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第二部 絆ぐ伝説
第七話六章 我が子の、その子の、さらにその子のために
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「プリンス?」
会議場に入ってきた黒人の若者を見て、トウナはいぶかしむ表情をした。
怯えている。
そう言ってもいいぐらいの表情だった。
幼い頃から島のガキ大将として、男の子たち相手に喧嘩は負け知らず。度胸においては誰にも負けない。そのトウナにして、思わず怯えた表情を浮かべてしまう。それぐらい、プリンスの態度は真剣なものだった。
クロヒョウを思わせるほどに剽悍なこの若者であれば、たとえ命のかかった戦場であっても、ここまで神経を張り詰めることはないだろう。事実、プリンス自身、どんな戦場でも感じたことのないほどに緊張していることを自覚していた。
「プリンス? どうしたの、いったい?」
トウナがそう尋ねたのは、プリンスの放つ緊張感に耐えられなくなったからだった。それぐらい、プリンスの周囲の空気は張り詰めている。空気の一粒ひとつぶが鋭い針にかわってしまったかのように。
「トウナ」
プリンスはようやく言った。
張り詰めた緊張感そのままに。
「トウナ。君に頼みがある」
「頼み?」
「おれと結婚してくれ」
「結婚?」
トウナは思わず聞き返した。
プリンスはうなずいた。
「そうだ。君をはじめて見たときから好きだった。一目惚れ、なんて、そのときまで本当にあるなんて思っていなかった。でも、おれはたしかに君に一目惚れしたんだ。そのときからずっと、君だけを見てきた。改めて頼む。おれと結婚してくれ」
まっすぐに――。
トウナの目を見つめながらプリンスは言った。その真剣すぎるほどに真剣な表情。ピリピリと肌の傷むような緊張感。針の一刺しで弾けてしまいそうなほどに張り詰めた神経。
そのすべてが、これが本気の求婚であることを告げていた。冗談や悪ふざけなど、わずかたりとも入り込む余地などない。
それはもちろん、トウナにも伝わった。トウナはプリンスに劣らないほど真剣な表情になった。漆黒の肌の青年を正面から見つめ返した。
「あたしと結婚。あたしに、あなたの子どもを産めと言うの?」
「あ、いや、子どもとか、そう言うことじゃなくて……」
思わぬ一撃にプリンスは怯んだ。いままでに経験したどんな戦場でも、ここまで怯んだことはない。頬がたちまち熱くなったが、黒い肌のおかげで赤面していることがわからずにすんだのは幸運だったろう。
トウナはつづけた。
「このタラの島において結婚は仕事よ。島の社会を維持するために子を産み、育てる。結婚はそのための手段。個人の感情なんて二の次。人口を維持するために親や島長の決めた相手と結婚するのが、この島の習わし。あたしはずっと、そんな世界で生きてきた。それが、当たり前だと思っていた。だから、あたしは恋愛なんてもの自体を知らなかった」
「トウナ……」
「この島を出て、外の世界を旅するようになってはじめて、世の中には『恋愛』というものがあることを知った。でも、あたし自身はどこまでいっても、タラの島の女。結婚は子どもを産むための手段であって、恋愛云々とは関係ないわ。もし、あなたが望んでいることが物語のなかのような恋愛をすることなら、あたしは叶えてあげられない。それでも、あたしと結婚したいの?」
「そうだ」
プリンスは迷いなくうなずいた。トウナを見つめる瞳にはもはや怯む色はなかった。
「おれは君と人生を共にしたい。君とずっと一緒に生きていきたい。君がおれの妻となり、おれの子どもを産んでくれるなら、それほど嬉しいことはない」
君がおれの子どもを産んでくれるなら、おれはすべてを懸けて君と、その子どもを守る。
「この生命が終わる、そのときまで」
プリンスははっきりとそう言った。
それは、炎と精霊の言葉によって紡がれた誓約。生ある限り、決して裏切ることのできない誓いだった。
トウナは目を閉じた。軽くうなずいた。再び、目を開けた。そして、言った。
「わかったわ」
「トウナ!」
「あなたは誠実だし、勇敢だし、子どもの父親としては申し分ないものね。あなたの子どもなら産む価値はある。ただし――」
「ただし?」
「今度の戦いに生きて帰ってきたらの話よ。あたしは初夜だけをすませて寡婦になる気はないわ。あたしに自分の子どもを産ませたいなら生きて、責任をとりなさい」
「わかった」
プリンスはきっぱりと言いきった。
「おれは必ず生きて帰ってくる。それだけじゃない。この戦いが終わったらおれは、おれの国を作る。すべての奴隷たちが人間としての生を得ることのできる国をだ。その国の王となって、おれは君のもとに戻ってくる。そうしたら……結婚してくれ」
「ええ」
と、トウナは微笑んだ。
はじめて、張り詰めていた緊張感が緩んだ。そのかわり、ハチミツ漬けの砂糖菓子のような甘い香りが漂いはじめた。
トウナは優しい微笑みを湛えたまま、未来の夫に言った。
「どんな結婚式にするか、考えておいて。あたしは恋愛はできないけど、結婚式ぐらいは、あなたの望みを叶えてあげるわ」
こうして――。
この日、
この夜、
この場所で、
炎と精霊の言葉によって繋がれた一組の夫婦が誕生した。
その様を目撃した人間はこの世でただひとり、会議場の外からこっそり様子をうかがっていたロウワンだけだった。
「……おめでとう、プリンス。よくやったな。それに、トウナも」
一抹の寂しさを感じながら――。
ロウワンはふたりの大切な仲間のために祝福した。
ロウワンが港へとやってきたのは、その内心に生まれたさざ波を潮風に当たって静めるためだったろうか。
しかし、今日のロウワンはそういう運命だったのだろうか。心の波風を静めるために訪れたはずの港において、もう一組の夫婦の囁きを聞くことになった。
月明かりに照らされて、静かに寄せては返す波の音に包まれながら、その場にいたのはビーブと、その妻たるコハ。ハルキス島で出会ってから常に一緒にいたきょうだい分であり、相棒。その相棒が旅先で見つけた妻。種族こそちがうが、ふたりは深い愛情で結ばれている。
『恋愛』という言い方をするなら、トウナとプリンスよりよほど恋愛している仲と言えるだろう。そんなふたりがいま、月明かりのもとで正面から向き合っていた。
――どうしても行くの?
月の魔術だろうか。ビーブのみならず、コハの言葉さえ、ロウワンにははっきりとその意味がわかった。
妻の言葉にビーブはうなずいた。
――当たり前だろ。おれは自由の国一の戦士なんだからな。
――でも……あたしのお腹には、あなたの子どもがいるのよ? その子をおいて戦いに行くの?
――ああ。お前がおれの子どもを身ごもってくれた。そう聞いたときは、飛びあがるほど嬉しかったさ。何がなんでも、おれの家族を守り抜く。そう誓った。
――だったら……。
――だからこそ、おれは行くんだ。わかってるだろ。亡道の司との戦いは人間だけの問題じゃない。この世界そのものの存亡がかかっているんだ。人間だけに任せちゃおけないし、任せておいていいことでもない。そんなの、情けなさ過ぎるだろ。おれたちだって、この世界の一員として責任をもたなくちゃな。だから、おれは戦場に行くんだ。亡道の司をぶっ倒し、おれの家族が安心して暮らせる世界を手に入れるためにな。
――ビーブ……。
月の明りと潮風の匂い。そして、寄せては返す波音。それらに包まれながら深い愛で結ばれた夫婦は互いにたがいを抱きしめあった。
やがて、コハは夜空のもとを駆けて去って行った。その場にはビーブだけが取り残された。
「キキキッ」
――おい、ロウワン。いるんだろ。隠れてないで出てこいよ。
その言葉に――。
「かなわないな」
と、ロウワンは頭をかきながら姿を表した。その顔にはなんとも言えない苦笑が浮いている。
「さすがに、気付かれていたか」
――当たり前だろ。おれが、お前の気配に気付かないなんてことがあるもんか。
「そうだな」
と、ロウワンは頼もしい相棒の言葉に苦笑した。
「とにかく、謝らないとな。盗み聞きするような真似をしてしまって。そんな気はなかったんだけど、ここに来たら偶然、見かけたものだから……」
――気にするな。隠すようなことじゃない。
「それでも、謝っておくよ。礼儀知らずな真似をしたのは確かだからね。ごめん。でも……」
そう言って頭をさげたあと、ロウワンはみたび、苦笑した。
「だけど、まさか、ビーブに子どもができていたなんてな。コハとは種族がちがうのに、よくできたな」
――メリッサが細工をしてくれてな。
「メリッサ師が?」
――ああ。天命の理で、コハがおれの子どもを孕めるようにしてくれた。
「……そうか。メリッサ師が」
なるほど。それで、コハの言葉がわかったわけか。
――研究一筋かと思っていたけど、あの人も意外に恋愛好きなのかな?
そう思い、少しばかり苦笑するロウワンだった。
ふと、その場に沈黙が降りた。
潮風と波の音だけが静かに響いた。
ロウワンが言うともなく言った。
「さっき、プリンスがトウナに求婚したよ」
――へえ。そいつはすごい。あのヘタレにしてはよくやったじゃないか。見直したぜ。
「トウナは受け入れた。ただし、今度の戦いで生きて帰ってくれば……の話だけどね」
――そうか! そいつはめでたい。あの鈍い姉ちゃんにもようやく春がきたってわけだ。
「はは。そういうことだな。でも……」
――どうした?
なにか落ち込んだようなロウワンを見て、ビーブは気遣わしげに尋ねた。
「……うん。なんだか、おれひとり取り残された気がして」
――取り残された?
「ああ。だって、ビーブ。お前とはハルキス先生の島からずっと一緒だった。トウナともこの島に来てからやっぱり、一緒に行動してきたんだ。それなのに、トウナは結婚。お前にいたっては子どもまでできて……。それなのに、おれはなにもかわっていない。自分ひとり、おいていかれた気分だよ」
――トウナはともかく、おれの場合は仕方ないな。種族ごとの成長のちがいってやつだ。おれは、お前たちほど長くは生きられない。
「ビーブ⁉」
――叫ぶなよ。こいつは自然の掟ってやつだ。おれたちは人間より寿命が短い。その分、早く成長するし、早く死ぬ。おれはお前の旅に最後まで付き合うことはできない。でもな、ロウワン。悲しむことはないぜ。おれが死んでも、おれの子が、孫が、さらにその子が、きっと、お前の側にいる。おれの血はずっとお前と一緒なんだ。お前がおれの助けを必要とするときは必ず、おれの血が助けてやるさ。
「ありがとう、ビーブ」
大切なきょうだい分の思いに――。
ロウワンはただそれだけを言った。
――ああ、そうそう。おれの墓にはただ一言だけ書いといてくれればいいぜ。『我が友』ってな。
「……わかった」
ロウワンはさすがに苦笑するしかなかった。
それから、溜め息をついた。なにか、後悔しているような表情になった。
「……ビーブ。お前は、おれと会ってよかったのかな?」
――なんだって? そりゃどういう意味だ?
「おれと出会ったから、島を出て、戦いに加わることになった。いつ死ぬかもわからない戦いに。おれと出会いさえしなければ、お前はずっとあの島にいて、命の危険にさらされることなく森のなかで穏やかに暮らせていられたのに。おれと出会って、本当によかったのか?」
その言葉に――。
ビーブは『あきれた』とばかりに、のけぞって見せた。
――おいおい、ロウワン。野性の暮らしを甘く見るなよな。おれたちにとっちゃあ、日々の暮らしそのものが生きるか死ぬかの戦いなんだぜ。いつ飢えに襲われるかわからない。いつ肉食獣に狙われるかわからない。そのなかで生き抜いてきたんだ。人間の戦いのなかを生きるなんて楽なもんさ。
「でも……」
――それによ。コハに言ったことを聞いてたんだろ? おれは望んで戦ってるんだぜ。この世界を、おれとおれの家族が生きるこの世界を守るためにな。その機会を与えてくれたお前に感謝してるんだ。もし、お前と出会わなかったら、この世界に危機が迫っていることも知らず、呑気に暮らしているだけだったんだからな。それを思うとゾッとするぜ。自分自身の運命がかかっているのにそれも知らず、自分では関わることもできず、人間どもに任せておかなきゃいけないなんてな。それに比べりゃ、いまの方がずっといい。
「……そうか」
と、ロウワンは短く言った。その顔に、晴れやかな笑みが浮いていた。
ビーブの言葉にはいかなる迷いも、ためらいも、疑いもない。そんな言葉を聞かされては、そうとしか言えなかった。
「お前には失礼な言葉だったな。ごめん」
――なあに、いいってことよ。気にするな。
「よし、ビーブ。必ず、勝とう。そして、おれたちの望む未来を手に入れるんだ」
――おう、任せとけ! おれさまがいる限り、お前に敗けはねえ。
「ああ。頼む、ビーブ」
――と言うわけで、お前も早く嫁さん、見つけろよ。お前の兄貴分として可愛がってやるからよ。
その言葉に――。
ロウワンはまたも苦笑した。
この日、ビーブがロウワンに語った誓約。
それは確かに、果たされることになる。ビーブの血統はのちに『ダンテ』と呼ばれる生物兵器のもととなり、賢者マークスⅡの名を名乗るようになったロウワンと共に、亡道の司との最後の戦いに挑むことになる。
いまから、千年ののちに。
そして、出陣の日はやってきた。
ロウワンは港にそろった船と、船員たちの前に姿を表した。
自分の指揮をまつ数万の兵士たち。自分が死なせることになる無数の人間たち。その兵士たちを前にロウワンはいささかも怯むことはない。当然のごとく、胸を張り、その視線を受けとめ、その場に立っている。
その姿は一〇代半ばの少年のものではなかった。
若者とさえ言えない。
威風堂々たる若き王の姿だった。
「聞いてくれ、みんな!」
ロウワンは声の限りに叫んだ。
「人と人の争いを終わらせる! 誰もが自分の望む暮らしを送ることのできる世界を作りあげる! それが、自由の国の、都市網社会の目的。だが、ローラシアの〝賢者〟たちは、この世界を千年前に押しとどめようとしている。世界がかわっていくことを拒否し、自分たちが永遠に支配者として君臨できる世の中にしようとしている。自分たちだけの楽園を築こうとしているんだ!
そんなことを許すわけにはいかない。おれたちは誰しも、自分の望む暮らしを手に入れる権利がある! 戦争で殺されることも、奴隷として使われることもなく、自分の望む幸せを手に入れる権利が!
しかし、それを実現できる世界を築くためには時間がかかる。一代や二代でできることじゃない。だけど、おれたちはたしかに一歩を踏み出した。おれたちの後ろにはいま、そんな未来を実現するために行動している仲間たちがいる。おれたちが戦い、必要な時間を手に入れることさえできれば、その仲間たちが必ず、そんな世界を実現してくれる。
そのために、そんな世界を実現する時間を手に入れるためにいま、おれたちは戦う! おれたちの子が、孫が、さらにその子たちが、自分の望む暮らしを手に入れられる世界で暮らせるようにするために!」
おおおっ。
ロウワンのその言葉に――。
海鳴りのような深い音が轟く。
ビーブが、
トウナが、
野伏が、
行者が、
メリッサが、
プリンスが、
〝ブレスト〟が、
セシリアが、
ミッキーが、
ブージが、
その声に包まれて、その場にいる。
そして、恐らくは、いまは亡きガレノアとボウも。
若干一名、どうしても嫌いにしかなれない相手もいるが、それも含めた上での大切な仲間たち。その仲間たちとともにロウワンはいま、出陣する。過去の呪縛を断ち切り、望む未来を手に入れる、そのために。
「さあ、帆をあげろ! おれたちの戦いのはじまりだ!」
そして、自由の国の船団は大海原に乗り出した。
自分たちの望む未来を手に入れる、そのために。
会議場に入ってきた黒人の若者を見て、トウナはいぶかしむ表情をした。
怯えている。
そう言ってもいいぐらいの表情だった。
幼い頃から島のガキ大将として、男の子たち相手に喧嘩は負け知らず。度胸においては誰にも負けない。そのトウナにして、思わず怯えた表情を浮かべてしまう。それぐらい、プリンスの態度は真剣なものだった。
クロヒョウを思わせるほどに剽悍なこの若者であれば、たとえ命のかかった戦場であっても、ここまで神経を張り詰めることはないだろう。事実、プリンス自身、どんな戦場でも感じたことのないほどに緊張していることを自覚していた。
「プリンス? どうしたの、いったい?」
トウナがそう尋ねたのは、プリンスの放つ緊張感に耐えられなくなったからだった。それぐらい、プリンスの周囲の空気は張り詰めている。空気の一粒ひとつぶが鋭い針にかわってしまったかのように。
「トウナ」
プリンスはようやく言った。
張り詰めた緊張感そのままに。
「トウナ。君に頼みがある」
「頼み?」
「おれと結婚してくれ」
「結婚?」
トウナは思わず聞き返した。
プリンスはうなずいた。
「そうだ。君をはじめて見たときから好きだった。一目惚れ、なんて、そのときまで本当にあるなんて思っていなかった。でも、おれはたしかに君に一目惚れしたんだ。そのときからずっと、君だけを見てきた。改めて頼む。おれと結婚してくれ」
まっすぐに――。
トウナの目を見つめながらプリンスは言った。その真剣すぎるほどに真剣な表情。ピリピリと肌の傷むような緊張感。針の一刺しで弾けてしまいそうなほどに張り詰めた神経。
そのすべてが、これが本気の求婚であることを告げていた。冗談や悪ふざけなど、わずかたりとも入り込む余地などない。
それはもちろん、トウナにも伝わった。トウナはプリンスに劣らないほど真剣な表情になった。漆黒の肌の青年を正面から見つめ返した。
「あたしと結婚。あたしに、あなたの子どもを産めと言うの?」
「あ、いや、子どもとか、そう言うことじゃなくて……」
思わぬ一撃にプリンスは怯んだ。いままでに経験したどんな戦場でも、ここまで怯んだことはない。頬がたちまち熱くなったが、黒い肌のおかげで赤面していることがわからずにすんだのは幸運だったろう。
トウナはつづけた。
「このタラの島において結婚は仕事よ。島の社会を維持するために子を産み、育てる。結婚はそのための手段。個人の感情なんて二の次。人口を維持するために親や島長の決めた相手と結婚するのが、この島の習わし。あたしはずっと、そんな世界で生きてきた。それが、当たり前だと思っていた。だから、あたしは恋愛なんてもの自体を知らなかった」
「トウナ……」
「この島を出て、外の世界を旅するようになってはじめて、世の中には『恋愛』というものがあることを知った。でも、あたし自身はどこまでいっても、タラの島の女。結婚は子どもを産むための手段であって、恋愛云々とは関係ないわ。もし、あなたが望んでいることが物語のなかのような恋愛をすることなら、あたしは叶えてあげられない。それでも、あたしと結婚したいの?」
「そうだ」
プリンスは迷いなくうなずいた。トウナを見つめる瞳にはもはや怯む色はなかった。
「おれは君と人生を共にしたい。君とずっと一緒に生きていきたい。君がおれの妻となり、おれの子どもを産んでくれるなら、それほど嬉しいことはない」
君がおれの子どもを産んでくれるなら、おれはすべてを懸けて君と、その子どもを守る。
「この生命が終わる、そのときまで」
プリンスははっきりとそう言った。
それは、炎と精霊の言葉によって紡がれた誓約。生ある限り、決して裏切ることのできない誓いだった。
トウナは目を閉じた。軽くうなずいた。再び、目を開けた。そして、言った。
「わかったわ」
「トウナ!」
「あなたは誠実だし、勇敢だし、子どもの父親としては申し分ないものね。あなたの子どもなら産む価値はある。ただし――」
「ただし?」
「今度の戦いに生きて帰ってきたらの話よ。あたしは初夜だけをすませて寡婦になる気はないわ。あたしに自分の子どもを産ませたいなら生きて、責任をとりなさい」
「わかった」
プリンスはきっぱりと言いきった。
「おれは必ず生きて帰ってくる。それだけじゃない。この戦いが終わったらおれは、おれの国を作る。すべての奴隷たちが人間としての生を得ることのできる国をだ。その国の王となって、おれは君のもとに戻ってくる。そうしたら……結婚してくれ」
「ええ」
と、トウナは微笑んだ。
はじめて、張り詰めていた緊張感が緩んだ。そのかわり、ハチミツ漬けの砂糖菓子のような甘い香りが漂いはじめた。
トウナは優しい微笑みを湛えたまま、未来の夫に言った。
「どんな結婚式にするか、考えておいて。あたしは恋愛はできないけど、結婚式ぐらいは、あなたの望みを叶えてあげるわ」
こうして――。
この日、
この夜、
この場所で、
炎と精霊の言葉によって繋がれた一組の夫婦が誕生した。
その様を目撃した人間はこの世でただひとり、会議場の外からこっそり様子をうかがっていたロウワンだけだった。
「……おめでとう、プリンス。よくやったな。それに、トウナも」
一抹の寂しさを感じながら――。
ロウワンはふたりの大切な仲間のために祝福した。
ロウワンが港へとやってきたのは、その内心に生まれたさざ波を潮風に当たって静めるためだったろうか。
しかし、今日のロウワンはそういう運命だったのだろうか。心の波風を静めるために訪れたはずの港において、もう一組の夫婦の囁きを聞くことになった。
月明かりに照らされて、静かに寄せては返す波の音に包まれながら、その場にいたのはビーブと、その妻たるコハ。ハルキス島で出会ってから常に一緒にいたきょうだい分であり、相棒。その相棒が旅先で見つけた妻。種族こそちがうが、ふたりは深い愛情で結ばれている。
『恋愛』という言い方をするなら、トウナとプリンスよりよほど恋愛している仲と言えるだろう。そんなふたりがいま、月明かりのもとで正面から向き合っていた。
――どうしても行くの?
月の魔術だろうか。ビーブのみならず、コハの言葉さえ、ロウワンにははっきりとその意味がわかった。
妻の言葉にビーブはうなずいた。
――当たり前だろ。おれは自由の国一の戦士なんだからな。
――でも……あたしのお腹には、あなたの子どもがいるのよ? その子をおいて戦いに行くの?
――ああ。お前がおれの子どもを身ごもってくれた。そう聞いたときは、飛びあがるほど嬉しかったさ。何がなんでも、おれの家族を守り抜く。そう誓った。
――だったら……。
――だからこそ、おれは行くんだ。わかってるだろ。亡道の司との戦いは人間だけの問題じゃない。この世界そのものの存亡がかかっているんだ。人間だけに任せちゃおけないし、任せておいていいことでもない。そんなの、情けなさ過ぎるだろ。おれたちだって、この世界の一員として責任をもたなくちゃな。だから、おれは戦場に行くんだ。亡道の司をぶっ倒し、おれの家族が安心して暮らせる世界を手に入れるためにな。
――ビーブ……。
月の明りと潮風の匂い。そして、寄せては返す波音。それらに包まれながら深い愛で結ばれた夫婦は互いにたがいを抱きしめあった。
やがて、コハは夜空のもとを駆けて去って行った。その場にはビーブだけが取り残された。
「キキキッ」
――おい、ロウワン。いるんだろ。隠れてないで出てこいよ。
その言葉に――。
「かなわないな」
と、ロウワンは頭をかきながら姿を表した。その顔にはなんとも言えない苦笑が浮いている。
「さすがに、気付かれていたか」
――当たり前だろ。おれが、お前の気配に気付かないなんてことがあるもんか。
「そうだな」
と、ロウワンは頼もしい相棒の言葉に苦笑した。
「とにかく、謝らないとな。盗み聞きするような真似をしてしまって。そんな気はなかったんだけど、ここに来たら偶然、見かけたものだから……」
――気にするな。隠すようなことじゃない。
「それでも、謝っておくよ。礼儀知らずな真似をしたのは確かだからね。ごめん。でも……」
そう言って頭をさげたあと、ロウワンはみたび、苦笑した。
「だけど、まさか、ビーブに子どもができていたなんてな。コハとは種族がちがうのに、よくできたな」
――メリッサが細工をしてくれてな。
「メリッサ師が?」
――ああ。天命の理で、コハがおれの子どもを孕めるようにしてくれた。
「……そうか。メリッサ師が」
なるほど。それで、コハの言葉がわかったわけか。
――研究一筋かと思っていたけど、あの人も意外に恋愛好きなのかな?
そう思い、少しばかり苦笑するロウワンだった。
ふと、その場に沈黙が降りた。
潮風と波の音だけが静かに響いた。
ロウワンが言うともなく言った。
「さっき、プリンスがトウナに求婚したよ」
――へえ。そいつはすごい。あのヘタレにしてはよくやったじゃないか。見直したぜ。
「トウナは受け入れた。ただし、今度の戦いで生きて帰ってくれば……の話だけどね」
――そうか! そいつはめでたい。あの鈍い姉ちゃんにもようやく春がきたってわけだ。
「はは。そういうことだな。でも……」
――どうした?
なにか落ち込んだようなロウワンを見て、ビーブは気遣わしげに尋ねた。
「……うん。なんだか、おれひとり取り残された気がして」
――取り残された?
「ああ。だって、ビーブ。お前とはハルキス先生の島からずっと一緒だった。トウナともこの島に来てからやっぱり、一緒に行動してきたんだ。それなのに、トウナは結婚。お前にいたっては子どもまでできて……。それなのに、おれはなにもかわっていない。自分ひとり、おいていかれた気分だよ」
――トウナはともかく、おれの場合は仕方ないな。種族ごとの成長のちがいってやつだ。おれは、お前たちほど長くは生きられない。
「ビーブ⁉」
――叫ぶなよ。こいつは自然の掟ってやつだ。おれたちは人間より寿命が短い。その分、早く成長するし、早く死ぬ。おれはお前の旅に最後まで付き合うことはできない。でもな、ロウワン。悲しむことはないぜ。おれが死んでも、おれの子が、孫が、さらにその子が、きっと、お前の側にいる。おれの血はずっとお前と一緒なんだ。お前がおれの助けを必要とするときは必ず、おれの血が助けてやるさ。
「ありがとう、ビーブ」
大切なきょうだい分の思いに――。
ロウワンはただそれだけを言った。
――ああ、そうそう。おれの墓にはただ一言だけ書いといてくれればいいぜ。『我が友』ってな。
「……わかった」
ロウワンはさすがに苦笑するしかなかった。
それから、溜め息をついた。なにか、後悔しているような表情になった。
「……ビーブ。お前は、おれと会ってよかったのかな?」
――なんだって? そりゃどういう意味だ?
「おれと出会ったから、島を出て、戦いに加わることになった。いつ死ぬかもわからない戦いに。おれと出会いさえしなければ、お前はずっとあの島にいて、命の危険にさらされることなく森のなかで穏やかに暮らせていられたのに。おれと出会って、本当によかったのか?」
その言葉に――。
ビーブは『あきれた』とばかりに、のけぞって見せた。
――おいおい、ロウワン。野性の暮らしを甘く見るなよな。おれたちにとっちゃあ、日々の暮らしそのものが生きるか死ぬかの戦いなんだぜ。いつ飢えに襲われるかわからない。いつ肉食獣に狙われるかわからない。そのなかで生き抜いてきたんだ。人間の戦いのなかを生きるなんて楽なもんさ。
「でも……」
――それによ。コハに言ったことを聞いてたんだろ? おれは望んで戦ってるんだぜ。この世界を、おれとおれの家族が生きるこの世界を守るためにな。その機会を与えてくれたお前に感謝してるんだ。もし、お前と出会わなかったら、この世界に危機が迫っていることも知らず、呑気に暮らしているだけだったんだからな。それを思うとゾッとするぜ。自分自身の運命がかかっているのにそれも知らず、自分では関わることもできず、人間どもに任せておかなきゃいけないなんてな。それに比べりゃ、いまの方がずっといい。
「……そうか」
と、ロウワンは短く言った。その顔に、晴れやかな笑みが浮いていた。
ビーブの言葉にはいかなる迷いも、ためらいも、疑いもない。そんな言葉を聞かされては、そうとしか言えなかった。
「お前には失礼な言葉だったな。ごめん」
――なあに、いいってことよ。気にするな。
「よし、ビーブ。必ず、勝とう。そして、おれたちの望む未来を手に入れるんだ」
――おう、任せとけ! おれさまがいる限り、お前に敗けはねえ。
「ああ。頼む、ビーブ」
――と言うわけで、お前も早く嫁さん、見つけろよ。お前の兄貴分として可愛がってやるからよ。
その言葉に――。
ロウワンはまたも苦笑した。
この日、ビーブがロウワンに語った誓約。
それは確かに、果たされることになる。ビーブの血統はのちに『ダンテ』と呼ばれる生物兵器のもととなり、賢者マークスⅡの名を名乗るようになったロウワンと共に、亡道の司との最後の戦いに挑むことになる。
いまから、千年ののちに。
そして、出陣の日はやってきた。
ロウワンは港にそろった船と、船員たちの前に姿を表した。
自分の指揮をまつ数万の兵士たち。自分が死なせることになる無数の人間たち。その兵士たちを前にロウワンはいささかも怯むことはない。当然のごとく、胸を張り、その視線を受けとめ、その場に立っている。
その姿は一〇代半ばの少年のものではなかった。
若者とさえ言えない。
威風堂々たる若き王の姿だった。
「聞いてくれ、みんな!」
ロウワンは声の限りに叫んだ。
「人と人の争いを終わらせる! 誰もが自分の望む暮らしを送ることのできる世界を作りあげる! それが、自由の国の、都市網社会の目的。だが、ローラシアの〝賢者〟たちは、この世界を千年前に押しとどめようとしている。世界がかわっていくことを拒否し、自分たちが永遠に支配者として君臨できる世の中にしようとしている。自分たちだけの楽園を築こうとしているんだ!
そんなことを許すわけにはいかない。おれたちは誰しも、自分の望む暮らしを手に入れる権利がある! 戦争で殺されることも、奴隷として使われることもなく、自分の望む幸せを手に入れる権利が!
しかし、それを実現できる世界を築くためには時間がかかる。一代や二代でできることじゃない。だけど、おれたちはたしかに一歩を踏み出した。おれたちの後ろにはいま、そんな未来を実現するために行動している仲間たちがいる。おれたちが戦い、必要な時間を手に入れることさえできれば、その仲間たちが必ず、そんな世界を実現してくれる。
そのために、そんな世界を実現する時間を手に入れるためにいま、おれたちは戦う! おれたちの子が、孫が、さらにその子たちが、自分の望む暮らしを手に入れられる世界で暮らせるようにするために!」
おおおっ。
ロウワンのその言葉に――。
海鳴りのような深い音が轟く。
ビーブが、
トウナが、
野伏が、
行者が、
メリッサが、
プリンスが、
〝ブレスト〟が、
セシリアが、
ミッキーが、
ブージが、
その声に包まれて、その場にいる。
そして、恐らくは、いまは亡きガレノアとボウも。
若干一名、どうしても嫌いにしかなれない相手もいるが、それも含めた上での大切な仲間たち。その仲間たちとともにロウワンはいま、出陣する。過去の呪縛を断ち切り、望む未来を手に入れる、そのために。
「さあ、帆をあげろ! おれたちの戦いのはじまりだ!」
そして、自由の国の船団は大海原に乗り出した。
自分たちの望む未来を手に入れる、そのために。
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児童書・童話
無様であろうと出来る全てはやったと満足を抱き、王女様は美しくわらいました。
それはそれは美しい笑みでした。
「お前程の悪女はおるまいよ」
王子様は最後まで嘲笑う悪女を一刀で断罪しました。
きたいの悪女は処刑されました 解説版
ローズお姉さまのドレス
有沢真尋
児童書・童話
最近のルイーゼは少しおかしい。
いつも丈の合わない、ローズお姉さまのドレスを着ている。
話し方もお姉さまそっくり。
わたしと同じ年なのに、ずいぶん年上のように振舞う。
表紙はかんたん表紙メーカーさまで作成
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お姫様の願い事
月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。
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悪女の死んだ国
神々廻
児童書・童話
ある日、民から恨まれていた悪女が死んだ。しかし、悪女がいなくなってからすぐに国は植民地になってしまった。実は悪女は民を1番に考えていた。
悪女は何を思い生きたのか。悪女は後世に何を残したのか.........
2話完結 1/14に2話の内容を増やしました
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
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ぼくの家族は…内緒だよ!!
まりぃべる
児童書・童話
うちの家族は、ふつうとちょっと違うんだって。ぼくには良く分からないけど、友だちや知らない人がいるところでは力を隠さなきゃならないんだ。本気で走ってはダメとか、ジャンプも手を抜け、とかいろいろ守らないといけない約束がある。面倒だけど、約束破ったら引っ越さないといけないって言われてるから面倒だけど仕方なく守ってる。
それでね、十二月なんて一年で一番忙しくなるからぼく、いやなんだけど。
そんなぼくの話、聞いてくれる?
☆まりぃべるの世界観です。楽しんでもらえたら嬉しいです。
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昨日の敵は今日のパパ!
波湖 真
児童書・童話
アンジュは、途方に暮れていた。
画家のママは行方不明で、慣れない街に一人になってしまったのだ。
迷子になって助けてくれたのは騎士団のおじさんだった。
親切なおじさんに面倒を見てもらっているうちに、何故かこの国の公爵様の娘にされてしまった。
私、そんなの困ります!!
アンジュの気持ちを取り残したまま、公爵家に引き取られ、そこで会ったのは超不機嫌で冷たく、意地悪な人だったのだ。
家にも帰れず、公爵様には嫌われて、泣きたいのをグッと我慢する。
そう、画家のママが戻って来るまでは、ここで頑張るしかない!
アンジュは、なんとか公爵家で生きていけるのか?
どうせなら楽しく過ごしたい!
そんな元気でちゃっかりした女の子の物語が始まります。
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