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二七章 勝負がはじまる
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大地を焼き尽くすかのような八月の日差しを浴びて、『ソレ』はそこに立っていた。
空にそびえる鉄の城。
スーパービーグル、空飛ぶ部屋。
育美は力強くうなずきながら、
希見は祈るように両手をあわせて、
志信は『どうだ!』とばかりに胸の前で腕組みして、
心愛はいつもながらのクールな態度で、
多幸は子どもらしい無邪気な喜びをその表情に乗せて、
それぞれらしい仕種で、それぞれに誇りを込めて、その勇姿を見上げている。
「ついに……ついにやったんですね」
希見が合わせていた両手をグッと握りしめながら言った。その言葉に万感の思いがこもっている。
「そうです。ついにやったんです」
育美が力強くうなずいた。
その言葉は短かったけれどその分、万の言葉を用いるより多くの思いが詰め込まれていた。
「これで……これでもう、誰も災害なんかで死んだりしない社会が開けるんですね」
「そうとも、姉ちゃん」
姉の言葉に志信が力強く答えた。
「こいつはオレたちの思いの結晶。『誰も災害なんかで死なせたりしない』という思いが形になったものだ。オレたちはこいつで災害を踏みにじる。多くの人間を殺してきた災害。その災害を今度は人間の側が仕留めてやるんだ」
「絶対に、成功させる」
心愛もクールなその表情に断固たる決意を込めて言いきった。
「そうだよ。育美ちゃんに、希見ちゃんに、志信ちゃんに、心愛ちゃん。みんなが必死で作った空飛ぶ部屋だもん。きっと、すべての災害から人を守ってくれるよ」
多幸がその小さな手をギュッと握りしめながらそう言った。正統派アイドルな愛らしいその顔に喜びの表情を浮かべながら、どこかさびしそうな、悔しそうな様子があるのは、
「……あたしだけ、空飛ぶ部屋作りに関われなかった」
という思いがあるからだ。
そんな多幸に向かい、育美は言った。
「私たちだけじゃない。こいつには多幸ちゃんの思いだってちゃんと込められているよ」
「そうとも。多幸が家事全般をこなしてくれたからこそ、オレたちは空飛ぶ部屋作りに専念できたんだ」
「多幸の緻密なスケジュール調整と栄養管理なしには、空飛ぶ部屋の実現はあり得なかった」
「そうよ、多幸。胸を張って。わたしたち五人、誰ひとり欠けたって、空飛ぶ部屋は実現しなかったんだから」
姉たちにそう言われ――。
思わず大きな目に涙を溜める多幸だった。
四葉家の四姉妹改め五姉妹。その五人の思いがひとつになって生みだされたスーパービークル、空飛ぶ部屋。
居住区となるゴンドラ部分は空気抵抗を減らすためのボート型。先端に小さな操縦席、後方にエンジンルームが設置されており、居住区となる中央部分はおよそ六畳間ほどの広さ。その広さのなかに二段ベッドと小さなクローゼット、それに、ティーテーブルが置かれている。また、ごくごくせまいものだがシャワールームも設置してある。
そのゴンドラからは翼型の気嚢が天に向かって伸びている。サイの一本角のごとく雄々しく、雄大にそびえるその姿。まさに、新たな時代を切り開く未来の翼と言うにふさわしい。そのなかはいくつもの隔壁によってわけられており、気嚢の一部が破損してもなかの水素が一気に漏れ出したりはしないようにしてある。
カーボンファイバーを主材料に、さほど強度の必要ない箇所には和紙とタケを使うことで強度と共に徹底的な軽さを追求。安全性と軽量性を両立させた。
動力源となるのは燃料電池。発電と同時に熱と水を排出するこの装置のおかげで災害時でも電気・熱・湯に不自由せずにすむ。小さいながらもシャワールームもあるから、家が破損しようが、水道網がズタズタになろうが、いつでもどこでもお湯を浴びて体を清潔にたもてるし、気分もリフレッシュできる。
そして、トイレ。災害時の最重要案件とも言えるトイレももちろん完備。下水網につながっているわけではないので水洗トイレではなくバイオトイレ。微生物資材を使って排泄物を発酵・分解して処理する仕組みのトイレである。
従来のバイオトイレは排泄物を分解したあとに残渣が残るので、いちいちその始末をしなければならなかった。しかし、ここで使用しているトイレは日本のとあるメーカーが開発した完全消滅型バイオトイレ。排泄物の分解後に残る残渣をも分解して水と炭酸ガスにかえ、空気中に発散し、排泄物を完全消滅させるという優れもの。
このトイレのおかげで災害時でもトイレの心配はなくなった。
窓辺にはハーブの鉢植え。
「せっかく、いつでもお湯が使えるんですから。どんなときでもハーブティーが飲めるように自家栽培しておきましょう。暖かくておいしい飲み物を飲めば、身も心も落ち着きます」
と言う、希見の女性らしい気遣いである。
『飲み物』という点を別にしても、自然な緑は人の心を落ち着かせる効果があるので、ハーブの鉢植えをおいておくのは大きな意味がある。
ゴンドラの両脇には推進用の一対のプロペラ。このプロペラは着陸時には風力発電にも使え、蓄電池に充電できる。燃料電池と合わせて――計算上は――一家族が生活していくのに必要なだけの電気と熱と水とを常に供給できる。
つまり、この空飛ぶ部屋がひとつあれば、膨大な電線網やガス管が必要なくなる――あくまでも『計算上は』だが――というわけだ。それだけでも、どれほどの手間と資源の節約となることか。
標準積載重量は五〇〇キロ。大した量ではないが『家族』というサイズが小さくなる一方のこの時代、一家族が貴重品だけをもって避難するには充分な積載量だ。
六畳一間程度のスペースにベットにクローゼット、シャワールームまで設置してあるのだからかなりせまい。それでも、四~五人までならなんとか乗れる。テーブルを囲んでお茶会と洒落込む程度の余裕はある分、身動きひとつとれない狭苦しい座席に押し込められ、いつ終わるとも知れない移動と渋滞を繰り返す羽目になる車より、よほど快適だ。
「燃料電池を動かすための水素燃料は有機ハイドライドという形で貯蔵してあるから安心だしね」
「有機ハイドライド?」
育美の言葉に、五姉妹随一の科学オンチである希見が首をかしげた。
「水素を吸収したり、放出したりする特性をもった化合物だよ。デカリンとか、メチルシクロヘキサンといったものがある。ワインボトル一本分の有機ハイドライドで一般家庭一時間分の電気を発電できる。しかも、化合物という形で安定して貯蔵できるから水素のもつ『火のつきやすさ』という危険性もクリアできる。安全に貯蔵しておけるわけだ」
「へえ、そんな方法があるんですか。すごいんですね」
「以前は水素を貯蔵させることはできても、効率的に取り出す方法がなかった。そのために実用化されてこなかったんだけど近年、日本のメーカーが水素を取り出すための技術を確立させた。おかげで、一気に実用化の目処がついたんだ」
「へえ」
「そう。こいつはあらゆる意味で革命なんだ」
育美は愛おしさを込めて空飛ぶ部屋の外面をさわりながら言った。
「こいつが家に一機あれば、どんな災害が来ても逃げられる。無事でいられる。それだけじゃない。せまい座席に押し込められ、身動きひとつできない車や新幹線なんかよりずっと快適に移動できるようになる。どこに行くにもシートベルトで体を締め付けてじっとしている……なんていう必要はなくなる。家族みんなでお茶でも楽しみながらどこへでも飛んでいけるんだ。
しかも、燃料電池式で電気も、熱も、水さえも自家生産できる。こいつがあることで、発電所やガスタンクといった大規模災害の危険がつきまとう施設がいらなくなる。空飛ぶ部屋が普及することで、いまよりずっと安全な暮らしを手に入れられるようになるんだ。
いまはまだまだ小さくて不便だけど……飛行船には理論上、大きさに限界はない。空飛ぶ部屋が安全に運用できると証明され、高さが二〇〇メートルも三〇〇メートルもあるような大型気嚢をもった空飛ぶ部屋が作れるようになれば、快適性ははるかに高くなる」
「いっそ、家を丸ごと飛ばしたい」
心愛の言葉に、育美は力強くうなずいた。
「そうとも。飛行船は理論上、いくらでも大きく作れる。安全性さえ保証されれば、世界中の家が自由に空を飛んで移動する……なんていう時代だって夢じゃない。そうなったら……」
育美は限りない未来への思いを込めて言った。
「地上に縛られている必要だってない。人間は皆、空に住んで、地上は自然に返す……そんな未来だってあり得るんだ」
「でも……」
五姉妹随一――唯一?――の常識人である多幸が首をかしげた。
「そうなると、長く伸びた縦型の翼が埋め尽くすんでしょう? それは、無理なんじゃないの?」
いかにも常識人らしい常識的なその言葉を、しかし、戦闘民族である志信は笑い飛ばした。
「思い出してみろよ。昔のSFでは、『都市』と言ったら超高層ビルの建ち並ぶメトロポリスだったじゃないか。現代だってビルの埋め尽くす都市なんて普通にあるんだ。ビルのかわりに翼が立ち並んだってかわりゃしないって」
「そう。いつか、空飛ぶ部屋の翼がズラリと並ぶ世界が来る。いや、私たちの手で実現させるんだ。必ず、絶対に」
育美は空飛ぶ部屋を見上げながらそう呟いた。そんな育美を愛おしそうに見つめながら、希見が尋ねた。
「それで、育美さん。この空飛ぶ部屋はなんていう名前にするんです?」
もっとも質問だったが、答えは最初から決まっている。育美は迷いなく答えた。
「もともと、空飛ぶ部屋は豊川順彌の物語からはじまった。その豊川順彌の作りあげた日本初の純国産自動車の名が『オートモ号』。そして、空飛ぶ部屋は単なる部屋でもなければ、乗り物でもない。そんな区分を超えて、人々の安全を守る友となる。だったら、名前はひとつしかない」
育美は限りない誇りを込めてその名を口にした。たったひとつ、それ以外にはあり得ない名前を。
「『大友号』だ」
その名前に――。
全員が力強くうなずいた。
道具は出来上がった。
あとは、その実力を証明すること。
その機会がくるのをまつだけだった。
台風のなかを突っ切る。
その様子を部屋のなかから生配信する。
そのイベントにふさわしい大型台風がやってくるのを。
育美たちは毎日まいにちテレビにかじりつくようにして天気予報を見た。そして、まった。そのときがくるのを。
ついに、そのときはやってきた。テレビの天気予報が『非常に勢力の強い』台風の接近を告げたのだ。台風は愛媛県に上陸したあと、瀬戸内海を抜けて岡山に再上陸。そのまま鳥取から日本海へ抜けると予想されていた。
「よし」
と、その報を見た育美は決意を込めた表情でうなずいた。
「これだ。この台風に挑む。台風が瀬戸内海を通過する時間に合わせて愛媛から岡山に飛ぶ。海の上なら万が一、墜落することになっても被害は出ない。私たちが死ぬだけだ」
「で、でも……」
――私たちが死ぬだけだ。
その言葉にさすがに心細くなったのだろう。希見が怯えたような表情で言った。
「この台風、ものすごく強いそうですよ? さすがに危ないですよ。もっと、小型の台風にした方がいいんじゃ……」
姉の言葉に断固として反対したのは志信だった。
「空飛ぶ部屋は対災害用だ。最大級の災害でも克服できることを証明しなきゃ意味がない」
志信は、そう言ってからニカッと笑って見せた。
「なあに、だいじょうぶさ。大友号はおれたち全員で作りあげた魂の化身なんだ。台風なんかに負けやしない。絶対に勝つ。無事に愛媛から岡山まで飛んでみせる。そうとも。親父とお袋を殺した災害を、今度はオレたちが殺すんだ。皆で作った大友号を使ってな」
「……わかったわ」
希見はうなずいた。圧倒的な決意をふたつの目に宿し、そう言いきる妹の姿を前にしては希見もうなずくしかなかった。拳を握りしめてつづけた。
「あなたたちが命を懸けるならわたしも懸ける。陰腹を切って応援を……」
「それじゃ、完全に死ぬだろ!」
希見の天然な発言に――。
その場にいる全員が一斉にツッコミを入れたのだった。
ともかく、挑戦の日はやってきた。
台風上陸を間近に控えた八月下旬のその日。育美たちはそれぞれに決意を固めて旅立った。育美と志信は大友号に乗って直接、愛媛に飛び、希見と多幸は車で岡山に向かい、到着をまつ。ただひとり、心愛だけが同行しない。
「まっているだけなんて退屈。大友号に乗れないのでは、行く意味がない」
そう言って毎年、参加しているというガールスカウトのキャンプに向かってしまった。関東は台風の影響は少ないと見られているので予定通りに行われるのだそうである。
「じゃ、行ってくる」
その一言を残して、命懸けの挑戦に出ようとする姉たちをおいて出かけていくその姿に、
「……心愛らしい」
と、全員が納得したのだった。
ともあれ、育美と志信は大友号に乗って愛媛に向かった。出発地点に到着し、台風の訪れをまった。対岸の岡山にはすでに育美と多幸が到着して姉妹が元気な姿を見せるのを今かいまかとまっているはずだ。
「姉ちゃんのことだから今頃、心配のあまり、スクワットやら腕立てやらしてあたり一面、瓦礫の山にかえてるぞ」
志信が苦笑しながらそう言うと、育美がさすがに目を丸くした。
「希見さん、そんな癖があるのか?」
「姉ちゃん、家族のことで心配するとパワー一〇倍だからな。オレたちがいつまでも到着しないとなると、海に飛び込んで探しに来るぞ」
「そ、それは大変だな……」
とめに入る多幸ちゃんが、と、育美は言った。
「希見さんに心配させないためにも、多幸ちゃんによけいな苦労をかけないためにも、予定通りに瀬戸内海を通過して岡山に着かないとな」
「ああ、もちろんだ。簡単なことじゃない。それはわかってる。危険なのも承知の上だ。だけど、オレたちならできる。オレと、お前と、大友号ならな」
「ああ。その通りだ」
そして、台風はやってきた。銃弾のような雨が間断なく降りそそぎ、風は大気そのものが塊となって動き、叩きつけてくるかのよう。轟音が鳴り響き、木々が悲鳴をあげてしなり、海の上は巨大な波が荒れ狂う。台風の勢力圏内すべてに避難勧告が出されている。それぐらい、大きな台風だった。
そして、それは、育美たちの挑戦のときでもあった。
「へへっ。まさに『吹けよ、嵐』ってやつだな。これでこそ、大友号の初陣にふさわしいってもんだぜ」
「その通りだ。大友号は空飛ぶ部屋だ。人間の住み処なんだ。人間の住み処である以上、台風なんかに負けるわけにはいかない。そのなかの人間をしっかりと守り抜くだけの耐久性が必要とされる。行こう、志信。私たちでそのことを証明し、もう誰も災害で死んだりしない社会を開くんだ」
「おう、育美」
そして、ふたりは大友号に乗り込んだ。
吹き荒れる嵐のなかを。
空にそびえる鉄の城。
スーパービーグル、空飛ぶ部屋。
育美は力強くうなずきながら、
希見は祈るように両手をあわせて、
志信は『どうだ!』とばかりに胸の前で腕組みして、
心愛はいつもながらのクールな態度で、
多幸は子どもらしい無邪気な喜びをその表情に乗せて、
それぞれらしい仕種で、それぞれに誇りを込めて、その勇姿を見上げている。
「ついに……ついにやったんですね」
希見が合わせていた両手をグッと握りしめながら言った。その言葉に万感の思いがこもっている。
「そうです。ついにやったんです」
育美が力強くうなずいた。
その言葉は短かったけれどその分、万の言葉を用いるより多くの思いが詰め込まれていた。
「これで……これでもう、誰も災害なんかで死んだりしない社会が開けるんですね」
「そうとも、姉ちゃん」
姉の言葉に志信が力強く答えた。
「こいつはオレたちの思いの結晶。『誰も災害なんかで死なせたりしない』という思いが形になったものだ。オレたちはこいつで災害を踏みにじる。多くの人間を殺してきた災害。その災害を今度は人間の側が仕留めてやるんだ」
「絶対に、成功させる」
心愛もクールなその表情に断固たる決意を込めて言いきった。
「そうだよ。育美ちゃんに、希見ちゃんに、志信ちゃんに、心愛ちゃん。みんなが必死で作った空飛ぶ部屋だもん。きっと、すべての災害から人を守ってくれるよ」
多幸がその小さな手をギュッと握りしめながらそう言った。正統派アイドルな愛らしいその顔に喜びの表情を浮かべながら、どこかさびしそうな、悔しそうな様子があるのは、
「……あたしだけ、空飛ぶ部屋作りに関われなかった」
という思いがあるからだ。
そんな多幸に向かい、育美は言った。
「私たちだけじゃない。こいつには多幸ちゃんの思いだってちゃんと込められているよ」
「そうとも。多幸が家事全般をこなしてくれたからこそ、オレたちは空飛ぶ部屋作りに専念できたんだ」
「多幸の緻密なスケジュール調整と栄養管理なしには、空飛ぶ部屋の実現はあり得なかった」
「そうよ、多幸。胸を張って。わたしたち五人、誰ひとり欠けたって、空飛ぶ部屋は実現しなかったんだから」
姉たちにそう言われ――。
思わず大きな目に涙を溜める多幸だった。
四葉家の四姉妹改め五姉妹。その五人の思いがひとつになって生みだされたスーパービークル、空飛ぶ部屋。
居住区となるゴンドラ部分は空気抵抗を減らすためのボート型。先端に小さな操縦席、後方にエンジンルームが設置されており、居住区となる中央部分はおよそ六畳間ほどの広さ。その広さのなかに二段ベッドと小さなクローゼット、それに、ティーテーブルが置かれている。また、ごくごくせまいものだがシャワールームも設置してある。
そのゴンドラからは翼型の気嚢が天に向かって伸びている。サイの一本角のごとく雄々しく、雄大にそびえるその姿。まさに、新たな時代を切り開く未来の翼と言うにふさわしい。そのなかはいくつもの隔壁によってわけられており、気嚢の一部が破損してもなかの水素が一気に漏れ出したりはしないようにしてある。
カーボンファイバーを主材料に、さほど強度の必要ない箇所には和紙とタケを使うことで強度と共に徹底的な軽さを追求。安全性と軽量性を両立させた。
動力源となるのは燃料電池。発電と同時に熱と水を排出するこの装置のおかげで災害時でも電気・熱・湯に不自由せずにすむ。小さいながらもシャワールームもあるから、家が破損しようが、水道網がズタズタになろうが、いつでもどこでもお湯を浴びて体を清潔にたもてるし、気分もリフレッシュできる。
そして、トイレ。災害時の最重要案件とも言えるトイレももちろん完備。下水網につながっているわけではないので水洗トイレではなくバイオトイレ。微生物資材を使って排泄物を発酵・分解して処理する仕組みのトイレである。
従来のバイオトイレは排泄物を分解したあとに残渣が残るので、いちいちその始末をしなければならなかった。しかし、ここで使用しているトイレは日本のとあるメーカーが開発した完全消滅型バイオトイレ。排泄物の分解後に残る残渣をも分解して水と炭酸ガスにかえ、空気中に発散し、排泄物を完全消滅させるという優れもの。
このトイレのおかげで災害時でもトイレの心配はなくなった。
窓辺にはハーブの鉢植え。
「せっかく、いつでもお湯が使えるんですから。どんなときでもハーブティーが飲めるように自家栽培しておきましょう。暖かくておいしい飲み物を飲めば、身も心も落ち着きます」
と言う、希見の女性らしい気遣いである。
『飲み物』という点を別にしても、自然な緑は人の心を落ち着かせる効果があるので、ハーブの鉢植えをおいておくのは大きな意味がある。
ゴンドラの両脇には推進用の一対のプロペラ。このプロペラは着陸時には風力発電にも使え、蓄電池に充電できる。燃料電池と合わせて――計算上は――一家族が生活していくのに必要なだけの電気と熱と水とを常に供給できる。
つまり、この空飛ぶ部屋がひとつあれば、膨大な電線網やガス管が必要なくなる――あくまでも『計算上は』だが――というわけだ。それだけでも、どれほどの手間と資源の節約となることか。
標準積載重量は五〇〇キロ。大した量ではないが『家族』というサイズが小さくなる一方のこの時代、一家族が貴重品だけをもって避難するには充分な積載量だ。
六畳一間程度のスペースにベットにクローゼット、シャワールームまで設置してあるのだからかなりせまい。それでも、四~五人までならなんとか乗れる。テーブルを囲んでお茶会と洒落込む程度の余裕はある分、身動きひとつとれない狭苦しい座席に押し込められ、いつ終わるとも知れない移動と渋滞を繰り返す羽目になる車より、よほど快適だ。
「燃料電池を動かすための水素燃料は有機ハイドライドという形で貯蔵してあるから安心だしね」
「有機ハイドライド?」
育美の言葉に、五姉妹随一の科学オンチである希見が首をかしげた。
「水素を吸収したり、放出したりする特性をもった化合物だよ。デカリンとか、メチルシクロヘキサンといったものがある。ワインボトル一本分の有機ハイドライドで一般家庭一時間分の電気を発電できる。しかも、化合物という形で安定して貯蔵できるから水素のもつ『火のつきやすさ』という危険性もクリアできる。安全に貯蔵しておけるわけだ」
「へえ、そんな方法があるんですか。すごいんですね」
「以前は水素を貯蔵させることはできても、効率的に取り出す方法がなかった。そのために実用化されてこなかったんだけど近年、日本のメーカーが水素を取り出すための技術を確立させた。おかげで、一気に実用化の目処がついたんだ」
「へえ」
「そう。こいつはあらゆる意味で革命なんだ」
育美は愛おしさを込めて空飛ぶ部屋の外面をさわりながら言った。
「こいつが家に一機あれば、どんな災害が来ても逃げられる。無事でいられる。それだけじゃない。せまい座席に押し込められ、身動きひとつできない車や新幹線なんかよりずっと快適に移動できるようになる。どこに行くにもシートベルトで体を締め付けてじっとしている……なんていう必要はなくなる。家族みんなでお茶でも楽しみながらどこへでも飛んでいけるんだ。
しかも、燃料電池式で電気も、熱も、水さえも自家生産できる。こいつがあることで、発電所やガスタンクといった大規模災害の危険がつきまとう施設がいらなくなる。空飛ぶ部屋が普及することで、いまよりずっと安全な暮らしを手に入れられるようになるんだ。
いまはまだまだ小さくて不便だけど……飛行船には理論上、大きさに限界はない。空飛ぶ部屋が安全に運用できると証明され、高さが二〇〇メートルも三〇〇メートルもあるような大型気嚢をもった空飛ぶ部屋が作れるようになれば、快適性ははるかに高くなる」
「いっそ、家を丸ごと飛ばしたい」
心愛の言葉に、育美は力強くうなずいた。
「そうとも。飛行船は理論上、いくらでも大きく作れる。安全性さえ保証されれば、世界中の家が自由に空を飛んで移動する……なんていう時代だって夢じゃない。そうなったら……」
育美は限りない未来への思いを込めて言った。
「地上に縛られている必要だってない。人間は皆、空に住んで、地上は自然に返す……そんな未来だってあり得るんだ」
「でも……」
五姉妹随一――唯一?――の常識人である多幸が首をかしげた。
「そうなると、長く伸びた縦型の翼が埋め尽くすんでしょう? それは、無理なんじゃないの?」
いかにも常識人らしい常識的なその言葉を、しかし、戦闘民族である志信は笑い飛ばした。
「思い出してみろよ。昔のSFでは、『都市』と言ったら超高層ビルの建ち並ぶメトロポリスだったじゃないか。現代だってビルの埋め尽くす都市なんて普通にあるんだ。ビルのかわりに翼が立ち並んだってかわりゃしないって」
「そう。いつか、空飛ぶ部屋の翼がズラリと並ぶ世界が来る。いや、私たちの手で実現させるんだ。必ず、絶対に」
育美は空飛ぶ部屋を見上げながらそう呟いた。そんな育美を愛おしそうに見つめながら、希見が尋ねた。
「それで、育美さん。この空飛ぶ部屋はなんていう名前にするんです?」
もっとも質問だったが、答えは最初から決まっている。育美は迷いなく答えた。
「もともと、空飛ぶ部屋は豊川順彌の物語からはじまった。その豊川順彌の作りあげた日本初の純国産自動車の名が『オートモ号』。そして、空飛ぶ部屋は単なる部屋でもなければ、乗り物でもない。そんな区分を超えて、人々の安全を守る友となる。だったら、名前はひとつしかない」
育美は限りない誇りを込めてその名を口にした。たったひとつ、それ以外にはあり得ない名前を。
「『大友号』だ」
その名前に――。
全員が力強くうなずいた。
道具は出来上がった。
あとは、その実力を証明すること。
その機会がくるのをまつだけだった。
台風のなかを突っ切る。
その様子を部屋のなかから生配信する。
そのイベントにふさわしい大型台風がやってくるのを。
育美たちは毎日まいにちテレビにかじりつくようにして天気予報を見た。そして、まった。そのときがくるのを。
ついに、そのときはやってきた。テレビの天気予報が『非常に勢力の強い』台風の接近を告げたのだ。台風は愛媛県に上陸したあと、瀬戸内海を抜けて岡山に再上陸。そのまま鳥取から日本海へ抜けると予想されていた。
「よし」
と、その報を見た育美は決意を込めた表情でうなずいた。
「これだ。この台風に挑む。台風が瀬戸内海を通過する時間に合わせて愛媛から岡山に飛ぶ。海の上なら万が一、墜落することになっても被害は出ない。私たちが死ぬだけだ」
「で、でも……」
――私たちが死ぬだけだ。
その言葉にさすがに心細くなったのだろう。希見が怯えたような表情で言った。
「この台風、ものすごく強いそうですよ? さすがに危ないですよ。もっと、小型の台風にした方がいいんじゃ……」
姉の言葉に断固として反対したのは志信だった。
「空飛ぶ部屋は対災害用だ。最大級の災害でも克服できることを証明しなきゃ意味がない」
志信は、そう言ってからニカッと笑って見せた。
「なあに、だいじょうぶさ。大友号はおれたち全員で作りあげた魂の化身なんだ。台風なんかに負けやしない。絶対に勝つ。無事に愛媛から岡山まで飛んでみせる。そうとも。親父とお袋を殺した災害を、今度はオレたちが殺すんだ。皆で作った大友号を使ってな」
「……わかったわ」
希見はうなずいた。圧倒的な決意をふたつの目に宿し、そう言いきる妹の姿を前にしては希見もうなずくしかなかった。拳を握りしめてつづけた。
「あなたたちが命を懸けるならわたしも懸ける。陰腹を切って応援を……」
「それじゃ、完全に死ぬだろ!」
希見の天然な発言に――。
その場にいる全員が一斉にツッコミを入れたのだった。
ともかく、挑戦の日はやってきた。
台風上陸を間近に控えた八月下旬のその日。育美たちはそれぞれに決意を固めて旅立った。育美と志信は大友号に乗って直接、愛媛に飛び、希見と多幸は車で岡山に向かい、到着をまつ。ただひとり、心愛だけが同行しない。
「まっているだけなんて退屈。大友号に乗れないのでは、行く意味がない」
そう言って毎年、参加しているというガールスカウトのキャンプに向かってしまった。関東は台風の影響は少ないと見られているので予定通りに行われるのだそうである。
「じゃ、行ってくる」
その一言を残して、命懸けの挑戦に出ようとする姉たちをおいて出かけていくその姿に、
「……心愛らしい」
と、全員が納得したのだった。
ともあれ、育美と志信は大友号に乗って愛媛に向かった。出発地点に到着し、台風の訪れをまった。対岸の岡山にはすでに育美と多幸が到着して姉妹が元気な姿を見せるのを今かいまかとまっているはずだ。
「姉ちゃんのことだから今頃、心配のあまり、スクワットやら腕立てやらしてあたり一面、瓦礫の山にかえてるぞ」
志信が苦笑しながらそう言うと、育美がさすがに目を丸くした。
「希見さん、そんな癖があるのか?」
「姉ちゃん、家族のことで心配するとパワー一〇倍だからな。オレたちがいつまでも到着しないとなると、海に飛び込んで探しに来るぞ」
「そ、それは大変だな……」
とめに入る多幸ちゃんが、と、育美は言った。
「希見さんに心配させないためにも、多幸ちゃんによけいな苦労をかけないためにも、予定通りに瀬戸内海を通過して岡山に着かないとな」
「ああ、もちろんだ。簡単なことじゃない。それはわかってる。危険なのも承知の上だ。だけど、オレたちならできる。オレと、お前と、大友号ならな」
「ああ。その通りだ」
そして、台風はやってきた。銃弾のような雨が間断なく降りそそぎ、風は大気そのものが塊となって動き、叩きつけてくるかのよう。轟音が鳴り響き、木々が悲鳴をあげてしなり、海の上は巨大な波が荒れ狂う。台風の勢力圏内すべてに避難勧告が出されている。それぐらい、大きな台風だった。
そして、それは、育美たちの挑戦のときでもあった。
「へへっ。まさに『吹けよ、嵐』ってやつだな。これでこそ、大友号の初陣にふさわしいってもんだぜ」
「その通りだ。大友号は空飛ぶ部屋だ。人間の住み処なんだ。人間の住み処である以上、台風なんかに負けるわけにはいかない。そのなかの人間をしっかりと守り抜くだけの耐久性が必要とされる。行こう、志信。私たちでそのことを証明し、もう誰も災害で死んだりしない社会を開くんだ」
「おう、育美」
そして、ふたりは大友号に乗り込んだ。
吹き荒れる嵐のなかを。
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