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第二部 絆ぐ伝説
第九話一〇章 メリッサ、どこだ⁉
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そこは、奇妙な空間だった。
世界そのものが『闇』と言うには妙にほの明るく灰色がかった、そう『灰闇』とでも呼びたくるなる色合いに包まれている。
そのなかにロウワンとメリッサのふたりだけが存在していた。本来ならば目の前も見えないような灰闇のなかで、お互いの姿だけは日の光の下のようにはっきりと見えているのもまた、奇妙なことだった。と言っても、
――ゼッヴォーカーの導師のやることなら不思議はないな。
そう納得できることでもあったが。
ふたり以外には、その空間にはなにもない。空もなく、地面もなく、なにかを踏みつけて立っている感触すらない。ただ支えもなく宙に浮いている。そうとしか思えない感覚だった。
ふたりが規則正しく繰り返す呼吸音以外には音すらも存在しない。
そう思えた。
そのなかでただ、ふたりの足元からまっすぐにかすかな光を放つ道が伸びていた。その道は目をこらして前を見つめてみても、どこまでも果てしなくつづいているようかのよう。そして、その先。はるか先にはやはり、ボンヤリとした光の門があった。
「これは……ここが試練の場?」
ロウワンが呟くと、メリッサも言った。
「あのボンヤリと光っている門。あそこまで行けということかしら?」
「説明しよう、若き人間よ。まさにその通りだ」
急に、頭のなかでゼッヴォーカーの導師の声がした。どうやってかはわからないが頭のなかに直接、声を届けているらしい。ふたりとも、いまさらこの程度のことで驚きはしなかったけれど。
ゼッヴォーカーの導師はつづけた。
「説明しよう、若き人間よ。これがそなたたちに課す試練だ。足元に見える道をまっすぐにたどり、前方に見える門にたどり着くこと。それができたなら、いま一度、人類に賭けてみることとしよう」
「門にたどり着く? それだけでいいの?」
メリッサが声に出して尋ねると、ゼッヴォーカーの導師の声が脳内に響いた。
「説明しよう、若き人間よ。もちろん『それだけ』ではない。制約はある。なにがあろうと途中で道をそれることも、引き返すことも許されない。ただひたすらに、道の上をまっすぐに進むのだ。そして、最初に一歩を踏み出したからには一切の声を出してはならない。門にたどり着き、くぐり抜けるまでの間、呼吸音以外のいかなる音も立ててはならない。無言のままに進み、門をくぐるのだ。それが、成功の条件だ」
「わかりました」
ロウワンが言った。決意を込めた表情でうなずいた。
「行こう、メリッサ。なんとしてもゼッヴォーカーの導師に、いや、おれたちの先輩たちに認めてもらうんだ」
「ええ」
と、メリッサもロウワンに劣らない決意を込めた表情でうなずいた。
そして、ふたりの若き夫婦はそろって一歩を踏み出した。未来を手に入れるための最初の一歩。その一歩を踏み出したからにはもうなにも話せない。音は出せない。出していいのは呼吸音だけ。
――足音はいいのか?
そう思ったが、それはよけいな心配だった。ふたりは地面の上を歩いているのではない。こうして足を動かして歩いてはいても、靴底からはなんの感触も伝わってこない。宙に浮いて、宙を歩いているとしか思えなかった。足音の立つ心配は最初からなかった。
灰闇の空間のなかを、ふたりは並んで歩く。
歩きつづける。
いったい、どれほどの時間を歩きつづけているのだろう。
最初の一歩を踏み出してから、すでに恐ろしく長い時間がたっているような気がする。この不思議な空間のなかではいくら時間がたとうとも喉も渇かず、腹も減らず、排泄の欲求もない。疲れもない。歩きつづけることそれ自体に問題はない。しかし――。
――全然、門に近づいたように見えないな。
ロウワンは心のなかでそう思った。
もういやになるほど歩いてきているというのに、前方にほのかに見える光の門は最初の頃と同じ距離感の向こう。ちっともかわらない距離に隔てられているように思える。
――錯覚か。あまりにも遠くにあるために、近づいているように見えないのか。それとも、門の方もおれたちが歩いただけ遠くに行っているのか。
だとすれば、いくら歩いてもたどり着くことはおろか、近づくことすらできないことになる。
――だけど、これは試練だ。できないことをやらせるはずがない。ゼッヴォーカーの導師は『覚悟を証明しろ』と言った。だとすればこれは、おれたちがいくら時間がかかってもあきらめることなく、目的に向かって歩いて行けるかを確かめるための試練だ。そのために、わざと門が近づいているように感じられないよう細工してあるんだろう。目的地が見えているのにちっとも近づけない。それを実際に見せることでおれたちの心を折るために。
ロウワンはそう判断した。
ならば、話は簡単だ。歩きつづければいい。恐らく、ここで問題になるのは距離ではない。時間だ。一定の時間、あきらめることなく歩きつづけていれば、たどり着くことができる。そういう仕掛けなのだ。
そうとわかるとロウワンの胸のなかで闘志の炎がメラメラと燃えあがった。
――人間を舐めないでもらおう。ゼッヴォーカーの導師よ。先輩種族たちよ。どれだけの時間がかかろうとおれたちはあきらめはしない。何十年、何百年の時がかかろうと歩きつづけ、最後には必ず目的地にたどり着く。そのことを証明してみせる。そうだろう、メリッサ?
ロウワンは横を向いた。並んで歩く結婚したばかりの妻の姿を求めた。メリッサの姿は――。
どこにもなかった。
「メリッサ?」
思わず、そう呟いてしまいそうになり、ロウワンはあわてて口を手でふさいだ。
――あ、危なかった。つい、声に出してしまうところだった。
額に一筋の冷や汗が流れる。
それぐらい、危ないところだった。
ロウワンは立ちどまった。まちがって声をもらしてしまわないよう手で口をふさいだまま、妻の姿を求めて視線をさ迷わせた。メリッサの姿は――。
どこにもない。
――これは……どういうことだ? これも試練のひとつなのか?
それとも……それとも、なにかの手違いが起きたのだろうか。ゼッヴォーカーの導師も予想していなかった事態が起きて、メリッサだけがどこかに行ってしまったのだろうか?
そう思うと、いてもたってもいられない不安がロウワンの心のなかに渦巻いた。このまま絶叫して妻の姿を求めてメチャクチャに探しまわりたい衝動に駆られた。
――まて! まつんだ、落ちつけ!
ロウワンは必死に自分を制した。思いきり叱咤して、いまにも勝手な方向に向かおうとする足をその場に押しつけた。強靱な根を伸ばして、地面にそびえ立つ樹木のように。
――音を立てるな。道をそれるな。引き返すな。ゼッヴォーカーの導師はそう言った。だけど『立ちどまるな』とは言っていない。このままこうして立ちどまっていても失格にはならないはずだ。考えろ。うかつに動く前に考えるんだ。
――ここは、ゼッヴォーカーの導師たちが作りあげた人工の空間。ゼッヴォーカーの導師たちは、この世界のすべてを制御しているはずだ。だったら、予想しない事態が起きるなんてまず考えられない。これも、試練のひとつ。そう考えた方がいい。つまり、おれがメリッサを見失っても最初の条件通り、声も出さず、道もそれず、引き返しもせず、まっすぐに目的地に向かって歩きつづけるかどうか。それを見ているんだ。
ロウワンはそう判断した。しかし――。
――本当にそうか? 逆じゃないのか? 目的を放り出してでも大切な人を探す。それができるかどうかを見ているんじゃないのか?
――物語のなかではよくある話じゃないか。まっすぐ目的地に向かうよう指示しておいてその実、仲間を危険にさらして、その仲間を救いに行かなければ失格……なんて。だとすれば、メリッサを探しに行かなければ失格ということになる。でも……。
相手はゼッヴォーカーの導師。人と同じように話はできても人ではない。人ならざる存在であるゼッヴォーカーの導師がそんな、人間のような試練を課すだろうか?
ここはやはり、目的地を目指すのが正解なのでは?
そうとも思う。どちらが正解なのかわからない。どうすれば、ゼッヴォーカーの導師の心に叶うのか。
それがわからずに、ロウワンはその場から動けなくなった。ただ黙って立ち尽くしていた。やがて、ロウワンは激しくかぶりを振った。
――ちがう、ちがうぞ、ロウワン! おれは、なんのために試練を受けた? おれを、人類という存在をゼッヴォーカーの導師に、先輩種族たちに信じてもらうためだ。相手の腹を探り、相手の思う通りに行動してなんの意味がある? そうじゃない。そうではなく、おれ自身の行動で信用を勝ちとるんだ。
――そうだ。ゼッヴォーカーの導師がどう考えているのかなんて関係ない。おれがどう行動したいかだ。問題はただ、それだけなんだ。
ロウワンはそう自分に言い聞かせた。だけど、もし、自分の望む通りに行動してゼッヴォーカーの導師を失望させてしまったら? 協力を得られないことになってしまったら?
――そのときはそのときだ。おれたちだけで亡道の司との戦いを勝ち抜くだけだ。
ロウワンはそう心定めた。肚の底から決意を固めた。そして、なにも考えず、自分の心に忠実に行動した。まっすぐに前を向き、一言ももらすことなく光の門を目指して歩きだしたのだ。
本当に、どれだけの間、歩きつづけていたのだろう。
メリッサの姿が見えなくなるまでの数倍もの時間と距離を、歩きつづけているような気がする。そのだけの長い時間、長い距離を、ロウワンはこの灰闇の世界のなか、たったひとりで歩きつづけていた。
――たったひとり? 馬鹿を言え。おれのどこがひとりだ。おれには多くの仲間がいる。ビーブがいて、トウナがいて、野伏がいて、行者がいて、プリンスがいて、〝ブレスト〟・ザイナブがいて、セシリアやハーミド、レディ・アホウタだっている。皆みんな、未来を得るために自分の為すべきことを全力で成し遂げようとしている。だったら、おれもそうする。皆と未来を手に入れるためにやり抜くだけだ。
――おれはひとりじゃない。
そう心につぶやき、歩きつづける。
気がついたとき、ロウワンの目の前に光の門があった。いつの間にか、無限とも思える道を踏破していたのだ。そして――。
ロウワンの隣には得たばかりの妻、メリッサの姿があった。
メリッサが自分を見ている。その瞳のなかに例えようもないほどの安堵の色が浮かんでいる。その瞳を見たとき、ロウワンは知った。メリッサもまた、ロウワンの姿を見失いながらも道を歩きつづけ、ここまでやってきたのだと言うことに。
――やっぱりだ。おれは正しかった。
ロウワンはうなずいた。まったく同時にメリッサもうなずいていた。それが偶然などではないことを、ロウワンは知っていた。
ふたりは並んだ。手と手を握りあった。そして、光の門をくぐった。
突如として世界が色を取り戻した。
太陽の輝く青い空が、緑に包まれた大地が目の前に広がっていた。なにもない灰闇の空間を歩きつづけていただけにひときわ鮮烈な、それは光景だった。
そして、目の前にはゼッヴォーカーの導師。その後ろには七体の先行種族たちが並んでいる。
「説明しよう、若き人間よ」
ゼッヴォーカーの導師がステンドグラスのような顔面を明滅させながら言った。その明滅の仕方は以前のような不規則で乱暴なものではなかった。規則的で落ちついたものだった。
「試練は終わった。ここからはもう声を出してもよい」
「ありがとうございます。ゼッヴォーカーの導師」
ロウワンは礼儀正しく頭をさげた。
チカチカと、ゼッヴォーカーの導師の顔面がいままでとはちがう明滅の仕方を繰り返した。
「説明してもらおう、若き人間よ。君たちはなぜ、お互いの姿が見えなくなっても相手を探すことなくまっすぐに歩きつづけた?」
ロウワンにはその答えに対して迷う必要などなかった。はっきりと答えた。
「信じていましたから」
「信じていた?」
「はい。たとえ、離ればなれになろうとも、たとえ、なにがあろうとも、メリッサなら必ず、同じ場所を目指して歩きつづける。目的地に着けば必ず出会える。そう信じていたからです」
「説明してもらおう、若き人間よ。君たちは、それほどに他の人間を信じることができるのか?」
「もちろん」
と、今度はメリッサが答えた。ロウワンに劣らない、一切の迷いがない表情だった。
「自分の思いを他の誰かに託すことができる。それこそが、わたしたち人類の最大の力なのだから」
「その通りです」
ロウワンも言葉をつないだ。
「騎士マークスの最後の言葉。
『あとにつづくを信ず』
その言葉、その思いはおれが受け継ぎました。そして、おれ自身、同じ思いを仲間たちに託してきた。たとえ、おれたちが目的を達成できなかったとしても、おれたちの思いを受け継ぐ人間は必ず表れる。そして、いつか、実現してくれる。そう確信できるからこそ言えるんです。次の戦いまでは必ず、滅びの定めを覆すだけの準備を整えてみせると」
はっきりと――。
一切の迷いも、ためらいも、恥じらくもなくそう言いきるその姿。それはまさに『全人類の代表』として誇ることのできる姿だった。
「……説明しよう、若き人間よ」
ゼッヴォーカーの導師が言った。ステンドグラスのような顔面がまるで泣いているかのように静かに明滅を繰り返している。
「私はいま、大いなる感銘を受けている。このような感銘を受けたのは千年前、騎士マークスに出会ったとき以来だ。説明しよう、若き人間よ。人類はやはり偉大なる種族だった。私はいま、そう感動している」
「では、ゼッヴォーカーの導師……」
「説明しよう人間よ。我らはいま一度、人類を信じよう。今回の戦いにおいて、我々にできる限りの協力をすることを誓おう」
世界そのものが『闇』と言うには妙にほの明るく灰色がかった、そう『灰闇』とでも呼びたくるなる色合いに包まれている。
そのなかにロウワンとメリッサのふたりだけが存在していた。本来ならば目の前も見えないような灰闇のなかで、お互いの姿だけは日の光の下のようにはっきりと見えているのもまた、奇妙なことだった。と言っても、
――ゼッヴォーカーの導師のやることなら不思議はないな。
そう納得できることでもあったが。
ふたり以外には、その空間にはなにもない。空もなく、地面もなく、なにかを踏みつけて立っている感触すらない。ただ支えもなく宙に浮いている。そうとしか思えない感覚だった。
ふたりが規則正しく繰り返す呼吸音以外には音すらも存在しない。
そう思えた。
そのなかでただ、ふたりの足元からまっすぐにかすかな光を放つ道が伸びていた。その道は目をこらして前を見つめてみても、どこまでも果てしなくつづいているようかのよう。そして、その先。はるか先にはやはり、ボンヤリとした光の門があった。
「これは……ここが試練の場?」
ロウワンが呟くと、メリッサも言った。
「あのボンヤリと光っている門。あそこまで行けということかしら?」
「説明しよう、若き人間よ。まさにその通りだ」
急に、頭のなかでゼッヴォーカーの導師の声がした。どうやってかはわからないが頭のなかに直接、声を届けているらしい。ふたりとも、いまさらこの程度のことで驚きはしなかったけれど。
ゼッヴォーカーの導師はつづけた。
「説明しよう、若き人間よ。これがそなたたちに課す試練だ。足元に見える道をまっすぐにたどり、前方に見える門にたどり着くこと。それができたなら、いま一度、人類に賭けてみることとしよう」
「門にたどり着く? それだけでいいの?」
メリッサが声に出して尋ねると、ゼッヴォーカーの導師の声が脳内に響いた。
「説明しよう、若き人間よ。もちろん『それだけ』ではない。制約はある。なにがあろうと途中で道をそれることも、引き返すことも許されない。ただひたすらに、道の上をまっすぐに進むのだ。そして、最初に一歩を踏み出したからには一切の声を出してはならない。門にたどり着き、くぐり抜けるまでの間、呼吸音以外のいかなる音も立ててはならない。無言のままに進み、門をくぐるのだ。それが、成功の条件だ」
「わかりました」
ロウワンが言った。決意を込めた表情でうなずいた。
「行こう、メリッサ。なんとしてもゼッヴォーカーの導師に、いや、おれたちの先輩たちに認めてもらうんだ」
「ええ」
と、メリッサもロウワンに劣らない決意を込めた表情でうなずいた。
そして、ふたりの若き夫婦はそろって一歩を踏み出した。未来を手に入れるための最初の一歩。その一歩を踏み出したからにはもうなにも話せない。音は出せない。出していいのは呼吸音だけ。
――足音はいいのか?
そう思ったが、それはよけいな心配だった。ふたりは地面の上を歩いているのではない。こうして足を動かして歩いてはいても、靴底からはなんの感触も伝わってこない。宙に浮いて、宙を歩いているとしか思えなかった。足音の立つ心配は最初からなかった。
灰闇の空間のなかを、ふたりは並んで歩く。
歩きつづける。
いったい、どれほどの時間を歩きつづけているのだろう。
最初の一歩を踏み出してから、すでに恐ろしく長い時間がたっているような気がする。この不思議な空間のなかではいくら時間がたとうとも喉も渇かず、腹も減らず、排泄の欲求もない。疲れもない。歩きつづけることそれ自体に問題はない。しかし――。
――全然、門に近づいたように見えないな。
ロウワンは心のなかでそう思った。
もういやになるほど歩いてきているというのに、前方にほのかに見える光の門は最初の頃と同じ距離感の向こう。ちっともかわらない距離に隔てられているように思える。
――錯覚か。あまりにも遠くにあるために、近づいているように見えないのか。それとも、門の方もおれたちが歩いただけ遠くに行っているのか。
だとすれば、いくら歩いてもたどり着くことはおろか、近づくことすらできないことになる。
――だけど、これは試練だ。できないことをやらせるはずがない。ゼッヴォーカーの導師は『覚悟を証明しろ』と言った。だとすればこれは、おれたちがいくら時間がかかってもあきらめることなく、目的に向かって歩いて行けるかを確かめるための試練だ。そのために、わざと門が近づいているように感じられないよう細工してあるんだろう。目的地が見えているのにちっとも近づけない。それを実際に見せることでおれたちの心を折るために。
ロウワンはそう判断した。
ならば、話は簡単だ。歩きつづければいい。恐らく、ここで問題になるのは距離ではない。時間だ。一定の時間、あきらめることなく歩きつづけていれば、たどり着くことができる。そういう仕掛けなのだ。
そうとわかるとロウワンの胸のなかで闘志の炎がメラメラと燃えあがった。
――人間を舐めないでもらおう。ゼッヴォーカーの導師よ。先輩種族たちよ。どれだけの時間がかかろうとおれたちはあきらめはしない。何十年、何百年の時がかかろうと歩きつづけ、最後には必ず目的地にたどり着く。そのことを証明してみせる。そうだろう、メリッサ?
ロウワンは横を向いた。並んで歩く結婚したばかりの妻の姿を求めた。メリッサの姿は――。
どこにもなかった。
「メリッサ?」
思わず、そう呟いてしまいそうになり、ロウワンはあわてて口を手でふさいだ。
――あ、危なかった。つい、声に出してしまうところだった。
額に一筋の冷や汗が流れる。
それぐらい、危ないところだった。
ロウワンは立ちどまった。まちがって声をもらしてしまわないよう手で口をふさいだまま、妻の姿を求めて視線をさ迷わせた。メリッサの姿は――。
どこにもない。
――これは……どういうことだ? これも試練のひとつなのか?
それとも……それとも、なにかの手違いが起きたのだろうか。ゼッヴォーカーの導師も予想していなかった事態が起きて、メリッサだけがどこかに行ってしまったのだろうか?
そう思うと、いてもたってもいられない不安がロウワンの心のなかに渦巻いた。このまま絶叫して妻の姿を求めてメチャクチャに探しまわりたい衝動に駆られた。
――まて! まつんだ、落ちつけ!
ロウワンは必死に自分を制した。思いきり叱咤して、いまにも勝手な方向に向かおうとする足をその場に押しつけた。強靱な根を伸ばして、地面にそびえ立つ樹木のように。
――音を立てるな。道をそれるな。引き返すな。ゼッヴォーカーの導師はそう言った。だけど『立ちどまるな』とは言っていない。このままこうして立ちどまっていても失格にはならないはずだ。考えろ。うかつに動く前に考えるんだ。
――ここは、ゼッヴォーカーの導師たちが作りあげた人工の空間。ゼッヴォーカーの導師たちは、この世界のすべてを制御しているはずだ。だったら、予想しない事態が起きるなんてまず考えられない。これも、試練のひとつ。そう考えた方がいい。つまり、おれがメリッサを見失っても最初の条件通り、声も出さず、道もそれず、引き返しもせず、まっすぐに目的地に向かって歩きつづけるかどうか。それを見ているんだ。
ロウワンはそう判断した。しかし――。
――本当にそうか? 逆じゃないのか? 目的を放り出してでも大切な人を探す。それができるかどうかを見ているんじゃないのか?
――物語のなかではよくある話じゃないか。まっすぐ目的地に向かうよう指示しておいてその実、仲間を危険にさらして、その仲間を救いに行かなければ失格……なんて。だとすれば、メリッサを探しに行かなければ失格ということになる。でも……。
相手はゼッヴォーカーの導師。人と同じように話はできても人ではない。人ならざる存在であるゼッヴォーカーの導師がそんな、人間のような試練を課すだろうか?
ここはやはり、目的地を目指すのが正解なのでは?
そうとも思う。どちらが正解なのかわからない。どうすれば、ゼッヴォーカーの導師の心に叶うのか。
それがわからずに、ロウワンはその場から動けなくなった。ただ黙って立ち尽くしていた。やがて、ロウワンは激しくかぶりを振った。
――ちがう、ちがうぞ、ロウワン! おれは、なんのために試練を受けた? おれを、人類という存在をゼッヴォーカーの導師に、先輩種族たちに信じてもらうためだ。相手の腹を探り、相手の思う通りに行動してなんの意味がある? そうじゃない。そうではなく、おれ自身の行動で信用を勝ちとるんだ。
――そうだ。ゼッヴォーカーの導師がどう考えているのかなんて関係ない。おれがどう行動したいかだ。問題はただ、それだけなんだ。
ロウワンはそう自分に言い聞かせた。だけど、もし、自分の望む通りに行動してゼッヴォーカーの導師を失望させてしまったら? 協力を得られないことになってしまったら?
――そのときはそのときだ。おれたちだけで亡道の司との戦いを勝ち抜くだけだ。
ロウワンはそう心定めた。肚の底から決意を固めた。そして、なにも考えず、自分の心に忠実に行動した。まっすぐに前を向き、一言ももらすことなく光の門を目指して歩きだしたのだ。
本当に、どれだけの間、歩きつづけていたのだろう。
メリッサの姿が見えなくなるまでの数倍もの時間と距離を、歩きつづけているような気がする。そのだけの長い時間、長い距離を、ロウワンはこの灰闇の世界のなか、たったひとりで歩きつづけていた。
――たったひとり? 馬鹿を言え。おれのどこがひとりだ。おれには多くの仲間がいる。ビーブがいて、トウナがいて、野伏がいて、行者がいて、プリンスがいて、〝ブレスト〟・ザイナブがいて、セシリアやハーミド、レディ・アホウタだっている。皆みんな、未来を得るために自分の為すべきことを全力で成し遂げようとしている。だったら、おれもそうする。皆と未来を手に入れるためにやり抜くだけだ。
――おれはひとりじゃない。
そう心につぶやき、歩きつづける。
気がついたとき、ロウワンの目の前に光の門があった。いつの間にか、無限とも思える道を踏破していたのだ。そして――。
ロウワンの隣には得たばかりの妻、メリッサの姿があった。
メリッサが自分を見ている。その瞳のなかに例えようもないほどの安堵の色が浮かんでいる。その瞳を見たとき、ロウワンは知った。メリッサもまた、ロウワンの姿を見失いながらも道を歩きつづけ、ここまでやってきたのだと言うことに。
――やっぱりだ。おれは正しかった。
ロウワンはうなずいた。まったく同時にメリッサもうなずいていた。それが偶然などではないことを、ロウワンは知っていた。
ふたりは並んだ。手と手を握りあった。そして、光の門をくぐった。
突如として世界が色を取り戻した。
太陽の輝く青い空が、緑に包まれた大地が目の前に広がっていた。なにもない灰闇の空間を歩きつづけていただけにひときわ鮮烈な、それは光景だった。
そして、目の前にはゼッヴォーカーの導師。その後ろには七体の先行種族たちが並んでいる。
「説明しよう、若き人間よ」
ゼッヴォーカーの導師がステンドグラスのような顔面を明滅させながら言った。その明滅の仕方は以前のような不規則で乱暴なものではなかった。規則的で落ちついたものだった。
「試練は終わった。ここからはもう声を出してもよい」
「ありがとうございます。ゼッヴォーカーの導師」
ロウワンは礼儀正しく頭をさげた。
チカチカと、ゼッヴォーカーの導師の顔面がいままでとはちがう明滅の仕方を繰り返した。
「説明してもらおう、若き人間よ。君たちはなぜ、お互いの姿が見えなくなっても相手を探すことなくまっすぐに歩きつづけた?」
ロウワンにはその答えに対して迷う必要などなかった。はっきりと答えた。
「信じていましたから」
「信じていた?」
「はい。たとえ、離ればなれになろうとも、たとえ、なにがあろうとも、メリッサなら必ず、同じ場所を目指して歩きつづける。目的地に着けば必ず出会える。そう信じていたからです」
「説明してもらおう、若き人間よ。君たちは、それほどに他の人間を信じることができるのか?」
「もちろん」
と、今度はメリッサが答えた。ロウワンに劣らない、一切の迷いがない表情だった。
「自分の思いを他の誰かに託すことができる。それこそが、わたしたち人類の最大の力なのだから」
「その通りです」
ロウワンも言葉をつないだ。
「騎士マークスの最後の言葉。
『あとにつづくを信ず』
その言葉、その思いはおれが受け継ぎました。そして、おれ自身、同じ思いを仲間たちに託してきた。たとえ、おれたちが目的を達成できなかったとしても、おれたちの思いを受け継ぐ人間は必ず表れる。そして、いつか、実現してくれる。そう確信できるからこそ言えるんです。次の戦いまでは必ず、滅びの定めを覆すだけの準備を整えてみせると」
はっきりと――。
一切の迷いも、ためらいも、恥じらくもなくそう言いきるその姿。それはまさに『全人類の代表』として誇ることのできる姿だった。
「……説明しよう、若き人間よ」
ゼッヴォーカーの導師が言った。ステンドグラスのような顔面がまるで泣いているかのように静かに明滅を繰り返している。
「私はいま、大いなる感銘を受けている。このような感銘を受けたのは千年前、騎士マークスに出会ったとき以来だ。説明しよう、若き人間よ。人類はやはり偉大なる種族だった。私はいま、そう感動している」
「では、ゼッヴォーカーの導師……」
「説明しよう人間よ。我らはいま一度、人類を信じよう。今回の戦いにおいて、我々にできる限りの協力をすることを誓おう」
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