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第一話 新王アンドレア
三章 母たちの家
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「う、う~ん……」
アンドレアはベッドの上で上半身を起こすと、思いきり伸びをした。
なんと気持ちの良い目覚めだろう。
頭がスッキリしている。
心が落ち着いているのがわかる。
こんな爽快な目覚めはいつ以来だろう。息子を産んでから、こんなに気持ちよく起きたことはなかったはずだ。
赤ん坊特有の、理由不明のギャン泣きによって叩き起こされる心配なしにぐっすり眠れる。
それが、こんなにも気持ちのいい目覚めを与えてくれるとは。
いや、わかってはいたけど、予想以上だった。
思いあまり、赤ん坊の息子を始末しようとして川に向かった。そこで出会った中年女性。その女性によって連れてこられた、川と町の中間あたりに建つ家屋。もともとは川で漁をする漁師たちの集まる小屋ででもあったろうか。古いし、内装と言えるようなものもないけれど、広さと部屋数だけはたっぷりあった。
女性によって連れてこられたアンドレアはすぐに、ベッドの並んだ寝室に通された。
「ゆっくり、お休み」
そう言われるまでもなく、アンドレアはベッドを見た途端、そこに飛び込んだ。まるで、運命の恋人の胸に飛び込む乙女のように。
「ゆっくり、おやすみ」
中年の女性が微笑みながらそう言ったのは――。
アンドレアが豪快と言ってもいいほどのいびきをかいて眠りに落ちた後のことだった。
「はっ、いけない!」
アンドレアはハッと気付いた。
あまりにグッスリ眠り込んでいたせいで忘れていたのだろうか。自分は確かにあの女性に助けられたのだ。他人に、それも、見ず知らずの相手に助けられて礼のひとつも言わずにいつまでも眠り込んでいるなど騎士としてあるまじき振る舞い。許されないことだ。
「一刻も早く礼を述べ、お返しをしなくては」
アンドレアは騎士学校で培われた騎士口調でそう呟くと、とにもかくにも身だしなみを整えた。肌はカサカサ、髪はボロボロ、どう手入れしたところで大してかわるわけではないが、騎士たるもの、恩人に対して礼を述べるにあたり、身なりを気にしないというわけにはいかない。とにかく、いまの状況で出来るだけの手入れはした。ぐっすり眠ったおかげですっかり老けて見えるようになっていた顔が、年相応に見える顔に戻っているのが救いだった。
「よしっ……!」
アンドレアは身なりを整えると小さく気合いを入れた。『小さく』というのはあくまでもアンドレアの主観であって、世間的には『大声』と言っていいものだったが。
ともかく、アンドレアは背筋をピシッと伸ばすと、騎士独特の行進歩調で寝室を出た。
居間……と言っていいのだろうか。寝室を出たそこはだだっ広い空間だった。居間らしい飾りがあるわけでもなく、あるものと言えば古い暖炉と、同じく古くて大きいテーブル、そして、そのテーブルにあわせて置かれた幾つもの椅子。ただ、それだけ。
居間というより寄り合い所。
そう言った方がいい感じだった。
椅子のひとつにあの女性が座っていた。そのふくよかな胸にアンドレアの息子、アートを抱いている。
――アートがあんなにおとなしく眠っているなんて。
母親として、少しばかりの嫉妬と敗北感を感じながらアンドレアは思った。それぐらい、アートは安心したように眠っている。自分がいくらあやしてもあんな顔は見せず、いつだって理由不明のギャン泣きを繰り返していたというのに。
「おや、起きたね」
女性がにこやかに言った。
アンドレアは大仰なぐらいしゃちほこばって騎士の礼を取った。
「助けていただき誠に感謝いたします。このご恩は忘れません。一生かけてもお返しする所存」
あまりにも格式張った騎士の礼に――。
女性は目をパチクリさせた。それから、愉快そうに大笑いした。まさに、気っ風のいいおかみさん。そう言いたくなる姿だった。
「あははははっ、いいんだよ、そんなにしゃちほこばらなくても。困ったときはお互いさまさ。それより、あんた、お腹空いてるだろう? ろくに食べていなかったみたいだし、あんなに眠っていたんじゃあね」
そう言われて――。
アンドレアは恐ろしく腹が減っていることにはじめて気付いた。気付いた途端、
ぐぐぅ~。
腹が恐ろしく健康的な音を立てた。
アンドレアは真っ赤になってうつむいたが、女性……おかみさんは朗らかに笑ってみせた。
「それでいい。人間、腹の虫が鳴る間は生きていけるさ」
おかみさんはそう言うとアートを抱いたまま立ちあがり、大鍋のなかのスープを温め、振る舞ってくれた。
「さあ、お食べ。とにかく、食べてさえいれば人間、なんとかなるもんさ」
古いパンに、やはり、古いチーズ。そして、野菜の切れ端が浮いただけの薄いスープ。ただ、それだけ。かつて、国王の婚約者として壮麗なる王宮のなかで無数の使用人にかしずかれてとっていた食事に比べれば、質素と言うのも貧相な食事。それでも――。
――ゆっくり、食べられる。
それだけで、涙が出るぐらいおいしかった。
考えてみれば、アートを産んで以来、こんな風にゆっくり食事を取ったことはない。むずがってばかりでろくに食べてくれないアートに食べさせることばかりに必死になって、自分の食事はなおざりにしていた。
――それでは、苛々するわけだ。
落ち着いた気持ちになって振り返ると、そのことがよくわかる。こうして、質素でも温かい食事をゆっくりと腹のなかに入れる。ただ、それだけのことでこんなにも満ち足りた気持ちになれるのだから。
「ごちそうさまでした。とてもおいしい食事でした。ありがとうございました」
アンドレアはすべての食事をきれいに食べ終え、改めて礼を述べた。おかみさんはそんなアンドレアを見守りつつ穏やかに笑っている。その胸元ではアートが相変わらず安心した様子で眠っている。
「アート……その子がそんなに安心した様子で眠っているなんて。わたしがいくらあやしても泣いてばかりだったというのに」
「ちがうよ。泣いていたのは母親であるあんたのほうさ」
「わたしの?」
「そうさ。赤ん坊は相手の気持ちに敏感だからね。自分を抱く相手の気持ちが落ち着いていれば自分も落ち着くし、相手が泣きたい気持ちを押し隠していれば自分がかわりに泣く。そう言うものさ。
いい母親でなければいけない。
子供を立派に育てなければいけない。
そう思い込んで、肩肘張ってたんだろう?
その気持ちが赤ん坊に伝染して、泣かせていたのさ。
お疲れさま。
本当につらかったよね。
でも、もうだいじょうぶ。ここには力になってくれる人間が大勢、いるからね」
その言葉に――。
思わず、アンドレアの目に涙がにじんだ。
アンドレアはあわてて涙を拭った。騎士として、人前で涙など見せられない。涙で濡れた瞳を隠すために急いで頭をさげる。
「ありがとうございます! 感謝のしようもありません。このご恩は必ず……」
「だから、気にしなくていいって。言ったろ。困ったときはお互いさまだよ」
「ありがとうございます。ならば、困ったことがおありならいつなんどきでも仰ってください。このアンドレア・シュヴァリエ。あなたのためなら地の果てからでも駆けつけますぞ」
「ああ。そのときはよろしく頼むよ」
おかみさんは笑ってそう言った。
アンドレアもその笑みにつられて顔をほころばせた。
「あの……ところで、ここは?」
「ああ。そこの窓から外を見てみな」
「外?」
アンドレアは言われたとおり、窓から外を見た。そこには何人もの子連れの女性たちがいて、それぞれに立ち働いていた。皆、若い。一番の年かさでもせいぜい二〇代後半。若い子となるとまだ一〇代半ばと見える少女さえいた。
「これは……」
「ここはね。あんたみたいに子育てに疲れた娘たちの集まる場所なのさ」
「えっ?」
「事情のある娘なんていつの世にもいるもんさ。それぞれに事情を抱え、自分ひとりで子供を育てなきゃならなくなった娘たち。でも、そのことに疲れはて、子供を殺してしまおうと、あるいは一緒に死のうとした娘たち。そんな娘たちが集まって暮らしているのさ」
子供を殺してしまおうと――。
その言葉を聞いたとき、アンドレアの胸がギュッと締めつけられた。両の拳を固く握りしめた。
「あんたのいた場所、あそこはちょうど、子供を投げ捨てたり、一緒に身投げするのにいい場所らしくてね。赤ん坊を連れた娘がよく来るんだよ。あたしは毎日、何度かあのあたりを見回って、そんな娘たちをここまで連れ来るのさ」
「あ、あの……!」
「なんだい?」
「改めて名乗らせていただきます。わたしはアンドレア・シュヴァリエ。あなたのお名前を聞かせていただけますか?」
「あたしはおかみさん。そう呼ばれているよ」
感じることは皆同じ、ということなのだろう。確かに、この女性を差す言葉として『おかみさん』以上のものはない。
「では、おかみさんどの。このアンドレア・シュヴァリエ。あなたを見込んで一生の頼みがあります」
「なんだい?」
おかみさんは優しく、それでも、どこか面白がっているような様子で笑って見せた。その表情は、これからアンドレアがなにを言い出すかを正確に察していることを告げていた。
そして、アンドレアは言った。おかみさんが察していたとおりのことを。
「どうか、その子を、我が息子、アート・アレクサンデル・アンドレアスを、あなたの子として、あなたの手で育てていただきたい」
「あたしの手でかい?」
「そうです。わたしはその子をこの手で殺そうとしました。例え、一時の気の迷いであろうとも決して許されないことです。わたしには母の資格などありません。こんなわたしのもとにいるより、あなたのような方のもとで育った方がその子も……」
「あははははっ!」
突然――。
おかみさんが大声で笑い出した。それも、面白くておもしろくて仕方がない、と言った様子で。
呆気にとられるアンドレアにおかみさんは言った。
「あははははっ。本当に、あんたみたいに真面目で若い母親は同じことを言うねえ。ここにいる娘の誰もが一度はそう言ったものさ」
「そ、そうなのですか……?」
「そうとも。自分だけが特別だなんて思うもんじゃないよ。人間なんて似たり寄ったり。みんな、同じように思っているんだからね。あたしだって最初の子育てのときは何度、殺してやろうと思ったかわからないさ」
「あなたがですか⁉」
「もちろん。なんであれ、最初からうまくできる人間なんていやしない。子育てだって同じ。最初は下手くそ。段々うまくなっていくもんさ。そもそも、子育てなんてもんはひとりでできることじゃないし、ひとりでやろうとしていいものでもない。家族に親戚、友人知人、その他なんでも、利用できるものは利用してうまく手を抜くことさ。それが、上手な子育てのコツだよ。
あんたはただ『手を抜く』ことを知らないだけさ。だから、そうやって思い悩んじまう。しばらく、ここで暮らすんだね。このおかみさんが母親の先輩として、手の抜き方を教えてあげるよ」
こうして、アンドレアは息子のアート共々、おかみさんのもとで暮らすことになった。他の何人もの若い母親たちと一緒に。
そのことがアンドレアの、ひいては、人類世界すべての運命をかえることになるとも知らずに。
アンドレアはベッドの上で上半身を起こすと、思いきり伸びをした。
なんと気持ちの良い目覚めだろう。
頭がスッキリしている。
心が落ち着いているのがわかる。
こんな爽快な目覚めはいつ以来だろう。息子を産んでから、こんなに気持ちよく起きたことはなかったはずだ。
赤ん坊特有の、理由不明のギャン泣きによって叩き起こされる心配なしにぐっすり眠れる。
それが、こんなにも気持ちのいい目覚めを与えてくれるとは。
いや、わかってはいたけど、予想以上だった。
思いあまり、赤ん坊の息子を始末しようとして川に向かった。そこで出会った中年女性。その女性によって連れてこられた、川と町の中間あたりに建つ家屋。もともとは川で漁をする漁師たちの集まる小屋ででもあったろうか。古いし、内装と言えるようなものもないけれど、広さと部屋数だけはたっぷりあった。
女性によって連れてこられたアンドレアはすぐに、ベッドの並んだ寝室に通された。
「ゆっくり、お休み」
そう言われるまでもなく、アンドレアはベッドを見た途端、そこに飛び込んだ。まるで、運命の恋人の胸に飛び込む乙女のように。
「ゆっくり、おやすみ」
中年の女性が微笑みながらそう言ったのは――。
アンドレアが豪快と言ってもいいほどのいびきをかいて眠りに落ちた後のことだった。
「はっ、いけない!」
アンドレアはハッと気付いた。
あまりにグッスリ眠り込んでいたせいで忘れていたのだろうか。自分は確かにあの女性に助けられたのだ。他人に、それも、見ず知らずの相手に助けられて礼のひとつも言わずにいつまでも眠り込んでいるなど騎士としてあるまじき振る舞い。許されないことだ。
「一刻も早く礼を述べ、お返しをしなくては」
アンドレアは騎士学校で培われた騎士口調でそう呟くと、とにもかくにも身だしなみを整えた。肌はカサカサ、髪はボロボロ、どう手入れしたところで大してかわるわけではないが、騎士たるもの、恩人に対して礼を述べるにあたり、身なりを気にしないというわけにはいかない。とにかく、いまの状況で出来るだけの手入れはした。ぐっすり眠ったおかげですっかり老けて見えるようになっていた顔が、年相応に見える顔に戻っているのが救いだった。
「よしっ……!」
アンドレアは身なりを整えると小さく気合いを入れた。『小さく』というのはあくまでもアンドレアの主観であって、世間的には『大声』と言っていいものだったが。
ともかく、アンドレアは背筋をピシッと伸ばすと、騎士独特の行進歩調で寝室を出た。
居間……と言っていいのだろうか。寝室を出たそこはだだっ広い空間だった。居間らしい飾りがあるわけでもなく、あるものと言えば古い暖炉と、同じく古くて大きいテーブル、そして、そのテーブルにあわせて置かれた幾つもの椅子。ただ、それだけ。
居間というより寄り合い所。
そう言った方がいい感じだった。
椅子のひとつにあの女性が座っていた。そのふくよかな胸にアンドレアの息子、アートを抱いている。
――アートがあんなにおとなしく眠っているなんて。
母親として、少しばかりの嫉妬と敗北感を感じながらアンドレアは思った。それぐらい、アートは安心したように眠っている。自分がいくらあやしてもあんな顔は見せず、いつだって理由不明のギャン泣きを繰り返していたというのに。
「おや、起きたね」
女性がにこやかに言った。
アンドレアは大仰なぐらいしゃちほこばって騎士の礼を取った。
「助けていただき誠に感謝いたします。このご恩は忘れません。一生かけてもお返しする所存」
あまりにも格式張った騎士の礼に――。
女性は目をパチクリさせた。それから、愉快そうに大笑いした。まさに、気っ風のいいおかみさん。そう言いたくなる姿だった。
「あははははっ、いいんだよ、そんなにしゃちほこばらなくても。困ったときはお互いさまさ。それより、あんた、お腹空いてるだろう? ろくに食べていなかったみたいだし、あんなに眠っていたんじゃあね」
そう言われて――。
アンドレアは恐ろしく腹が減っていることにはじめて気付いた。気付いた途端、
ぐぐぅ~。
腹が恐ろしく健康的な音を立てた。
アンドレアは真っ赤になってうつむいたが、女性……おかみさんは朗らかに笑ってみせた。
「それでいい。人間、腹の虫が鳴る間は生きていけるさ」
おかみさんはそう言うとアートを抱いたまま立ちあがり、大鍋のなかのスープを温め、振る舞ってくれた。
「さあ、お食べ。とにかく、食べてさえいれば人間、なんとかなるもんさ」
古いパンに、やはり、古いチーズ。そして、野菜の切れ端が浮いただけの薄いスープ。ただ、それだけ。かつて、国王の婚約者として壮麗なる王宮のなかで無数の使用人にかしずかれてとっていた食事に比べれば、質素と言うのも貧相な食事。それでも――。
――ゆっくり、食べられる。
それだけで、涙が出るぐらいおいしかった。
考えてみれば、アートを産んで以来、こんな風にゆっくり食事を取ったことはない。むずがってばかりでろくに食べてくれないアートに食べさせることばかりに必死になって、自分の食事はなおざりにしていた。
――それでは、苛々するわけだ。
落ち着いた気持ちになって振り返ると、そのことがよくわかる。こうして、質素でも温かい食事をゆっくりと腹のなかに入れる。ただ、それだけのことでこんなにも満ち足りた気持ちになれるのだから。
「ごちそうさまでした。とてもおいしい食事でした。ありがとうございました」
アンドレアはすべての食事をきれいに食べ終え、改めて礼を述べた。おかみさんはそんなアンドレアを見守りつつ穏やかに笑っている。その胸元ではアートが相変わらず安心した様子で眠っている。
「アート……その子がそんなに安心した様子で眠っているなんて。わたしがいくらあやしても泣いてばかりだったというのに」
「ちがうよ。泣いていたのは母親であるあんたのほうさ」
「わたしの?」
「そうさ。赤ん坊は相手の気持ちに敏感だからね。自分を抱く相手の気持ちが落ち着いていれば自分も落ち着くし、相手が泣きたい気持ちを押し隠していれば自分がかわりに泣く。そう言うものさ。
いい母親でなければいけない。
子供を立派に育てなければいけない。
そう思い込んで、肩肘張ってたんだろう?
その気持ちが赤ん坊に伝染して、泣かせていたのさ。
お疲れさま。
本当につらかったよね。
でも、もうだいじょうぶ。ここには力になってくれる人間が大勢、いるからね」
その言葉に――。
思わず、アンドレアの目に涙がにじんだ。
アンドレアはあわてて涙を拭った。騎士として、人前で涙など見せられない。涙で濡れた瞳を隠すために急いで頭をさげる。
「ありがとうございます! 感謝のしようもありません。このご恩は必ず……」
「だから、気にしなくていいって。言ったろ。困ったときはお互いさまだよ」
「ありがとうございます。ならば、困ったことがおありならいつなんどきでも仰ってください。このアンドレア・シュヴァリエ。あなたのためなら地の果てからでも駆けつけますぞ」
「ああ。そのときはよろしく頼むよ」
おかみさんは笑ってそう言った。
アンドレアもその笑みにつられて顔をほころばせた。
「あの……ところで、ここは?」
「ああ。そこの窓から外を見てみな」
「外?」
アンドレアは言われたとおり、窓から外を見た。そこには何人もの子連れの女性たちがいて、それぞれに立ち働いていた。皆、若い。一番の年かさでもせいぜい二〇代後半。若い子となるとまだ一〇代半ばと見える少女さえいた。
「これは……」
「ここはね。あんたみたいに子育てに疲れた娘たちの集まる場所なのさ」
「えっ?」
「事情のある娘なんていつの世にもいるもんさ。それぞれに事情を抱え、自分ひとりで子供を育てなきゃならなくなった娘たち。でも、そのことに疲れはて、子供を殺してしまおうと、あるいは一緒に死のうとした娘たち。そんな娘たちが集まって暮らしているのさ」
子供を殺してしまおうと――。
その言葉を聞いたとき、アンドレアの胸がギュッと締めつけられた。両の拳を固く握りしめた。
「あんたのいた場所、あそこはちょうど、子供を投げ捨てたり、一緒に身投げするのにいい場所らしくてね。赤ん坊を連れた娘がよく来るんだよ。あたしは毎日、何度かあのあたりを見回って、そんな娘たちをここまで連れ来るのさ」
「あ、あの……!」
「なんだい?」
「改めて名乗らせていただきます。わたしはアンドレア・シュヴァリエ。あなたのお名前を聞かせていただけますか?」
「あたしはおかみさん。そう呼ばれているよ」
感じることは皆同じ、ということなのだろう。確かに、この女性を差す言葉として『おかみさん』以上のものはない。
「では、おかみさんどの。このアンドレア・シュヴァリエ。あなたを見込んで一生の頼みがあります」
「なんだい?」
おかみさんは優しく、それでも、どこか面白がっているような様子で笑って見せた。その表情は、これからアンドレアがなにを言い出すかを正確に察していることを告げていた。
そして、アンドレアは言った。おかみさんが察していたとおりのことを。
「どうか、その子を、我が息子、アート・アレクサンデル・アンドレアスを、あなたの子として、あなたの手で育てていただきたい」
「あたしの手でかい?」
「そうです。わたしはその子をこの手で殺そうとしました。例え、一時の気の迷いであろうとも決して許されないことです。わたしには母の資格などありません。こんなわたしのもとにいるより、あなたのような方のもとで育った方がその子も……」
「あははははっ!」
突然――。
おかみさんが大声で笑い出した。それも、面白くておもしろくて仕方がない、と言った様子で。
呆気にとられるアンドレアにおかみさんは言った。
「あははははっ。本当に、あんたみたいに真面目で若い母親は同じことを言うねえ。ここにいる娘の誰もが一度はそう言ったものさ」
「そ、そうなのですか……?」
「そうとも。自分だけが特別だなんて思うもんじゃないよ。人間なんて似たり寄ったり。みんな、同じように思っているんだからね。あたしだって最初の子育てのときは何度、殺してやろうと思ったかわからないさ」
「あなたがですか⁉」
「もちろん。なんであれ、最初からうまくできる人間なんていやしない。子育てだって同じ。最初は下手くそ。段々うまくなっていくもんさ。そもそも、子育てなんてもんはひとりでできることじゃないし、ひとりでやろうとしていいものでもない。家族に親戚、友人知人、その他なんでも、利用できるものは利用してうまく手を抜くことさ。それが、上手な子育てのコツだよ。
あんたはただ『手を抜く』ことを知らないだけさ。だから、そうやって思い悩んじまう。しばらく、ここで暮らすんだね。このおかみさんが母親の先輩として、手の抜き方を教えてあげるよ」
こうして、アンドレアは息子のアート共々、おかみさんのもとで暮らすことになった。他の何人もの若い母親たちと一緒に。
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