23 / 36
第四話 現実を知る
二三章 差別なき世界を
しおりを挟む
遙かな草原よりチノという名の老人はやってきた。
ボド・チャグがいかにも『鉱夫!』という印象なのに対し、やせ形で穏やかな風貌をした、学者風の人物だった。実際、本職は博物学者であり、若い頃から大陸中を旅して研究に励んできたという。
――そんな世界的博物学者がなぜ、下水の改善を?
ハリエットはそう思ったが、チノはそんなことを説明する気はないようだった。ハリエットに会うが早いか挨拶もそこそこに話を聞きたがった。国王、それもいまや諸国連合の盟主たるハリエットに対し、ろくに礼儀も払わない。そのあたりの浮き世離れした態度はまちがいなく『学者』というものだった。
話を聞き終えたチノは生徒の相談に乗る教師そのままの態度でうなずいた。
「ふむ。なるほど。下水の改善か」
「はい。あのような劣悪な環境で人を働かせておくわけには行きません。そして、あのような劣悪な仕事がある限り、差別もまた、なくならない。差別をなくし、人々が平等に暮らせる世界にするためには『誰もやりたくないけれど誰かがやらなくてはならない仕事』をなくさなければならないのです。そのために……なんとしても、下水環境を改善したいのです。
そのことをボド・チャグ卿に相談してみたところ、あなたが下水を地下庭園化するとのお考えをおもちだと聞きました。そのために来ていただいたのです」
「ふむ』
と、チノは重々しくうなずいた。いかにももったいぶったその態度が世間一般から見れば『学者ぶっている』と鼻につくことだろう。
「その説明をする前にまず、現場を見て頂こうか」
「現場?」
チノがハリエットを連れてきたのは馬の繁殖場として使われている草原だった。
「この繁殖場がなにか?」
ハリエットは戸惑いながら尋ねた。
この繁殖場であればいままでに何度も視察に訪れ、馴染みがある。いまさら、こんな所を見せてなにをしようと言うのだろう?
露骨にそう思っている表情だった。
腹心としていつも通りハリエットに付き従うジェイとアステスも同じ表情を浮かべている。とくに、自ら創意工夫の才を誇るアステスはこの老人をいかにも胡散臭そうな目で見据えている。
チノはその視線を無視して――浮き世離れした学者らしく、ただ単に気付いていないだけかも知れないが――草原に向けて大きく両手を広げて見せた。
「見るがいい。この草原を。なんとも広大で、しかも、清浄なことではないか」
「え、ええ、そうですね……」
――なんで、そんな当たり前のことを……。
ハリエットはチノの言葉にそう思った。草原が広大で清浄であることなんて当たり前のこと。そんな当たり前のことを言ってどうしようというのでしょう?
チノは言葉をつづけた。
「不思議に思ったことはないかね? この草原にはこれほど多くの馬がいて日々、小便をたらし、糞をひり出しておる。にもかかわらず、この草原はかくも清浄に保たれておる。下水のような不衛生さはひとつもない」
「そう言えば……」
ハリエットは虚を突かれて改めて草原を見渡した。
言われてみればその通り。繁殖場であるこの草原には大量の馬が生息しており、日々、糞小便を垂れ流している。大量の糞便が集まるという意味ではこの草原も下水と同じなはず。にもかかわらず、この草原には下水のような悪臭はない。溜まりにたまった汚物が山を為していることもない。汚物の山に不衛生な害虫が群がっていることもない。
――当たり前のことなので、いままで気にしたこともなかったけれど。たしかに、考えてみれば奇妙かも。
ハリエットはそう思った。
その隣ではジェイとアステスも同じように虚を突かれた表情で草原を見渡している。
チノはつづけた。
「なぜなら、この草原には生命の循環があるからじゃ」
「生命の循環?」
「そうじゃ。この草原においては馬のひり出した糞はまず虫たちに食べられる。糞虫と言われる昆虫たちじゃな。獣の糞は糞虫たちに食われて消え去り、糞虫の糞はさらに小さな土のなかの生き物に食われる。そうして、糞は土に返る。土に返った糞は新たな植物を育てる糧となる。その植物を食って獣たちは育つ。
そして、また糞をして、その糞を糞虫が食い、糞虫の糞をより小さな生き物が食い、土に戻った糞を糧に植物が育ち、それをまた獣が食い……という生命の循環が完成しておるのじゃ。糞を食って増えた糞虫たちも他の生き物に食われることで糧となり、この豊かな草原を支えておる。
生命の循環とは食われること。自然は食われることによって清浄さを維持しておる。他の生き物に食われることを拒否した人間はまこと、自然の掟に反した生き物。生きる権利ばかりを主張し、生命としての義務を履行しないけしからぬ生き物じゃ」
と、必要もないのに人類批判をぶったりするあたりがいかにも『先生』なのだった。
「下水の不浄さもまさにそこからきておる。生命を育む力のない石と煉瓦で地面を押し固め、本来であれば新たな生命の糧となる糞便を押し流すばかり。そこには糞便を土に返す生き物はおらず、生命の糧として蓄える土もない。それ故に糞便は行き場を失い、悪臭を放ち、病のもとともなる。下水掃除に従事する人間たちの病にかかる率の高さはご存じかね?」
「いえ……」
「およそ、三倍じゃ」
「三倍⁉ そんなに病気にかかりやすいのですか?」
「その通りじゃ。あのような悪臭と淀んだ空気のなかで作業をしておれば病気にならない方がどうかしておる」
「それは、たしかに」
ジェイとアステスも神妙な面持ちでうなずいた。
下水の実態を知らないうちならば信用しなかっただろう。しかし、その実体を経験したいまとなっては『病気にならない方がどうかしている』という言葉に心からうなずいた。
「病気になりやすいだけではない。寿命も短い。平均すると下水掃除に従事するものたちの寿命はそうでない人間たちに比べて二〇年以上、短い」
「二〇年以上⁉ そんなに……」
「おぬしは国王としてその事実を知っておったかの?」
チノはやや意地が悪そうに尋ねた。
ハリエットは顔を赤くし、縮こまった。
「い、いえ……」
そう言うしかない。実際、いままでそんなことは知らなかったし、そもそも、気にとめたこともない。しかし、そのような劣悪な人生を強いられている人たちのことを知らずにいたのだ。全国民の幸福に対する義務を負う国王としては失格だと言われても仕方がない。
「しかし、わしとて風呂も使えば厠も使う。下水なしにはまともな暮らしが営めんことは理解しておる。そして、もちろん、わしとて下水掃除などという仕事はしたくない。
だからと言って、下水掃除に従事する人々の犠牲の上に暮らしておるのでは無様すぎる。そんな様ではとても『文明』とは言えん。そこで、わしは下水という概念そのものをかえることにした。それが、下水の地下庭園化じゃ」
「地下庭園化……」
「そうじゃ。下水にこの自然の摂理そのものを取り入れる。石と煉瓦でせっかくの土を押し固めることをやめ、土の再生力をそのまま活かす。糞便を食う生き物をはなし、土に吸収させ、植物を育てる。その植物を食う虫を放して育て、その虫たちを採集して他の生き物を育てる。鶏たちは虫でもなんでも食う。虫を食って肉と卵にかえてくれる。
『虫』という仲介者を置くことでわしらはわしら自身の糞小便を新たな食糧にかえることができるのじゃ。鬼部との戦いがつづき、食糧危機も迫るなか、それは重要な問題でもある。そうじゃろう?」
「たしかに」と、ハリエットはうなずいた。
「ですが……」
と、アステス。言いたいことはわかるが納得できない。そう言う表情だった。
「『植物を育てる』と仰いましたが、植物が育つためには日の光が必要なはず。日の差さない下水でどうやって植物を育てると言うのです?」
「うむうむ。いい質問じゃ」
チノは上機嫌になってうなずいた。
生徒がまともな質問をしたことで自分の指導力を再認識し、悦に入っている教師、と言う態度そのままだった。
「わしもその点が引っかかった。果たして、地下の下水で植物を育てることなど出来るのか、とな。しかし、考えてみれば世界には日の差さない場所などいくらでもある。その代表が地下深くの洞窟じゃな。
そこで、わしは、日の差さない環境を知るために大陸中の洞窟に潜った。するとどうじゃ。洞窟のなかにも苔類をはじめ、日の差さない環境のなかでもたくましく生きる多くの植物がおったではないか。興味をもったわしは地下洞窟の生態系を調べぬいた。いまでは、大陸中のどの学者よりもその点については詳しいと自負しておる。わしに任せるなら見事、地下洞窟の生態系を再現し、清浄にして美しき地下庭園、まったく新しい下水を作りあげて見せようぞ」
「……清浄にして美しき地下庭園。まったく新しい下水。それは……なんとも、心の沸き立つお言葉ですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「そんな下界が実現すれば、そこでの仕事に従事する人々が健康を害し、早死にしたり、蔑まれることもなくなるでしょう」
「当然じゃな。むしろ、生命の循環を司る誉れある職業として尊敬されることじゃろう」
「それは素晴らしいことです。ぜひとも、実現していただききたいことです」
ハリエットは希望に満ちた顔でそう言った。
「しかし……」と、またもアステスが言った。
「それならばなぜ、あなたはいままでそんな下水を作ろうとしなかったのです?」
「それは単純な話じゃ。ポリエバトルは遊牧の国。おぬしたちのように都市は作らん。都市を作らんのだから下水も作らん。故に、わしの研究も日の目を見る機会がなかった。それだけのことじゃ」
「あ、ああ、なるほど」
アステスも納得した。
言われて見ればたしかにもっともで、しかも、単純な話だった。生まれたときから都市で育ってきたので、遊牧の国の暮らしぶりが想像できなかったのだ。
しかし、下水を作ることのないポリエバトルに下水の改善を考える学者が現れる。
運命の皮肉とはこのことだろうか。ハリエットが下水の改善を志し、チノを招くことがなければこの研究も一生、日の目を見ないまま、チノの死と共に消え去っていたかも知れない。しかし、いまや、その研究が日の目を見、世界をかえる第一歩となる可能性が出てきた。
チノはつづけた。
「ただし、地下庭園にも欠点はある」
「欠点?」
「うむ。生命の循環に従ったやり方はたしかに効果的じゃ。しかし、時間もかかれば、あまりにも大量な処理には向かぬ。馬の繁殖場にしても馬の数が多すぎれば糞便の処理が追いつかず、土壌は糞便に覆われ、死んでしまう。そのことは騎士であるおぬしらにはわかるじゃろう?」
「たしかに」と、ジェイ。
「馬の繁殖場においては糞便の処理は常に重大な問題です。そのために、適切な馬の数に関してはいつも気を使っております」
「そういうことじゃ。じゃから、あまりに大きな都市の下水としてはこの手は使えん。地下庭園を新しい下水として用いるならば、大都市を作って一カ所に大勢の人間を住まわせるのではなく、小さい都市を幾つも作って分散して住まわせ、それらの都市と都市を繋ぎあわせる仕組みを整える必要がある。
ハリエットどの。おぬしは諸国連合の盟主として、それだけのことをする覚悟があるのかね?」
「やります」
きっぱりと――。
迷いなく、ハリエットは断言した。
「下水掃除に従事する人たちの苦境を知ったからには放置しておくことなど出来ません。王としての責務を果たすため、必ず地下庭園を実現してみせます」
「よくぞ言った。ならば、このわしもおぬしに忠誠を誓い、地下庭園を実現して見せようぞ」
チノはさっそく下水に潜り、実地調査を開始した。
ハリエットたちも礼儀上、同行しようとしたのだが『学識も経験もない素人なんぞいても邪魔になるだけじゃわい。こっちは専門家に任せて、おぬしたちは工事に必要となる費用と人員の工面をしておけ』と、追い返された。
言い方はともかく言葉の内容そのものは正論だったので、ハリエットたちはおとなしく従った。これがレオナルドやウォルターなら激怒して真っ二つにしているところだが、ハリエットたちはこんなことで腹を立てはしない。せいぜい、アステスが苦笑したぐらいのものである。
「なんと言うか……いかにも『学者』という感じの浮き世離れした人物ですね」
「ええ、まったく」と、ハリエットも微笑んだ。
「ても、頼りになります。あの方ならきっと、地下庭園を実現してくださるでしょう。そうなれば……」
――あのような劣悪な環境で人を働かせずにすむ。
国王としてではなく、ひとりの人間としてそう思うハリエットであった。
「しかし……」と、ジェイ。
「我々はもうエンカウン奪還のための行動を開始しなくてはなりません。下水の改革に付き合っている時間は……」
「わかっています。これは内政であって軍人であるあなたたちの担当でありはありません。これは、国王としてわたしのやるべきこと。こちらはわたしに任せ、あなたたちはあなたたちの為すべきことに専念してください」
「はっ」
ハリエットの言葉に――。
しゃちほこばって答えるジェイとアステスであった。
ふふっ、と、ハリエットはそんなふたりに微笑んで見せた。
「ただ、その前に……わたしもひとつ、思いついたことがあるのです」
「思いついたこと?」
「はい」
その日、下水掃除に従事する人々に通達が届いた。
所定の時刻までに王宮に参内するように、と。
それと聞いた人々は一様に驚き、そして、怯えた。
自分たちのように『賤しい職業』に従事する『賤しい人間』が王宮に呼ばれる。いいことだとはとても思えなかった。なかには生命の危険を感じて逃げ出そうとするものもいたが、
「まあ、なんと言ってもハリエットさまだ。レオナルド陛下のような無茶はなさるまい」
ハリエットに対する信頼の方が勝り、おっかなびっくりながら王宮へとやってきた。
広間へと通された人々を出迎えたもの、それは、テーブルいっぱいに並べられたご馳走だった。
驚く人々の前にメイド姿のハリエットと女官たち、さらには、執事の服装に身を包んだジェイとアステスが現れた。
ハリエットは深々と従者の礼を取り、『賤しい人間たち』に向かって言った。
「あなた方のご苦労も知らず、安穏として暮らしてきたことをお詫び申しあげます。あなた方の尽力があってこそのわたしたちの暮らしだと言うのに、そのことに気付きもしませんでした。今宵、あなた方のご苦労に報いるためにささやかな宴をご用意させていただきました。せめて、今宵ばかりはこの王宮の主として楽しまれていってください」
これがハリエットの『思いついた』こと。世間からは蔑まれる、しかし、絶対に必要な職業に従事している人々を定期的に王宮に招き、もてなす。金では買えない名誉を贈ることで蔑まれる人々の地位を高め、労に報いる。
そのための仕組み。
ハリエットの思いつきからはじまったこの儀式こそは『日の当たらない場所で自分の職務に励む人々が報われる場所を作る』という『新しい国』の根幹となっていくのだった。
ボド・チャグがいかにも『鉱夫!』という印象なのに対し、やせ形で穏やかな風貌をした、学者風の人物だった。実際、本職は博物学者であり、若い頃から大陸中を旅して研究に励んできたという。
――そんな世界的博物学者がなぜ、下水の改善を?
ハリエットはそう思ったが、チノはそんなことを説明する気はないようだった。ハリエットに会うが早いか挨拶もそこそこに話を聞きたがった。国王、それもいまや諸国連合の盟主たるハリエットに対し、ろくに礼儀も払わない。そのあたりの浮き世離れした態度はまちがいなく『学者』というものだった。
話を聞き終えたチノは生徒の相談に乗る教師そのままの態度でうなずいた。
「ふむ。なるほど。下水の改善か」
「はい。あのような劣悪な環境で人を働かせておくわけには行きません。そして、あのような劣悪な仕事がある限り、差別もまた、なくならない。差別をなくし、人々が平等に暮らせる世界にするためには『誰もやりたくないけれど誰かがやらなくてはならない仕事』をなくさなければならないのです。そのために……なんとしても、下水環境を改善したいのです。
そのことをボド・チャグ卿に相談してみたところ、あなたが下水を地下庭園化するとのお考えをおもちだと聞きました。そのために来ていただいたのです」
「ふむ』
と、チノは重々しくうなずいた。いかにももったいぶったその態度が世間一般から見れば『学者ぶっている』と鼻につくことだろう。
「その説明をする前にまず、現場を見て頂こうか」
「現場?」
チノがハリエットを連れてきたのは馬の繁殖場として使われている草原だった。
「この繁殖場がなにか?」
ハリエットは戸惑いながら尋ねた。
この繁殖場であればいままでに何度も視察に訪れ、馴染みがある。いまさら、こんな所を見せてなにをしようと言うのだろう?
露骨にそう思っている表情だった。
腹心としていつも通りハリエットに付き従うジェイとアステスも同じ表情を浮かべている。とくに、自ら創意工夫の才を誇るアステスはこの老人をいかにも胡散臭そうな目で見据えている。
チノはその視線を無視して――浮き世離れした学者らしく、ただ単に気付いていないだけかも知れないが――草原に向けて大きく両手を広げて見せた。
「見るがいい。この草原を。なんとも広大で、しかも、清浄なことではないか」
「え、ええ、そうですね……」
――なんで、そんな当たり前のことを……。
ハリエットはチノの言葉にそう思った。草原が広大で清浄であることなんて当たり前のこと。そんな当たり前のことを言ってどうしようというのでしょう?
チノは言葉をつづけた。
「不思議に思ったことはないかね? この草原にはこれほど多くの馬がいて日々、小便をたらし、糞をひり出しておる。にもかかわらず、この草原はかくも清浄に保たれておる。下水のような不衛生さはひとつもない」
「そう言えば……」
ハリエットは虚を突かれて改めて草原を見渡した。
言われてみればその通り。繁殖場であるこの草原には大量の馬が生息しており、日々、糞小便を垂れ流している。大量の糞便が集まるという意味ではこの草原も下水と同じなはず。にもかかわらず、この草原には下水のような悪臭はない。溜まりにたまった汚物が山を為していることもない。汚物の山に不衛生な害虫が群がっていることもない。
――当たり前のことなので、いままで気にしたこともなかったけれど。たしかに、考えてみれば奇妙かも。
ハリエットはそう思った。
その隣ではジェイとアステスも同じように虚を突かれた表情で草原を見渡している。
チノはつづけた。
「なぜなら、この草原には生命の循環があるからじゃ」
「生命の循環?」
「そうじゃ。この草原においては馬のひり出した糞はまず虫たちに食べられる。糞虫と言われる昆虫たちじゃな。獣の糞は糞虫たちに食われて消え去り、糞虫の糞はさらに小さな土のなかの生き物に食われる。そうして、糞は土に返る。土に返った糞は新たな植物を育てる糧となる。その植物を食って獣たちは育つ。
そして、また糞をして、その糞を糞虫が食い、糞虫の糞をより小さな生き物が食い、土に戻った糞を糧に植物が育ち、それをまた獣が食い……という生命の循環が完成しておるのじゃ。糞を食って増えた糞虫たちも他の生き物に食われることで糧となり、この豊かな草原を支えておる。
生命の循環とは食われること。自然は食われることによって清浄さを維持しておる。他の生き物に食われることを拒否した人間はまこと、自然の掟に反した生き物。生きる権利ばかりを主張し、生命としての義務を履行しないけしからぬ生き物じゃ」
と、必要もないのに人類批判をぶったりするあたりがいかにも『先生』なのだった。
「下水の不浄さもまさにそこからきておる。生命を育む力のない石と煉瓦で地面を押し固め、本来であれば新たな生命の糧となる糞便を押し流すばかり。そこには糞便を土に返す生き物はおらず、生命の糧として蓄える土もない。それ故に糞便は行き場を失い、悪臭を放ち、病のもとともなる。下水掃除に従事する人間たちの病にかかる率の高さはご存じかね?」
「いえ……」
「およそ、三倍じゃ」
「三倍⁉ そんなに病気にかかりやすいのですか?」
「その通りじゃ。あのような悪臭と淀んだ空気のなかで作業をしておれば病気にならない方がどうかしておる」
「それは、たしかに」
ジェイとアステスも神妙な面持ちでうなずいた。
下水の実態を知らないうちならば信用しなかっただろう。しかし、その実体を経験したいまとなっては『病気にならない方がどうかしている』という言葉に心からうなずいた。
「病気になりやすいだけではない。寿命も短い。平均すると下水掃除に従事するものたちの寿命はそうでない人間たちに比べて二〇年以上、短い」
「二〇年以上⁉ そんなに……」
「おぬしは国王としてその事実を知っておったかの?」
チノはやや意地が悪そうに尋ねた。
ハリエットは顔を赤くし、縮こまった。
「い、いえ……」
そう言うしかない。実際、いままでそんなことは知らなかったし、そもそも、気にとめたこともない。しかし、そのような劣悪な人生を強いられている人たちのことを知らずにいたのだ。全国民の幸福に対する義務を負う国王としては失格だと言われても仕方がない。
「しかし、わしとて風呂も使えば厠も使う。下水なしにはまともな暮らしが営めんことは理解しておる。そして、もちろん、わしとて下水掃除などという仕事はしたくない。
だからと言って、下水掃除に従事する人々の犠牲の上に暮らしておるのでは無様すぎる。そんな様ではとても『文明』とは言えん。そこで、わしは下水という概念そのものをかえることにした。それが、下水の地下庭園化じゃ」
「地下庭園化……」
「そうじゃ。下水にこの自然の摂理そのものを取り入れる。石と煉瓦でせっかくの土を押し固めることをやめ、土の再生力をそのまま活かす。糞便を食う生き物をはなし、土に吸収させ、植物を育てる。その植物を食う虫を放して育て、その虫たちを採集して他の生き物を育てる。鶏たちは虫でもなんでも食う。虫を食って肉と卵にかえてくれる。
『虫』という仲介者を置くことでわしらはわしら自身の糞小便を新たな食糧にかえることができるのじゃ。鬼部との戦いがつづき、食糧危機も迫るなか、それは重要な問題でもある。そうじゃろう?」
「たしかに」と、ハリエットはうなずいた。
「ですが……」
と、アステス。言いたいことはわかるが納得できない。そう言う表情だった。
「『植物を育てる』と仰いましたが、植物が育つためには日の光が必要なはず。日の差さない下水でどうやって植物を育てると言うのです?」
「うむうむ。いい質問じゃ」
チノは上機嫌になってうなずいた。
生徒がまともな質問をしたことで自分の指導力を再認識し、悦に入っている教師、と言う態度そのままだった。
「わしもその点が引っかかった。果たして、地下の下水で植物を育てることなど出来るのか、とな。しかし、考えてみれば世界には日の差さない場所などいくらでもある。その代表が地下深くの洞窟じゃな。
そこで、わしは、日の差さない環境を知るために大陸中の洞窟に潜った。するとどうじゃ。洞窟のなかにも苔類をはじめ、日の差さない環境のなかでもたくましく生きる多くの植物がおったではないか。興味をもったわしは地下洞窟の生態系を調べぬいた。いまでは、大陸中のどの学者よりもその点については詳しいと自負しておる。わしに任せるなら見事、地下洞窟の生態系を再現し、清浄にして美しき地下庭園、まったく新しい下水を作りあげて見せようぞ」
「……清浄にして美しき地下庭園。まったく新しい下水。それは……なんとも、心の沸き立つお言葉ですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「そんな下界が実現すれば、そこでの仕事に従事する人々が健康を害し、早死にしたり、蔑まれることもなくなるでしょう」
「当然じゃな。むしろ、生命の循環を司る誉れある職業として尊敬されることじゃろう」
「それは素晴らしいことです。ぜひとも、実現していただききたいことです」
ハリエットは希望に満ちた顔でそう言った。
「しかし……」と、またもアステスが言った。
「それならばなぜ、あなたはいままでそんな下水を作ろうとしなかったのです?」
「それは単純な話じゃ。ポリエバトルは遊牧の国。おぬしたちのように都市は作らん。都市を作らんのだから下水も作らん。故に、わしの研究も日の目を見る機会がなかった。それだけのことじゃ」
「あ、ああ、なるほど」
アステスも納得した。
言われて見ればたしかにもっともで、しかも、単純な話だった。生まれたときから都市で育ってきたので、遊牧の国の暮らしぶりが想像できなかったのだ。
しかし、下水を作ることのないポリエバトルに下水の改善を考える学者が現れる。
運命の皮肉とはこのことだろうか。ハリエットが下水の改善を志し、チノを招くことがなければこの研究も一生、日の目を見ないまま、チノの死と共に消え去っていたかも知れない。しかし、いまや、その研究が日の目を見、世界をかえる第一歩となる可能性が出てきた。
チノはつづけた。
「ただし、地下庭園にも欠点はある」
「欠点?」
「うむ。生命の循環に従ったやり方はたしかに効果的じゃ。しかし、時間もかかれば、あまりにも大量な処理には向かぬ。馬の繁殖場にしても馬の数が多すぎれば糞便の処理が追いつかず、土壌は糞便に覆われ、死んでしまう。そのことは騎士であるおぬしらにはわかるじゃろう?」
「たしかに」と、ジェイ。
「馬の繁殖場においては糞便の処理は常に重大な問題です。そのために、適切な馬の数に関してはいつも気を使っております」
「そういうことじゃ。じゃから、あまりに大きな都市の下水としてはこの手は使えん。地下庭園を新しい下水として用いるならば、大都市を作って一カ所に大勢の人間を住まわせるのではなく、小さい都市を幾つも作って分散して住まわせ、それらの都市と都市を繋ぎあわせる仕組みを整える必要がある。
ハリエットどの。おぬしは諸国連合の盟主として、それだけのことをする覚悟があるのかね?」
「やります」
きっぱりと――。
迷いなく、ハリエットは断言した。
「下水掃除に従事する人たちの苦境を知ったからには放置しておくことなど出来ません。王としての責務を果たすため、必ず地下庭園を実現してみせます」
「よくぞ言った。ならば、このわしもおぬしに忠誠を誓い、地下庭園を実現して見せようぞ」
チノはさっそく下水に潜り、実地調査を開始した。
ハリエットたちも礼儀上、同行しようとしたのだが『学識も経験もない素人なんぞいても邪魔になるだけじゃわい。こっちは専門家に任せて、おぬしたちは工事に必要となる費用と人員の工面をしておけ』と、追い返された。
言い方はともかく言葉の内容そのものは正論だったので、ハリエットたちはおとなしく従った。これがレオナルドやウォルターなら激怒して真っ二つにしているところだが、ハリエットたちはこんなことで腹を立てはしない。せいぜい、アステスが苦笑したぐらいのものである。
「なんと言うか……いかにも『学者』という感じの浮き世離れした人物ですね」
「ええ、まったく」と、ハリエットも微笑んだ。
「ても、頼りになります。あの方ならきっと、地下庭園を実現してくださるでしょう。そうなれば……」
――あのような劣悪な環境で人を働かせずにすむ。
国王としてではなく、ひとりの人間としてそう思うハリエットであった。
「しかし……」と、ジェイ。
「我々はもうエンカウン奪還のための行動を開始しなくてはなりません。下水の改革に付き合っている時間は……」
「わかっています。これは内政であって軍人であるあなたたちの担当でありはありません。これは、国王としてわたしのやるべきこと。こちらはわたしに任せ、あなたたちはあなたたちの為すべきことに専念してください」
「はっ」
ハリエットの言葉に――。
しゃちほこばって答えるジェイとアステスであった。
ふふっ、と、ハリエットはそんなふたりに微笑んで見せた。
「ただ、その前に……わたしもひとつ、思いついたことがあるのです」
「思いついたこと?」
「はい」
その日、下水掃除に従事する人々に通達が届いた。
所定の時刻までに王宮に参内するように、と。
それと聞いた人々は一様に驚き、そして、怯えた。
自分たちのように『賤しい職業』に従事する『賤しい人間』が王宮に呼ばれる。いいことだとはとても思えなかった。なかには生命の危険を感じて逃げ出そうとするものもいたが、
「まあ、なんと言ってもハリエットさまだ。レオナルド陛下のような無茶はなさるまい」
ハリエットに対する信頼の方が勝り、おっかなびっくりながら王宮へとやってきた。
広間へと通された人々を出迎えたもの、それは、テーブルいっぱいに並べられたご馳走だった。
驚く人々の前にメイド姿のハリエットと女官たち、さらには、執事の服装に身を包んだジェイとアステスが現れた。
ハリエットは深々と従者の礼を取り、『賤しい人間たち』に向かって言った。
「あなた方のご苦労も知らず、安穏として暮らしてきたことをお詫び申しあげます。あなた方の尽力があってこそのわたしたちの暮らしだと言うのに、そのことに気付きもしませんでした。今宵、あなた方のご苦労に報いるためにささやかな宴をご用意させていただきました。せめて、今宵ばかりはこの王宮の主として楽しまれていってください」
これがハリエットの『思いついた』こと。世間からは蔑まれる、しかし、絶対に必要な職業に従事している人々を定期的に王宮に招き、もてなす。金では買えない名誉を贈ることで蔑まれる人々の地位を高め、労に報いる。
そのための仕組み。
ハリエットの思いつきからはじまったこの儀式こそは『日の当たらない場所で自分の職務に励む人々が報われる場所を作る』という『新しい国』の根幹となっていくのだった。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる
フルーツパフェ
大衆娯楽
転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。
一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
平凡女だってイケメンが欲しい
雨宮志津
恋愛
雨宮玲 18歳
今年の春から大学生として東京に上京してきた。
そこでADとしてアルバイトで働くが、いつか自分のことを見初めてくれるカッコイイ人が現れてくれるのではないかと期待している自意識過剰な普通の女子大生
そんな中、27歳という若干にして大人気俳優である新堂歩と出会い、勝手に運命を感じるも、初対面にして
「自意識過剰なんだよ。あんた」
と言われ、恋が怒りへと変わる
そんな最悪の出会いをした2人と周囲の人々の恋愛物語です
ズボラ通販生活
ice
ファンタジー
西野桃(にしのもも)35歳の独身、オタクが神様のミスで異世界へ!貪欲に通販スキル、時間停止アイテムボックス容量無限、結界魔法…さらには、お金まで貰う。商人無双や!とか言いつつ、楽に、ゆるーく、商売をしていく。淋しい独身者、旦那という名の奴隷まで?!ズボラなオバサンが異世界に転移して好き勝手生活する!
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ピー子と過ごした13週
家紋武範
大衆娯楽
辛く哀しい堕胎の道を選んでしまった主人公、菅山奈々40歳。
一時は自殺を考えるものの、母のすすめで共に喫茶店を始めることに。
そこに雇われてきたのは38歳の角田純平だった。
家紋 武範が送る哀しく切ないヒューマンドラマ。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる