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第二部 絆ぐ伝説
第七話四章 おれの国を作る
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「兵たちが戦いをきらっている?」
ロウワンは眉をひそめた。いぶかしげに尋ねた。〝ブレスト〟はその言葉に対して、
「ええ」
と、布で覆った顔を縦に振った。
ロウワンは眉をひそめたまま、尋ねた。
「なぜ? どうして? たしかに、今回の戦いは人間相手じゃない。正体不明の化け物相手だ。だからって、そんなことでビビるような元海賊たちじゃないだろう。海賊にとって、死の危険なんて一緒に育った双子みたいなものだろう。いまさら、気にするはずがない。それに、充分な報酬も約束してある。海賊たちなら喜び勇んで戦いに出向くはずだ」
「わからない?」
「なにが?」
ロウワンはキョトンとした顔付きで聞き返した。その側ではプリンスが相変わらず、かの人らしくもない歯切れの悪い表情を浮かべている。
困っている。
そう言ってもいい表情だった。
〝ブレスト〟は、プリンスが言えないことをロウワンに告げた。
「今回の戦いの目的はローラシアを救うこと。ローラシアの貴族たちを。そして、自由の国には、ローラシアから逃げてきた元奴隷が大勢いる」
「あっ……」
ロウワンは小さく声をあげた。
ロウワンの、そして、その後ろにいるビーブやトウナ、野伏、行者たちの顔にも同様の理解の色が広がった。そのなかでプリンスはギュッと拳を握りしめ、唇を噛みしめてうつむいている。
〝ブレスト〟はうなずいた。
「そう。かの人たちにとってローラシア、とくに貴族たちは、憎んでもにくみたりない敵。なんで、その敵を助けてやらなくちゃならない。ローラシアなんて訳のわからない化け物どもに滅ぼされてしまえばいい。そう言っている兵が大勢いる」
「……そうか」
今度はロウワンが拳を握りしめ、うつむく番だった。
言われてみればもっともだ。ローラシア貴族たちに虐げられてきた元奴隷階級の人間たちが、そのローラシア貴族たちを救うために命を懸ける気になどなれるわけがない。
殺され、滅ぼされる様を高笑いしながら眺めていてやりたい。
それが本音だろう。
プリンスが言いよどむ理由もわかる。プリンスもまたローラシアの黒人奴隷の子。産まれながらに、奴隷としての生涯を強制された身。その黒光りする広い背中にはいまもくっきりと、幼い頃に鞭打たれた無数の傷跡が残っている。ローラシアに対して思うところがないはずがない。兵士たちの気持ちも身に染みてわかるだろう。
しかし、同時にプリンスは一兵士などではない。自由の国海軍の将校のひとりとして、兵士たちを指揮し、主催であるロウワンの指示を遂行する義務と責任がある。その板挟みにあい、苦しんでいたにちがいない。
――そのことに気付かなかったなんてな。これじゃ、指導者失格だな。
ロウワンはそう思い、握りしめた拳にさらに力を込めた。しばし、うつむいたあと、決意を固めた表情で顔をあげた。まずは、〝ブレスト〟を見た。
「ありがとう、〝ブレスト〟。おれの気付かなかったことをよく教えてくれた。感謝する」
「いえ……」
〝ブレスト〟は小さく言うと、視線をそらした。
〝ブレスト〟が、
男殺しの〝ブレスト〟・ザイナブが、男相手に視線をそらす。
それはまさに、歴史的な出来事だった。ロウワンのあまりにも素直でまっすぐな態度がまぶしすぎた、そのための行動だった。
ロウワンは次にプリンスを見た。元奴隷の黒人青年を見るプリンスの瞳にははっきりした覚悟が宿っていた。
「プリンス。あなたの本音を聞きたい。あなたはローラシアに復讐したいのか?」
「おれは……」
プリンスはそう言ったきり、口を閉ざした。言いたいことがないのではない。
その逆だ。言いたいことが多すぎる。ぶちまけることができるなら思いきりぶちまけてやりたい思いが胸の奥で渦巻き、つっかえて、喉の奥から出てこない。胸奥で渦巻く思いがあまりにも強すぎて、吐き気さえ覚えるほどだ。
プリンスはローラシアの黒人奴隷の子として産まれた。それは、生涯、ローラシア貴族の奴隷として生きるよう宿命づけられて産まれたことを意味する。
「宿命なんてものはないんだ」
そんなものは、宿命に恵まれた人間だから言えること。奴隷の子として産まれ、奴隷として生きるよう強制され、奴隷としての意識だけを徹底的に叩き込まれる。
そんな産まれの人間がどうやったら、『自分の意思で』奴隷の身から逃れ、ひとりの人間として生きていけるというのか。
宿命に恵まれ、上級世界の人間として産まれたものには決してわからない、不幸の定め。
人の世にはたしかにそれがある。
プリンスはその不幸の定めに生まれた人間だった。
ただ、嘲りのためだけに『プリンス』という高貴なる名を与えられ、物心付いたときから仕事しごと。毎日まいにち朝から晩まで働き通し。休んでいる暇など一時もありはしない。
まさに、寝ているとき以外はすべて仕事の人生。その仕事のうち最大のものは、主人である貴族の息子の気晴らしに、鞭で打たれることだった。
毎日のように背中を鞭で殴られた。
いまも残る背中の傷は、そうしてできたものだ。
そんな暮らしのなかでしかし、主人である貴族や、自分を鞭打つ貴族の息子が憎かったわけではない。怒りを感じていたわけでもない。
どうして、憎しみや怒りなど感じることができる?
それ以外の暮らしなんて知らないのに。こき使われ、鞭打たれるのがプリンスにとっての『普通』であり『日常』だったのに。
憎しみも、怒りも、『もっとましな人生がある』ことを知っていればこそ沸き起こるもの。感じることができるもの。それ以外の暮らしがあることを知らない人間に、自分が不幸な境遇にあるという自覚などもてるはずもなく、虐げられているという認識も生まれるはずがない。その認識のないところに憎しみも、怒りも、生まれるはずがなかった。
しかし、いまはちがう。主人である貴族に船の漕ぎ手として売られ、鎖につながれて櫂を漕ぎつづける日々。監視され、鞭打たれ、排泄のための時間すらなく、座り込んだ板を自分の大小便で汚しながら、ひたすらに櫂を漕ぎつづける。ときには、一日に二〇時間以上もぶっつづけて漕ぎつづけることもあった。
その過酷な条件のなかでぶっ倒れて意識を失わないよう、監視人がワインに浸したパンを口のなかに詰め込んでいく。それを無理やり飲みくだし、櫂を漕ぎつづける。
そんな日々だった。
そんななか、いまは亡きガレノアがプリンスの乗っていた船を襲った。それを機に奴隷の鎖を断ち切り、海賊となった。そうして、生まれてはじめて『人間としての』生活を手に入れたのだ。
人間となったいまならわかる。奴隷時代の自分がどんなにひどい扱いをされていたことか。どんなに理不尽な境遇に身を置いていたことか。だからこそ――。
だからこそ、いまなら憎むことができる。怒りを覚えることができる。自分を虐げ、鞭打った貴族のどら息子。そのどら息子に同じ思いを味合わせてやりたい。今度は自分があのどら息子の背中を鞭打ってやりたい。
そう思えるほどには。
しかし――。
――おれは、ただの一兵士じゃない。自由の国海軍の将校なんだ。将校として、兵士たちを指揮する責任がある。
その思いもある。
いまの自分があるのは、ガレノアが自分を奴隷の身から解放してくれたからこそであり、ガレノアが自分を見込み、引き立ててくれたからこそ。ガレノアには返しきれない恩がある。死人相手とはいえ恩は恩。死人相手だからこそ、裏切ることのできない恩。その恩に少しでも報いるために、ガレノアによって与えられたいまの地位に対する義務と責任は果たさなくてはならない。
その一心で、『ローラシアを救う』ことに拒否感を感じる兵士たちを指揮して出撃の準備を進めてきた。過酷な演習を行わせてきた。そんなプリンスに対し、同じ元黒人奴隷たちは囁き合った。
「あいつだって、おれたちと同じ元黒人奴隷なのに、なんで、ローラシアを救うために出撃しようなんて思うんだよ」
「偉くなったもんだから昔のことなんか忘れて、お偉いさんに尻尾を振るようになったってことだろ」
そんな声があるなかで、それでも兵士たちを指揮し、準備を進め、演習を重ねてこれたのは、それだけプリンスが兵士たちから信頼されているという証拠だった。
――そうだ。おれは自由の国の将校。おれ個人の思いよりも、その立場と責任の方が重要なんだ。
その思いを込めて拳を握りしめた。心のなかに渦巻く思いのなかから、ただ一言だけをすくいとり、言葉にした。
「おれは自由の国の将校だ。主催であるお前の決定に従う」
普通の軍隊であれば――。
それで話は終わっていた。上官が命令し、部下はそれに従う。ただ、それだけのこと。そこには、疑問も感情も必要ない。ただただ上官の命令を遂行する自動人形でありさえすればいい。しかし――。
自由の国は、ロウワンは、普通の軍とはちがった。ロウワンはかぶりを振り、プリンスに言った。
「プリンス。おれは、そんな建前を聞いているんじゃない。あなた自身の本音、本当の思いを聞いているんだ」
「おれの……本音?」
「そうだ。自由の国の将校とか、そんな立場とは関係ない。ひとりの人間としてのあなたの本音。おれが聞きたいのはその一点だ」
再び――。
プリンスは握りしめる拳に力を込めた。しかし、今度は力を込めた意味がちがった。
「……やりたい」
プリンスはついに言った。
「復讐してやりたい! おれを鞭で殴ったあのどら息子を、今度はおれが捕まえ、鞭で殴ってやりたい!」
その口調の激しさ、表情の険しさ。それはもはや『人』のものではなかった。
鬼。
まさに、そう言うにふさわしいものだった。
その激しさにはビーブやトウナはもちろん、野伏や行者でさえ目を見張ったほどだった。
ただひとり、ロウワンだけがかわることのない静かな表情を湛えていた。
ロウワンはそっと目を閉じた。顔をうつむかせた。再び顔をあげたとき、そこにははっきりした決意が宿っていた。
「わかった。だったら、プリンス。あなたの国を作れ」
「おれの国⁉」
思わぬ言葉にプリンスは目を丸くした。
プリンスだけではない。ビーブも、トウナも、野伏も、行者も、その場にいる全員が同じように目を丸しくて驚いていた。〝ブレスト〟でさえ、顔中を多う布の隙間から覗く切れ長の瞳を丸くしている。
「そうだ」
と、ロウワンはうなずいた。
「それができるのが都市網社会。誰であれ、自分の望む暮らしを送れる国を作ることができる。それが、都市網社会だ。だから、プリンス。自分の国を作れ。自由の国は奴隷制度を否定している。自由の国のなかでかつての奴隷主を奴隷にし、使うことを認めるわけにはいかない。だけど、プリンス。あなたが自分の国を作り、そのなかで奴隷主を奴隷として使うなら話は別だ」
「しかし……いいのか? 奴隷制を否定する自由の国が、他の国に奴隷をもつことを認めても?」
「奴隷制度を認めるわけにはいかない。でも、刑罰としてならちがう。かつて、自分を虐げ、鞭打った奴隷主に、自分たちがしてきたことの意味を思い知らせるための刑罰として、奴隷の暮らしを味合わせる。そういうことなら許容範囲内だ」
――それなら……。
プリンスの心のなかでその思いが湧き起こった。
――それなら、おれを鞭打ったあのどら息子を見つけ出し、今度はおれがあいつを奴隷として使い、鞭で打ってやれる。自分のされてきたことを思い知らせてやれる。
ゾクリ、と、プリンスは自分の魂が震えるのを感じた。
「わかった」
と、小さく答えた。その声には断固たる覚悟が宿っていた。
「おれは、おれの国を作る。そのなかで、奴隷を使ってきたすべての人間に思い知らせてやる!」
そして、ロウワンに向かって言った。いまや、ガレノアにつづく第二の恩人となった年下の若者に向かって。
「任せてくれ、ロウワン。そういうことなら、ローラシアを救うことをきらう兵士たちも喜んで戦う。おれが奮い立たせる。かつてない、最強の戦士団にしてローラシアに送り込んでみせる」
ロウワンは眉をひそめた。いぶかしげに尋ねた。〝ブレスト〟はその言葉に対して、
「ええ」
と、布で覆った顔を縦に振った。
ロウワンは眉をひそめたまま、尋ねた。
「なぜ? どうして? たしかに、今回の戦いは人間相手じゃない。正体不明の化け物相手だ。だからって、そんなことでビビるような元海賊たちじゃないだろう。海賊にとって、死の危険なんて一緒に育った双子みたいなものだろう。いまさら、気にするはずがない。それに、充分な報酬も約束してある。海賊たちなら喜び勇んで戦いに出向くはずだ」
「わからない?」
「なにが?」
ロウワンはキョトンとした顔付きで聞き返した。その側ではプリンスが相変わらず、かの人らしくもない歯切れの悪い表情を浮かべている。
困っている。
そう言ってもいい表情だった。
〝ブレスト〟は、プリンスが言えないことをロウワンに告げた。
「今回の戦いの目的はローラシアを救うこと。ローラシアの貴族たちを。そして、自由の国には、ローラシアから逃げてきた元奴隷が大勢いる」
「あっ……」
ロウワンは小さく声をあげた。
ロウワンの、そして、その後ろにいるビーブやトウナ、野伏、行者たちの顔にも同様の理解の色が広がった。そのなかでプリンスはギュッと拳を握りしめ、唇を噛みしめてうつむいている。
〝ブレスト〟はうなずいた。
「そう。かの人たちにとってローラシア、とくに貴族たちは、憎んでもにくみたりない敵。なんで、その敵を助けてやらなくちゃならない。ローラシアなんて訳のわからない化け物どもに滅ぼされてしまえばいい。そう言っている兵が大勢いる」
「……そうか」
今度はロウワンが拳を握りしめ、うつむく番だった。
言われてみればもっともだ。ローラシア貴族たちに虐げられてきた元奴隷階級の人間たちが、そのローラシア貴族たちを救うために命を懸ける気になどなれるわけがない。
殺され、滅ぼされる様を高笑いしながら眺めていてやりたい。
それが本音だろう。
プリンスが言いよどむ理由もわかる。プリンスもまたローラシアの黒人奴隷の子。産まれながらに、奴隷としての生涯を強制された身。その黒光りする広い背中にはいまもくっきりと、幼い頃に鞭打たれた無数の傷跡が残っている。ローラシアに対して思うところがないはずがない。兵士たちの気持ちも身に染みてわかるだろう。
しかし、同時にプリンスは一兵士などではない。自由の国海軍の将校のひとりとして、兵士たちを指揮し、主催であるロウワンの指示を遂行する義務と責任がある。その板挟みにあい、苦しんでいたにちがいない。
――そのことに気付かなかったなんてな。これじゃ、指導者失格だな。
ロウワンはそう思い、握りしめた拳にさらに力を込めた。しばし、うつむいたあと、決意を固めた表情で顔をあげた。まずは、〝ブレスト〟を見た。
「ありがとう、〝ブレスト〟。おれの気付かなかったことをよく教えてくれた。感謝する」
「いえ……」
〝ブレスト〟は小さく言うと、視線をそらした。
〝ブレスト〟が、
男殺しの〝ブレスト〟・ザイナブが、男相手に視線をそらす。
それはまさに、歴史的な出来事だった。ロウワンのあまりにも素直でまっすぐな態度がまぶしすぎた、そのための行動だった。
ロウワンは次にプリンスを見た。元奴隷の黒人青年を見るプリンスの瞳にははっきりした覚悟が宿っていた。
「プリンス。あなたの本音を聞きたい。あなたはローラシアに復讐したいのか?」
「おれは……」
プリンスはそう言ったきり、口を閉ざした。言いたいことがないのではない。
その逆だ。言いたいことが多すぎる。ぶちまけることができるなら思いきりぶちまけてやりたい思いが胸の奥で渦巻き、つっかえて、喉の奥から出てこない。胸奥で渦巻く思いがあまりにも強すぎて、吐き気さえ覚えるほどだ。
プリンスはローラシアの黒人奴隷の子として産まれた。それは、生涯、ローラシア貴族の奴隷として生きるよう宿命づけられて産まれたことを意味する。
「宿命なんてものはないんだ」
そんなものは、宿命に恵まれた人間だから言えること。奴隷の子として産まれ、奴隷として生きるよう強制され、奴隷としての意識だけを徹底的に叩き込まれる。
そんな産まれの人間がどうやったら、『自分の意思で』奴隷の身から逃れ、ひとりの人間として生きていけるというのか。
宿命に恵まれ、上級世界の人間として産まれたものには決してわからない、不幸の定め。
人の世にはたしかにそれがある。
プリンスはその不幸の定めに生まれた人間だった。
ただ、嘲りのためだけに『プリンス』という高貴なる名を与えられ、物心付いたときから仕事しごと。毎日まいにち朝から晩まで働き通し。休んでいる暇など一時もありはしない。
まさに、寝ているとき以外はすべて仕事の人生。その仕事のうち最大のものは、主人である貴族の息子の気晴らしに、鞭で打たれることだった。
毎日のように背中を鞭で殴られた。
いまも残る背中の傷は、そうしてできたものだ。
そんな暮らしのなかでしかし、主人である貴族や、自分を鞭打つ貴族の息子が憎かったわけではない。怒りを感じていたわけでもない。
どうして、憎しみや怒りなど感じることができる?
それ以外の暮らしなんて知らないのに。こき使われ、鞭打たれるのがプリンスにとっての『普通』であり『日常』だったのに。
憎しみも、怒りも、『もっとましな人生がある』ことを知っていればこそ沸き起こるもの。感じることができるもの。それ以外の暮らしがあることを知らない人間に、自分が不幸な境遇にあるという自覚などもてるはずもなく、虐げられているという認識も生まれるはずがない。その認識のないところに憎しみも、怒りも、生まれるはずがなかった。
しかし、いまはちがう。主人である貴族に船の漕ぎ手として売られ、鎖につながれて櫂を漕ぎつづける日々。監視され、鞭打たれ、排泄のための時間すらなく、座り込んだ板を自分の大小便で汚しながら、ひたすらに櫂を漕ぎつづける。ときには、一日に二〇時間以上もぶっつづけて漕ぎつづけることもあった。
その過酷な条件のなかでぶっ倒れて意識を失わないよう、監視人がワインに浸したパンを口のなかに詰め込んでいく。それを無理やり飲みくだし、櫂を漕ぎつづける。
そんな日々だった。
そんななか、いまは亡きガレノアがプリンスの乗っていた船を襲った。それを機に奴隷の鎖を断ち切り、海賊となった。そうして、生まれてはじめて『人間としての』生活を手に入れたのだ。
人間となったいまならわかる。奴隷時代の自分がどんなにひどい扱いをされていたことか。どんなに理不尽な境遇に身を置いていたことか。だからこそ――。
だからこそ、いまなら憎むことができる。怒りを覚えることができる。自分を虐げ、鞭打った貴族のどら息子。そのどら息子に同じ思いを味合わせてやりたい。今度は自分があのどら息子の背中を鞭打ってやりたい。
そう思えるほどには。
しかし――。
――おれは、ただの一兵士じゃない。自由の国海軍の将校なんだ。将校として、兵士たちを指揮する責任がある。
その思いもある。
いまの自分があるのは、ガレノアが自分を奴隷の身から解放してくれたからこそであり、ガレノアが自分を見込み、引き立ててくれたからこそ。ガレノアには返しきれない恩がある。死人相手とはいえ恩は恩。死人相手だからこそ、裏切ることのできない恩。その恩に少しでも報いるために、ガレノアによって与えられたいまの地位に対する義務と責任は果たさなくてはならない。
その一心で、『ローラシアを救う』ことに拒否感を感じる兵士たちを指揮して出撃の準備を進めてきた。過酷な演習を行わせてきた。そんなプリンスに対し、同じ元黒人奴隷たちは囁き合った。
「あいつだって、おれたちと同じ元黒人奴隷なのに、なんで、ローラシアを救うために出撃しようなんて思うんだよ」
「偉くなったもんだから昔のことなんか忘れて、お偉いさんに尻尾を振るようになったってことだろ」
そんな声があるなかで、それでも兵士たちを指揮し、準備を進め、演習を重ねてこれたのは、それだけプリンスが兵士たちから信頼されているという証拠だった。
――そうだ。おれは自由の国の将校。おれ個人の思いよりも、その立場と責任の方が重要なんだ。
その思いを込めて拳を握りしめた。心のなかに渦巻く思いのなかから、ただ一言だけをすくいとり、言葉にした。
「おれは自由の国の将校だ。主催であるお前の決定に従う」
普通の軍隊であれば――。
それで話は終わっていた。上官が命令し、部下はそれに従う。ただ、それだけのこと。そこには、疑問も感情も必要ない。ただただ上官の命令を遂行する自動人形でありさえすればいい。しかし――。
自由の国は、ロウワンは、普通の軍とはちがった。ロウワンはかぶりを振り、プリンスに言った。
「プリンス。おれは、そんな建前を聞いているんじゃない。あなた自身の本音、本当の思いを聞いているんだ」
「おれの……本音?」
「そうだ。自由の国の将校とか、そんな立場とは関係ない。ひとりの人間としてのあなたの本音。おれが聞きたいのはその一点だ」
再び――。
プリンスは握りしめる拳に力を込めた。しかし、今度は力を込めた意味がちがった。
「……やりたい」
プリンスはついに言った。
「復讐してやりたい! おれを鞭で殴ったあのどら息子を、今度はおれが捕まえ、鞭で殴ってやりたい!」
その口調の激しさ、表情の険しさ。それはもはや『人』のものではなかった。
鬼。
まさに、そう言うにふさわしいものだった。
その激しさにはビーブやトウナはもちろん、野伏や行者でさえ目を見張ったほどだった。
ただひとり、ロウワンだけがかわることのない静かな表情を湛えていた。
ロウワンはそっと目を閉じた。顔をうつむかせた。再び顔をあげたとき、そこにははっきりした決意が宿っていた。
「わかった。だったら、プリンス。あなたの国を作れ」
「おれの国⁉」
思わぬ言葉にプリンスは目を丸くした。
プリンスだけではない。ビーブも、トウナも、野伏も、行者も、その場にいる全員が同じように目を丸しくて驚いていた。〝ブレスト〟でさえ、顔中を多う布の隙間から覗く切れ長の瞳を丸くしている。
「そうだ」
と、ロウワンはうなずいた。
「それができるのが都市網社会。誰であれ、自分の望む暮らしを送れる国を作ることができる。それが、都市網社会だ。だから、プリンス。自分の国を作れ。自由の国は奴隷制度を否定している。自由の国のなかでかつての奴隷主を奴隷にし、使うことを認めるわけにはいかない。だけど、プリンス。あなたが自分の国を作り、そのなかで奴隷主を奴隷として使うなら話は別だ」
「しかし……いいのか? 奴隷制を否定する自由の国が、他の国に奴隷をもつことを認めても?」
「奴隷制度を認めるわけにはいかない。でも、刑罰としてならちがう。かつて、自分を虐げ、鞭打った奴隷主に、自分たちがしてきたことの意味を思い知らせるための刑罰として、奴隷の暮らしを味合わせる。そういうことなら許容範囲内だ」
――それなら……。
プリンスの心のなかでその思いが湧き起こった。
――それなら、おれを鞭打ったあのどら息子を見つけ出し、今度はおれがあいつを奴隷として使い、鞭で打ってやれる。自分のされてきたことを思い知らせてやれる。
ゾクリ、と、プリンスは自分の魂が震えるのを感じた。
「わかった」
と、小さく答えた。その声には断固たる覚悟が宿っていた。
「おれは、おれの国を作る。そのなかで、奴隷を使ってきたすべての人間に思い知らせてやる!」
そして、ロウワンに向かって言った。いまや、ガレノアにつづく第二の恩人となった年下の若者に向かって。
「任せてくれ、ロウワン。そういうことなら、ローラシアを救うことをきらう兵士たちも喜んで戦う。おれが奮い立たせる。かつてない、最強の戦士団にしてローラシアに送り込んでみせる」
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