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第二部 絆ぐ伝説
第九話二三章 千年の会合
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気がついたとき――。
ロウワンは不可思議な空間に立っていた。
上もなく、下もなく、前もなければ後ろもない。
閉ざされた球体。
その内部。
そう言いたくなるような空間だった。
狭間の世界。
その一種であろうことはなんとなく想像できた。おそらくは、ロウワン、マークス、サライサ、それぞれの天命の要素が共鳴しあうことで、一時的に狭間の世界に似た世界を作りあげたのだろう。
そして、そこにはロウワンと、ふたりの人間がいた。
ひとりは、鍛え抜かれた肉体と重厚な風貌のなかに限りない誠実さを感じさせる騎士。
ひとりは、猛々しいまでに燃えさかる誇りをその胸に宿した王女。
騎士マークスと王女サライサ。
そのふたりがいま、袂を分かった頃の若い姿のままで対峙していた。
「……マークス。マークス」
先に口を開いたのはサライサだった。マークスを見る目には底知れない怨念がギラギラと輝き、その顔はただただ人を憎む表情だけを刻み込まれた仮面のよう。
その全身からは恨みの念が靄となって立ちのぼり、辺りの空間を蜃気楼のように揺らめかせている。
そこにいたのはもはや、人類の歴史に深紅と黄金の文字で記された不滅の名君などではなかった。ただただ相手を憎みつづけるために生まれた自動人形。
妄執の鬼だった。
――千年に及ぶ孤独が、マークスに対する恨みだけで過ごした時間が、サライサ殿下をこんな狂気に囚われた存在にしてしまったのか。
ロウワンはそう思い、胸がしめつけられる思いがした。
こんなのはまちがっている。
悲しすぎる。
その思いが心のなかではじけた。
――救ってあげなくては。この人を。
胸の前でギュッと拳を握りしめながら、ロウワンはそう誓った。
「アアアアッ!」
叫んだ。
サライサが。
いや、憎悪と怨念に取り憑かれた妄執の鬼が。
その妄執がサライサの魂までも歪ませたのか、怨念に満ちた目は縦に引き裂かれんばかりに吊りあがり、指先には獣の爪が生え、口には無数の牙が並んでいた。
その姿のまま、サライサは飛んだ。マークスに襲いかかった。その目を怨念の色ただ一色に染めあげて。かぎ爪の生えた手を振りあげ、牙だらけの口を限界まで開きながら。
マークスは動かなかった。サライサの怨念を甘んじて受けようとしているかのように。
動いたのはロウワンだった。とっさにマークス前に飛び出すと、自らの身でサライサを受けとめた。
「ダメだ!」
ロウワンはサライサの身を受けとめながら叫んだ。
「ダメだ、サライサ殿下! マークスの魂を八つ裂きにしたところで、あなたは救われたりしない!」
あくまでもマークスに襲いかかろうとするサライサを必死に押さえながらロウワンは叫ぶ。それは一見、肉体同士のぶつかり合いに見える。人と人の争いのように。
しかし、その実はちがう。それは、形をもった魂同士の争い。ロウワンとサライサ。ふたりの魂そのものが直接、ぶつかり合っているのだ。
「サライサ殿下、思い出してください! あなたがなぜ、天命の理となってまでマークスを追いかけようとしたのか。それは決して、憎悪や怨念のためなんかじゃなかったはずだ。愛していたから、マークスを愛していたからこそ、かの人の行いが許せず、千年の時を超えて追いかけつづけた。そのはずだ。だったら、憎悪や怨念をぶつけたってなんにもならない。あなた自身の心をぶつけなければ……」
ロウワンはいったん、言葉を切った。それから、改めて語りかけた。
「サライサ殿下。あなたの思いはわかるつもりです。おれも、おれの妻を千年後まで追いかけるために天命の核をこの身に宿した。あなたと同じことをした。だから、あなたの思いもわかる。あなたの思いはあくまでもマークスと添い遂げること。その一点にあるはずだ!」
ロウワンはありったけの思いを込めてサライサに語りかけた。それは、魂そのものの叫び。ロウワンのあらゆる思いを込めた言葉だった。
「サライサ殿下」
ロウワンとは対照的な、静かな声がした。
マークスだった。それまで黙って立っていたマークスがはじめて、口を開いていた。
「私は、いや、おれはこの千年間、あなたから逃げてきました。この千年間、あなたとはこの海のなかで何度となく出会った。海の雌牛。そう呼ばれる存在の正体があなたであることはすぐにわかった。それを承知の上で、いえ、承知の上だからこそ、おれはあなたの前に立つことができなかった……」
情けない男です。
マークスは、自らのことをそうさげすんだ。
「かつて、あなたが言ったように、おれは戦場でしか役に立たない人間なのでしょう。あなたとまともに向きあう勇気すらもてなかった。天命の巫女さまを連れて逃げたのも結局は、天命の巫女さまを利用して英雄としての肩書きから逃れたかっただけなのかも知れない。その結果としてあなたの思いを裏切り、あなたの誇りに生涯、消えない傷を残してしまった。そのことに関しては謝罪のしようもありません。言い訳する気もない。あなたにはおれに復讐する権利がある。報いを与える権利がある。ですが、それでも、サライサ殿下……」
マークスはロウワンの腕のなかでなおも暴れるサライサに向かい、静かに言った。
「いま、あなたの爪にかかり、この魂を引き裂かれるわけにはいかない。理由はどうあれ、おれは天命の巫女さまの騎士となることを選んだ。そして、天命の巫女さまはいまもまだ、おれとともにこの船にいる。この世界を守るために天命の曲を奏でつづけている。ロウワンの妻、メリッサとひとつになって。
おれは天命の巫女さまとメリッサとを守らなければならない。それがおれの、騎士マークスの最後の使命。だから、サライサ殿下。いま少し、まってほしい。天命の巫女さまがその使命から解放され、人間に戻るその日まで。その時がくれば、おれの騎士としての役目も終わる。そのときこそ、あなたとの決着をつけます」
「おれからもお願いします、サライサ殿下」
サライサを押さえながらロウワンも言った。
哀しみを込めた哀願だった。
「千年後、おれたちはきっと、この世界の滅びの定めを覆す。亡道の司との戦いを終わらせる。そうなれば、天命の巫女さまも人間に戻れる。そうなればあなたは、マークスとの時を得られる。千年前に得ることのできなかった、マークスとともに過ごす時を」
「サライサ殿下」と、マークス。
「ロウワンの言うとおりです。すでに千年もの間、孤独に苦しんできたあなたにこんなことを言うのは心苦しい。それでも、あえて言います。もう千年、まってください。ロウワンとその仲間たちなら必ず、千年ののちに滅びの定めを覆してくれる。天命の巫女さまを人間に戻してくれる。そのときにはもう、あなたから逃げません。あなたと向き合い、決着をつけます。おれの騎士としての誇りに懸けて約束します。ですから、サライサ殿下。もう一度、千年の時を過ごしてください」
怨ッ……。
サライサの口からその言葉がもれた。
怨怨怨怨ッ……。
その声を響かせながら、サライサの姿が消えていった。小さくなり、薄くなり、やがて、完全に視界から消え失せた。
「……サライサ殿下」
――わかってくれたのか?
それは――。
ロウワンにも、マークスにもわからないことだった。
ロウワンは不可思議な空間に立っていた。
上もなく、下もなく、前もなければ後ろもない。
閉ざされた球体。
その内部。
そう言いたくなるような空間だった。
狭間の世界。
その一種であろうことはなんとなく想像できた。おそらくは、ロウワン、マークス、サライサ、それぞれの天命の要素が共鳴しあうことで、一時的に狭間の世界に似た世界を作りあげたのだろう。
そして、そこにはロウワンと、ふたりの人間がいた。
ひとりは、鍛え抜かれた肉体と重厚な風貌のなかに限りない誠実さを感じさせる騎士。
ひとりは、猛々しいまでに燃えさかる誇りをその胸に宿した王女。
騎士マークスと王女サライサ。
そのふたりがいま、袂を分かった頃の若い姿のままで対峙していた。
「……マークス。マークス」
先に口を開いたのはサライサだった。マークスを見る目には底知れない怨念がギラギラと輝き、その顔はただただ人を憎む表情だけを刻み込まれた仮面のよう。
その全身からは恨みの念が靄となって立ちのぼり、辺りの空間を蜃気楼のように揺らめかせている。
そこにいたのはもはや、人類の歴史に深紅と黄金の文字で記された不滅の名君などではなかった。ただただ相手を憎みつづけるために生まれた自動人形。
妄執の鬼だった。
――千年に及ぶ孤独が、マークスに対する恨みだけで過ごした時間が、サライサ殿下をこんな狂気に囚われた存在にしてしまったのか。
ロウワンはそう思い、胸がしめつけられる思いがした。
こんなのはまちがっている。
悲しすぎる。
その思いが心のなかではじけた。
――救ってあげなくては。この人を。
胸の前でギュッと拳を握りしめながら、ロウワンはそう誓った。
「アアアアッ!」
叫んだ。
サライサが。
いや、憎悪と怨念に取り憑かれた妄執の鬼が。
その妄執がサライサの魂までも歪ませたのか、怨念に満ちた目は縦に引き裂かれんばかりに吊りあがり、指先には獣の爪が生え、口には無数の牙が並んでいた。
その姿のまま、サライサは飛んだ。マークスに襲いかかった。その目を怨念の色ただ一色に染めあげて。かぎ爪の生えた手を振りあげ、牙だらけの口を限界まで開きながら。
マークスは動かなかった。サライサの怨念を甘んじて受けようとしているかのように。
動いたのはロウワンだった。とっさにマークス前に飛び出すと、自らの身でサライサを受けとめた。
「ダメだ!」
ロウワンはサライサの身を受けとめながら叫んだ。
「ダメだ、サライサ殿下! マークスの魂を八つ裂きにしたところで、あなたは救われたりしない!」
あくまでもマークスに襲いかかろうとするサライサを必死に押さえながらロウワンは叫ぶ。それは一見、肉体同士のぶつかり合いに見える。人と人の争いのように。
しかし、その実はちがう。それは、形をもった魂同士の争い。ロウワンとサライサ。ふたりの魂そのものが直接、ぶつかり合っているのだ。
「サライサ殿下、思い出してください! あなたがなぜ、天命の理となってまでマークスを追いかけようとしたのか。それは決して、憎悪や怨念のためなんかじゃなかったはずだ。愛していたから、マークスを愛していたからこそ、かの人の行いが許せず、千年の時を超えて追いかけつづけた。そのはずだ。だったら、憎悪や怨念をぶつけたってなんにもならない。あなた自身の心をぶつけなければ……」
ロウワンはいったん、言葉を切った。それから、改めて語りかけた。
「サライサ殿下。あなたの思いはわかるつもりです。おれも、おれの妻を千年後まで追いかけるために天命の核をこの身に宿した。あなたと同じことをした。だから、あなたの思いもわかる。あなたの思いはあくまでもマークスと添い遂げること。その一点にあるはずだ!」
ロウワンはありったけの思いを込めてサライサに語りかけた。それは、魂そのものの叫び。ロウワンのあらゆる思いを込めた言葉だった。
「サライサ殿下」
ロウワンとは対照的な、静かな声がした。
マークスだった。それまで黙って立っていたマークスがはじめて、口を開いていた。
「私は、いや、おれはこの千年間、あなたから逃げてきました。この千年間、あなたとはこの海のなかで何度となく出会った。海の雌牛。そう呼ばれる存在の正体があなたであることはすぐにわかった。それを承知の上で、いえ、承知の上だからこそ、おれはあなたの前に立つことができなかった……」
情けない男です。
マークスは、自らのことをそうさげすんだ。
「かつて、あなたが言ったように、おれは戦場でしか役に立たない人間なのでしょう。あなたとまともに向きあう勇気すらもてなかった。天命の巫女さまを連れて逃げたのも結局は、天命の巫女さまを利用して英雄としての肩書きから逃れたかっただけなのかも知れない。その結果としてあなたの思いを裏切り、あなたの誇りに生涯、消えない傷を残してしまった。そのことに関しては謝罪のしようもありません。言い訳する気もない。あなたにはおれに復讐する権利がある。報いを与える権利がある。ですが、それでも、サライサ殿下……」
マークスはロウワンの腕のなかでなおも暴れるサライサに向かい、静かに言った。
「いま、あなたの爪にかかり、この魂を引き裂かれるわけにはいかない。理由はどうあれ、おれは天命の巫女さまの騎士となることを選んだ。そして、天命の巫女さまはいまもまだ、おれとともにこの船にいる。この世界を守るために天命の曲を奏でつづけている。ロウワンの妻、メリッサとひとつになって。
おれは天命の巫女さまとメリッサとを守らなければならない。それがおれの、騎士マークスの最後の使命。だから、サライサ殿下。いま少し、まってほしい。天命の巫女さまがその使命から解放され、人間に戻るその日まで。その時がくれば、おれの騎士としての役目も終わる。そのときこそ、あなたとの決着をつけます」
「おれからもお願いします、サライサ殿下」
サライサを押さえながらロウワンも言った。
哀しみを込めた哀願だった。
「千年後、おれたちはきっと、この世界の滅びの定めを覆す。亡道の司との戦いを終わらせる。そうなれば、天命の巫女さまも人間に戻れる。そうなればあなたは、マークスとの時を得られる。千年前に得ることのできなかった、マークスとともに過ごす時を」
「サライサ殿下」と、マークス。
「ロウワンの言うとおりです。すでに千年もの間、孤独に苦しんできたあなたにこんなことを言うのは心苦しい。それでも、あえて言います。もう千年、まってください。ロウワンとその仲間たちなら必ず、千年ののちに滅びの定めを覆してくれる。天命の巫女さまを人間に戻してくれる。そのときにはもう、あなたから逃げません。あなたと向き合い、決着をつけます。おれの騎士としての誇りに懸けて約束します。ですから、サライサ殿下。もう一度、千年の時を過ごしてください」
怨ッ……。
サライサの口からその言葉がもれた。
怨怨怨怨ッ……。
その声を響かせながら、サライサの姿が消えていった。小さくなり、薄くなり、やがて、完全に視界から消え失せた。
「……サライサ殿下」
――わかってくれたのか?
それは――。
ロウワンにも、マークスにもわからないことだった。
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