『村人への恨み』なんて言っていない。恨んでいるのでなければそう受け取るはずがない」
シュランドはムッとした様子で押し黙った。視線をそらし、唇を噛み締めた。
「……村の人たちを恨んでなんかいない」
シュランドは小さな声でそう呟いた。
「父親への恨みは?」
「なに?」
「人類を裏切り、あなたをこんな境遇に追い落とした父親への恨みはない? あなたの父親さえ人類を裏切らなければこんなことにはならずにすんだのに」
「あるさ、決まってるだろ!」
シュランドは叫んだ。立ちあがった。手のひらに爪が食い込んで血がにじむほどに強く、拳を握り締め、憎悪にたぎる目で《姫》を見た。これに関しては本心を隠す必要も、目をそらせる必要もなかった。
「あいつのせいでこんなことになったんだ! 高天原は滅び、生き延びた人々は小さな村を作って細々と暮らしていくのがせいいっぱい。いつ《すさまじきもの》に襲われ、殺されるかも知れないという不安を抱えながらその日暮しをつづけなきゃならなくなったんだ。こんなもの、人間の暮らしと言えるか!」
シュランドはむき出しの地面を蹴り付けた。
「おれたちはもう人間じゃない。道具を使うだけの動物の群れだ。それもこれもすべてはあいつ、ヤシャビトが裏切ったせいなんだ。恨まずにいられるものか!」
「では、どうする?」
「なに?」
「その恨みを抱えたまま、一生、家畜以下の扱いを受けて過ごす?」
「馬鹿いえ。誰がこんな暮らしをつづけていくか。いつかは……そうさ、いつかはこの村を出て……」
「出てどうする?」
「……ヤシャビトを捜す」
「探してどうする?」
「殺す」
きっぱりと、いささかの迷いもなくシュランドは言い切った。そう言い切ったときのシュランドの目は一点の曇りもない、純粋すぎるほどに純粋なものだった。
「そうだ。やつがなんで人類を裏切ったのか。そんなことはどうでもいい。とにかく、やつは人類を裏切った。その報いは受けさせてやる。必ずな。そして……そして……」
「そして?」
「おれが《すさまじきもの》を倒す」
はじめて――。
表情というものをもたない《姫》の顔に表情らしきものが浮かんだ。
「あなたが?」
聞き返した。
シュランドは力強くうなずいた。
「ああ、そうだ。《すさまじきもの》を倒し、高天原を再興させる。もう一度、みんなにあの暮らしをさせてやるんだ。平和で、豊かで、なんの心配もなく過ごせていたあの暮らしをな」
「できるつもり? あなたはまだ陰陽師としての力にも目覚めていないのに」
「目覚めてやるさ。おれは最後の陰陽師だ。《すさまじきもの》を倒し、高天原を再興させるのはおれの義務であり、責任なんだ。なんとしてもやり遂げてやる」
「そう……」
《姫》は小さく呟いた。深紅の瞳がふと遠くを見たようだった。
「……期待している」
その一言を残し――。
《姫》は小屋のなかから姿を消した。
ひとり、小屋のなかにとり残されたシュランドはポツリと呟いた。
「……いつかは、か。それは、いつだ? その『いつか』っていつのことなんだ?」
――いまだ。
そう思った。
自分はもう無力な子供などではない。幾人ものおとなの狩人たちを食い殺したあの巨熊さえ、自分は打ち倒したではないか。たとえ、陰陽師としての能力はなくても戦士としての技量はもう充分に備わっている。旅立つ準備はできているはずだ。
あるいは……そう、あるいはその巨熊が現われたのは自分にとっての試練ではなかったか。この村を出、父を探す時機がきたことを告げるため、あの巨熊は自分の前に現われたのではないか。いま思えばそんな気がする。それは正しいことのように思えた。
「……そう。いまこそその『いつか』だ。すぐにでも旅立つべきだ」
もとより、この村に未練を残す理由はない。決心すればためらうことはない。シュランドは準備に取り掛かった。家々をめぐり、小さな鍋や釜など、旅に必要なものを最小限失敬した。宴に浮かれる間に盗み出すのはシュランドにとっては造作もないことだった。
シュランドは小屋に戻った。失敬した品々を袋に詰め込んだ。そして、一枚の毛布を大切に手に取った。ぼろぼろに擦り切れた古い毛布。すっかり薄くなり、穴も開いている。まだほんの小さい頃に与えられたただ一枚の毛布。もうシュランドの全身をおおうことはできないけれど……それでもシュランドはこの毛布を置いていく気にはなれなかった。寒い夜にシュランドの身を包み温めてくれたのはこの毛布だけだった。シュランドにとってはこの毛布だけがたったひとりの家族なのだ。
シュランドは毛布を丁寧に袋のなかにしまった。袋の口を締め、肩に担いだ。小屋を出た。胸の奥の不安を忘れようとするかのように浮かれ騒ぐ人々に背を向けて、少年は歩き出した。
空を見上げた。白銀の月が空に浮いていた。その向こう、向かい側の大地はいまごろ、太陽の光に照らされているはずだ。
――あそこまで行けば……。
ふと、そんなことを思った。
――あそこまで行けばおれを受け入れてくれる人たちがいるかも知れない。
自分がなにものか知らない人たちのところにいけば、自分でも普通に暮らせるかも知れない。他の人たちと笑って過ごせるかも知れない。それにもしかしたら……恋人だってできるかも知れない。あそこまで行けば……。
シュランドはかぶりを振った。自分に言い聞かせるためにあえて口に出して言った。
「……それはだめだ。おれは最後の陰陽師。裏切り者の息子。おれには人々を救う義務があり、責任がある。人並みの暮らしなんて、望んではいけないんだ」
シュランドは顔をあげた。それからはもう迷うことはなく、真っすぐに前だけを見つめて歩き出した。
そんなシュランドの後ろ姿をひとり、静かにたたずみながら見つめているものがいた。
《姫》である。
「『最期の力』がついに旅立った」
そう呟く《姫》の表情はシュランドの前にいるときからは想像もできないほど引き締まり、恐いほどの真摯さに満ちていた。
「……いまだに目覚めないとはヤシャビトの封印のなんという強さ。破るためには相当の仕掛けが必要。
それに、目覚めたところで人類につくとは限らない。すべてを知ればヤシャビトと同じ道を行くかも知れない。そうなればこの世は滅びる。でも、それでも、彼が目覚めなければこの世は終わる。彼に賭けるしかない」
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