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第三話 それぞれの旅立ち
一八章 それぞれの旅立ち
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「この馬鹿者がっ!」
今日もきょうとて若き当主アドプレッサの怒声がエリンジウム公爵家の屋敷のなかに響き渡る。
その声は執務室を遙かに越え、辺り一面に飛び交っているのだが、使用人たちももう慣れたもので『あ~あ、また、妹思いのお兄ちゃんが……』という感じでほっこりした表情。それもこれも、アドプレッサが使用人に八つ当たりするような人物ではないことを皆が知っているからに他ならない。
一般的な貴族の屋敷ではこうはいかない。主の怒声が響き渡ったが最後、使用人たちはとばっちりを受けることを怖れて目に付かないよう逃げ出すのだ。
「プロの狩人たちに襲われただと⁉ なぜ、そんな大事なことをおれに黙っていた⁉ 大体、お前は……」
最後の方は怒声なんだか、単なる愚痴なんだかわからなくなっている。
メインクーンはと言えばこれもまたいつも通り、チャームポイントの猫耳に指を突っ込んで無視を決め込んでいる。もちろん、そんなことで〝知恵ある獣〟の鋭敏な聴覚をふさげるはずもない。アドプレッサの怒声はすべて聞こえている。それでも、あえて、そんなポーズを見せるところが『嫌がらせの美学』というものだ。
さしものアドプレッサも怒鳴りつづけて声がかれた。かれこれ三〇分以上も怒鳴りつづけていたのだから無理もない。
「はい、どうぞ」
と、メインクーンは完全な嫌味で水の入ったグラスを差し出した。アドプレッサは反射的にグラスを受け取り、中身の水を飲み干すと、荒っぽくグラスを執務用のデスクに叩きつけた。アドプレッサの力で、それも、怒りにまかせた勢いで叩きつけられたというのに、それでも砕けない根性の入り方はさすが、熟練の執事たるウッドワーディーが選び抜いたグラスなだけのことはあった。
「おいしい?」
「うまい……ちがう、そうじゃない!」
喉を湿らせたアドプレッサはさらに説教をつづけようとしたが、メインクーンが機先を制した。
「だからあ。べつにわざと黙っていたわけじゃないって。単に忘れていただけよ」
「そんな大事を忘れるやつがあるか! もう少しでゾンビ化薬物を注射され、意のままに操られる道具とされるところだったのだろう。おれが知っていればそんな危険には……」
「たしかに、今回は醜態だったわ。自信をもちすぎていた。反省する。でも、おかげでローサ姫が自分を取り戻したんだからいいじゃない。ローサ姫だって、幼馴染みのひとりなわけでしょう?」
「そんな結果論が通るか! 重要なのは……」
「それより」
ズイッ、と、メインクーンはアドプレッサに詰め寄った。〝知恵ある獣〟特有の野性的な美貌を目の前に突きつけられて、アドプレッサは思わず赤面して仰け反った。
「そっちこそ一体、どういうこと?」
「な、なにがだ……?」
「リアナ姫と婚約したってどういうこと」
「そ、それは……!」
アドプレッサはたちまち真っ赤になって絶句する。
「わたしがいくらお膳立てしてあげても何もできなかったヘタレのくせに、いつの間に求愛したの⁉」
「きゅ、求愛とはなんだ、求愛とは。そんな下品な……」
「いいから白状しなさい。どうやって口説いたの⁉」
「ば、馬鹿者……! そんなことが言えるか」
「素直に白状するのと、町中で『お兄ちゃん大好き!』って叫んで抱きつかれるのと、どっちがいい?」
「どちらも断る!」
きょうだいのやり取りは執務室の分厚い壁をすり抜け、使用人たちに筒抜けだった。使用人たちがそれを聞いてニヤニヤしっぱなしであり、
『今日はアドプレッサさまに優しくして差しあげよう』
と、思われていることをアドプレッサは知らない。
はあ、と、アドプレッサは息をひとつついた。
「……まあいい。とにかく、無事だったわけだしな。それより、お前に渡しておくものがある」
「渡しておくもの?」
アドプレッサはデスクの引き出しを開けると一枚の紙片を取り出した。
「任命状だ。お前をスノードロップの領主に任命する」
その一言に――。
さしものメインクーンも驚きに目を丸くした。
「スノードロップの領主? わたしが?」
「お前の目的のためには自分の領地があった方がいいと思ってな。前から手続きはしていた。グラウカがいなくなったことで、ちょうどスノードロップの領主の地位は空いていることだしな。最近は低迷しているとは言え、スノードロップは経済的な発展の見込める地だ。うまくやればお前の目的のための大きな力となるだろう」
「……ありがとう。感謝するわ」
「ふん……」
真顔で礼を言われ、アドプレッサは頬にかすかに朱を差して、そっぽを向いた。
「だが、くれぐれも言っておくぞ。お前はあくまでもエリンジウム公爵家の一員であり、おれの妹だ。お前の失態はおれ及びエリンジウム公爵家の名に泥を塗ることになる。そのことを忘れず、報告はきちんと行い……」
「なんで、そういちいち面倒なわけ、人間って? 素直に言えばいいじゃない。『お前はおれの妹だ。なにかあったらいつでも兄ちゃんを頼れ』って」
「ば、馬鹿者……! 誰がそんなことを……おれはただ、エリンジウム公爵の当主として……」
「ハイハイ。そういうことにしておいてあげる。でも、とにかく、わたしのために気を使ってくれたわけだし、お礼はちゃんとしておかないとね」
「お礼?」
突然――。
メインクーンはアドプレッサに抱きついた。
「ありがとう! お兄ちゃん、大好き!」
「やめんかあっ!」
「ええ、そうですね。まさか、アドプレッサさまと結婚することになるとは思ってもいませんでした」
リアナはそう言ってクスクス笑った。おかしそうで、恥ずかしそうで、それでも、とにかく、まちがいなく幸せな笑顔。そんな笑い方だった。
「正直、アドプレッサさまを男性として意識したことはありませんし、いまも同じです。でも……王女として産まれたからにはいずれは政略結婚の道具として国内の有力貴族に嫁ぐか、どこか他の国の王族と結婚することになる。そう思っていました。それも王女の義務。そう思って覚悟はしていましたけど……やはり、不安はありました。その点、アドプレッサさまなら安心ですから」
リアナはそこまで言うと本当におかしそうに思い出し笑いをした。目の端には涙まで浮いている。
「本当に驚きました。まさか、アドプレッサさまがあんな……」
「あ、それはいいです」
メインクーンはリアナの言葉を遮った。
「どうやって口説いたかは一生かけて、本人に白状させますから」
「ふふ。そうですね。わたしもいましばらくはふたりだけの秘密にしておきたいですから」
「では、お互い歳をとったときにその話題で盛りあがりましょう」
「ふふ。いいですね。『若さゆえの過ち』を蒸し返されて目を白黒させるアドプレッサさまのお姿がいまから楽しみです」
「お幸せに」
「はい」
「ふふ。まったくじゃな。よもや、あの坊やにリアナに求婚する度胸があるとは思わなかったぞ」
世界広しと言えども冷徹怜悧、異数の剣士であるアドプレッサを『坊や』扱いしてのけるのはヴェガ王妃ドーナぐらいのもの。しかし、その表現にはたしかにある種の親しみが含まれていたし、そう語る表情には『見直した』という思いがはっきりと記されていた。
「じゃが、おかげでわらわも肩の荷がおろせる。これからは夫君とふたり、呑気な田舎暮らしじゃ」
「もう引退するのですか? まだ三〇代なのに」
「前に言うたであろう。わらわはたまたま大貴族の家に生まれついたと言うだけの平凡な女に過ぎぬ。国の命運を背負うなど荷が重すぎる。他人に押しつけられるものなら押しつけたいとずっと思っておったのじゃ。アド坊やがその役を引き受けてくれるというならわらわは喜んで夫君とふたり、どこぞの田舎に引っ込んで呑気に隠居暮らしを送る。夫君のために料理をし、平穏に暮らして行ければそれで充分じゃ。他に望みとてない」
「国のことは兄に任せて心配ないと?」
「むろんじゃ。アド坊やは人間としてはまだまだ未熟な坊や。じゃが、その能力は確かじゃからな。なにより、リアナのために死に物狂いで国を守ろうとするじゃろうからな。それに、そなたもおる。死に物狂いのアド坊やとそなたを敵にまわすなど、わらわでも怖くて出来ぬわ」
「ありがとうございます。兄を信頼していただいて」
「ふふ」
頭をさげるメインクーンに対し、ドーナは好意を含んだ微笑みで返した。が――。
ふいにその表情が曇った。それまでとは打って変わって沈痛なものとなった。今度はドーナがメインクーンに向かって頭をさげて見せた。
「今回の件ではそなたには迷惑をかけた。まさか、我が兄があのような謀略を巡らすとは思ってもいなかった。国内の謀略はひとつ残らず監視しているつもりじゃった。じゃが、どうやら、身内と言うことで見逃してしまっていたらしい。『身近なものほど警戒しなくてはならぬ』とはよく言うたものじゃ」
ドーナの言葉に――。
メインクーンは真剣な面持ちでうなずいた。
「今回はわたしも本当に危険でした。この一年の冒険者家業を通じてあそこまで追い込まれたことはありません。自分を信用しすぎたと反省しています。ただ、ある意味、見直しもしましたけど。まさか、あのシペルスにあんな謀略を張り巡らすだけの能力があるとは思っていませんでしたから」
「うむ。その点はわらわも同感じゃ。兄からはたしかに前々から『国王を殺し、我らが全権を握るべきだ』と言われてはいた。しかし、まさかあの兄にそのようなことを実行に移すだけの度胸も能力もあるとは思っておらなんだ。わらわの油断じゃ。そのせいでそなたを窮地に追い込んでしまった。申し訳ない」
「いいえ。今回の件はあくまでもわたしの傲慢ゆえです。それに、怪我の功名とは言え、そのおかげでローサ姫が自分を取り戻すことが出来たんです。結果的にはすべてよいように運んだわけですから」
「そうじゃな……」
「それで、シペルスはどうなるのです?」
メインクーンの問いに――。
ドーナはためらいなく答えた。
「反逆罪で死刑じゃ」
「兄なのに?」
「血統によるつながりなどほんの偶然。何ほどの価値もない。あの男は我が夫君と娘を害そうとした怨敵に過ぎぬ」
ドーナのその姿を見て、メインクーンは深々とうなずいた。
「やはり……あなたを敵に回さなかったのは正解でした」
そして、ドーナの言葉通り、シペルスの処刑は即刻、執り行われた。
シペルスは最後まできょうだいであることを訴え、命乞いしたが、夫君と娘を狙われたドーナがそんな戯れ言に耳を貸すはずもない。滞りなく断頭台にかけられ、涙と汗と鼻水とでグシャグシャになった頭は胴体から切り放された。同時に、〝知恵ある獣〟狩りのパーティー四人も処刑された。
〝知恵ある獣〟狩り自体は違法ではない。〝知恵ある獣〟を狩ることを法律で禁止している人間の国などない。しかし、王位簒奪を目論んだシペルスに協力したとなれば当然、反逆者。雇われただけとは言え連座することになるのは自然な流れだった。
こちらは自分たちのしてきたことを重々、承知していたのだろう。シペルスのように無様に命乞いすることもなく、淡々と処刑を受け入れた。その潔い態度は『悪人ながらあっぱれ』と、そう言えるものだった。
シペルスたちの処刑を見届けたあと、メインクーンは改めてドーナの私室に呼ばれた。ドーナにはもうひとつだけ、気にかかることがあった。
「ローサのことなのじゃが……」
メインクーンはうなずいた。
その件であることは予想していた。ローサは先王の娘、そのローサが自分を取り戻したとなれば国内の不満分子に神輿として担ぎ出され、内乱劇の原因となることも充分に考えられる。もし、そんなことになれば――。
ドーナはためらいなくローサを暗殺する。
大切な娘を守るために。
ドーナがいくらローサのことを気に懸けているとは言え、優先順位というものがある。ドーナが自分の守るべき人間のためならいくらでも非情にも、また非道にもなる人間であることをメインクーンは承知していた。
メインクーンはその点に関してはすでに決めていた。
「ローサはわたしがスノードロップへと連れて行きます」
「……そうか」
「わたしはローサに救われました。
受けた恩を返さないものは人間にも劣る。
ローサはわたしが一生、守ります」
「ふっ。『わたしが一生、守る』か。まるで、婚姻の際の言葉じゃな」
「それでも構いませんけどね、わたしは」
「ふふ。わらわも一度ぐらい、そんな言葉を言われてみたかったものじゃ」
ドーナはほんの少しだけさびしそうに微笑んだ。
「ともあれ、ローサを頼んだぞ、メインクーン。あの不遇な娘に新しい世界を見せてやってくれ」
「はい」
メインクーンは短く答えると、ドーナに対して臣下の礼を取った。
メインクーン、ローサ、ナナの三人は以前のように三人でお茶会を開いていた。
ただし、以前のように薄暗いローサの私室に籠もって、ではない。屋外型のカフェテラスで日の光を浴び、風に吹かれながらのお茶会である。
「スノードロップとはどのような〝丘〟なのです?」
ローサがそう尋ねた。
以前のような魂を過去に囚われたままの、ぼんやりした話し方ではない。きちんと自分の意思をもったひとりの人間としての話し方だった。
「『雪と花の都』と呼ばれる美しい〝丘〟です。観光客も多くて様々な人が出入りしています」
「まあ。それは楽しそうですね」
ローサはそう言って微笑んだ。
そんな表情をするとローサはやはり、美しい。『かわいい』、『愛らしい』と言うならリアナだが、『きれい』、『美しい』という表現を使うならやはり、ローサの方が上回る。
ローサはスノードロップ行きを誘われたとき、二つ返事で承知した。長い間、魂を過去に囚われていたとは言え、もともとが利発で、聡明なかの人である。自分の存在がなにを意味するかはよく知っていた。
――自分は王宮近くにいるべきではない。
その思いでメインクーンの誘いを受けたのだ。
一方、ナナはと言えば誘われるまでもなく同行の準備をしていた。
「わたしはローサさまのメイドです。ローサさまが行かれるところならどこまでもついていきます。いやだと仰ってもついていきますからね」
そう言い張って。
もちろん、ローサはその言葉に感謝して受け入れたし、メインクーンも歓迎した。
「……ただ、わたしは一〇年もの間、過去の世界に閉じこもっていた身。今の世のことはなにも知りません。メインクーンさまの迷惑にしかならないと思いますが」
ローサのその言葉に――。
メインクーンは静かにかぶりを振った。
「いいえ。わたしにはあなたが必要よ」
「えっ?」
「あなたのもつ月の巫女としての力。なにより、邪悪な気配を感じとるその能力がね」
「邪悪な気配を?」
「わたしの目的は戦争を殺すこと。戦争を殺すためにこの世界を根こそぎかえる。それがわたしの目的。ヴェガの貴族になりすましたのも、スノードロップの領主になるのもそのための手段に過ぎない」
メインクーンは自分の素性をローサとナナにはっきりと伝えていた。
――仲間を騙しておくわけにはいかない。
その単純な理由によって。
メインクーンはつづけた。
「そのために、わたしはこの世界を憎むものを必要としている。強い意志でこの世界を憎み、復讐してやりたいと思うもの。そんな意思だけがこの世界をかえることができるのだから。ローサ。あなたならそんな意思の持ち主を感じ取ることが出来るでしょう。だからこそ、あなたの存在はわたしに必要なの」
「わかりました、メインクーンさま」
「呼び捨てにして。これからのわたしたちは対等の仲間なんだから」
「わかりました。メインクーン。あなたはわたしを現実に引き戻してくれた恩人。わたしの力であなたの役に立つなら喜んで使います」
日は輝き、風が吹く。
アドプレッサとリアナ。
ドーナとエルウッディ。
メインクーンとローサとナナ。
それぞれの新しい人生を、世界が祝福しているような一日だった。
第二部完
今日もきょうとて若き当主アドプレッサの怒声がエリンジウム公爵家の屋敷のなかに響き渡る。
その声は執務室を遙かに越え、辺り一面に飛び交っているのだが、使用人たちももう慣れたもので『あ~あ、また、妹思いのお兄ちゃんが……』という感じでほっこりした表情。それもこれも、アドプレッサが使用人に八つ当たりするような人物ではないことを皆が知っているからに他ならない。
一般的な貴族の屋敷ではこうはいかない。主の怒声が響き渡ったが最後、使用人たちはとばっちりを受けることを怖れて目に付かないよう逃げ出すのだ。
「プロの狩人たちに襲われただと⁉ なぜ、そんな大事なことをおれに黙っていた⁉ 大体、お前は……」
最後の方は怒声なんだか、単なる愚痴なんだかわからなくなっている。
メインクーンはと言えばこれもまたいつも通り、チャームポイントの猫耳に指を突っ込んで無視を決め込んでいる。もちろん、そんなことで〝知恵ある獣〟の鋭敏な聴覚をふさげるはずもない。アドプレッサの怒声はすべて聞こえている。それでも、あえて、そんなポーズを見せるところが『嫌がらせの美学』というものだ。
さしものアドプレッサも怒鳴りつづけて声がかれた。かれこれ三〇分以上も怒鳴りつづけていたのだから無理もない。
「はい、どうぞ」
と、メインクーンは完全な嫌味で水の入ったグラスを差し出した。アドプレッサは反射的にグラスを受け取り、中身の水を飲み干すと、荒っぽくグラスを執務用のデスクに叩きつけた。アドプレッサの力で、それも、怒りにまかせた勢いで叩きつけられたというのに、それでも砕けない根性の入り方はさすが、熟練の執事たるウッドワーディーが選び抜いたグラスなだけのことはあった。
「おいしい?」
「うまい……ちがう、そうじゃない!」
喉を湿らせたアドプレッサはさらに説教をつづけようとしたが、メインクーンが機先を制した。
「だからあ。べつにわざと黙っていたわけじゃないって。単に忘れていただけよ」
「そんな大事を忘れるやつがあるか! もう少しでゾンビ化薬物を注射され、意のままに操られる道具とされるところだったのだろう。おれが知っていればそんな危険には……」
「たしかに、今回は醜態だったわ。自信をもちすぎていた。反省する。でも、おかげでローサ姫が自分を取り戻したんだからいいじゃない。ローサ姫だって、幼馴染みのひとりなわけでしょう?」
「そんな結果論が通るか! 重要なのは……」
「それより」
ズイッ、と、メインクーンはアドプレッサに詰め寄った。〝知恵ある獣〟特有の野性的な美貌を目の前に突きつけられて、アドプレッサは思わず赤面して仰け反った。
「そっちこそ一体、どういうこと?」
「な、なにがだ……?」
「リアナ姫と婚約したってどういうこと」
「そ、それは……!」
アドプレッサはたちまち真っ赤になって絶句する。
「わたしがいくらお膳立てしてあげても何もできなかったヘタレのくせに、いつの間に求愛したの⁉」
「きゅ、求愛とはなんだ、求愛とは。そんな下品な……」
「いいから白状しなさい。どうやって口説いたの⁉」
「ば、馬鹿者……! そんなことが言えるか」
「素直に白状するのと、町中で『お兄ちゃん大好き!』って叫んで抱きつかれるのと、どっちがいい?」
「どちらも断る!」
きょうだいのやり取りは執務室の分厚い壁をすり抜け、使用人たちに筒抜けだった。使用人たちがそれを聞いてニヤニヤしっぱなしであり、
『今日はアドプレッサさまに優しくして差しあげよう』
と、思われていることをアドプレッサは知らない。
はあ、と、アドプレッサは息をひとつついた。
「……まあいい。とにかく、無事だったわけだしな。それより、お前に渡しておくものがある」
「渡しておくもの?」
アドプレッサはデスクの引き出しを開けると一枚の紙片を取り出した。
「任命状だ。お前をスノードロップの領主に任命する」
その一言に――。
さしものメインクーンも驚きに目を丸くした。
「スノードロップの領主? わたしが?」
「お前の目的のためには自分の領地があった方がいいと思ってな。前から手続きはしていた。グラウカがいなくなったことで、ちょうどスノードロップの領主の地位は空いていることだしな。最近は低迷しているとは言え、スノードロップは経済的な発展の見込める地だ。うまくやればお前の目的のための大きな力となるだろう」
「……ありがとう。感謝するわ」
「ふん……」
真顔で礼を言われ、アドプレッサは頬にかすかに朱を差して、そっぽを向いた。
「だが、くれぐれも言っておくぞ。お前はあくまでもエリンジウム公爵家の一員であり、おれの妹だ。お前の失態はおれ及びエリンジウム公爵家の名に泥を塗ることになる。そのことを忘れず、報告はきちんと行い……」
「なんで、そういちいち面倒なわけ、人間って? 素直に言えばいいじゃない。『お前はおれの妹だ。なにかあったらいつでも兄ちゃんを頼れ』って」
「ば、馬鹿者……! 誰がそんなことを……おれはただ、エリンジウム公爵の当主として……」
「ハイハイ。そういうことにしておいてあげる。でも、とにかく、わたしのために気を使ってくれたわけだし、お礼はちゃんとしておかないとね」
「お礼?」
突然――。
メインクーンはアドプレッサに抱きついた。
「ありがとう! お兄ちゃん、大好き!」
「やめんかあっ!」
「ええ、そうですね。まさか、アドプレッサさまと結婚することになるとは思ってもいませんでした」
リアナはそう言ってクスクス笑った。おかしそうで、恥ずかしそうで、それでも、とにかく、まちがいなく幸せな笑顔。そんな笑い方だった。
「正直、アドプレッサさまを男性として意識したことはありませんし、いまも同じです。でも……王女として産まれたからにはいずれは政略結婚の道具として国内の有力貴族に嫁ぐか、どこか他の国の王族と結婚することになる。そう思っていました。それも王女の義務。そう思って覚悟はしていましたけど……やはり、不安はありました。その点、アドプレッサさまなら安心ですから」
リアナはそこまで言うと本当におかしそうに思い出し笑いをした。目の端には涙まで浮いている。
「本当に驚きました。まさか、アドプレッサさまがあんな……」
「あ、それはいいです」
メインクーンはリアナの言葉を遮った。
「どうやって口説いたかは一生かけて、本人に白状させますから」
「ふふ。そうですね。わたしもいましばらくはふたりだけの秘密にしておきたいですから」
「では、お互い歳をとったときにその話題で盛りあがりましょう」
「ふふ。いいですね。『若さゆえの過ち』を蒸し返されて目を白黒させるアドプレッサさまのお姿がいまから楽しみです」
「お幸せに」
「はい」
「ふふ。まったくじゃな。よもや、あの坊やにリアナに求婚する度胸があるとは思わなかったぞ」
世界広しと言えども冷徹怜悧、異数の剣士であるアドプレッサを『坊や』扱いしてのけるのはヴェガ王妃ドーナぐらいのもの。しかし、その表現にはたしかにある種の親しみが含まれていたし、そう語る表情には『見直した』という思いがはっきりと記されていた。
「じゃが、おかげでわらわも肩の荷がおろせる。これからは夫君とふたり、呑気な田舎暮らしじゃ」
「もう引退するのですか? まだ三〇代なのに」
「前に言うたであろう。わらわはたまたま大貴族の家に生まれついたと言うだけの平凡な女に過ぎぬ。国の命運を背負うなど荷が重すぎる。他人に押しつけられるものなら押しつけたいとずっと思っておったのじゃ。アド坊やがその役を引き受けてくれるというならわらわは喜んで夫君とふたり、どこぞの田舎に引っ込んで呑気に隠居暮らしを送る。夫君のために料理をし、平穏に暮らして行ければそれで充分じゃ。他に望みとてない」
「国のことは兄に任せて心配ないと?」
「むろんじゃ。アド坊やは人間としてはまだまだ未熟な坊や。じゃが、その能力は確かじゃからな。なにより、リアナのために死に物狂いで国を守ろうとするじゃろうからな。それに、そなたもおる。死に物狂いのアド坊やとそなたを敵にまわすなど、わらわでも怖くて出来ぬわ」
「ありがとうございます。兄を信頼していただいて」
「ふふ」
頭をさげるメインクーンに対し、ドーナは好意を含んだ微笑みで返した。が――。
ふいにその表情が曇った。それまでとは打って変わって沈痛なものとなった。今度はドーナがメインクーンに向かって頭をさげて見せた。
「今回の件ではそなたには迷惑をかけた。まさか、我が兄があのような謀略を巡らすとは思ってもいなかった。国内の謀略はひとつ残らず監視しているつもりじゃった。じゃが、どうやら、身内と言うことで見逃してしまっていたらしい。『身近なものほど警戒しなくてはならぬ』とはよく言うたものじゃ」
ドーナの言葉に――。
メインクーンは真剣な面持ちでうなずいた。
「今回はわたしも本当に危険でした。この一年の冒険者家業を通じてあそこまで追い込まれたことはありません。自分を信用しすぎたと反省しています。ただ、ある意味、見直しもしましたけど。まさか、あのシペルスにあんな謀略を張り巡らすだけの能力があるとは思っていませんでしたから」
「うむ。その点はわらわも同感じゃ。兄からはたしかに前々から『国王を殺し、我らが全権を握るべきだ』と言われてはいた。しかし、まさかあの兄にそのようなことを実行に移すだけの度胸も能力もあるとは思っておらなんだ。わらわの油断じゃ。そのせいでそなたを窮地に追い込んでしまった。申し訳ない」
「いいえ。今回の件はあくまでもわたしの傲慢ゆえです。それに、怪我の功名とは言え、そのおかげでローサ姫が自分を取り戻すことが出来たんです。結果的にはすべてよいように運んだわけですから」
「そうじゃな……」
「それで、シペルスはどうなるのです?」
メインクーンの問いに――。
ドーナはためらいなく答えた。
「反逆罪で死刑じゃ」
「兄なのに?」
「血統によるつながりなどほんの偶然。何ほどの価値もない。あの男は我が夫君と娘を害そうとした怨敵に過ぎぬ」
ドーナのその姿を見て、メインクーンは深々とうなずいた。
「やはり……あなたを敵に回さなかったのは正解でした」
そして、ドーナの言葉通り、シペルスの処刑は即刻、執り行われた。
シペルスは最後まできょうだいであることを訴え、命乞いしたが、夫君と娘を狙われたドーナがそんな戯れ言に耳を貸すはずもない。滞りなく断頭台にかけられ、涙と汗と鼻水とでグシャグシャになった頭は胴体から切り放された。同時に、〝知恵ある獣〟狩りのパーティー四人も処刑された。
〝知恵ある獣〟狩り自体は違法ではない。〝知恵ある獣〟を狩ることを法律で禁止している人間の国などない。しかし、王位簒奪を目論んだシペルスに協力したとなれば当然、反逆者。雇われただけとは言え連座することになるのは自然な流れだった。
こちらは自分たちのしてきたことを重々、承知していたのだろう。シペルスのように無様に命乞いすることもなく、淡々と処刑を受け入れた。その潔い態度は『悪人ながらあっぱれ』と、そう言えるものだった。
シペルスたちの処刑を見届けたあと、メインクーンは改めてドーナの私室に呼ばれた。ドーナにはもうひとつだけ、気にかかることがあった。
「ローサのことなのじゃが……」
メインクーンはうなずいた。
その件であることは予想していた。ローサは先王の娘、そのローサが自分を取り戻したとなれば国内の不満分子に神輿として担ぎ出され、内乱劇の原因となることも充分に考えられる。もし、そんなことになれば――。
ドーナはためらいなくローサを暗殺する。
大切な娘を守るために。
ドーナがいくらローサのことを気に懸けているとは言え、優先順位というものがある。ドーナが自分の守るべき人間のためならいくらでも非情にも、また非道にもなる人間であることをメインクーンは承知していた。
メインクーンはその点に関してはすでに決めていた。
「ローサはわたしがスノードロップへと連れて行きます」
「……そうか」
「わたしはローサに救われました。
受けた恩を返さないものは人間にも劣る。
ローサはわたしが一生、守ります」
「ふっ。『わたしが一生、守る』か。まるで、婚姻の際の言葉じゃな」
「それでも構いませんけどね、わたしは」
「ふふ。わらわも一度ぐらい、そんな言葉を言われてみたかったものじゃ」
ドーナはほんの少しだけさびしそうに微笑んだ。
「ともあれ、ローサを頼んだぞ、メインクーン。あの不遇な娘に新しい世界を見せてやってくれ」
「はい」
メインクーンは短く答えると、ドーナに対して臣下の礼を取った。
メインクーン、ローサ、ナナの三人は以前のように三人でお茶会を開いていた。
ただし、以前のように薄暗いローサの私室に籠もって、ではない。屋外型のカフェテラスで日の光を浴び、風に吹かれながらのお茶会である。
「スノードロップとはどのような〝丘〟なのです?」
ローサがそう尋ねた。
以前のような魂を過去に囚われたままの、ぼんやりした話し方ではない。きちんと自分の意思をもったひとりの人間としての話し方だった。
「『雪と花の都』と呼ばれる美しい〝丘〟です。観光客も多くて様々な人が出入りしています」
「まあ。それは楽しそうですね」
ローサはそう言って微笑んだ。
そんな表情をするとローサはやはり、美しい。『かわいい』、『愛らしい』と言うならリアナだが、『きれい』、『美しい』という表現を使うならやはり、ローサの方が上回る。
ローサはスノードロップ行きを誘われたとき、二つ返事で承知した。長い間、魂を過去に囚われていたとは言え、もともとが利発で、聡明なかの人である。自分の存在がなにを意味するかはよく知っていた。
――自分は王宮近くにいるべきではない。
その思いでメインクーンの誘いを受けたのだ。
一方、ナナはと言えば誘われるまでもなく同行の準備をしていた。
「わたしはローサさまのメイドです。ローサさまが行かれるところならどこまでもついていきます。いやだと仰ってもついていきますからね」
そう言い張って。
もちろん、ローサはその言葉に感謝して受け入れたし、メインクーンも歓迎した。
「……ただ、わたしは一〇年もの間、過去の世界に閉じこもっていた身。今の世のことはなにも知りません。メインクーンさまの迷惑にしかならないと思いますが」
ローサのその言葉に――。
メインクーンは静かにかぶりを振った。
「いいえ。わたしにはあなたが必要よ」
「えっ?」
「あなたのもつ月の巫女としての力。なにより、邪悪な気配を感じとるその能力がね」
「邪悪な気配を?」
「わたしの目的は戦争を殺すこと。戦争を殺すためにこの世界を根こそぎかえる。それがわたしの目的。ヴェガの貴族になりすましたのも、スノードロップの領主になるのもそのための手段に過ぎない」
メインクーンは自分の素性をローサとナナにはっきりと伝えていた。
――仲間を騙しておくわけにはいかない。
その単純な理由によって。
メインクーンはつづけた。
「そのために、わたしはこの世界を憎むものを必要としている。強い意志でこの世界を憎み、復讐してやりたいと思うもの。そんな意思だけがこの世界をかえることができるのだから。ローサ。あなたならそんな意思の持ち主を感じ取ることが出来るでしょう。だからこそ、あなたの存在はわたしに必要なの」
「わかりました、メインクーンさま」
「呼び捨てにして。これからのわたしたちは対等の仲間なんだから」
「わかりました。メインクーン。あなたはわたしを現実に引き戻してくれた恩人。わたしの力であなたの役に立つなら喜んで使います」
日は輝き、風が吹く。
アドプレッサとリアナ。
ドーナとエルウッディ。
メインクーンとローサとナナ。
それぞれの新しい人生を、世界が祝福しているような一日だった。
第二部完
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それはそれはものすごく‥‥‥
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
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