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第二部 絆ぐ伝説
第一〇話二三章 その名は黒鬼軍
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軍靴の音が響いている。
大地を埋め尽くすかのように轟いている。
すべての靴音が一糸乱れぬ規律のうちに重なりあい、まるで、ただひとりの天をつく巨人の足音であるかのように大きく、重々しい音となって迫ってくる。
地鳴りのように、海鳴りのように、奥深くから鳴り響いては大地を呑み込む津波のようなうなりとなって進んでくる。
かつてのローラシア領、現在は、平等の国リンカーンの本拠地であるイスカンダル城塞群を目指して。
そのイスカンダル城塞群ではいま、トウナをはじめ、セアラ、ミッキー、ドク・フィドロ、ハーミド、パット、タングス、ブージら自由の国の中心人物たちに加え、ゴンドワナ議長の名代ロスタム、レムリア伯爵領の領主夫妻であるクナイスルとソーニャたち、まさに、西方世界の運命を担うと言っていい人物たちが立ち並び、はじめて見る姿の軍勢の訪れを待ち受けている。
トウナたちを前に、軍勢がとまった。その瞬間、あれほど鳴り響いていた軍靴の音がピタリとやんだ。最初からそんなものはなかったかのように消え失せていた。その軍勢はいったん動きをとめると、完全な静寂のうちに包まれていた。靴音どころか、呼吸する音さえ聞こえないような、そんな完全な静けさだった。
その軍勢は誰もが鬼の意匠を施した漆黒の仮面を身につけていた。そのせいで、誰ひとりとして素顔を見ることはできない。漆黒の軍服で全身を包み、やはり漆黒の軍靴をはいている。肩に担ぐ小銃もまた黒い。まさに、その全身を、魂にいたるまで黒一色に染めあげたかのような黒の軍勢。
軍勢の各所に誇らしげに掲げられた大旗には、トウナたちの見たことのない不可思議な文様のような図が描かれている。それは、実は文様でもなければ、図でもない。東方は盤古帝国で使われている『漢字』という文字だった。
その数、およそ一〇万。
それだけの数の漆黒の衣装に身を固めた軍人たちが、大地を埋め尽くして整然と整列しているのだ。その威圧感はまさに、圧倒的。呼吸音ひとつ漏れてこない静かさなのに、いや、そこまでの静かさだからこそ無音のうちにすさまじい圧力が感じられる。
その威圧感は単に数だけから来るものではない。一糸乱れぬ規律正しい行軍。風雪のなかで微動だにすることなくそびえ立つオークの大木のように、まっすぐに立ったその姿勢。
数だけではなく、練度においても圧倒的であることが見てとれる。
いまはこうして立ちどまり、静かさに包まれてはいても、ひとたび動き出せばその全軍が一瞬のうちに雷光となって走り抜け、敵という敵すべてを殺し尽くすにちがいない。
そう思わせるだけの不気味さがあった。
恐らくはいまの西方世界で、同数でこの軍勢と戦える『人間の』軍勢は存在しないだろう。同数どころか二倍、三倍の数があっても太刀打ちできないかも知れない。ルキフェル率いるパンゲア騎士団の最精鋭であれば、どうにか互角の戦いを挑めたかも知れないが。
その恐るべき軍勢のなかから、ひとりの人物が前に進み出た。
漆黒の仮面と漆黒の軍服のせいでどんな人物かまではわからない。しかし、長身で肩幅の広い、屈強な体格の人物であることはわかる。重々しいくせに柔軟な、最盛期のトラを思わせる足音。体幹が一切、揺らぐことのない姿勢。それらからは、世にふたりといない傑出した武人であることが見てとれた。
黒の武人が立ちどまった。自らの仮面に手をやった。仮面を外した。漆黒の鬼の仮面。その下から表れたのは六〇代とおぼしき男の顔。頭髪は灰色に染まり、肌は長年の苦難に鍛えられて青銅のように鈍く輝き、額には何本もの深い皺が刻まれている。
若くはない。若くはないがしかし『歳老いている』という印象はまったくない。これまでに経てきた人生の年輪が皺の一本いっぽんとなって顔に刻み込まれているような、そんな印象を与える人物、まさに『おとなの男』と言いたくなる人物だった。
その男は息を吸った。吸った息すべてを吐き出すかのように朗々たる声をあげた。その声に押された大気が一斉に動き、暴風となって叩きつけてくる。その声ひとつで自らの前に立ちはだかるものすべてを吹き飛ばそうとするような、そんな覇気に満ちた声だった。
「我が名は方天! 盤古帝国黒鬼軍総将なり! 亡道の司との戦いに参戦せよとのロウワンどのの檄を受け、参上つかまつった! ロウワンどのにお取り次ぎ願いたい!」
方天将軍はトウナの執務室に通されていた。
武器ももたず、たったひとりで。卓をはさんだ向かい側には、トウナたち西方世界の中心人物たちが顔を並べている。
いかに協力者としてやって来たとは言え見慣れぬ異国。その地で見ず知らずの相手に対しているというのに不安そうな様子は微塵もない。それどころか、用意された椅子に巌のようにどっかと座り、辺りを睥睨するかのような威圧感を放っている。まるで、かの人こそがこの部屋の主であるかのように。
その肝の太さ、剛胆さはさすがに、歴戦の武人といった印象だった。
その方天将軍の前では、将軍の漆黒の衣装に対抗するかのように深い黒の水色を輝かせるコーヒーが、白磁のカップに注がれて湯気を立てている。
「ふむ。これが『こーひー』という飲み物ですかな?」
「はい」
トウナは方天将軍の言葉にうなずいた。
盤古帝国は千年前の亡道の司との戦いのあと、それ以前に栄えていた独自の文化を復興させた数少ない国のひとつである。それだけに、西方世界とは言葉もちがえば、風習もちがう。
しかし、亡道の司との戦いのときに作られた共通語も廃れることなく使われてきた。西方世界との外交や交易のためには、共通語を使う必要があったからである。そのため、会話は普通に行うことができる。
方天将軍はいかにも興味深そうにコーヒーをのぞき込んでいる。その表情が意外なぐらい『好奇心いっぱいの男の子』という印象になっている。軍務からはなれれば案外、気の良いおじさんなのかも知れない。
「ふむ。『こーひー』なる飲み物のことは聞いておりましたが、実際に見るのははじめてですな。飲んでみてよろしいか?」
「どうぞ」
トウナに短く答えられて方天将軍はコーヒーを満たしたカップをむんずとつかんだ。取っ手に指をかけるのではなく、カップそのものを直接もったのだ。
トウナたちは知らないことだが『茶碗』と呼ばれる東方世界のカップには取っ手はない。カップ本体を手のひら全体で包みこむようにしてもつ。それに慣れているので、取っ手のついている西方世界のカップも同じように手のひらで包んだのだ。
コーヒーの熱がカップを通して将軍の手のひらに伝わったはずたが、なんら気にしていないらしい。さすが、武器をもつために鍛えられた手だけあって皮がよほど分厚く、強靱になっているのだろう。
「ブージの面の皮の厚さには負けるがな」
とは、のちに方天将軍が好んで使うようになった冗談――本音?――である。
方天将軍はカップをもちあげた。天を仰ぎ、カップを傾ける。湯気を立てる熱い液体だというのに、そんなことにはかまわずにまるで水ででもあるかのように一気に口に流し込む。
普通ならば、こんな真似をすれば熱いコーヒーに口のなかを焼かれて火傷し、むせかえるところだ。しかし、方天将軍は顔色ひとつかえはしない。手の皮だけではなく、口のなかまで分厚く、強靱な作りらしい。
「うむ。苦い」
方天将軍はそう一言で感想を述べると、ダン! と音を立ててカップを卓においた。粗暴なふるまいに見えるが、実際には充分に手加減している。もし、方天将軍が加減なしにカップを卓に叩きつけていれば粉々に砕けている。
「しかし、興味深い味だ。盤古帝国にはこのような味の飲み物はありませんからな。それを味わえただけでも遠路はるばるやってきた甲斐があると言うもの」
方天将軍はそう言って豪快に笑った。
その笑い方にトウナは、いまは亡きガレノアを思い出した。ガレノアやボウであればこの人物とはさぞかし気が合ったことだろう。一目、会った瞬間に意気投合し、酒場に繰り出して陽気な宴を開いていたにちがいない。そう思える。
――ふたりとも、もういないけど。
トウナはそう心のなかで呟き、胸にチクリとした痛みを感じた。
トウナはロウワンほどにはガレノアやボウと関わったことがあるわけではないし、ロウワンほどの思い入れがあったわけでもない。それでも、豪快そのもののガレノアや謹厳実直なボウにもう二度と会うことはできないのだと思うとやはり、木のうろを吹き抜ける風のような寂しさが心のなかを吹き抜けていく。
「して、ロウワンどのはいずこにおられるのかな?」
方天将軍の問いにトウナが答えた。
「いまは旅に出ています。亡道の司との戦いに勝利するための力を得るために。ロウワン不在の間はこのわたし、トウナが名代を務めています」
「ほう?」
と、将軍は値踏みするような目でトウナを見た。
「見ればまだ年若い女性。それも、妊娠しておられる様子。その貴公が一国の名代を務めていると?」
「はい」
トウナは短く答えた。
――それがなにか?
という意思を込めて、方天将軍をにらみつける。妊娠中という繊細な時期にありながら自分よりも三倍以上も年長の男をにらみつける。その気の強さがやはり『漁師の島の野生児』なのだった。
方天将軍はトウナににらみつけられてニヤリと笑った。どうやら、自分をにらみつけてくる気の強さが気に入ったらしい。
「なるほど。若く、女性の身で、しかも、妊娠中。にもかかわらず一国の名代を任されるとは。よほど人格と能力が優れているということ。この方天以下黒鬼軍総員、全身全霊をもって協力させていただきますぞ」
方天将軍はそう請け負った。トウナのことを年若い小娘などと見下すことなく、その能力と人格を信頼する。それは、方天将軍の懐の広さを証明する出来事だった。しかし――。
正直、トウナたちはとまどっていた。
突然、盤古帝国の軍勢がやって来たことに。
生前のボウが亡道の司との戦いに備えて、戦力増強のために故郷である盤古帝国に援軍を求める使者を送っていた。
そのことは皆、知っていた。しかし、すっかり忘れていたのだ。あのときからそれなりの時間が立っているし、それ以上に多くのことがありすぎた。使者を送ったボウもいまは亡い。そこに突然、援軍が表れた。それも、一〇万もの大軍が。援軍を求めておいてそのことを忘れていた後ろめたさもあって、とまどいを禁じ得なかったのだ。
「正直、いきなり一〇万もの軍を派遣していただけるとは思っていませんでしたし……」
まずは、こちらの援軍要請に対する答えを使者が持ち帰り、そこからまた幾度かの交渉があってはじめて援軍が派遣される。
なんとなく、そんな流れになるだろうと思っていたのだ。それなのに、それらの途中経過をすべてすっ飛ばしていきなり援軍を送り込んでくるとは。それも、一〇万もの大軍を。
もちろん、これほどの数の、それも精強極まりない援軍を送ってくれたことには感謝しかない。しかし、あまりにも手際がよすぎて逆に不安になってしまう。
方天将軍もそのことを察したのだろう。聞かれるまでもなく説明した。
「千年前の戦いのことは盤古帝国でも代々、伝えられております。いつか再び来る戦いのときに備えよ。代々の皇帝陛下は初代皇帝、太祖帝のお言葉を胸に、軍備の増強に励んできました。そしていま、その戦いの時が訪れた。となれば、一も二もなく参戦するのが道理。どうか、我々を頼っていただきたい」
方天将軍は誇らしげにそう語ると、傲然と胸をそびやかして見せた。その姿を見るだけで、どんな戦いにも勝てそうな気がしてくる。そんな力強さがあった。
「まして、その連絡をよこしたのがボウとなれば疑う余地はない。皇帝陛下に直談判し、やって来たのですよ」
「あなたはボウと知り合いなのですか?」
「もう四〇年から昔のことになりますがな。ボウとは新兵であった駆け出し時代に同じ釜の飯を食った仲なのですよ。少々、生真面目すぎて融通の利かない石頭の面はありましたが、気の良い、頼りになるやつでした」
「そうでしたか」
方天将軍の答えに、トウナはしんみりした思いになった。
――また、ボウに助けられたわね。
そんな思いが心のなかに浮かんだ。
方天将軍は気さくな態度でつづけた。
「して、そのボウはいずこに? 四〇年ぶりに酒など酌み交わそうかと楽しみにしておったのですが」
「ボウは亡くなりました。自分の信じた未来を守るために」
トウナはそのいきさつを話した。方天将軍は黙って聞いていたが聞き終えると一言、
「失礼」
と言って両目をつぶり、黙祷を捧げた。
やがて、目を開くと言った。
「なるほど。それは、ボウらしい最後ですな。〝鬼〟の名は我が国にも届いております。その名にふさわしい最強の怪物とか。そのような相手と戦って死ねたのならまさに武人の誉れ。悔いはありますまい。まして、おのれの信じた未来のために死ねたのです。会心の死に様でしょう」
「はい。そうであることを願っています。わたしたちのすべきことはボウが『自分が死んだ甲斐があった』と思うことのできる世界を築くこと。そのためにいま、亡道の司との戦いに勝利することです」
パン! と、方天将軍は音高く自分の足を叩いて見せた。
「よくぞ言ってくださった! それでこそ、共に戦う甲斐があると言うもの。盤古帝国、兵は一〇〇万。その総力をあげて協力させていただきますぞ。いや、我が国だけではありません。周辺諸国にも呼びかけ、参戦を呼びかけております。準備ができ次第、続々と後続の軍がやって来ます。その数は二〇〇万を下ることはありますまい」
「二〇〇万⁉」
それまで黙ってやりとりを聞いていたセアラが、驚きのあまりすっとんきょうな声をあげた。
「すごい! それだけの数の援軍があれば、新兵器の開発や鉄道建設に人手をさくことができる。一気に状況が有利になるよ」
「確かに。最大の問題点であった人手不足が解消されるとなれば、戦力を充実させると同時に民生部門も強化し、社会体制を強固にしていくことができる。一気に希望が見えてきたな」
その他の面々も口をそろえてそう言った。その言い方がみんな、本当に嬉しそう。それだけ、人手不足という問題を深刻に感じていたのだ。
「なんのことやらよくわかりませぬが、それほどに喜んでいただけるならますますやってきた甲斐があるというもの。ついてはさっそく、我々を最前線に配置していただきたい。一刻も早く亡道の怪物とやらとの戦いを経験しておきたいですからな」
方天将軍は頼もしさを絵に描いて黄金の額縁をつけたような声でそう言った。
その声を聞きながらトウナは心のなかで語りかけた。
――ロウワン。わたしたちは着実に準備を進めているわ。あとは、あなた次第。亡道の司を倒す力を手に入れて戻ってきて。
大地を埋め尽くすかのように轟いている。
すべての靴音が一糸乱れぬ規律のうちに重なりあい、まるで、ただひとりの天をつく巨人の足音であるかのように大きく、重々しい音となって迫ってくる。
地鳴りのように、海鳴りのように、奥深くから鳴り響いては大地を呑み込む津波のようなうなりとなって進んでくる。
かつてのローラシア領、現在は、平等の国リンカーンの本拠地であるイスカンダル城塞群を目指して。
そのイスカンダル城塞群ではいま、トウナをはじめ、セアラ、ミッキー、ドク・フィドロ、ハーミド、パット、タングス、ブージら自由の国の中心人物たちに加え、ゴンドワナ議長の名代ロスタム、レムリア伯爵領の領主夫妻であるクナイスルとソーニャたち、まさに、西方世界の運命を担うと言っていい人物たちが立ち並び、はじめて見る姿の軍勢の訪れを待ち受けている。
トウナたちを前に、軍勢がとまった。その瞬間、あれほど鳴り響いていた軍靴の音がピタリとやんだ。最初からそんなものはなかったかのように消え失せていた。その軍勢はいったん動きをとめると、完全な静寂のうちに包まれていた。靴音どころか、呼吸する音さえ聞こえないような、そんな完全な静けさだった。
その軍勢は誰もが鬼の意匠を施した漆黒の仮面を身につけていた。そのせいで、誰ひとりとして素顔を見ることはできない。漆黒の軍服で全身を包み、やはり漆黒の軍靴をはいている。肩に担ぐ小銃もまた黒い。まさに、その全身を、魂にいたるまで黒一色に染めあげたかのような黒の軍勢。
軍勢の各所に誇らしげに掲げられた大旗には、トウナたちの見たことのない不可思議な文様のような図が描かれている。それは、実は文様でもなければ、図でもない。東方は盤古帝国で使われている『漢字』という文字だった。
その数、およそ一〇万。
それだけの数の漆黒の衣装に身を固めた軍人たちが、大地を埋め尽くして整然と整列しているのだ。その威圧感はまさに、圧倒的。呼吸音ひとつ漏れてこない静かさなのに、いや、そこまでの静かさだからこそ無音のうちにすさまじい圧力が感じられる。
その威圧感は単に数だけから来るものではない。一糸乱れぬ規律正しい行軍。風雪のなかで微動だにすることなくそびえ立つオークの大木のように、まっすぐに立ったその姿勢。
数だけではなく、練度においても圧倒的であることが見てとれる。
いまはこうして立ちどまり、静かさに包まれてはいても、ひとたび動き出せばその全軍が一瞬のうちに雷光となって走り抜け、敵という敵すべてを殺し尽くすにちがいない。
そう思わせるだけの不気味さがあった。
恐らくはいまの西方世界で、同数でこの軍勢と戦える『人間の』軍勢は存在しないだろう。同数どころか二倍、三倍の数があっても太刀打ちできないかも知れない。ルキフェル率いるパンゲア騎士団の最精鋭であれば、どうにか互角の戦いを挑めたかも知れないが。
その恐るべき軍勢のなかから、ひとりの人物が前に進み出た。
漆黒の仮面と漆黒の軍服のせいでどんな人物かまではわからない。しかし、長身で肩幅の広い、屈強な体格の人物であることはわかる。重々しいくせに柔軟な、最盛期のトラを思わせる足音。体幹が一切、揺らぐことのない姿勢。それらからは、世にふたりといない傑出した武人であることが見てとれた。
黒の武人が立ちどまった。自らの仮面に手をやった。仮面を外した。漆黒の鬼の仮面。その下から表れたのは六〇代とおぼしき男の顔。頭髪は灰色に染まり、肌は長年の苦難に鍛えられて青銅のように鈍く輝き、額には何本もの深い皺が刻まれている。
若くはない。若くはないがしかし『歳老いている』という印象はまったくない。これまでに経てきた人生の年輪が皺の一本いっぽんとなって顔に刻み込まれているような、そんな印象を与える人物、まさに『おとなの男』と言いたくなる人物だった。
その男は息を吸った。吸った息すべてを吐き出すかのように朗々たる声をあげた。その声に押された大気が一斉に動き、暴風となって叩きつけてくる。その声ひとつで自らの前に立ちはだかるものすべてを吹き飛ばそうとするような、そんな覇気に満ちた声だった。
「我が名は方天! 盤古帝国黒鬼軍総将なり! 亡道の司との戦いに参戦せよとのロウワンどのの檄を受け、参上つかまつった! ロウワンどのにお取り次ぎ願いたい!」
方天将軍はトウナの執務室に通されていた。
武器ももたず、たったひとりで。卓をはさんだ向かい側には、トウナたち西方世界の中心人物たちが顔を並べている。
いかに協力者としてやって来たとは言え見慣れぬ異国。その地で見ず知らずの相手に対しているというのに不安そうな様子は微塵もない。それどころか、用意された椅子に巌のようにどっかと座り、辺りを睥睨するかのような威圧感を放っている。まるで、かの人こそがこの部屋の主であるかのように。
その肝の太さ、剛胆さはさすがに、歴戦の武人といった印象だった。
その方天将軍の前では、将軍の漆黒の衣装に対抗するかのように深い黒の水色を輝かせるコーヒーが、白磁のカップに注がれて湯気を立てている。
「ふむ。これが『こーひー』という飲み物ですかな?」
「はい」
トウナは方天将軍の言葉にうなずいた。
盤古帝国は千年前の亡道の司との戦いのあと、それ以前に栄えていた独自の文化を復興させた数少ない国のひとつである。それだけに、西方世界とは言葉もちがえば、風習もちがう。
しかし、亡道の司との戦いのときに作られた共通語も廃れることなく使われてきた。西方世界との外交や交易のためには、共通語を使う必要があったからである。そのため、会話は普通に行うことができる。
方天将軍はいかにも興味深そうにコーヒーをのぞき込んでいる。その表情が意外なぐらい『好奇心いっぱいの男の子』という印象になっている。軍務からはなれれば案外、気の良いおじさんなのかも知れない。
「ふむ。『こーひー』なる飲み物のことは聞いておりましたが、実際に見るのははじめてですな。飲んでみてよろしいか?」
「どうぞ」
トウナに短く答えられて方天将軍はコーヒーを満たしたカップをむんずとつかんだ。取っ手に指をかけるのではなく、カップそのものを直接もったのだ。
トウナたちは知らないことだが『茶碗』と呼ばれる東方世界のカップには取っ手はない。カップ本体を手のひら全体で包みこむようにしてもつ。それに慣れているので、取っ手のついている西方世界のカップも同じように手のひらで包んだのだ。
コーヒーの熱がカップを通して将軍の手のひらに伝わったはずたが、なんら気にしていないらしい。さすが、武器をもつために鍛えられた手だけあって皮がよほど分厚く、強靱になっているのだろう。
「ブージの面の皮の厚さには負けるがな」
とは、のちに方天将軍が好んで使うようになった冗談――本音?――である。
方天将軍はカップをもちあげた。天を仰ぎ、カップを傾ける。湯気を立てる熱い液体だというのに、そんなことにはかまわずにまるで水ででもあるかのように一気に口に流し込む。
普通ならば、こんな真似をすれば熱いコーヒーに口のなかを焼かれて火傷し、むせかえるところだ。しかし、方天将軍は顔色ひとつかえはしない。手の皮だけではなく、口のなかまで分厚く、強靱な作りらしい。
「うむ。苦い」
方天将軍はそう一言で感想を述べると、ダン! と音を立ててカップを卓においた。粗暴なふるまいに見えるが、実際には充分に手加減している。もし、方天将軍が加減なしにカップを卓に叩きつけていれば粉々に砕けている。
「しかし、興味深い味だ。盤古帝国にはこのような味の飲み物はありませんからな。それを味わえただけでも遠路はるばるやってきた甲斐があると言うもの」
方天将軍はそう言って豪快に笑った。
その笑い方にトウナは、いまは亡きガレノアを思い出した。ガレノアやボウであればこの人物とはさぞかし気が合ったことだろう。一目、会った瞬間に意気投合し、酒場に繰り出して陽気な宴を開いていたにちがいない。そう思える。
――ふたりとも、もういないけど。
トウナはそう心のなかで呟き、胸にチクリとした痛みを感じた。
トウナはロウワンほどにはガレノアやボウと関わったことがあるわけではないし、ロウワンほどの思い入れがあったわけでもない。それでも、豪快そのもののガレノアや謹厳実直なボウにもう二度と会うことはできないのだと思うとやはり、木のうろを吹き抜ける風のような寂しさが心のなかを吹き抜けていく。
「して、ロウワンどのはいずこにおられるのかな?」
方天将軍の問いにトウナが答えた。
「いまは旅に出ています。亡道の司との戦いに勝利するための力を得るために。ロウワン不在の間はこのわたし、トウナが名代を務めています」
「ほう?」
と、将軍は値踏みするような目でトウナを見た。
「見ればまだ年若い女性。それも、妊娠しておられる様子。その貴公が一国の名代を務めていると?」
「はい」
トウナは短く答えた。
――それがなにか?
という意思を込めて、方天将軍をにらみつける。妊娠中という繊細な時期にありながら自分よりも三倍以上も年長の男をにらみつける。その気の強さがやはり『漁師の島の野生児』なのだった。
方天将軍はトウナににらみつけられてニヤリと笑った。どうやら、自分をにらみつけてくる気の強さが気に入ったらしい。
「なるほど。若く、女性の身で、しかも、妊娠中。にもかかわらず一国の名代を任されるとは。よほど人格と能力が優れているということ。この方天以下黒鬼軍総員、全身全霊をもって協力させていただきますぞ」
方天将軍はそう請け負った。トウナのことを年若い小娘などと見下すことなく、その能力と人格を信頼する。それは、方天将軍の懐の広さを証明する出来事だった。しかし――。
正直、トウナたちはとまどっていた。
突然、盤古帝国の軍勢がやって来たことに。
生前のボウが亡道の司との戦いに備えて、戦力増強のために故郷である盤古帝国に援軍を求める使者を送っていた。
そのことは皆、知っていた。しかし、すっかり忘れていたのだ。あのときからそれなりの時間が立っているし、それ以上に多くのことがありすぎた。使者を送ったボウもいまは亡い。そこに突然、援軍が表れた。それも、一〇万もの大軍が。援軍を求めておいてそのことを忘れていた後ろめたさもあって、とまどいを禁じ得なかったのだ。
「正直、いきなり一〇万もの軍を派遣していただけるとは思っていませんでしたし……」
まずは、こちらの援軍要請に対する答えを使者が持ち帰り、そこからまた幾度かの交渉があってはじめて援軍が派遣される。
なんとなく、そんな流れになるだろうと思っていたのだ。それなのに、それらの途中経過をすべてすっ飛ばしていきなり援軍を送り込んでくるとは。それも、一〇万もの大軍を。
もちろん、これほどの数の、それも精強極まりない援軍を送ってくれたことには感謝しかない。しかし、あまりにも手際がよすぎて逆に不安になってしまう。
方天将軍もそのことを察したのだろう。聞かれるまでもなく説明した。
「千年前の戦いのことは盤古帝国でも代々、伝えられております。いつか再び来る戦いのときに備えよ。代々の皇帝陛下は初代皇帝、太祖帝のお言葉を胸に、軍備の増強に励んできました。そしていま、その戦いの時が訪れた。となれば、一も二もなく参戦するのが道理。どうか、我々を頼っていただきたい」
方天将軍は誇らしげにそう語ると、傲然と胸をそびやかして見せた。その姿を見るだけで、どんな戦いにも勝てそうな気がしてくる。そんな力強さがあった。
「まして、その連絡をよこしたのがボウとなれば疑う余地はない。皇帝陛下に直談判し、やって来たのですよ」
「あなたはボウと知り合いなのですか?」
「もう四〇年から昔のことになりますがな。ボウとは新兵であった駆け出し時代に同じ釜の飯を食った仲なのですよ。少々、生真面目すぎて融通の利かない石頭の面はありましたが、気の良い、頼りになるやつでした」
「そうでしたか」
方天将軍の答えに、トウナはしんみりした思いになった。
――また、ボウに助けられたわね。
そんな思いが心のなかに浮かんだ。
方天将軍は気さくな態度でつづけた。
「して、そのボウはいずこに? 四〇年ぶりに酒など酌み交わそうかと楽しみにしておったのですが」
「ボウは亡くなりました。自分の信じた未来を守るために」
トウナはそのいきさつを話した。方天将軍は黙って聞いていたが聞き終えると一言、
「失礼」
と言って両目をつぶり、黙祷を捧げた。
やがて、目を開くと言った。
「なるほど。それは、ボウらしい最後ですな。〝鬼〟の名は我が国にも届いております。その名にふさわしい最強の怪物とか。そのような相手と戦って死ねたのならまさに武人の誉れ。悔いはありますまい。まして、おのれの信じた未来のために死ねたのです。会心の死に様でしょう」
「はい。そうであることを願っています。わたしたちのすべきことはボウが『自分が死んだ甲斐があった』と思うことのできる世界を築くこと。そのためにいま、亡道の司との戦いに勝利することです」
パン! と、方天将軍は音高く自分の足を叩いて見せた。
「よくぞ言ってくださった! それでこそ、共に戦う甲斐があると言うもの。盤古帝国、兵は一〇〇万。その総力をあげて協力させていただきますぞ。いや、我が国だけではありません。周辺諸国にも呼びかけ、参戦を呼びかけております。準備ができ次第、続々と後続の軍がやって来ます。その数は二〇〇万を下ることはありますまい」
「二〇〇万⁉」
それまで黙ってやりとりを聞いていたセアラが、驚きのあまりすっとんきょうな声をあげた。
「すごい! それだけの数の援軍があれば、新兵器の開発や鉄道建設に人手をさくことができる。一気に状況が有利になるよ」
「確かに。最大の問題点であった人手不足が解消されるとなれば、戦力を充実させると同時に民生部門も強化し、社会体制を強固にしていくことができる。一気に希望が見えてきたな」
その他の面々も口をそろえてそう言った。その言い方がみんな、本当に嬉しそう。それだけ、人手不足という問題を深刻に感じていたのだ。
「なんのことやらよくわかりませぬが、それほどに喜んでいただけるならますますやってきた甲斐があるというもの。ついてはさっそく、我々を最前線に配置していただきたい。一刻も早く亡道の怪物とやらとの戦いを経験しておきたいですからな」
方天将軍は頼もしさを絵に描いて黄金の額縁をつけたような声でそう言った。
その声を聞きながらトウナは心のなかで語りかけた。
――ロウワン。わたしたちは着実に準備を進めているわ。あとは、あなた次第。亡道の司を倒す力を手に入れて戻ってきて。
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もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
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ぼくの家族は…内緒だよ!!
まりぃべる
児童書・童話
うちの家族は、ふつうとちょっと違うんだって。ぼくには良く分からないけど、友だちや知らない人がいるところでは力を隠さなきゃならないんだ。本気で走ってはダメとか、ジャンプも手を抜け、とかいろいろ守らないといけない約束がある。面倒だけど、約束破ったら引っ越さないといけないって言われてるから面倒だけど仕方なく守ってる。
それでね、十二月なんて一年で一番忙しくなるからぼく、いやなんだけど。
そんなぼくの話、聞いてくれる?
☆まりぃべるの世界観です。楽しんでもらえたら嬉しいです。
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昨日の敵は今日のパパ!
波湖 真
児童書・童話
アンジュは、途方に暮れていた。
画家のママは行方不明で、慣れない街に一人になってしまったのだ。
迷子になって助けてくれたのは騎士団のおじさんだった。
親切なおじさんに面倒を見てもらっているうちに、何故かこの国の公爵様の娘にされてしまった。
私、そんなの困ります!!
アンジュの気持ちを取り残したまま、公爵家に引き取られ、そこで会ったのは超不機嫌で冷たく、意地悪な人だったのだ。
家にも帰れず、公爵様には嫌われて、泣きたいのをグッと我慢する。
そう、画家のママが戻って来るまでは、ここで頑張るしかない!
アンジュは、なんとか公爵家で生きていけるのか?
どうせなら楽しく過ごしたい!
そんな元気でちゃっかりした女の子の物語が始まります。
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