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第二部 絆ぐ伝説
第一一話一五章 それぞれの場所で
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「第一陣、後退! 第二陣、突撃準備!」
「銃士隊、一斉射撃! 倒す必要はない、弾丸の雨を降らせて少しでもやつらの進軍を遅らせろ。突撃部隊が交代する時間を稼ぐんだ!」
「おい、どこに行く⁉ さっさと砦に戻れ!」
「怪我した仲間が取り残されてて……。助けに行かないと!」
「馬鹿野郎! そんなこと言って、お前まで殺られたらどうする⁉ 一兵だって無駄死にさせるわけにはいかない戦いなんだぞ!」
「わかってます! だからこそ、助けに行かないと……」
「おれが行く! お前はさっさと砦に戻れ」
「そんな! 隊長こそ死なれたらみんなが困ります!」
「負傷者の救助と搬送はわたしたち衛生班の仕事です! あなたたちは早く砦に戻って休息と治療を!」
「あほうっ! ろくに武器ももってないお前たち小娘が怪物の前に行ったって……」
「キャアアアッ!」
「逃げろっ!」
「おおりゃあっ!」
「えっ……?」
「なんのために、おれたち予備兵が控えていると思ってるんだ⁉ 逃げ遅れた連中はおれたちに任せて、お前たちはさっさと砦に戻れ!」
大地を埋め尽くす亡道の怪物たち。その膨大な群れに襲われながら、砦では必死の防戦がつづいていた。
長槍をもった兵士たちが身を張って怪物たちの進軍を押しとどめ、天命の理を付与された武器をもった精鋭がその身を両断する。
小銃を構えた兵士たちが指も折れよとばかりに引き金を引きつづけ、兵士たちが交代する時間を稼ぐ。
黒人の少女たちを中心とした衛生班が戦場を駆け巡っては自分よりずっと大柄な負傷兵たちを抱えて砦まで運んでいく。
その合間あいまに予備兵たちが自身の判断で突撃し、亡道の怪物の前に立ちはだかる。我が身を盾に部隊の交代や負傷者を救助する時間を稼ぐ。
塹壕に生まれた炎はいまも轟々と燃えあがり、天まで焼き落とそうとするかのように立ちのぼっている。天を目指して躍りあがる竜のような深紅の壁となって、迫り来る亡道の怪物たちと兵士たちを隔てている。わずかでも亡道の怪物の進軍を遅らせ、兵士たちに有利な状況を作ろうとしている。
その姿は炎ですら『この世界を守る!』との強固な意志をもち、自らの力で燃えつづけているようにさえ見えた。それはあながち気のせいではないかも知れない。炎とてこの世界に生まれた存在であり、亡道の司とは敵対する存在なのだから。
そのさなかでももちろん、爆砕射による砲撃はつづいている。あとのことなどなにも考えずに炎の壁の向こうにありったけの砲弾を撃ちまくり、亡道の怪物たちを吹き飛ばしている。
炎の壁によって遮られて、その様子が兵士たちの目に見えるわけではない。それでも、防壁の上から途切れることなく響く砲撃音。その音が前線の兵士たちにどれほど頼もしく、心強いものに感じられたことか。
ときおり、防壁の上から砲撃音とは異なる大きな音が響いている。間髪入れずに撃ちまくったせいで限界を迎えた砲身が爆発し、四散しているのだ。爆砕射を操る砲撃手たちを巻き込んで。
それほどに必死の防戦だった。
そこまでしなくてはならない理由。
それはひとえに『相手が亡道の怪物だから』という一点に尽きる。
人間の軍勢相手であれば、ここまでのことにはならない。どれほど戦意盛んな突撃であろうとも、相手に受けとめられ、粉砕されればいったんは後退する。後方に退き、部隊を再編し、それからようやく再攻撃を仕掛けてくる。防衛側にしてみれば、その間に兵を交代させて救助と治療をすませ、次の襲撃に備えることができる。
亡道の怪物相手ではそうはいかない。
どれほどの被害が出ようとも、どれほどの仲間が殺されようとも、そんなことはいっさい構いはしない。気にしない。最後の一体が倒されるまで、ただただひたすらに近づき、押しよせ、攻め込んでくる。
一瞬でも気を抜いて接近を許してしまえば、もうとめられない。砦の防壁はくずされ、踏みつぶされ、なにも残らない荒れ地とされてしまう。そして、砦を踏みつぶした亡道の怪物たちは次の獲物を求めて歩きつづける。
その不安、恐怖、圧力に押しつぶされそうになりながら、それでも必死に戦いつづけている。
自分が生き残るために。
仲間や友人、家族を生き残らせるために。
突撃し、後退し、他の部隊が身を張って怪物たちの進撃を食いとめている間に治療と食事をすませ、頭を殴りつけてもらってでも無理やり眠りにつき、わずかな休息をとっては再び突撃していく。
その繰り返し。
怪物たちの最後の一体を倒すまで延々とつづく終わりなき悪夢。
その悪夢にさらされているのは前線の兵士たちだけではない。砦のなかで兵士たちを支える医師団や衛生班もまた、悪夢を相手に必死の抵抗をつづけている。
急ごしらえの治療室。そのなかに次々と運び込まれる負傷兵たち。小さなその部屋のなかにはとうてい収まりきれず、廊下の外に寝かされ、延々と並べられている。
その負傷者たちの体温の低下を防ぐためにかけてやる毛布ひとつ、この小さな治療室にはない。体を拭いてやるための湯をわかすにも事足りない。
そのなかで、負傷兵たちに対してあまりにも少ない医師たちが文字通り寝る間も惜しんで必死の治療に当たっている。しかし――。
治療できる負傷兵のほうが圧倒的に少ない。大部分はあまりにも怪我が大きすぎて治療の施しようもない。出血をとめられず、壊疽を防ぐこともできず、痛みをとめてやることすらできない。
「助けてくれ、痛みをとめてくれ!」
そう泣き叫ぶ負傷兵たちにしてやれることはただひとつ。これ以上、苦しまないよう殺してやること。
それが現状。
いまの時代の医療の限界。
本来であれば――。
こんなはずではなかった。
千年前の亡道の司との戦い。その戦いのあと時間を正しく使い、準備を重ねていれば、こんなことにならずにすんだ。医療は順調に発達し、どんな大怪我でも治療し、元に戻してやれるようになっていた。そのはずだった。それなのに――。
人類は愚かにもその貴重な時間を自分たち同士の争いに費やした。
すべてを懸けて亡道の司に挑み、千年の時間を稼いだ先人たちを裏切った。
そのために、医療にも充分な投資が行われず、その水準は千年前と比べても決して高くなっているとは言えない。準備不足のまま、圧倒的な亡道の怪物たちとの戦いを強いられている。
「くそっ! どうすればいい⁉」
医師団を率いるドク・フィドロが床を蹴りつけて叫んだ。床を蹴りつけることができたのは奇跡と言っていいだろう。治療室はどこもかしこも負傷者たちで占められており、足の踏み場もない状況だったのだから。
「くそっ、くそっ、くそっ! どうすればいい? どうすれば、痛みをとめてやれる? どうすれば、苦痛を与えずに手術してやれる? どうすれば、細菌による感染を防ぎ、壊疽を防ぐことができる?」
わからない。
なにもわからない。
それはもちろん、ドク・フィドロのせいではない。現代の医療水準が低すぎるのが問題なのだ。この千年、医療に対して充分な投資を行い、研究を重ねていれば、対処する術は見つけられた。そのはずなのだ。それなのに……。
「ええい、馬鹿どもが! くだらない戦争なんぞを繰り返しおって。それならせめて医療に対する投資だけは行ったらどうなんじゃ! 兵士の生存率があがって得するのはお前たちじゃろうが! それなのに、医療水準をあげようとしてこなかったとは大馬鹿者どもめ……」
ドク・フィドロの口からは先人たちに対する憎悪と怨恨が途切れることなくあふれ出す。いつも好々爺然とした柔和な表情がこのときばかりは憤怒に燃える仁王のようだった。
それを責めることができる人間はこの世にいないだろう。先人たちがやるべきことをやらず、やるべきでないことばかりしでかしてきたのは完全なる事実なのだから。
先人たちに対する憤怒と怨恨にまみれながらそれでもなお、ドク・フィドロは負傷兵たちの救済に全力を尽くしている。口でなんと言おうとも、治療に当たるその手が休まることはない。とまることはない。傷口を洗い、切開し、血管をつなぎ、骨を削る。壊疽の拡大を防ぎ生命を救うために泣くなく手足を切り落とし、心に詫びる。
その繰り返し。
そんなドク・フィドロの横では妻のマーサがやはり、夫と同じく憤怒の表情を浮かべながら必死に夫を支えている。治療をつづけている。
そんな両親の側で、医師たちを補佐するために駆けまわっているまだ幼い娘のナリスが決意を込めて言った。
「お父さん、お母さん。わたしは医療の研究者になる。わたしが絶対に、医療水準をあげてみせるよ!」
食堂でも戦いは行われている。運良く生きて砦に戻り、『治療室の廊下で』寝かされる必要のないものたちは一斉に食堂へとやってくる。一瞬の休息の前の食事をとりにやってくる。
実のところ、食欲など欠片もない。あまりの疲労とおぞましい光景を見過ぎたせいで、胃は限界まで縮んでいる。水を飲んだだけでも吐き気がする。できることならなにも飲まず、なにも食べず、寝台のなかに引きこもりたい。
しかし、飲み、食わなければ体力がもたない。体力が尽きてしまえば亡道の怪物たちと戦うことはできない。戦うことができなくなれば亡道によって侵食され、怪物へとかえられてしまう。自分も。自分の大切な人たちも。
誰もがそのことを知っている。
わきまえている。
自分自身の目に、その現実を見せつけられているのだ。いやと言うほどに。
だから、食堂にやってくる。
吐き気を堪え、必死に食らい、飲み、胃に流し込む。逆流しそうになる分を必死に押さえ、腹にとどめる。自らの血肉にかえるために。少しでも体力を取り戻し、戦う力を保ちつづけるために。
そのなかで料理人たちも必死の戦いをつづけている。野菜を切り、肉を刻み、火を通し、少しでも食べやすいようにとすりつぶし、栄養満点のスープにして提供する。
戦いに休みがない以上、料理人たちにも休みなどない。まさに一日中、厨房にこもって料理しつづける。怪我をする心配だけはない。しかし、一時も途切れることなく轟々と火を焚きつづける厨房にあって、休むことなく料理をつづけるのだ。
炎に囲まれ、気温のあがった厨房のなか。いそがしさと相まって汗が滝のように流れる。ろくに水分を補給する暇もなく、脱水症状で目がクラクラする。それでも、必死に自分を叱咤して料理をつづける。
「兵士たちがこの世界を守るために命懸けで戦ってるんだ! そいつらのために、おれたちが飯を作らねえでどうする!」
そう叫び、料理人としての誇りだけでふらつく体を支え、料理をつづける。
そのなかでただひとり、異質な存在があった。
誰もが吐き気を押さえながらかろうじてスープを流し込んでいるなか、肉の塊をその手に握り、食いちぎっている。その身の側に長年の相棒かなにかのように槍を備え、体のあちこちに血がにじんだ包帯を巻いている。
生命に関わるほどの重傷ではない。
だからと言って『軽傷』と言えるわけでもない。
そんなことは素人でも一目でわかる。平和時であればすぐに安静を命じられ、入院を勧められる。その程度には深い傷。それだけの傷を負いながらしかし、その兵士は黙々と肉を食らい、酒を飲んでいる。まるで、その身の怪我など無視していれば消えてなくなる。そう信じているかのように。
「あんた……よくそんなに食えるな」
信じられない、といった様子で隣の兵士が言った。包帯に包まれた顔が驚きに染まっている。
「当たり前だろ」
と、名も無きひとりの兵士の同僚は答えた。
「食わなきゃ力がつかねえ。力がつかなきゃ生き残ることはできねえ。おれは絶対に生き残るんだ。おれは英雄のもとで魔王と戦った勇者になるんだ。生きて故郷に帰って、親に褒められ、女どもにモテモテの人生を過ごすんだ。なあ、そうだろう、相棒?」
名も無きひとりの兵士の同僚はそう言うと、ただ一振りの槍を手にとった。
そのまま歩き去った。
生き残るために戦場へと戻る。
そのために。
「銃士隊、一斉射撃! 倒す必要はない、弾丸の雨を降らせて少しでもやつらの進軍を遅らせろ。突撃部隊が交代する時間を稼ぐんだ!」
「おい、どこに行く⁉ さっさと砦に戻れ!」
「怪我した仲間が取り残されてて……。助けに行かないと!」
「馬鹿野郎! そんなこと言って、お前まで殺られたらどうする⁉ 一兵だって無駄死にさせるわけにはいかない戦いなんだぞ!」
「わかってます! だからこそ、助けに行かないと……」
「おれが行く! お前はさっさと砦に戻れ」
「そんな! 隊長こそ死なれたらみんなが困ります!」
「負傷者の救助と搬送はわたしたち衛生班の仕事です! あなたたちは早く砦に戻って休息と治療を!」
「あほうっ! ろくに武器ももってないお前たち小娘が怪物の前に行ったって……」
「キャアアアッ!」
「逃げろっ!」
「おおりゃあっ!」
「えっ……?」
「なんのために、おれたち予備兵が控えていると思ってるんだ⁉ 逃げ遅れた連中はおれたちに任せて、お前たちはさっさと砦に戻れ!」
大地を埋め尽くす亡道の怪物たち。その膨大な群れに襲われながら、砦では必死の防戦がつづいていた。
長槍をもった兵士たちが身を張って怪物たちの進軍を押しとどめ、天命の理を付与された武器をもった精鋭がその身を両断する。
小銃を構えた兵士たちが指も折れよとばかりに引き金を引きつづけ、兵士たちが交代する時間を稼ぐ。
黒人の少女たちを中心とした衛生班が戦場を駆け巡っては自分よりずっと大柄な負傷兵たちを抱えて砦まで運んでいく。
その合間あいまに予備兵たちが自身の判断で突撃し、亡道の怪物の前に立ちはだかる。我が身を盾に部隊の交代や負傷者を救助する時間を稼ぐ。
塹壕に生まれた炎はいまも轟々と燃えあがり、天まで焼き落とそうとするかのように立ちのぼっている。天を目指して躍りあがる竜のような深紅の壁となって、迫り来る亡道の怪物たちと兵士たちを隔てている。わずかでも亡道の怪物の進軍を遅らせ、兵士たちに有利な状況を作ろうとしている。
その姿は炎ですら『この世界を守る!』との強固な意志をもち、自らの力で燃えつづけているようにさえ見えた。それはあながち気のせいではないかも知れない。炎とてこの世界に生まれた存在であり、亡道の司とは敵対する存在なのだから。
そのさなかでももちろん、爆砕射による砲撃はつづいている。あとのことなどなにも考えずに炎の壁の向こうにありったけの砲弾を撃ちまくり、亡道の怪物たちを吹き飛ばしている。
炎の壁によって遮られて、その様子が兵士たちの目に見えるわけではない。それでも、防壁の上から途切れることなく響く砲撃音。その音が前線の兵士たちにどれほど頼もしく、心強いものに感じられたことか。
ときおり、防壁の上から砲撃音とは異なる大きな音が響いている。間髪入れずに撃ちまくったせいで限界を迎えた砲身が爆発し、四散しているのだ。爆砕射を操る砲撃手たちを巻き込んで。
それほどに必死の防戦だった。
そこまでしなくてはならない理由。
それはひとえに『相手が亡道の怪物だから』という一点に尽きる。
人間の軍勢相手であれば、ここまでのことにはならない。どれほど戦意盛んな突撃であろうとも、相手に受けとめられ、粉砕されればいったんは後退する。後方に退き、部隊を再編し、それからようやく再攻撃を仕掛けてくる。防衛側にしてみれば、その間に兵を交代させて救助と治療をすませ、次の襲撃に備えることができる。
亡道の怪物相手ではそうはいかない。
どれほどの被害が出ようとも、どれほどの仲間が殺されようとも、そんなことはいっさい構いはしない。気にしない。最後の一体が倒されるまで、ただただひたすらに近づき、押しよせ、攻め込んでくる。
一瞬でも気を抜いて接近を許してしまえば、もうとめられない。砦の防壁はくずされ、踏みつぶされ、なにも残らない荒れ地とされてしまう。そして、砦を踏みつぶした亡道の怪物たちは次の獲物を求めて歩きつづける。
その不安、恐怖、圧力に押しつぶされそうになりながら、それでも必死に戦いつづけている。
自分が生き残るために。
仲間や友人、家族を生き残らせるために。
突撃し、後退し、他の部隊が身を張って怪物たちの進撃を食いとめている間に治療と食事をすませ、頭を殴りつけてもらってでも無理やり眠りにつき、わずかな休息をとっては再び突撃していく。
その繰り返し。
怪物たちの最後の一体を倒すまで延々とつづく終わりなき悪夢。
その悪夢にさらされているのは前線の兵士たちだけではない。砦のなかで兵士たちを支える医師団や衛生班もまた、悪夢を相手に必死の抵抗をつづけている。
急ごしらえの治療室。そのなかに次々と運び込まれる負傷兵たち。小さなその部屋のなかにはとうてい収まりきれず、廊下の外に寝かされ、延々と並べられている。
その負傷者たちの体温の低下を防ぐためにかけてやる毛布ひとつ、この小さな治療室にはない。体を拭いてやるための湯をわかすにも事足りない。
そのなかで、負傷兵たちに対してあまりにも少ない医師たちが文字通り寝る間も惜しんで必死の治療に当たっている。しかし――。
治療できる負傷兵のほうが圧倒的に少ない。大部分はあまりにも怪我が大きすぎて治療の施しようもない。出血をとめられず、壊疽を防ぐこともできず、痛みをとめてやることすらできない。
「助けてくれ、痛みをとめてくれ!」
そう泣き叫ぶ負傷兵たちにしてやれることはただひとつ。これ以上、苦しまないよう殺してやること。
それが現状。
いまの時代の医療の限界。
本来であれば――。
こんなはずではなかった。
千年前の亡道の司との戦い。その戦いのあと時間を正しく使い、準備を重ねていれば、こんなことにならずにすんだ。医療は順調に発達し、どんな大怪我でも治療し、元に戻してやれるようになっていた。そのはずだった。それなのに――。
人類は愚かにもその貴重な時間を自分たち同士の争いに費やした。
すべてを懸けて亡道の司に挑み、千年の時間を稼いだ先人たちを裏切った。
そのために、医療にも充分な投資が行われず、その水準は千年前と比べても決して高くなっているとは言えない。準備不足のまま、圧倒的な亡道の怪物たちとの戦いを強いられている。
「くそっ! どうすればいい⁉」
医師団を率いるドク・フィドロが床を蹴りつけて叫んだ。床を蹴りつけることができたのは奇跡と言っていいだろう。治療室はどこもかしこも負傷者たちで占められており、足の踏み場もない状況だったのだから。
「くそっ、くそっ、くそっ! どうすればいい? どうすれば、痛みをとめてやれる? どうすれば、苦痛を与えずに手術してやれる? どうすれば、細菌による感染を防ぎ、壊疽を防ぐことができる?」
わからない。
なにもわからない。
それはもちろん、ドク・フィドロのせいではない。現代の医療水準が低すぎるのが問題なのだ。この千年、医療に対して充分な投資を行い、研究を重ねていれば、対処する術は見つけられた。そのはずなのだ。それなのに……。
「ええい、馬鹿どもが! くだらない戦争なんぞを繰り返しおって。それならせめて医療に対する投資だけは行ったらどうなんじゃ! 兵士の生存率があがって得するのはお前たちじゃろうが! それなのに、医療水準をあげようとしてこなかったとは大馬鹿者どもめ……」
ドク・フィドロの口からは先人たちに対する憎悪と怨恨が途切れることなくあふれ出す。いつも好々爺然とした柔和な表情がこのときばかりは憤怒に燃える仁王のようだった。
それを責めることができる人間はこの世にいないだろう。先人たちがやるべきことをやらず、やるべきでないことばかりしでかしてきたのは完全なる事実なのだから。
先人たちに対する憤怒と怨恨にまみれながらそれでもなお、ドク・フィドロは負傷兵たちの救済に全力を尽くしている。口でなんと言おうとも、治療に当たるその手が休まることはない。とまることはない。傷口を洗い、切開し、血管をつなぎ、骨を削る。壊疽の拡大を防ぎ生命を救うために泣くなく手足を切り落とし、心に詫びる。
その繰り返し。
そんなドク・フィドロの横では妻のマーサがやはり、夫と同じく憤怒の表情を浮かべながら必死に夫を支えている。治療をつづけている。
そんな両親の側で、医師たちを補佐するために駆けまわっているまだ幼い娘のナリスが決意を込めて言った。
「お父さん、お母さん。わたしは医療の研究者になる。わたしが絶対に、医療水準をあげてみせるよ!」
食堂でも戦いは行われている。運良く生きて砦に戻り、『治療室の廊下で』寝かされる必要のないものたちは一斉に食堂へとやってくる。一瞬の休息の前の食事をとりにやってくる。
実のところ、食欲など欠片もない。あまりの疲労とおぞましい光景を見過ぎたせいで、胃は限界まで縮んでいる。水を飲んだだけでも吐き気がする。できることならなにも飲まず、なにも食べず、寝台のなかに引きこもりたい。
しかし、飲み、食わなければ体力がもたない。体力が尽きてしまえば亡道の怪物たちと戦うことはできない。戦うことができなくなれば亡道によって侵食され、怪物へとかえられてしまう。自分も。自分の大切な人たちも。
誰もがそのことを知っている。
わきまえている。
自分自身の目に、その現実を見せつけられているのだ。いやと言うほどに。
だから、食堂にやってくる。
吐き気を堪え、必死に食らい、飲み、胃に流し込む。逆流しそうになる分を必死に押さえ、腹にとどめる。自らの血肉にかえるために。少しでも体力を取り戻し、戦う力を保ちつづけるために。
そのなかで料理人たちも必死の戦いをつづけている。野菜を切り、肉を刻み、火を通し、少しでも食べやすいようにとすりつぶし、栄養満点のスープにして提供する。
戦いに休みがない以上、料理人たちにも休みなどない。まさに一日中、厨房にこもって料理しつづける。怪我をする心配だけはない。しかし、一時も途切れることなく轟々と火を焚きつづける厨房にあって、休むことなく料理をつづけるのだ。
炎に囲まれ、気温のあがった厨房のなか。いそがしさと相まって汗が滝のように流れる。ろくに水分を補給する暇もなく、脱水症状で目がクラクラする。それでも、必死に自分を叱咤して料理をつづける。
「兵士たちがこの世界を守るために命懸けで戦ってるんだ! そいつらのために、おれたちが飯を作らねえでどうする!」
そう叫び、料理人としての誇りだけでふらつく体を支え、料理をつづける。
そのなかでただひとり、異質な存在があった。
誰もが吐き気を押さえながらかろうじてスープを流し込んでいるなか、肉の塊をその手に握り、食いちぎっている。その身の側に長年の相棒かなにかのように槍を備え、体のあちこちに血がにじんだ包帯を巻いている。
生命に関わるほどの重傷ではない。
だからと言って『軽傷』と言えるわけでもない。
そんなことは素人でも一目でわかる。平和時であればすぐに安静を命じられ、入院を勧められる。その程度には深い傷。それだけの傷を負いながらしかし、その兵士は黙々と肉を食らい、酒を飲んでいる。まるで、その身の怪我など無視していれば消えてなくなる。そう信じているかのように。
「あんた……よくそんなに食えるな」
信じられない、といった様子で隣の兵士が言った。包帯に包まれた顔が驚きに染まっている。
「当たり前だろ」
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生き残るために戦場へと戻る。
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