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第二部 絆ぐ伝説
第七話二〇章 あの人は……
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「そんな……なんで、こんなところにあの化け物たちが」
セシリアは呟いていた。その呟きにはもはや不安も、恐怖もない。そんなものはとっくに越えた絶望の呟きだった。あたりを見ればセシリアと同じく、絶望の表情に支配された人々の姿を見ることができただろう。
目も鼻もなく、心臓のように脈打つ頭部。
筋肉がむき出しになったかのような血管だらけの肉体。
鎌となった両腕。
知性も感情もなく、ただひたすらに生きとし生けるものを殺すべく押し進む異形の群れ。そんなものが何十体と迫ってくる。その光景を目前に捉えていったい、他にどうしろというのか。この場にいるのは非戦闘員の救護班と、いまにも死にそうな傷だらけの重傷者だけだというのに。
「なんで……ここに」
セシリアは再び呟いた。信じられない、というよりも、信じたくない、という思いからの呟きだったろう。
あり得ないはずだった。この場は前線からは遠く、救護班と負傷者とを守るための防壁が築かれ、警護兵も駐屯している。その壁を越えて化け物たちがやってくる。そんなことはあり得ないはずだったのだ。
「それなのに、どうして……」
「ひどい乱戦じゃからの。さしもの、化け物たちも散り散りになっておる。はぐれた連中が生き物の匂いに引かれてやってきたのじゃろう」
セシリアの呟きにそう答えたのは、落ち着き払った初老の男の声だった。
「加えて、こちらの被害も甚大。この場を守っていた警護兵たちも順次、前線に投入されておる。その穴をついてやってきたのじゃろう」
「……ドク」
セシリアはその男の銘を呟いた。その目が『信じられない』と語っている。
そこにいたのはドク・フィドロ。かつては、いまは亡き女海賊ガレノアの愛船、『海の女』号の船医として腕を振るい、いまでは自由の国唯一の熟練医師として、救護班全体を取り仕切る立場にある人物だった。
しかし、セシリアが驚いたのはドク・フィドロがこの場にいたからではない。右手の先を見たからだ。いつもであれば人を救うためのメスが握られているその右手にはいま、人を殺すための剣が握られていた。それも、海賊御用達の剣、カトラスがだ。
「……ドク」
セシリアは信じられない思いを浮かべた表情のままもう一度、呟いた。
そんなセシリアに向かい、ドク・フィドロはいつもの好々爺然とした笑顔を向けた。絶対なる死が迫るなか、その笑顔はまるで愛しい孫を見るかのような慈愛の念に満ちていた。
「ドク……まさか、戦うつもりなのですか? あの化け物たちと」
ほっほっ、と、ドク・フィドロは笑って見せた。
「意外かな、セシル坊や?」
セシル坊や、と、ドク・フィドロはセシリアのことをそう呼んだ。
朴念仁ロウワン以外の誰もだませていない拙《つたな》い男装。まして、医師の目をごまかせるはずもない。セシリアが男性名を名乗り、男の振りをしているだけの少女であることは当然、わかっている。それでも、必死に海の漢として振る舞おうとしているセシリアの思いに応え、『セシル坊や』と呼んでいる。
この世でただひとり、自分の男装が成功していると思い込んでいる少女は、ドク・フィドロの思いも知らずに叫んだ。
「だ、だって! あなたはお医者さまじゃないですか。戦士じゃなくて……」
「医者が患者を守らずに、誰が守る?」
「ドク……」
「それにな。わしとて、ガレノアの船で長年、海賊として暮らしてきた身。これでも若い頃は医師兼兵士として剣を片手にけっこう暴れたものなんじゃぞ。あの頃のヤンチャをもう一度、思い出そうと思っての」
ドク・フィドロはそう言って微笑んだ。それはやはり、愛しい孫を見る祖父のように慈愛に満ちた笑顔だった。
ドク・フィドロは剣を手に胸を張った。四〇過ぎという海賊としては充分に年寄りと言える年齢。きれいに禿げあがった頭と、『好々爺』というしかない表情のせいで歳よりも熟成して見え、初老という表現がピッタリくる。その男がいま、二〇代の頃のような生気に満ちてその場に立っていた。その口から若者顔負けの大きく、張りのある声が発せられた。
「落ち着け、皆の衆! やつらはわしが防ぐ! その間にひとりでも多くの患者を後方に移動させるのじゃ! 近くでボーラ傭兵団が休息しておる。誰か、すぐに状況を知らせよ!」
救護班の責任者としてそう支持を下したあと、セシリアに向かって微笑みかけた。
「さあ。お前さんも早く後ろにさがれ。『坊や』などと呼ばれる年齢のうちに死ぬものではない」
「いやです!」
ドク・フィドロの言葉に――。
セシリアはきっぱりとそう答えた。
「わた……僕も戦います! 僕も貴族のむす……息子。剣の訓練は受けています。なにより、〝ブレスト〟提督から鍛えられているんですから」
セシリアはそう言って、〝ブレスト〟から与えられた剣を抜き放った。セシリアの剣はカトラスではない。小柄な体と非力さにあわせた、カトラスよりも短く、軽い短剣である。
「子どもが無茶を言ったら、とめるのがおとなの役目というものなんじゃが……」
ドク・フィドロはそう言ったが、セシリアの表情を見てすべてをあきらめたように顔を左右に振った。
「覚悟を定めたものを子ども呼ばわりはできんな。それでは、セシル。ともに医師の務めを果たすとするかの」
「はい!」
叫ぶようにそう答えるセシリアの表情はいっそ、晴れやかなほどのものだった。
「おい、まてよ。年寄りと子どもばかりに良い格好はさせないぜ」
医師として、救護班として、死ぬことを承知で患者たちを救う壁になろうと決めたふたりの後ろで、呻くような声がした。そこではひとり、またひとりと、身動きひとつとれないはずの重傷者たちが剣や槍を杖がわりに立ちあがり、こちらにやってくるところだった。
ふらつき、よろめきながら、それでも、意地と誇りを懸けたその表情。その姿はあたかも、王家の墓を荒らそうとする不埒な侵入者の前に立ちはだかる生ける死体のようだった。
「戦うのはあんたたちの役目じゃねえ。おれたちの役目なんだからな」
そう言って、血の跡がこびりついたままの包帯だらけの顔でニイッと笑ってみせる。平和な町で、子どもたちが見れば思わず泣き出すにちがいないその笑顔。その笑顔がいまはたまらなく魅力的なものに見えた。
「みなさん……」
「ほっほっ。お前さんたちも相当、損な性分をしとるようじゃな」
「あんたたちほどじゃねえ」
そう言って笑いながら、負傷者たちはドク・フィドロとセシリアの横に並んだ。化け物たちに対する壁となった。その後ろでは他の救護班たちが負傷者たちを安全な後方に運ぼうと必死の働きをしている。
あるものは服をつないで作った即席の担架に乗せ、あるものは自らの背中に背負い、ひとりでも多くの負傷者たちを運びだそうとしている。
そのための時間を稼ぐべく、壁となったセシリアたち。そのセシリアたちに向かい、化け物たちはやってくる。決して急がず、あわてず、走りもせず、一歩いっぽ着実に近づいてくる。そのたびごとに近づく死の圧力が、音もない風のように押しよせてくる。
ゴクリ、と、セシリアは唾を飲み込んだ。
迫り来るは、銃弾すらも跳ね返す不死身の化け物。
対するは、素人に毛の生えた程度の子どもと年寄り、そして、動けることが不思議なほどの負傷者たち。
大陸の歴史上、これほどまでに戦力差のある戦いがかつてあっただろうか。
「あるわけないでしょう、そんなもの」
――ソフィア姉さまならきっと、そう言うわね。
メガネをかけた姉の顔を思い出しながら、セシリアは思った。ソフィアとフィルの町で別れてからまだ、大した日数が立っているわけではない。それなのに、まるで一〇年も前に別れたような懐かしさが込みあげてきた。
――でも、姉さま。わたしは戦います。ルドヴィクス兄さまは自らの守るべきもののために戦っています。アルバート兄さまは騎士の誇りに殉じました。だったら、わたしも最後まで戦います。ふたりの妹として、ローラシアの貴族として。
セシリアがそう覚悟を決めたそのときだ。化け物たちがやってきた。鎌となった両腕を振りあげて。目に見える『死』そのものとなって。そのとき――。
蒼天を貫く幾筋もの稲妻のような轟音が響いた。銃声だった。何十、何百という銃声が一斉に鳴り響き、無数の銃弾が化け物たちに叩き込まれた。
突然の銃撃に化け物たちの動きは一瞬、とまった。しかし、それだけ。強靱な化け物たちの肉体を『普通の銃弾』で破壊することはできない。撃ち込まれた銃弾はその先端をわずかに食い込ませたが、ただそれだけ。まるで、ゴムの固まりに投げつけられた石ころのように、強靱で弾力のある筋肉に押し返され、ポロリ、ポロリと落ちていく。
何百という銃弾が空しく地面に落ちていく。しかし、それにつづいたものは高らかなほどの奇声。
「ホーホー!」
浮かれたような、と言ってもいいほどに陽気な声とともにラクダに乗った一団が化け物めがけて突進した。左手に手綱を握り、右手にはシャムシールと呼ばれる曲刀をもって。その顔は〝ブレスト〟と同じように、全体が布で覆われ目元だけが覗いていた。砂漠の砂嵐から目を守るための、砂漠の民の装束である。
「サハラ族⁉ サハラ族じゃと⁉」
ドク・フィドロがかの人らしくもない驚きの声をあげた。
「サハラ族?」
「ゴンドワナの西、砂漠地帯に住まう盗賊集団じゃ。なぜ、あやつらがローラシアまで……」
盗賊集団。
ドク・フィドロはそう言ったが実際には、放牧を生業としながら懐が重くて困っている旅人を助けてやるために金品を持ち去ってやるという、半盗半遊牧の民である。砂漠に点在するオアシス国家を襲撃することもあるが、オアシス国家を結ぶ貴重な交易の民でもある。その意味では漁もすれば交易もするが、機会さえあれば略奪も行うという海の民とよく似ている。
そのサハラ族がいま、ラクダに乗り、剣を片手に化け物の群れに突進したのだ。
いきなりのことに唖然とするセシリアたちの前で、サハラ族と化け物たちの戦いがはじまった。
砂漠の野盗と化け物の戦い。
それは確かに絵になる光景だった。
化け物の鎌となった両腕と、サハラ族の振るう鋭い曲刀とがぶつかりあい、音を立て、血が流れる。血の流れるその音を、サハラ族の立てる奇声がかき消していく。
サハラ族がいかに猛々しく、剽悍であろうともしょせん、対化け物用の武器をもたない身。決定打を与えることはできず、化け物の群れを押しとどめるのが精一杯。しかし、それによって貴重な時間を稼ぐことはできた。サハラ族が化け物たちを押しとどめている間に知らせを受けたボーラが配下の精鋭たちを率いてやってきたのだ。
陸と海。生きる場所はちがえども、ともに同じ生き方をするものたち。無言のうちに相手の意思を汲み取り、役割を分担した。サハラ族が化け物の動きをとめ、ボーラ傭兵団の精鋭たち、対化け物用の武器をもった戦士たちがとどめを刺す。無言のうちに成立したその連携によって、化け物たちは次々と斃されていった。
数十体の化け物たちが全滅するまで、さしたる時間はかからなかった。サハラ族はそれを確認すると、無言で去って行こうとした。
短いが、激しい戦い。
いかに戦い慣れた砂漠の民であろうと負傷者が出ないはずはなく、死者も何人も出ていた。サハラ族は負傷者と死体を回収すると、黙って帰って行こうとする。そのサハラ族に向かい、ドク・フィドロが声をかけた。
「おいおい、まってくれ。そんなにあわてて帰らんでもいいじゃろう。お前さんたちのおかげで助かったんじゃ。礼がわりに、負傷者の治療ぐらいさせてくれ」
ドク・フィドロのその声にしかし、サハラ族は一切、反応することはなかった。無言のままに負傷者と死体とを回収し、まさに砂漠に吹く風のように速やかに撤収していく。その鮮やかな去り方にはドク・フィドロも唖然として見送るしかなかった。一方――。
セシリアの視線はある一カ所に引きつけられていた。そこには、サハラ族の長だろう。ひときわ大きく、立派な飾りをつけたラクダに乗った大柄な人物がいた。
しかし、セシリアの目を引いたのはその人物ではない。その横の人物。やや小柄なラクダに乗った、小柄な人物だった。他の皆と同じように顔中に布を巻きつけていたが、わずかにのぞく目元が日の光を浴びてキラリと光ったのだ。
人間の目では決してあり得ない光り方だった。
――あれは……あれは、メガネ? まさか、あの人は……。
そう思うセシリアの前で、サハラ族の長は右腕をあげた。それを合図にサハラ族は一斉に去っていく。長の隣にいた小柄な人物もまた。ただ――。
その小柄な人物は去り際のほんの一瞬、セシリアの方に顔を向けた。布に覆われたその顔が微笑んでいたようにセシリアには感じられた。
セシリアたちがサハラ族の突然の参戦によって救われた頃――。
大公邸の最上階、〝賢者〟たちの住まう天界では新たなる戦いがはじまろうとしていた。
セシリアは呟いていた。その呟きにはもはや不安も、恐怖もない。そんなものはとっくに越えた絶望の呟きだった。あたりを見ればセシリアと同じく、絶望の表情に支配された人々の姿を見ることができただろう。
目も鼻もなく、心臓のように脈打つ頭部。
筋肉がむき出しになったかのような血管だらけの肉体。
鎌となった両腕。
知性も感情もなく、ただひたすらに生きとし生けるものを殺すべく押し進む異形の群れ。そんなものが何十体と迫ってくる。その光景を目前に捉えていったい、他にどうしろというのか。この場にいるのは非戦闘員の救護班と、いまにも死にそうな傷だらけの重傷者だけだというのに。
「なんで……ここに」
セシリアは再び呟いた。信じられない、というよりも、信じたくない、という思いからの呟きだったろう。
あり得ないはずだった。この場は前線からは遠く、救護班と負傷者とを守るための防壁が築かれ、警護兵も駐屯している。その壁を越えて化け物たちがやってくる。そんなことはあり得ないはずだったのだ。
「それなのに、どうして……」
「ひどい乱戦じゃからの。さしもの、化け物たちも散り散りになっておる。はぐれた連中が生き物の匂いに引かれてやってきたのじゃろう」
セシリアの呟きにそう答えたのは、落ち着き払った初老の男の声だった。
「加えて、こちらの被害も甚大。この場を守っていた警護兵たちも順次、前線に投入されておる。その穴をついてやってきたのじゃろう」
「……ドク」
セシリアはその男の銘を呟いた。その目が『信じられない』と語っている。
そこにいたのはドク・フィドロ。かつては、いまは亡き女海賊ガレノアの愛船、『海の女』号の船医として腕を振るい、いまでは自由の国唯一の熟練医師として、救護班全体を取り仕切る立場にある人物だった。
しかし、セシリアが驚いたのはドク・フィドロがこの場にいたからではない。右手の先を見たからだ。いつもであれば人を救うためのメスが握られているその右手にはいま、人を殺すための剣が握られていた。それも、海賊御用達の剣、カトラスがだ。
「……ドク」
セシリアは信じられない思いを浮かべた表情のままもう一度、呟いた。
そんなセシリアに向かい、ドク・フィドロはいつもの好々爺然とした笑顔を向けた。絶対なる死が迫るなか、その笑顔はまるで愛しい孫を見るかのような慈愛の念に満ちていた。
「ドク……まさか、戦うつもりなのですか? あの化け物たちと」
ほっほっ、と、ドク・フィドロは笑って見せた。
「意外かな、セシル坊や?」
セシル坊や、と、ドク・フィドロはセシリアのことをそう呼んだ。
朴念仁ロウワン以外の誰もだませていない拙《つたな》い男装。まして、医師の目をごまかせるはずもない。セシリアが男性名を名乗り、男の振りをしているだけの少女であることは当然、わかっている。それでも、必死に海の漢として振る舞おうとしているセシリアの思いに応え、『セシル坊や』と呼んでいる。
この世でただひとり、自分の男装が成功していると思い込んでいる少女は、ドク・フィドロの思いも知らずに叫んだ。
「だ、だって! あなたはお医者さまじゃないですか。戦士じゃなくて……」
「医者が患者を守らずに、誰が守る?」
「ドク……」
「それにな。わしとて、ガレノアの船で長年、海賊として暮らしてきた身。これでも若い頃は医師兼兵士として剣を片手にけっこう暴れたものなんじゃぞ。あの頃のヤンチャをもう一度、思い出そうと思っての」
ドク・フィドロはそう言って微笑んだ。それはやはり、愛しい孫を見る祖父のように慈愛に満ちた笑顔だった。
ドク・フィドロは剣を手に胸を張った。四〇過ぎという海賊としては充分に年寄りと言える年齢。きれいに禿げあがった頭と、『好々爺』というしかない表情のせいで歳よりも熟成して見え、初老という表現がピッタリくる。その男がいま、二〇代の頃のような生気に満ちてその場に立っていた。その口から若者顔負けの大きく、張りのある声が発せられた。
「落ち着け、皆の衆! やつらはわしが防ぐ! その間にひとりでも多くの患者を後方に移動させるのじゃ! 近くでボーラ傭兵団が休息しておる。誰か、すぐに状況を知らせよ!」
救護班の責任者としてそう支持を下したあと、セシリアに向かって微笑みかけた。
「さあ。お前さんも早く後ろにさがれ。『坊や』などと呼ばれる年齢のうちに死ぬものではない」
「いやです!」
ドク・フィドロの言葉に――。
セシリアはきっぱりとそう答えた。
「わた……僕も戦います! 僕も貴族のむす……息子。剣の訓練は受けています。なにより、〝ブレスト〟提督から鍛えられているんですから」
セシリアはそう言って、〝ブレスト〟から与えられた剣を抜き放った。セシリアの剣はカトラスではない。小柄な体と非力さにあわせた、カトラスよりも短く、軽い短剣である。
「子どもが無茶を言ったら、とめるのがおとなの役目というものなんじゃが……」
ドク・フィドロはそう言ったが、セシリアの表情を見てすべてをあきらめたように顔を左右に振った。
「覚悟を定めたものを子ども呼ばわりはできんな。それでは、セシル。ともに医師の務めを果たすとするかの」
「はい!」
叫ぶようにそう答えるセシリアの表情はいっそ、晴れやかなほどのものだった。
「おい、まてよ。年寄りと子どもばかりに良い格好はさせないぜ」
医師として、救護班として、死ぬことを承知で患者たちを救う壁になろうと決めたふたりの後ろで、呻くような声がした。そこではひとり、またひとりと、身動きひとつとれないはずの重傷者たちが剣や槍を杖がわりに立ちあがり、こちらにやってくるところだった。
ふらつき、よろめきながら、それでも、意地と誇りを懸けたその表情。その姿はあたかも、王家の墓を荒らそうとする不埒な侵入者の前に立ちはだかる生ける死体のようだった。
「戦うのはあんたたちの役目じゃねえ。おれたちの役目なんだからな」
そう言って、血の跡がこびりついたままの包帯だらけの顔でニイッと笑ってみせる。平和な町で、子どもたちが見れば思わず泣き出すにちがいないその笑顔。その笑顔がいまはたまらなく魅力的なものに見えた。
「みなさん……」
「ほっほっ。お前さんたちも相当、損な性分をしとるようじゃな」
「あんたたちほどじゃねえ」
そう言って笑いながら、負傷者たちはドク・フィドロとセシリアの横に並んだ。化け物たちに対する壁となった。その後ろでは他の救護班たちが負傷者たちを安全な後方に運ぼうと必死の働きをしている。
あるものは服をつないで作った即席の担架に乗せ、あるものは自らの背中に背負い、ひとりでも多くの負傷者たちを運びだそうとしている。
そのための時間を稼ぐべく、壁となったセシリアたち。そのセシリアたちに向かい、化け物たちはやってくる。決して急がず、あわてず、走りもせず、一歩いっぽ着実に近づいてくる。そのたびごとに近づく死の圧力が、音もない風のように押しよせてくる。
ゴクリ、と、セシリアは唾を飲み込んだ。
迫り来るは、銃弾すらも跳ね返す不死身の化け物。
対するは、素人に毛の生えた程度の子どもと年寄り、そして、動けることが不思議なほどの負傷者たち。
大陸の歴史上、これほどまでに戦力差のある戦いがかつてあっただろうか。
「あるわけないでしょう、そんなもの」
――ソフィア姉さまならきっと、そう言うわね。
メガネをかけた姉の顔を思い出しながら、セシリアは思った。ソフィアとフィルの町で別れてからまだ、大した日数が立っているわけではない。それなのに、まるで一〇年も前に別れたような懐かしさが込みあげてきた。
――でも、姉さま。わたしは戦います。ルドヴィクス兄さまは自らの守るべきもののために戦っています。アルバート兄さまは騎士の誇りに殉じました。だったら、わたしも最後まで戦います。ふたりの妹として、ローラシアの貴族として。
セシリアがそう覚悟を決めたそのときだ。化け物たちがやってきた。鎌となった両腕を振りあげて。目に見える『死』そのものとなって。そのとき――。
蒼天を貫く幾筋もの稲妻のような轟音が響いた。銃声だった。何十、何百という銃声が一斉に鳴り響き、無数の銃弾が化け物たちに叩き込まれた。
突然の銃撃に化け物たちの動きは一瞬、とまった。しかし、それだけ。強靱な化け物たちの肉体を『普通の銃弾』で破壊することはできない。撃ち込まれた銃弾はその先端をわずかに食い込ませたが、ただそれだけ。まるで、ゴムの固まりに投げつけられた石ころのように、強靱で弾力のある筋肉に押し返され、ポロリ、ポロリと落ちていく。
何百という銃弾が空しく地面に落ちていく。しかし、それにつづいたものは高らかなほどの奇声。
「ホーホー!」
浮かれたような、と言ってもいいほどに陽気な声とともにラクダに乗った一団が化け物めがけて突進した。左手に手綱を握り、右手にはシャムシールと呼ばれる曲刀をもって。その顔は〝ブレスト〟と同じように、全体が布で覆われ目元だけが覗いていた。砂漠の砂嵐から目を守るための、砂漠の民の装束である。
「サハラ族⁉ サハラ族じゃと⁉」
ドク・フィドロがかの人らしくもない驚きの声をあげた。
「サハラ族?」
「ゴンドワナの西、砂漠地帯に住まう盗賊集団じゃ。なぜ、あやつらがローラシアまで……」
盗賊集団。
ドク・フィドロはそう言ったが実際には、放牧を生業としながら懐が重くて困っている旅人を助けてやるために金品を持ち去ってやるという、半盗半遊牧の民である。砂漠に点在するオアシス国家を襲撃することもあるが、オアシス国家を結ぶ貴重な交易の民でもある。その意味では漁もすれば交易もするが、機会さえあれば略奪も行うという海の民とよく似ている。
そのサハラ族がいま、ラクダに乗り、剣を片手に化け物の群れに突進したのだ。
いきなりのことに唖然とするセシリアたちの前で、サハラ族と化け物たちの戦いがはじまった。
砂漠の野盗と化け物の戦い。
それは確かに絵になる光景だった。
化け物の鎌となった両腕と、サハラ族の振るう鋭い曲刀とがぶつかりあい、音を立て、血が流れる。血の流れるその音を、サハラ族の立てる奇声がかき消していく。
サハラ族がいかに猛々しく、剽悍であろうともしょせん、対化け物用の武器をもたない身。決定打を与えることはできず、化け物の群れを押しとどめるのが精一杯。しかし、それによって貴重な時間を稼ぐことはできた。サハラ族が化け物たちを押しとどめている間に知らせを受けたボーラが配下の精鋭たちを率いてやってきたのだ。
陸と海。生きる場所はちがえども、ともに同じ生き方をするものたち。無言のうちに相手の意思を汲み取り、役割を分担した。サハラ族が化け物の動きをとめ、ボーラ傭兵団の精鋭たち、対化け物用の武器をもった戦士たちがとどめを刺す。無言のうちに成立したその連携によって、化け物たちは次々と斃されていった。
数十体の化け物たちが全滅するまで、さしたる時間はかからなかった。サハラ族はそれを確認すると、無言で去って行こうとした。
短いが、激しい戦い。
いかに戦い慣れた砂漠の民であろうと負傷者が出ないはずはなく、死者も何人も出ていた。サハラ族は負傷者と死体を回収すると、黙って帰って行こうとする。そのサハラ族に向かい、ドク・フィドロが声をかけた。
「おいおい、まってくれ。そんなにあわてて帰らんでもいいじゃろう。お前さんたちのおかげで助かったんじゃ。礼がわりに、負傷者の治療ぐらいさせてくれ」
ドク・フィドロのその声にしかし、サハラ族は一切、反応することはなかった。無言のままに負傷者と死体とを回収し、まさに砂漠に吹く風のように速やかに撤収していく。その鮮やかな去り方にはドク・フィドロも唖然として見送るしかなかった。一方――。
セシリアの視線はある一カ所に引きつけられていた。そこには、サハラ族の長だろう。ひときわ大きく、立派な飾りをつけたラクダに乗った大柄な人物がいた。
しかし、セシリアの目を引いたのはその人物ではない。その横の人物。やや小柄なラクダに乗った、小柄な人物だった。他の皆と同じように顔中に布を巻きつけていたが、わずかにのぞく目元が日の光を浴びてキラリと光ったのだ。
人間の目では決してあり得ない光り方だった。
――あれは……あれは、メガネ? まさか、あの人は……。
そう思うセシリアの前で、サハラ族の長は右腕をあげた。それを合図にサハラ族は一斉に去っていく。長の隣にいた小柄な人物もまた。ただ――。
その小柄な人物は去り際のほんの一瞬、セシリアの方に顔を向けた。布に覆われたその顔が微笑んでいたようにセシリアには感じられた。
セシリアたちがサハラ族の突然の参戦によって救われた頃――。
大公邸の最上階、〝賢者〟たちの住まう天界では新たなる戦いがはじまろうとしていた。
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