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第二部 絆ぐ伝説
第八話一一章 歴史を語る
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パチパチと小さな音を立てて火が爆ぜている。
赤い炎が一時も姿をとどめることなく形をかえ、天を目指して踊り狂う。そのたびに、黄金色の火の粉があたり一面に飛び散っていく。
プリンスの送ってくれた補給隊が運んできてくれた燃料。その燃料を地面において小さな焚き火をしている。透明な白の結晶と化した大地の上で、真っ赤な炎が踊るように燃えさかるその様は、なんとも奇妙で、現実味がなく、そして――。
美しかった。
ロウワン、ビーブ、野伏、行者、メリッサ、ハーミド。
異界と化したパンゲア領を旅する六人はいま、小さな焚き火を囲んで車座に座り込み、食後の茶を飲んでいた。
「……この炎が、凍った時も溶かしてくれればいいのに」
ロウワンは思わずそう呟いていた。
まわりを見れば、その呟きも無理からぬものだったろう。そこは、旅の途中で見つけた小さな町。亡道の世界に冒される前であれば、豊かではないが人々が慎ましい日々を生きるごくごくありふれた町であったろう。
しかし、その面影はどこにもない。いま、この場にあるものは恐怖、そして、苦悶。町の人々があるいは他の人と、あるいは動物と、あるいは建物と、あるいは大地そのものと溶けあい、混じりあい、ひとつになろうとするその過程を切りとり、絵画としたかのように、透明な白の結晶と化してそこにいる。
結晶と化した人々の顔に浮かぶものは恐怖と苦悶。そして『なぜ?』という表情。自分たちを襲った理不尽に対する答えを求める表情だった。
「残念だけど……」
ロウワンの呟きに答えたのは、現代の天命の博士たるメリッサだった。
「凍った時が溶ければ、もっとひどいことになるわ。世界の融合が進み、完全に亡道の世界に呑み込まれてしまう」
そう語るメリッサの声にも、表情にも、自分の無力を罵る思いがあふれていた。
「……そうでしたね」
ロウワンは自分の唇を噛みしめながら言った。メリッサの気も知らず、うかつなことを口走った自分を責める表情だった。
メリッサは自分を罵る表情のままつづけた。
「くやしいけど、ここまで亡道の世界の侵食が進んでしまったら、わたしたちにはどうすることもできない。凍った時が溶ければ、亡道の世界に呑み込まれていくのを黙って見ているしかないわ。できることと言えばすべてを焼き払い、浄化することだけ」
そう語るメリッサの拳は、指が白くなるほど強く握りしめられている。
「すべてを焼き払うしかない、か」
ロウワンはメリッサに劣らないくやしさを込めて呟いた。
「千年前と同じだ。あのときも、亡道の世界に冒された部分はすべて焼き払い、浄化するしかなかった」
「ええ。わたしたちもそう聞いているわ。騎士マークスはそのために、亡道に冒された世界を救うために『もうひとつの輝き』を設立したっていうのに、わたしたちはそのための方法を見つけることができなかった」
千年ものときがあったのに。
メリッサは何重ものくやしさと無念とを込めて呟いた。はらわたをねじりあげ、絞り出すような声だった。
「あなたたちの責任じゃない。このときがくることがわかっていながら人と人の争いにかまけ、対策を立ててこなかった人類全体の責任です」
ロウワンは拳を握りしめながらそう答えた。
「……千年。千年ものときを正しく使っていれば、亡道の世界に対処する術は充分に開発できたはずなのに」
その言葉にはビーブや野伏はもちろん、いつもならなにかにつけて茶化すような発言をする行者でさえ、自慢のかんざし飾りを静かに揺らしながら沈黙をもって応えるしかなかった。
ただひとり、新聞記者のハーミドだけが口を開いた。
「それが、わからない。正直、おれ自身、亡道の司だの、亡道の世界の接近だの聞いても信じられなかった。しかし、このありさまを見れば信じるしかない。そこで、聞きたい。先人たちはなぜ、このありさまを語り継いでこなかった? このありさまを自分の目で見た人々にとってはとうてい忘れたり、目をそらしたりできるような出来事ではなかったはずだ。まして、千年後とはいえ再び、このときが来ることがわかっていたというならなおさらだ。この出来事を語り継ぎ、今度こそ、この事態から世界を守ろうとするはずだろう。それがなぜ、世界は、人類は、この出来事を忘れていた? 亡道の司と亡道の世界の接近に関して、忘れていた?」
「ハルキス先生は言っていたよ。都合が悪かったからだと」
「都合が悪かった?」
ロウワンの答えに、ハーミドはピクリと眉を吊りあげた。
「そうだ。復興が進むにつれて人と人、国と国とが争うようになった。そうなると、世界中の人間が、世界中の国が、協力して亡道の司に対したという歴史は邪魔になった。他国を侵略するためには理由が必要だ。その理由として最も簡単なのが『他の国は自分たちよりも劣っている。だから、自分たちが支配して幸せにしてやるのだ』というものだ。そう言って他国を侵略するためには『かつては、対等の立場で協力していた』という事実は邪魔なんだ。だから、人々はその記憶を捨てた。それが、ハルキス先生の説明だ」
「『もうひとつの輝き』には、こう伝えられているわ」
メリッサがロウワンにつづけて言った。
「千年前の戦いの際、奴隷は存在しなかった。生き残るためにすべての人間が力を合わせなければならず、奴隷だ、貴族だなんて言っている余裕はなかったから。でも、復興が進むと再び、奴隷と貴族という区分ができあがった。
人の世には『誰もやりたくないけど、誰かがやらなければならない仕事』がある。自分がやりたくないなら他人にやらせるしかない。そのために、もっとも効果的なのは『その仕事』にしかつけない家系を生みだすこと。つまり、奴隷階級を作り出すこと。そうして、復興後の世界には再び奴隷階級が生みだされた。自分のやりたくない仕事を他人に押しつける、そのために。
そして、奴隷階級を作り出すために作られた理屈が『奴隷は生まれつき能力が劣っている。自分ではまともな判断はできず、幸福な暮らしを送ることはできない。優れた人間に指示され、奴隷として使われる方が幸せなのだ』というもの。その理屈で奴隷制を正当化するためには『かつてはたしかに、奴隷も貴族もなく、すべての人間が対等の立場で協力して戦った』という事実は邪魔になる。そのために、その歴史を捨て去ったと」
「なんということだ!」
ロウワンとメリッサの言葉に、ハーミドは大袈裟に天を仰いで嘆いて見せた。いや、事態の深刻さを考えれば、そんな仕種でさえまだまだ足りなかったかも知れない。
「他国を侵略し、奴隷をもつ。そんなことのためにかくも重大な歴史を忘れ、対策を立てることを怠ったとは。そのために、このような被害が出たとは!」
「でもね」
今度は行者が口を開いた。いつもの、ちょっとばかり皮肉を込めたような言い方だった。
「人の世には結局、奴隷は必要なんだよ」
「奴隷制を擁護するのか?」
ロウワンが尋ねた。行者を見る目にはさすがに、少なからず責める意思がこもっていた。
行者は、そんな視線はどこ吹く風。むしろ、自分の方こそロウワンの浅い正義感を責めるようないかたで答えた。
「では、聞くけど、ロウワン。君は一日、二〇時間もぶっつづけで櫂を漕ぐ、なんていう、そんな人生を送りたいかい?」
「送りたいわけないだろう!」
ロウワンは叫んでいた。そんな暮らしがどれほど過酷で希望のないものかは、『実際に』そんな暮らしを強いられてきたプリンスから聞いて知っている。
行者はロウワンの叫びに対して答えた。その言い方は『辛辣』という現実を『茶化す』という幻想でくるんだようなものだった。
「でも、誰かがそうして櫂を漕ぎつづけなればガレー船は動かない。ガレー船が動かなければ海を越えた交易はできず、交易によって得られた生活水準を維持できない。それとも、ロウワン。君は赤の他人を奴隷労働から解放するために、自分の暮らしを捨て、劣悪な暮らしを受け入れるのかい?」
「それは……」
ロウワンは思わず絶句した。
そんなロウワンを前に野伏が言った。
「できない。ここははっきりそう言うべきだろうな。言葉を濁すのは卑怯というものだ」
行者はうなずいた。ロウワンは一言もなかった。行者はさらにつづけた。
「その通り。他人のために自分の生活水準を落とすなんてできるものじゃない。誰かが、ガレー船を漕ぎつづけなくてはいけないんだ。そして、自分や、自分の子どもにそれをさせたくないなら、他人の子どもにやらせるしかない。そのためには、その仕事にしか就けない家系がいる。つまり、奴隷がね。奴隷をなくす。そんな掛け声をいくら言ってみたところで意味はない。
誰もやりたくないけど誰かがやらなくてはならない仕事。
人の世にそれがある限り、奴隷は必要とされるんだ。それは、どうしようもない事実だよ」
「……たしかに」
ロウワンは苦い表情でうなずいた。行者の言葉を認めるしかなかった。
「ゴンドワナに奴隷はいない。でも、そのかわり、借金を背負わされ、その代償として他人のやりたくない仕事をさせられる底辺労働者がたくさんいる。ある意味では、奴隷よりもひどい扱いを受けている人たちだ。
誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事。それがある限り、奴隷は必要とされる。
その現実から目をさらすわけにはいかないな」
――ほんと、バカだよな。人間ってやつは。
ビーブが小バカにした様子でそう言った。
――なんで、誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事、なんて、そんなもんを作るんだよ。そんなもんは作らないのが『知恵』ってもんだろうよ。
「……一言もないわね」
ビーブのもっともな言葉に、メリッサもそう答えるしかなかった。
「でも、それが人の性。豊かさと快適さを求め、どうしても『誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事』を作ってしまう。でも……」
メリッサはうつむいていた顔をあげた。そこには、先ほどまでとはちがう力強い目の輝きがあった。
「人間にしかできない解決法がある。船が人力でも、風力でもなく、機械の力によって動かせるようになれば、櫂を漕ぎつづける奴隷は必要なくなる。わたしたち『もうひとつの輝き』は、そのために蒸気機関を研究し、改良してきた。いつか、世界中に蒸気機関や多くの機械が広まり、奴隷のさせられている仕事をかわりにするようになる。そうなれば、『奴隷を必要としない』世界を作れるはずよ」
メリッサはそう言いきった。研究者として世界のため、人類のため、研究を行っているという誇りが込められた言葉だった。
メリッサのその言葉にロウワンはうなずいた。
「そう……ですね。世界を説得し、そんな未来を作っていく。それが、おれたちの役目だ」
そして、そのために亡道の司を倒し、次の千年を手に入れる。すべては、人と人が争う必要のない世界、誰もが自分の幸福を終える世界を実現するために。
ロウワンはいま、改めて、そのことを仲間たちの前で確認した。
ハーミドが突然、立ちあがった。拳ダコのできた拳を振りまわして宣言した。
「よろしい! おれは新聞記者だ。人々に事実を伝え、啓蒙する立場にあるものとして、同じまちがいを繰り返させることはしない。おれは記事を書く。記事を書いて、書いて、書きまくって、歴史の事実を伝える。『もうひとつの輝き』の尽力も伝える。そうすることで、同じ未来を目指す同志を増やしてみせる!」
ハーミドがそう叫んだ、そのときだ。
ビーブが牙をむいて、叫んだ。
赤い炎が一時も姿をとどめることなく形をかえ、天を目指して踊り狂う。そのたびに、黄金色の火の粉があたり一面に飛び散っていく。
プリンスの送ってくれた補給隊が運んできてくれた燃料。その燃料を地面において小さな焚き火をしている。透明な白の結晶と化した大地の上で、真っ赤な炎が踊るように燃えさかるその様は、なんとも奇妙で、現実味がなく、そして――。
美しかった。
ロウワン、ビーブ、野伏、行者、メリッサ、ハーミド。
異界と化したパンゲア領を旅する六人はいま、小さな焚き火を囲んで車座に座り込み、食後の茶を飲んでいた。
「……この炎が、凍った時も溶かしてくれればいいのに」
ロウワンは思わずそう呟いていた。
まわりを見れば、その呟きも無理からぬものだったろう。そこは、旅の途中で見つけた小さな町。亡道の世界に冒される前であれば、豊かではないが人々が慎ましい日々を生きるごくごくありふれた町であったろう。
しかし、その面影はどこにもない。いま、この場にあるものは恐怖、そして、苦悶。町の人々があるいは他の人と、あるいは動物と、あるいは建物と、あるいは大地そのものと溶けあい、混じりあい、ひとつになろうとするその過程を切りとり、絵画としたかのように、透明な白の結晶と化してそこにいる。
結晶と化した人々の顔に浮かぶものは恐怖と苦悶。そして『なぜ?』という表情。自分たちを襲った理不尽に対する答えを求める表情だった。
「残念だけど……」
ロウワンの呟きに答えたのは、現代の天命の博士たるメリッサだった。
「凍った時が溶ければ、もっとひどいことになるわ。世界の融合が進み、完全に亡道の世界に呑み込まれてしまう」
そう語るメリッサの声にも、表情にも、自分の無力を罵る思いがあふれていた。
「……そうでしたね」
ロウワンは自分の唇を噛みしめながら言った。メリッサの気も知らず、うかつなことを口走った自分を責める表情だった。
メリッサは自分を罵る表情のままつづけた。
「くやしいけど、ここまで亡道の世界の侵食が進んでしまったら、わたしたちにはどうすることもできない。凍った時が溶ければ、亡道の世界に呑み込まれていくのを黙って見ているしかないわ。できることと言えばすべてを焼き払い、浄化することだけ」
そう語るメリッサの拳は、指が白くなるほど強く握りしめられている。
「すべてを焼き払うしかない、か」
ロウワンはメリッサに劣らないくやしさを込めて呟いた。
「千年前と同じだ。あのときも、亡道の世界に冒された部分はすべて焼き払い、浄化するしかなかった」
「ええ。わたしたちもそう聞いているわ。騎士マークスはそのために、亡道に冒された世界を救うために『もうひとつの輝き』を設立したっていうのに、わたしたちはそのための方法を見つけることができなかった」
千年ものときがあったのに。
メリッサは何重ものくやしさと無念とを込めて呟いた。はらわたをねじりあげ、絞り出すような声だった。
「あなたたちの責任じゃない。このときがくることがわかっていながら人と人の争いにかまけ、対策を立ててこなかった人類全体の責任です」
ロウワンは拳を握りしめながらそう答えた。
「……千年。千年ものときを正しく使っていれば、亡道の世界に対処する術は充分に開発できたはずなのに」
その言葉にはビーブや野伏はもちろん、いつもならなにかにつけて茶化すような発言をする行者でさえ、自慢のかんざし飾りを静かに揺らしながら沈黙をもって応えるしかなかった。
ただひとり、新聞記者のハーミドだけが口を開いた。
「それが、わからない。正直、おれ自身、亡道の司だの、亡道の世界の接近だの聞いても信じられなかった。しかし、このありさまを見れば信じるしかない。そこで、聞きたい。先人たちはなぜ、このありさまを語り継いでこなかった? このありさまを自分の目で見た人々にとってはとうてい忘れたり、目をそらしたりできるような出来事ではなかったはずだ。まして、千年後とはいえ再び、このときが来ることがわかっていたというならなおさらだ。この出来事を語り継ぎ、今度こそ、この事態から世界を守ろうとするはずだろう。それがなぜ、世界は、人類は、この出来事を忘れていた? 亡道の司と亡道の世界の接近に関して、忘れていた?」
「ハルキス先生は言っていたよ。都合が悪かったからだと」
「都合が悪かった?」
ロウワンの答えに、ハーミドはピクリと眉を吊りあげた。
「そうだ。復興が進むにつれて人と人、国と国とが争うようになった。そうなると、世界中の人間が、世界中の国が、協力して亡道の司に対したという歴史は邪魔になった。他国を侵略するためには理由が必要だ。その理由として最も簡単なのが『他の国は自分たちよりも劣っている。だから、自分たちが支配して幸せにしてやるのだ』というものだ。そう言って他国を侵略するためには『かつては、対等の立場で協力していた』という事実は邪魔なんだ。だから、人々はその記憶を捨てた。それが、ハルキス先生の説明だ」
「『もうひとつの輝き』には、こう伝えられているわ」
メリッサがロウワンにつづけて言った。
「千年前の戦いの際、奴隷は存在しなかった。生き残るためにすべての人間が力を合わせなければならず、奴隷だ、貴族だなんて言っている余裕はなかったから。でも、復興が進むと再び、奴隷と貴族という区分ができあがった。
人の世には『誰もやりたくないけど、誰かがやらなければならない仕事』がある。自分がやりたくないなら他人にやらせるしかない。そのために、もっとも効果的なのは『その仕事』にしかつけない家系を生みだすこと。つまり、奴隷階級を作り出すこと。そうして、復興後の世界には再び奴隷階級が生みだされた。自分のやりたくない仕事を他人に押しつける、そのために。
そして、奴隷階級を作り出すために作られた理屈が『奴隷は生まれつき能力が劣っている。自分ではまともな判断はできず、幸福な暮らしを送ることはできない。優れた人間に指示され、奴隷として使われる方が幸せなのだ』というもの。その理屈で奴隷制を正当化するためには『かつてはたしかに、奴隷も貴族もなく、すべての人間が対等の立場で協力して戦った』という事実は邪魔になる。そのために、その歴史を捨て去ったと」
「なんということだ!」
ロウワンとメリッサの言葉に、ハーミドは大袈裟に天を仰いで嘆いて見せた。いや、事態の深刻さを考えれば、そんな仕種でさえまだまだ足りなかったかも知れない。
「他国を侵略し、奴隷をもつ。そんなことのためにかくも重大な歴史を忘れ、対策を立てることを怠ったとは。そのために、このような被害が出たとは!」
「でもね」
今度は行者が口を開いた。いつもの、ちょっとばかり皮肉を込めたような言い方だった。
「人の世には結局、奴隷は必要なんだよ」
「奴隷制を擁護するのか?」
ロウワンが尋ねた。行者を見る目にはさすがに、少なからず責める意思がこもっていた。
行者は、そんな視線はどこ吹く風。むしろ、自分の方こそロウワンの浅い正義感を責めるようないかたで答えた。
「では、聞くけど、ロウワン。君は一日、二〇時間もぶっつづけで櫂を漕ぐ、なんていう、そんな人生を送りたいかい?」
「送りたいわけないだろう!」
ロウワンは叫んでいた。そんな暮らしがどれほど過酷で希望のないものかは、『実際に』そんな暮らしを強いられてきたプリンスから聞いて知っている。
行者はロウワンの叫びに対して答えた。その言い方は『辛辣』という現実を『茶化す』という幻想でくるんだようなものだった。
「でも、誰かがそうして櫂を漕ぎつづけなればガレー船は動かない。ガレー船が動かなければ海を越えた交易はできず、交易によって得られた生活水準を維持できない。それとも、ロウワン。君は赤の他人を奴隷労働から解放するために、自分の暮らしを捨て、劣悪な暮らしを受け入れるのかい?」
「それは……」
ロウワンは思わず絶句した。
そんなロウワンを前に野伏が言った。
「できない。ここははっきりそう言うべきだろうな。言葉を濁すのは卑怯というものだ」
行者はうなずいた。ロウワンは一言もなかった。行者はさらにつづけた。
「その通り。他人のために自分の生活水準を落とすなんてできるものじゃない。誰かが、ガレー船を漕ぎつづけなくてはいけないんだ。そして、自分や、自分の子どもにそれをさせたくないなら、他人の子どもにやらせるしかない。そのためには、その仕事にしか就けない家系がいる。つまり、奴隷がね。奴隷をなくす。そんな掛け声をいくら言ってみたところで意味はない。
誰もやりたくないけど誰かがやらなくてはならない仕事。
人の世にそれがある限り、奴隷は必要とされるんだ。それは、どうしようもない事実だよ」
「……たしかに」
ロウワンは苦い表情でうなずいた。行者の言葉を認めるしかなかった。
「ゴンドワナに奴隷はいない。でも、そのかわり、借金を背負わされ、その代償として他人のやりたくない仕事をさせられる底辺労働者がたくさんいる。ある意味では、奴隷よりもひどい扱いを受けている人たちだ。
誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事。それがある限り、奴隷は必要とされる。
その現実から目をさらすわけにはいかないな」
――ほんと、バカだよな。人間ってやつは。
ビーブが小バカにした様子でそう言った。
――なんで、誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事、なんて、そんなもんを作るんだよ。そんなもんは作らないのが『知恵』ってもんだろうよ。
「……一言もないわね」
ビーブのもっともな言葉に、メリッサもそう答えるしかなかった。
「でも、それが人の性。豊かさと快適さを求め、どうしても『誰もやりたくないけど誰かがやらなければならない仕事』を作ってしまう。でも……」
メリッサはうつむいていた顔をあげた。そこには、先ほどまでとはちがう力強い目の輝きがあった。
「人間にしかできない解決法がある。船が人力でも、風力でもなく、機械の力によって動かせるようになれば、櫂を漕ぎつづける奴隷は必要なくなる。わたしたち『もうひとつの輝き』は、そのために蒸気機関を研究し、改良してきた。いつか、世界中に蒸気機関や多くの機械が広まり、奴隷のさせられている仕事をかわりにするようになる。そうなれば、『奴隷を必要としない』世界を作れるはずよ」
メリッサはそう言いきった。研究者として世界のため、人類のため、研究を行っているという誇りが込められた言葉だった。
メリッサのその言葉にロウワンはうなずいた。
「そう……ですね。世界を説得し、そんな未来を作っていく。それが、おれたちの役目だ」
そして、そのために亡道の司を倒し、次の千年を手に入れる。すべては、人と人が争う必要のない世界、誰もが自分の幸福を終える世界を実現するために。
ロウワンはいま、改めて、そのことを仲間たちの前で確認した。
ハーミドが突然、立ちあがった。拳ダコのできた拳を振りまわして宣言した。
「よろしい! おれは新聞記者だ。人々に事実を伝え、啓蒙する立場にあるものとして、同じまちがいを繰り返させることはしない。おれは記事を書く。記事を書いて、書いて、書きまくって、歴史の事実を伝える。『もうひとつの輝き』の尽力も伝える。そうすることで、同じ未来を目指す同志を増やしてみせる!」
ハーミドがそう叫んだ、そのときだ。
ビーブが牙をむいて、叫んだ。
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