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第二部 絆ぐ伝説
第一〇話最終章 未来の誕生。そして……
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「く……う……ううううっ」
電気に照らされた小さな部屋。せまく、小さく、一台のベッドだけが置かれたその部屋のなかに苦悶の声が響いていた。
トウナ。
医療都市イムホテピアの市長にして、平等の国リンカーンの王妃。そして、自由の国主催の名代。
若くしていくつもの肩書きをもつその女性がいま、窓ひとつない部屋のなかで電気の明かりだけに照らされて、ベッドの上で歯を食いしばっている。苦悶の表情を浮かべて、地獄の底から響くような声をあげている。上半身にかけられたシーツを親の仇ででもあるかのように力強く握りしめ、全身に脂汗をかきながら。
いったい、どれほど過酷な拷問を受ければこんなにもひどい苦悶の表情を浮かべるのか。そう思わせるほどの、その表情。
産みの苦しみ。
まさに、それこそがトウナがいま、味わっている痛みだった。
とうとうやって来た出産のとき。
新たな生命をこの世に生みだすための苦しみだった。
このために用意された特別室。感染を防ぐために閉めきった部屋のなかで新たな生命を生みだすための必死の戦いをつづけているのだ。
歯を食いしばり、苦悶の表情で呻き声をあげながら戦いをつづけるトウナ。その両脇にはドク・フィドロとその妻のマーサがいて、必死に出産を行わせようとしている。声をかけている。
「さあ、ここが踏ん張りどころだよ! 赤ちゃんだって必死に産まれようとがんばってるんだからね。母親がそれに負けちゃいけないよ。気をしっかりもって。命懸けで産んでるところをちゃんと赤ちゃんに教えてあげなっ!」
「もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ生まれるぞい。生まれれば嘘のように楽になるからな」
ドク・フィドロも、マーサも、トウナに劣らず汗みどろの姿。疲れきった表情をしている。それでも、無理やりに笑みを浮かべ、トウナに声をかけている。励ましている。
「もうすぐ、もうすぐじゃからな」
ドク・フィドロは汗まみれの顔にいつもの好々爺然とした笑顔を浮かべてそう繰り返す。
人にどんなに嘘が必要か。医者だけが知っている。
まさに、その言葉の見本だったろう。そう声をかけ始めてからもう何時間たっているかわからない。もし、トウナに少しでも余裕があれば、
「もうすぐ、もうすぐっていつのことなのよ⁉」
と、激怒して怒鳴っていたにちがいない。
あまりの痛みと苦しみにそんなことに気がつく余裕もないのは果たして、幸運と言えるのだろうか。
自分の体が内側から押し広げられる圧迫感。
切り裂かれるような痛み。
その苦痛にいったい何時間、耐えてきたのか。
これからあと何時間、耐えればいいのか。
誰にもわからない。
答えられない。
――出産なんてやめたい。
禁断のその思いに駆られながらトウナは、歯を食いしばって戦いをつづける。
ドク・フィドロと妻のマーサにしてもできることは声をかけ、励ましてやることだけ。少しでもかわってやったり、肩代わりしてやることなどできない。
赤ん坊が産まれさえすれば、世話してやれることは色々とある。しかし、それまでは、赤ん坊が実際に母の胎内から外の世界に表れるまでは、してやれることなどなにもない。
――医者などと言っても実際にできることなどほとんどない。いつか、すべての人間から痛みと苦しみとを取りのぞいてやれるときがくるのか。
医師としての無力感とそんな思いに囚われながら必死にトウナに声をかける。
励ましつづける。
何時間も声をかけつづけて声で声はすでに枯れている。それでも、好々爺然とした笑顔を絶やさず『もうすぐ、もうすぐ』と言いつづける。反対側のマーサもそのたくましい体でトウナを支えつつ、必死の声がけをつづけている。
静かな戦いは部屋の外でも行われていた。
扉一枚、隔てた廊下。そこに、何人かの人間がいる。扉を通じて聞こえてくる苦悶の声を聞きつつ、身をよじっている。
そのなかのひとりにセアラがいた。絶え間ない苦悶の声に耳をふさぎたい。でも、それは失礼だと思ってできない。その相反するふたつの心に引き裂かれて、こちらもまた苦悶の表情を浮かべている。
本当は、出産の場に立ち会うつもりだったのだ。トウナの友人として、というより、科学者としての興味から出産を直に見たかったのだ。
「衛生面が不安だから」
というもっともな理由で断られたのだが、
――見なくてよかった。
というのがいまの正直な感想だった。
――もし、見ていたら夜なよな悪夢に見そう。
そう思えるぐらいの苦悶の声だった。
その声が聞こえるたびにビクリ! と体をすくめ、顔をゆがめる。目を閉じて怯えた表情を浮かべる。
チラリ、と、横目で母親であるマートルを見る。マートルはさすがにふたりの娘を産んだ経験者だけあってセアラよりずっと落ちついている。表情ひとつかえることなくたたずみ、そのときをまっている。しかし――。
その表情を、固く握りしめられた拳を見れば、セアラに劣らず緊張していることははっきりとわかる。あるいは、自分が出産したときの苦しさを思い出して、セアラ以上におののいているかも知れない。
「か、母さん……」
セアラが片目をつぶりながら恐るおそる声をかけた。
「母さんもボクや姉さんを産んだとき、こんなに苦しんだの?」
「もっとつらかったと思うわ」
マートルは表情をかえることなくそう言った。
「わたしは、かなりの難産だったから」
「これ以上……」
セアラはそれだけで気が遠くなる思いだった。
「……そんな思いをしながら産んでくれたんだ」
「そうね。いまだから言うけど……正直、あの苦しみを味わって、なんで二度目を体験しようと思えたのかわからないわ。いま、もう一度、産めと言われても断るでしょうね」
「……ありがとう。母さん」
母の告白に――。
そう言うしかないセアラだった。
そして、その場にはもうひとり、セアラやマートル以上にいたたまれない思いに身を浸しているものがいる。
プリンス。
トウナの夫である平等の国リンカーンの王。
これまでずっとパンゲア領内の拠点において戦闘指揮を執ってきたプリンスであるが、盤古帝国からの援軍が到着したことでようやく前線をはなれる余裕ができた。ちょうど、トウナが臨月を迎えていたこともあって様子見に帰ってきた。その直後に妻の出産にかち合ったのだ。
本当なら自分も出産に立ち会いたかった。
してやれることはなにもない。
わずかでもかわってやることなどできない。
それはわかっいたがそれでもせめて、手だけでも握っていてやりたかったのだ。
しかし、セアラ同様『衛生的でない』という理由から断られた。医師からそう言われてしまえば無理強いなどできない。あとを託し、そのときをまちつづけるしかなかった。
そしていま、廊下に置かれた椅子の上に座り込み、『憔悴』と題された石の像のようにまんじりともせずにまちつづけている。耐えつづけている。
そんなプリンスの側にはドク・フィドロとマーサの娘であるナリスがいて、プリンスの体に手をかけて必死に励ましている。
「だいじょうぶよ。お父さんもお母さんも名医なんだから。あのふたりがついているんだもん。絶対、無事に産まれてくるわ」
ナリスはまだ幼いが父と母の手伝いをしており、すでに腕の良い看護士である。看護士として憔悴しきっている夫を必死に励ましている。
「それに、お母さんが言っていたわ。トウナさんは若くて健康だし、妊娠中もひどいことにはならなかったからきっと安産だって。だから、だいじょうぶよ」
「この声のどこが大丈夫だって言うんだ⁉」
子ども相手にそう怒鳴らずにすんだのは、憔悴しきっていてそんな余裕もなかったからだ。もし、少しでも余裕があれば怒鳴り散らしていたにちがいない。
扉越しに聞こえるトウナの苦悶の声はそれからもつづいた。
いったい、どれだけの時が立ったことか。
トウナの苦悶の声が不意にとまった。その異変に――。
全員が扉の向こうに注意を引かれた。顔をあげた。視線を向けた。そして――。
おぎゃあ、
おぎゃあ、
おぎゃあ!
誕生を告げる泣き声が響きわたった。
扉が開き、赤ん坊をその胸に抱いたマーサが姿を表した。
抱かれているのはプリンスの血統を示す黒い肌の赤ん坊。
マーサは喜色満面で告げた。
「おめでとう、母子共に健康。元気な女の子だよ!」
その一言に――。
プリンスはその場で泣きくずれた。
出産から一日がたった。
トウナは出産用の部屋から病室に移され、ベッドの上に痛手を受けた体を横たえている。その横では生まれたばかりの娘がスヤスヤと眠っている。
マーサがニコニコ笑いながら豪快に笑った。
「いやあ、さすがトウナだよ。若くて健康なだけはあるね。驚くぐらいの安産だったよ」
「あ、安産……? あれで?」
マーサの言葉に、セアラは気が遠くなるぐらいの衝撃を覚えた。
その横では二児の母であるマートルがうんうんとうなずいている。
「わたしのときは、あの倍は時間がかかったものね」
――もうダメ。
そのまま気を失うかと思ったセアラだった。
「確かに、安産は安産じゃったが……」
ドク・フィドロが好々爺然とした顔にいかめしい表情を浮かべて釘を刺した。
「気を抜くわけにはいかんぞ。本当に危険なのは出産時よりも出産後なのじゃからな。多くの母親が出産後の不適切な対応で命を落としている。注意深く、経過を見守らなければならんぞ」
ドク・フィドロが医師としてそう語るその横で、新しい生命の父親となったプリンスはジッとベッド脇にたたずんでいる。妻と、子を見つめている。
「……ありがとう、トウナ。おれの子を生んでくれて」
その言葉にトウナは微笑んだ。それはもう完全に『母』の笑みだった。
「ありがとう、プリンス。喜んでくれて」
「トウナ。おれは君に、そして、この子に誓う。この子の未来はおれが守る。亡道の司などに、この子の人生を途絶えさせはしない」
妻と子に対する誓約。
これ以上ない誓いの言葉。
そして、それは、この場にいる全員が共有する思いだった。
「それで、お父さん」
ドク・フィドロとマーサの娘ナリスが、プリンスにそう呼びかけた。実は、プリンスが『お父さん』と呼ばれたのは、これがはじめてのことだった。
「この子の名前は、なんていうの?」
言われてプリンスは一瞬、あっけにとられた表情になった。頭が真っ白になっていることがはっきりわかる表情だった。
うかつなことに、赤ん坊の名前を考えることをすっかり忘れていたのだ。
しかし、実のところ、考える必要もないことだった。
この子は未来。
守るべき未来そのもの。
ならば、その名はひとつしかなかった。
プリンスは胸を張って、その名を告げた。
「フォーチュン。この子の名前はフォーチュンだ」
フォーチュン。
それは、トウナとプリンスの子の名前であると同時に、亡道の司に挑む人々が口にする合い言葉ともなるのである。
フォーチュンの誕生後、平穏な日々がつづいた……とは、行かなかった。
むしろ、その逆だった。ついに、教皇アルヴィルダの封印の効力が解けはじめたのか、亡道の怪物たちがこれまでにない頻度で襲ってくるようになったのだ。
再び前線に戻ったプリンスはそのことを肌で感じていた。盤古帝国の将、方天や、レムリアの力天将軍ヴァレリらと共に前線に立つなかで、はっきりとそのことを感じとっていた。
「亡道の怪物どもの表れる頻度、数。どちらも日ごとに増しているな」
「うむ。おれはこの地に来たばかりだが、はるか彼方から押しよせてくる気配は感じとれる。これは近々、大変なことが起こるぞ」
「なに。なにが来ようと任せておけ! 我らはいかなる場、いかなる戦いでも生き残るゴキブリ部隊。必ず、生き残り、勝利をつかんでみせる」
プリンスは淡々と、方天は重々しく、そして、ヴァレリは軽薄なほど陽気に、それぞれに対処している。
しかし、思いはひとつ。
「我らがフォーチュンは必ず守る」
その一言だった。
異変はレムリア伯爵領においても感じとられていた。今日もクベラ山地を猟場とする猟師たちからの報告が、領主であるクナイスルのもとに届けられているところだった。
「ここ最近、不気味な怪物を見る頻度が増えているとのことです。その怪物と、山の獣たちが組み合ったまま息絶えている姿もよく見るとか」
その報告がなにを意味するものか。
もちろん、クナイスルにはよくわかっていた。
「いよいよなのですね。クナイスル」
愛する妻ソーニャの言葉に――。
クナイスルはうなずいた。
「ああ、いよいよだ。我々も覚悟を決めなくてはならない」
パンゲア領の西方、大陸最大の山地である大アトラス山嶺。
その地の守りを任された野性の勇者たち。
大アトラス山嶺の王たるバルバルウ。
オオカミの群れを束ねるロボ。
空の覇者、風切り丸。
かの人たちもまた、異変をはっきりと感じとっていた。
――いままでとは比較にならぬ数の怪物どもが表れはじめているな。
――ああ。いやな気配は日ごとに強まるばかり。これは近いうちに大戦がはじまるな。
バルバルウの言葉に、ロボがうなずく。
両者ともその身にはすでにいくつもの傷を受けている。この世界を亡道の怪物どもから守るために、いかに過酷な戦いが行われているか、そのことを示す傷跡だった。
空の覇者、風切り丸が雄大な翼を羽ばたかせながらやって来た。そのことを告げた。
――新たな怪物どもが表れた。行くぞ、我が同胞たちよ。
――うむ。いくら来ようとこの世界を渡すわけにはいかん。
――そうだ。この世界は我々のもの。我々の牙で守る。
野性の誇りに懸けて、異界のものどもには渡さぬ。
その覚悟のもとに――。
亡道の怪物との戦いをつづける野性の勇者たちだった。
そして、誰よりも異変を見せつけられていたのは、パンゲアの奥深くに潜入している野伏とレディ・アホウタだった。
修行のためにパンゲアに侵入して早数ヶ月。大聖堂ヴァルハラに近づく道のなかでついに見たのだ。道の向こう、大聖堂ヴァルハラの方角からやってくる集団を。
姿は人。
軍服を着込み、軍靴の音を響かせてやってくる。
しかし、その頭部はすでに人のものではない。正体不明の怪物のものと化している。そして、その腕は『元軍人』であることを示すかのように小銃と一体化していた。
それは明らかに、いままでの怪物どもとはちがっていた。偶発的に発生した怪物ではない。明らかに規律のとれた集団。指示に従って戦う軍人たちの姿だった。
「あれは……」
レディ・アホウタが息を呑みながら言った。
「あれは、パンゲア聖騎士団の軍服っス。パンゲア七二将が率いる騎士団っスよ!」
「そうか」
野伏はレディ・アホウタの声に静かに答えた。
「ついに、騎士団が動きはじめたか。パンゲア中枢の封印が解けた。そういうことだな。これから続々と正規の軍勢がやってくる。レディ、戻るぞ。このことを報告しなくてはならない」
この世界にかつてない嵐が迫るなか、サラフディン沖を哨戒していた軍船の一隻がその船を見かけた。
マストは折れ、船体は穴だらけ。どこからどう見ても動くどころか浮いていることすらできないはずのその姿。それなのに、信じられないほどの速さで走る船。
ひらめく旗を見た見張りの兵が叫んだ。
「あれは幽霊船、マークスの幽霊船だ! ロウワンが帰ってきたぞっ!」
第一〇話完。
第一一話につづく。
電気に照らされた小さな部屋。せまく、小さく、一台のベッドだけが置かれたその部屋のなかに苦悶の声が響いていた。
トウナ。
医療都市イムホテピアの市長にして、平等の国リンカーンの王妃。そして、自由の国主催の名代。
若くしていくつもの肩書きをもつその女性がいま、窓ひとつない部屋のなかで電気の明かりだけに照らされて、ベッドの上で歯を食いしばっている。苦悶の表情を浮かべて、地獄の底から響くような声をあげている。上半身にかけられたシーツを親の仇ででもあるかのように力強く握りしめ、全身に脂汗をかきながら。
いったい、どれほど過酷な拷問を受ければこんなにもひどい苦悶の表情を浮かべるのか。そう思わせるほどの、その表情。
産みの苦しみ。
まさに、それこそがトウナがいま、味わっている痛みだった。
とうとうやって来た出産のとき。
新たな生命をこの世に生みだすための苦しみだった。
このために用意された特別室。感染を防ぐために閉めきった部屋のなかで新たな生命を生みだすための必死の戦いをつづけているのだ。
歯を食いしばり、苦悶の表情で呻き声をあげながら戦いをつづけるトウナ。その両脇にはドク・フィドロとその妻のマーサがいて、必死に出産を行わせようとしている。声をかけている。
「さあ、ここが踏ん張りどころだよ! 赤ちゃんだって必死に産まれようとがんばってるんだからね。母親がそれに負けちゃいけないよ。気をしっかりもって。命懸けで産んでるところをちゃんと赤ちゃんに教えてあげなっ!」
「もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐ生まれるぞい。生まれれば嘘のように楽になるからな」
ドク・フィドロも、マーサも、トウナに劣らず汗みどろの姿。疲れきった表情をしている。それでも、無理やりに笑みを浮かべ、トウナに声をかけている。励ましている。
「もうすぐ、もうすぐじゃからな」
ドク・フィドロは汗まみれの顔にいつもの好々爺然とした笑顔を浮かべてそう繰り返す。
人にどんなに嘘が必要か。医者だけが知っている。
まさに、その言葉の見本だったろう。そう声をかけ始めてからもう何時間たっているかわからない。もし、トウナに少しでも余裕があれば、
「もうすぐ、もうすぐっていつのことなのよ⁉」
と、激怒して怒鳴っていたにちがいない。
あまりの痛みと苦しみにそんなことに気がつく余裕もないのは果たして、幸運と言えるのだろうか。
自分の体が内側から押し広げられる圧迫感。
切り裂かれるような痛み。
その苦痛にいったい何時間、耐えてきたのか。
これからあと何時間、耐えればいいのか。
誰にもわからない。
答えられない。
――出産なんてやめたい。
禁断のその思いに駆られながらトウナは、歯を食いしばって戦いをつづける。
ドク・フィドロと妻のマーサにしてもできることは声をかけ、励ましてやることだけ。少しでもかわってやったり、肩代わりしてやることなどできない。
赤ん坊が産まれさえすれば、世話してやれることは色々とある。しかし、それまでは、赤ん坊が実際に母の胎内から外の世界に表れるまでは、してやれることなどなにもない。
――医者などと言っても実際にできることなどほとんどない。いつか、すべての人間から痛みと苦しみとを取りのぞいてやれるときがくるのか。
医師としての無力感とそんな思いに囚われながら必死にトウナに声をかける。
励ましつづける。
何時間も声をかけつづけて声で声はすでに枯れている。それでも、好々爺然とした笑顔を絶やさず『もうすぐ、もうすぐ』と言いつづける。反対側のマーサもそのたくましい体でトウナを支えつつ、必死の声がけをつづけている。
静かな戦いは部屋の外でも行われていた。
扉一枚、隔てた廊下。そこに、何人かの人間がいる。扉を通じて聞こえてくる苦悶の声を聞きつつ、身をよじっている。
そのなかのひとりにセアラがいた。絶え間ない苦悶の声に耳をふさぎたい。でも、それは失礼だと思ってできない。その相反するふたつの心に引き裂かれて、こちらもまた苦悶の表情を浮かべている。
本当は、出産の場に立ち会うつもりだったのだ。トウナの友人として、というより、科学者としての興味から出産を直に見たかったのだ。
「衛生面が不安だから」
というもっともな理由で断られたのだが、
――見なくてよかった。
というのがいまの正直な感想だった。
――もし、見ていたら夜なよな悪夢に見そう。
そう思えるぐらいの苦悶の声だった。
その声が聞こえるたびにビクリ! と体をすくめ、顔をゆがめる。目を閉じて怯えた表情を浮かべる。
チラリ、と、横目で母親であるマートルを見る。マートルはさすがにふたりの娘を産んだ経験者だけあってセアラよりずっと落ちついている。表情ひとつかえることなくたたずみ、そのときをまっている。しかし――。
その表情を、固く握りしめられた拳を見れば、セアラに劣らず緊張していることははっきりとわかる。あるいは、自分が出産したときの苦しさを思い出して、セアラ以上におののいているかも知れない。
「か、母さん……」
セアラが片目をつぶりながら恐るおそる声をかけた。
「母さんもボクや姉さんを産んだとき、こんなに苦しんだの?」
「もっとつらかったと思うわ」
マートルは表情をかえることなくそう言った。
「わたしは、かなりの難産だったから」
「これ以上……」
セアラはそれだけで気が遠くなる思いだった。
「……そんな思いをしながら産んでくれたんだ」
「そうね。いまだから言うけど……正直、あの苦しみを味わって、なんで二度目を体験しようと思えたのかわからないわ。いま、もう一度、産めと言われても断るでしょうね」
「……ありがとう。母さん」
母の告白に――。
そう言うしかないセアラだった。
そして、その場にはもうひとり、セアラやマートル以上にいたたまれない思いに身を浸しているものがいる。
プリンス。
トウナの夫である平等の国リンカーンの王。
これまでずっとパンゲア領内の拠点において戦闘指揮を執ってきたプリンスであるが、盤古帝国からの援軍が到着したことでようやく前線をはなれる余裕ができた。ちょうど、トウナが臨月を迎えていたこともあって様子見に帰ってきた。その直後に妻の出産にかち合ったのだ。
本当なら自分も出産に立ち会いたかった。
してやれることはなにもない。
わずかでもかわってやることなどできない。
それはわかっいたがそれでもせめて、手だけでも握っていてやりたかったのだ。
しかし、セアラ同様『衛生的でない』という理由から断られた。医師からそう言われてしまえば無理強いなどできない。あとを託し、そのときをまちつづけるしかなかった。
そしていま、廊下に置かれた椅子の上に座り込み、『憔悴』と題された石の像のようにまんじりともせずにまちつづけている。耐えつづけている。
そんなプリンスの側にはドク・フィドロとマーサの娘であるナリスがいて、プリンスの体に手をかけて必死に励ましている。
「だいじょうぶよ。お父さんもお母さんも名医なんだから。あのふたりがついているんだもん。絶対、無事に産まれてくるわ」
ナリスはまだ幼いが父と母の手伝いをしており、すでに腕の良い看護士である。看護士として憔悴しきっている夫を必死に励ましている。
「それに、お母さんが言っていたわ。トウナさんは若くて健康だし、妊娠中もひどいことにはならなかったからきっと安産だって。だから、だいじょうぶよ」
「この声のどこが大丈夫だって言うんだ⁉」
子ども相手にそう怒鳴らずにすんだのは、憔悴しきっていてそんな余裕もなかったからだ。もし、少しでも余裕があれば怒鳴り散らしていたにちがいない。
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いったい、どれだけの時が立ったことか。
トウナの苦悶の声が不意にとまった。その異変に――。
全員が扉の向こうに注意を引かれた。顔をあげた。視線を向けた。そして――。
おぎゃあ、
おぎゃあ、
おぎゃあ!
誕生を告げる泣き声が響きわたった。
扉が開き、赤ん坊をその胸に抱いたマーサが姿を表した。
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マーサは喜色満面で告げた。
「おめでとう、母子共に健康。元気な女の子だよ!」
その一言に――。
プリンスはその場で泣きくずれた。
出産から一日がたった。
トウナは出産用の部屋から病室に移され、ベッドの上に痛手を受けた体を横たえている。その横では生まれたばかりの娘がスヤスヤと眠っている。
マーサがニコニコ笑いながら豪快に笑った。
「いやあ、さすがトウナだよ。若くて健康なだけはあるね。驚くぐらいの安産だったよ」
「あ、安産……? あれで?」
マーサの言葉に、セアラは気が遠くなるぐらいの衝撃を覚えた。
その横では二児の母であるマートルがうんうんとうなずいている。
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――もうダメ。
そのまま気を失うかと思ったセアラだった。
「確かに、安産は安産じゃったが……」
ドク・フィドロが好々爺然とした顔にいかめしい表情を浮かべて釘を刺した。
「気を抜くわけにはいかんぞ。本当に危険なのは出産時よりも出産後なのじゃからな。多くの母親が出産後の不適切な対応で命を落としている。注意深く、経過を見守らなければならんぞ」
ドク・フィドロが医師としてそう語るその横で、新しい生命の父親となったプリンスはジッとベッド脇にたたずんでいる。妻と、子を見つめている。
「……ありがとう、トウナ。おれの子を生んでくれて」
その言葉にトウナは微笑んだ。それはもう完全に『母』の笑みだった。
「ありがとう、プリンス。喜んでくれて」
「トウナ。おれは君に、そして、この子に誓う。この子の未来はおれが守る。亡道の司などに、この子の人生を途絶えさせはしない」
妻と子に対する誓約。
これ以上ない誓いの言葉。
そして、それは、この場にいる全員が共有する思いだった。
「それで、お父さん」
ドク・フィドロとマーサの娘ナリスが、プリンスにそう呼びかけた。実は、プリンスが『お父さん』と呼ばれたのは、これがはじめてのことだった。
「この子の名前は、なんていうの?」
言われてプリンスは一瞬、あっけにとられた表情になった。頭が真っ白になっていることがはっきりわかる表情だった。
うかつなことに、赤ん坊の名前を考えることをすっかり忘れていたのだ。
しかし、実のところ、考える必要もないことだった。
この子は未来。
守るべき未来そのもの。
ならば、その名はひとつしかなかった。
プリンスは胸を張って、その名を告げた。
「フォーチュン。この子の名前はフォーチュンだ」
フォーチュン。
それは、トウナとプリンスの子の名前であると同時に、亡道の司に挑む人々が口にする合い言葉ともなるのである。
フォーチュンの誕生後、平穏な日々がつづいた……とは、行かなかった。
むしろ、その逆だった。ついに、教皇アルヴィルダの封印の効力が解けはじめたのか、亡道の怪物たちがこれまでにない頻度で襲ってくるようになったのだ。
再び前線に戻ったプリンスはそのことを肌で感じていた。盤古帝国の将、方天や、レムリアの力天将軍ヴァレリらと共に前線に立つなかで、はっきりとそのことを感じとっていた。
「亡道の怪物どもの表れる頻度、数。どちらも日ごとに増しているな」
「うむ。おれはこの地に来たばかりだが、はるか彼方から押しよせてくる気配は感じとれる。これは近々、大変なことが起こるぞ」
「なに。なにが来ようと任せておけ! 我らはいかなる場、いかなる戦いでも生き残るゴキブリ部隊。必ず、生き残り、勝利をつかんでみせる」
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しかし、思いはひとつ。
「我らがフォーチュンは必ず守る」
その一言だった。
異変はレムリア伯爵領においても感じとられていた。今日もクベラ山地を猟場とする猟師たちからの報告が、領主であるクナイスルのもとに届けられているところだった。
「ここ最近、不気味な怪物を見る頻度が増えているとのことです。その怪物と、山の獣たちが組み合ったまま息絶えている姿もよく見るとか」
その報告がなにを意味するものか。
もちろん、クナイスルにはよくわかっていた。
「いよいよなのですね。クナイスル」
愛する妻ソーニャの言葉に――。
クナイスルはうなずいた。
「ああ、いよいよだ。我々も覚悟を決めなくてはならない」
パンゲア領の西方、大陸最大の山地である大アトラス山嶺。
その地の守りを任された野性の勇者たち。
大アトラス山嶺の王たるバルバルウ。
オオカミの群れを束ねるロボ。
空の覇者、風切り丸。
かの人たちもまた、異変をはっきりと感じとっていた。
――いままでとは比較にならぬ数の怪物どもが表れはじめているな。
――ああ。いやな気配は日ごとに強まるばかり。これは近いうちに大戦がはじまるな。
バルバルウの言葉に、ロボがうなずく。
両者ともその身にはすでにいくつもの傷を受けている。この世界を亡道の怪物どもから守るために、いかに過酷な戦いが行われているか、そのことを示す傷跡だった。
空の覇者、風切り丸が雄大な翼を羽ばたかせながらやって来た。そのことを告げた。
――新たな怪物どもが表れた。行くぞ、我が同胞たちよ。
――うむ。いくら来ようとこの世界を渡すわけにはいかん。
――そうだ。この世界は我々のもの。我々の牙で守る。
野性の誇りに懸けて、異界のものどもには渡さぬ。
その覚悟のもとに――。
亡道の怪物との戦いをつづける野性の勇者たちだった。
そして、誰よりも異変を見せつけられていたのは、パンゲアの奥深くに潜入している野伏とレディ・アホウタだった。
修行のためにパンゲアに侵入して早数ヶ月。大聖堂ヴァルハラに近づく道のなかでついに見たのだ。道の向こう、大聖堂ヴァルハラの方角からやってくる集団を。
姿は人。
軍服を着込み、軍靴の音を響かせてやってくる。
しかし、その頭部はすでに人のものではない。正体不明の怪物のものと化している。そして、その腕は『元軍人』であることを示すかのように小銃と一体化していた。
それは明らかに、いままでの怪物どもとはちがっていた。偶発的に発生した怪物ではない。明らかに規律のとれた集団。指示に従って戦う軍人たちの姿だった。
「あれは……」
レディ・アホウタが息を呑みながら言った。
「あれは、パンゲア聖騎士団の軍服っス。パンゲア七二将が率いる騎士団っスよ!」
「そうか」
野伏はレディ・アホウタの声に静かに答えた。
「ついに、騎士団が動きはじめたか。パンゲア中枢の封印が解けた。そういうことだな。これから続々と正規の軍勢がやってくる。レディ、戻るぞ。このことを報告しなくてはならない」
この世界にかつてない嵐が迫るなか、サラフディン沖を哨戒していた軍船の一隻がその船を見かけた。
マストは折れ、船体は穴だらけ。どこからどう見ても動くどころか浮いていることすらできないはずのその姿。それなのに、信じられないほどの速さで走る船。
ひらめく旗を見た見張りの兵が叫んだ。
「あれは幽霊船、マークスの幽霊船だ! ロウワンが帰ってきたぞっ!」
第一〇話完。
第一一話につづく。
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ローズお姉さまのドレス
有沢真尋
児童書・童話
最近のルイーゼは少しおかしい。
いつも丈の合わない、ローズお姉さまのドレスを着ている。
話し方もお姉さまそっくり。
わたしと同じ年なのに、ずいぶん年上のように振舞う。
表紙はかんたん表紙メーカーさまで作成
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お姫様の願い事
月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。
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悪女の死んだ国
神々廻
児童書・童話
ある日、民から恨まれていた悪女が死んだ。しかし、悪女がいなくなってからすぐに国は植民地になってしまった。実は悪女は民を1番に考えていた。
悪女は何を思い生きたのか。悪女は後世に何を残したのか.........
2話完結 1/14に2話の内容を増やしました
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
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ぼくの家族は…内緒だよ!!
まりぃべる
児童書・童話
うちの家族は、ふつうとちょっと違うんだって。ぼくには良く分からないけど、友だちや知らない人がいるところでは力を隠さなきゃならないんだ。本気で走ってはダメとか、ジャンプも手を抜け、とかいろいろ守らないといけない約束がある。面倒だけど、約束破ったら引っ越さないといけないって言われてるから面倒だけど仕方なく守ってる。
それでね、十二月なんて一年で一番忙しくなるからぼく、いやなんだけど。
そんなぼくの話、聞いてくれる?
☆まりぃべるの世界観です。楽しんでもらえたら嬉しいです。
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昨日の敵は今日のパパ!
波湖 真
児童書・童話
アンジュは、途方に暮れていた。
画家のママは行方不明で、慣れない街に一人になってしまったのだ。
迷子になって助けてくれたのは騎士団のおじさんだった。
親切なおじさんに面倒を見てもらっているうちに、何故かこの国の公爵様の娘にされてしまった。
私、そんなの困ります!!
アンジュの気持ちを取り残したまま、公爵家に引き取られ、そこで会ったのは超不機嫌で冷たく、意地悪な人だったのだ。
家にも帰れず、公爵様には嫌われて、泣きたいのをグッと我慢する。
そう、画家のママが戻って来るまでは、ここで頑張るしかない!
アンジュは、なんとか公爵家で生きていけるのか?
どうせなら楽しく過ごしたい!
そんな元気でちゃっかりした女の子の物語が始まります。
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