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第四話 現実を知る

二三章 差別なき世界を

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 遙かな草原よりチノという名の老人はやってきた。
 ボド・チャグがいかにも『鉱夫こうふ!』という印象なのに対し、やせ形で穏やかな風貌ふうぼうをした、学者風の人物だった。実際、本職は博物学者であり、若い頃から大陸中を旅して研究に励んできたという。
 ――そんな世界的博物学者がなぜ、下水の改善を?
 ハリエットはそう思ったが、チノはそんなことを説明する気はないようだった。ハリエットに会うが早いか挨拶もそこそこに話を聞きたがった。国王、それもいまや諸国連合の盟主たるハリエットに対し、ろくに礼儀も払わない。そのあたりの浮き世離れした態度はまちがいなく『学者』というものだった。
 話を聞き終えたチノは生徒の相談に乗る教師そのままの態度でうなずいた。
 「ふむ。なるほど。下水の改善か」
 「はい。あのような劣悪な環境で人を働かせておくわけには行きません。そして、あのような劣悪な仕事がある限り、差別もまた、なくならない。差別をなくし、人々が平等に暮らせる世界にするためには『誰もやりたくないけれど誰かがやらなくてはならない仕事』をなくさなければならないのです。そのために……なんとしても、下水環境を改善したいのです。
 そのことをボド・チャグきょうに相談してみたところ、あなたが下水を地下庭園化するとのお考えをおもちだと聞きました。そのために来ていただいたのです」
 「ふむ』
 と、チノは重々しくうなずいた。いかにももったいぶったその態度が世間一般から見れば『学者ぶっている』と鼻につくことだろう。
 「その説明をする前にまず、現場を見て頂こうか」
 「現場?」

 チノがハリエットを連れてきたのは馬の繁殖はんしょくじょうとして使われている草原だった。
 「この繁殖はんしょくじょうがなにか?」
 ハリエットは戸惑いながら尋ねた。
 この繁殖はんしょくじょうであればいままでに何度も視察に訪れ、馴染みがある。いまさら、こんな所を見せてなにをしようと言うのだろう?
 露骨ろこつにそう思っている表情だった。
 腹心ふくしんとしていつも通りハリエットに付き従うジェイとアステスも同じ表情を浮かべている。とくに、自ら創意工夫の才を誇るアステスはこの老人をいかにも胡散うさんくさそうな目で見据えている。
 チノはその視線を無視して――浮き世離れした学者らしく、ただ単に気付いていないだけかも知れないが――草原に向けて大きく両手を広げて見せた。
 「見るがいい。この草原を。なんとも広大で、しかも、清浄なことではないか」
 「え、ええ、そうですね……」
 ――なんで、そんな当たり前のことを……。
 ハリエットはチノの言葉にそう思った。草原が広大で清浄であることなんて当たり前のこと。そんな当たり前のことを言ってどうしようというのでしょう?
 チノは言葉をつづけた。
 「不思議に思ったことはないかね? この草原にはこれほど多くの馬がいて日々、小便しょうべんをたらし、くそをひり出しておる。にもかかわらず、この草原はかくも清浄に保たれておる。下水のような不衛生さはひとつもない」
 「そう言えば……」
 ハリエットは虚を突かれて改めて草原を見渡した。
 言われてみればその通り。繁殖はんしょくじょうであるこの草原には大量の馬が生息しており、日々、くそ小便しょうべんを垂れ流している。大量の糞便ふんべんが集まるという意味ではこの草原も下水と同じなはず。にもかかわらず、この草原には下水のような悪臭はない。溜まりにたまった汚物が山を為していることもない。汚物の山に不衛生な害虫が群がっていることもない。
 ――当たり前のことなので、いままで気にしたこともなかったけれど。たしかに、考えてみれば奇妙かも。
 ハリエットはそう思った。
 その隣ではジェイとアステスも同じように虚を突かれた表情で草原を見渡している。
 チノはつづけた。
 「なぜなら、この草原には生命の循環があるからじゃ」
 「生命の循環?」
 「そうじゃ。この草原においては馬のひり出したくそはまず虫たちに食べられる。くそむしと言われる昆虫たちじゃな。獣のくそくそむしたちに食われて消え去り、くそむしくそはさらに小さな土のなかの生き物に食われる。そうして、くそは土に返る。土に返ったくそは新たな植物を育てるかてとなる。その植物を食って獣たちは育つ。
 そして、またくそをして、そのくそくそむしが食い、くそむしくそをより小さな生き物が食い、土に戻ったくそかてに植物が育ち、それをまた獣が食い……という生命の循環が完成しておるのじゃ。くそを食って増えたくそむしたちも他の生き物に食われることでかてとなり、この豊かな草原を支えておる。
 生命の循環とは食われること。自然は食われることによって清浄さを維持しておる。他の生き物に食われることを拒否した人間はまこと、自然の掟に反した生き物。生きる権利ばかりを主張し、生命としての義務を履行りこうしないけしからぬ生き物じゃ」
 と、必要もないのに人類批判をぶったりするあたりがいかにも『先生』なのだった。
 「下水の不浄さもまさにそこからきておる。生命をはぐくむ力のない石と煉瓦れんがで地面を押し固め、本来であれば新たな生命のかてとなる糞便ふんべんを押し流すばかり。そこには糞便ふんべんを土に返す生き物はおらず、生命のかてとして蓄える土もない。それ故に糞便ふんべんは行き場を失い、悪臭を放ち、病のもとともなる。下水掃除に従事じゅうじする人間たちの病にかかる率の高さはご存じかね?」
 「いえ……」
 「およそ、三倍じゃ」
 「三倍⁉ そんなに病気にかかりやすいのですか?」
 「その通りじゃ。あのような悪臭とよどんだ空気のなかで作業をしておれば病気にならない方がどうかしておる」
 「それは、たしかに」
 ジェイとアステスも神妙しんみょう面持おももちでうなずいた。
 下水の実態を知らないうちならば信用しなかっただろう。しかし、その実体を経験したいまとなっては『病気にならない方がどうかしている』という言葉に心からうなずいた。
 「病気になりやすいだけではない。寿命も短い。平均すると下水掃除に従事じゅうじするものたちの寿命はそうでない人間たちに比べて二〇年以上、短い」
 「二〇年以上⁉ そんなに……」
 「おぬしは国王としてその事実を知っておったかの?」
 チノはやや意地が悪そうに尋ねた。
 ハリエットは顔を赤くし、縮こまった。
 「い、いえ……」
 そう言うしかない。実際、いままでそんなことは知らなかったし、そもそも、気にとめたこともない。しかし、そのような劣悪な人生を強いられている人たちのことを知らずにいたのだ。全国民の幸福に対する義務を負う国王としては失格だと言われても仕方がない。
 「しかし、わしとて風呂も使えばかわやも使う。下水なしにはまともな暮らしがいとなめんことは理解しておる。そして、もちろん、わしとて下水掃除などという仕事はしたくない。
 だからと言って、下水掃除に従事じゅうじする人々の犠牲の上に暮らしておるのでは無様すぎる。そんな様ではとても『文明』とは言えん。そこで、わしは下水という概念がいねんそのものをかえることにした。それが、下水の地下庭園化じゃ」
 「地下庭園化……」
 「そうじゃ。下水にこの自然の摂理せつりそのものを取り入れる。石と煉瓦れんがでせっかくの土を押し固めることをやめ、土の再生力をそのまま活かす。糞便ふんべんを食う生き物をはなし、土に吸収させ、植物を育てる。その植物を食う虫を放して育て、その虫たちを採集して他の生き物を育てる。とりたちは虫でもなんでも食う。虫を食って肉と卵にかえてくれる。
 『虫』という仲介ちゅうかいしゃを置くことでわしらはわしら自身のくそ小便しょうべんを新たな食糧にかえることができるのじゃ。鬼部おにべとの戦いがつづき、食糧危機も迫るなか、それは重要な問題でもある。そうじゃろう?」
 「たしかに」と、ハリエットはうなずいた。
 「ですが……」
 と、アステス。言いたいことはわかるが納得できない。そう言う表情だった。
 「『植物を育てる』とおっしゃいましたが、植物が育つためには日の光が必要なはず。日の差さない下水でどうやって植物を育てると言うのです?」
 「うむうむ。いい質問じゃ」
 チノは上機嫌になってうなずいた。
 生徒がまともな質問をしたことで自分の指導力を再認識し、えつっている教師、と言う態度そのままだった。
 「わしもその点が引っかかった。果たして、地下の下水で植物を育てることなど出来るのか、とな。しかし、考えてみれば世界には日の差さない場所などいくらでもある。その代表が地下深くの洞窟じゃな。
 そこで、わしは、日の差さない環境を知るために大陸中の洞窟に潜った。するとどうじゃ。洞窟のなかにも苔類こけるいをはじめ、日の差さない環境のなかでもたくましく生きる多くの植物がおったではないか。興味をもったわしは地下洞窟の生態系を調べぬいた。いまでは、大陸中のどの学者よりもその点についてはくわしいと自負しておる。わしに任せるなら見事、地下洞窟の生態系を再現し、清浄にして美しき地下庭園、まったく新しい下水を作りあげて見せようぞ」
 「……清浄にして美しき地下庭園。まったく新しい下水。それは……なんとも、心の沸き立つお言葉ですね」
 「そうじゃろう、そうじゃろう」
 「そんな下界が実現すれば、そこでの仕事に従事じゅうじする人々が健康を害し、早死にしたり、さげすまれることもなくなるでしょう」
 「当然じゃな。むしろ、生命の循環を司る誉れある職業として尊敬されることじゃろう」
 「それは素晴らしいことです。ぜひとも、実現していただききたいことです」
 ハリエットは希望に満ちた顔でそう言った。
 「しかし……」と、またもアステスが言った。
 「それならばなぜ、あなたはいままでそんな下水を作ろうとしなかったのです?」
 「それは単純な話じゃ。ポリエバトルは遊牧の国。おぬしたちのように都市は作らん。都市を作らんのだから下水も作らん。故に、わしの研究も日の目を見る機会がなかった。それだけのことじゃ」
 「あ、ああ、なるほど」
 アステスも納得した。
 言われて見ればたしかにもっともで、しかも、単純な話だった。生まれたときから都市で育ってきたので、遊牧の国の暮らしぶりが想像できなかったのだ。
 しかし、下水を作ることのないポリエバトルに下水の改善を考える学者が現れる。
 運命の皮肉とはこのことだろうか。ハリエットが下水の改善をこころざし、チノを招くことがなければこの研究も一生、日の目を見ないまま、チノの死と共に消え去っていたかも知れない。しかし、いまや、その研究が日の目を見、世界をかえる第一歩となる可能性が出てきた。
 チノはつづけた。
 「ただし、地下庭園にも欠点はある」
 「欠点?」
 「うむ。生命の循環に従ったやり方はたしかに効果的じゃ。しかし、時間もかかれば、あまりにも大量な処理には向かぬ。馬の繁殖はんしょくじょうにしても馬の数が多すぎれば糞便ふんべんの処理が追いつかず、土壌は糞便ふんべんに覆われ、死んでしまう。そのことは騎士であるおぬしらにはわかるじゃろう?」
 「たしかに」と、ジェイ。
 「馬の繁殖はんしょくじょうにおいては糞便ふんべんの処理は常に重大な問題です。そのために、適切な馬の数に関してはいつも気を使っております」
 「そういうことじゃ。じゃから、あまりに大きな都市の下水としてはこの手は使えん。地下庭園を新しい下水として用いるならば、大都市を作って一カ所に大勢の人間を住まわせるのではなく、小さい都市を幾つも作って分散して住まわせ、それらの都市と都市をつなぎあわせる仕組みを整える必要がある。
 ハリエットどの。おぬしは諸国連合の盟主として、それだけのことをする覚悟があるのかね?」
 「やります」
 きっぱりと――。
 迷いなく、ハリエットは断言した。
 「下水掃除に従事じゅうじする人たちの苦境を知ったからには放置しておくことなど出来ません。王としての責務を果たすため、必ず地下庭園を実現してみせます」
 「よくぞ言った。ならば、このわしもおぬしに忠誠を誓い、地下庭園を実現して見せようぞ」

 チノはさっそく下水に潜り、実地調査を開始した。
 ハリエットたちも礼儀上、同行しようとしたのだが『学識も経験もない素人なんぞいても邪魔になるだけじゃわい。こっちは専門家に任せて、おぬしたちは工事に必要となる費用と人員の工面をしておけ』と、追い返された。
 言い方はともかく言葉の内容そのものは正論だったので、ハリエットたちはおとなしく従った。これがレオナルドやウォルターなら激怒して真っ二つにしているところだが、ハリエットたちはこんなことで腹を立てはしない。せいぜい、アステスが苦笑したぐらいのものである。
 「なんと言うか……いかにも『学者』という感じの浮き世離れした人物ですね」
 「ええ、まったく」と、ハリエットも微笑んだ。
 「ても、頼りになります。あの方ならきっと、地下庭園を実現してくださるでしょう。そうなれば……」
 ――あのような劣悪な環境で人を働かせずにすむ。
 国王としてではなく、ひとりの人間としてそう思うハリエットであった。
 「しかし……」と、ジェイ。
 「我々はもうエンカウン奪還だっかんのための行動を開始しなくてはなりません。下水の改革に付き合っている時間は……」
 「わかっています。これは内政であって軍人であるあなたたちの担当でありはありません。これは、国王としてわたしのやるべきこと。こちらはわたしに任せ、あなたたちはあなたたちの為すべきことに専念してください」
 「はっ」
 ハリエットの言葉に――。
 しゃちほこばって答えるジェイとアステスであった。
 ふふっ、と、ハリエットはそんなふたりに微笑んで見せた。
 「ただ、その前に……わたしもひとつ、思いついたことがあるのです」
 「思いついたこと?」
 「はい」

 その日、下水掃除に従事じゅうじする人々に通達が届いた。
 所定の時刻までに王宮に参内するように、と。
 それと聞いた人々は一様いちように驚き、そして、怯えた。
 自分たちのように『いやしい職業』に従事じゅうじする『いやしい人間』が王宮に呼ばれる。いいことだとはとても思えなかった。なかには生命の危険を感じて逃げ出そうとするものもいたが、
 「まあ、なんと言ってもハリエットさまだ。レオナルド陛下のような無茶はなさるまい」
 ハリエットに対する信頼の方がまさり、おっかなびっくりながら王宮へとやってきた。
 広間へと通された人々を出迎えたもの、それは、テーブルいっぱいに並べられたご馳走だった。
 驚く人々の前にメイド姿のハリエットと女官たち、さらには、執事の服装に身を包んだジェイとアステスが現れた。
 ハリエットは深々と従者の礼を取り、『いやしい人間たち』に向かって言った。
 「あなた方のご苦労も知らず、安穏あんのんとして暮らしてきたことをお詫び申しあげます。あなた方の尽力があってこそのわたしたちの暮らしだと言うのに、そのことに気付きもしませんでした。今宵こよい、あなた方のご苦労に報いるためにささやかな宴をご用意させていただきました。せめて、今宵こよいばかりはこの王宮の主として楽しまれていってください」
 これがハリエットの『思いついた』こと。世間からはさげすまれる、しかし、絶対に必要な職業に従事じゅうじしている人々を定期的に王宮に招き、もてなす。金では買えない名誉を贈ることでさげすまれる人々の地位を高め、労に報いる。
 そのための仕組み。
 ハリエットの思いつきからはじまったこの儀式こそは『日の当たらない場所で自分の職務に励む人々が報われる場所を作る』という『新しい国』の根幹となっていくのだった。
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