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第二部 絆ぐ伝説
第七話一章 殺せるのかい?
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千年前の亡霊からこの世界を守る!
ロウワンのその号令のもと、自由の国では出陣の準備が急速に進められていた。兵が動員され、演習が行われ、水と食糧、武器弾薬、その他様々な物資が船に積み込まれていった。
そのさなか、トウナは生まれ育った島であるタラの島を医療都市イムホテピアと改名、独立を宣言した。そして、正式に自由の国と契約を結んだ。これにより、タラの島改め医療都市の司法及び防衛は、自由の国に任されることとなった。
タラの島は本来、パンゲアに所属する居留地。勝手に他の国に属してパンゲアを敵にまわすわけにはいかないので、いままで、正式に自由の国と契約を結ぶことはなかった。しかし、そのパンゲアから一切の情報が入ってこなくなってからすでに長い。定期的に訪れていた商人もひとりもやってこなくなった。となれば、島の人々からは、
「パンゲアはタラの島をすてたのか?」
という疑いの声もあがってくる。
となればもう、パンゲアに遠慮する必要もない。独立して、自分たちの望む暮らしを作る。もともと、タラの島はパンゲアの居留地と言っても関係が深かったわけではない。時折やってくる商人たちに、決められた量の海産物を渡し、その報酬を受けとる。
ただ、それだけの関係。何度、海賊に襲われようと軍を派遣して守ってくれるわけでもない。もともと、自分たちの力で生き抜いてきたのだ。
パンゲアから独立したところで、なにがかわるわけではない。それどころか、海賊から守ろうともしてくれないパンゲアより、実際に軍を派遣して自分たちを守ってくれる自由の国と組んだ方が心強いし、安心できる。
その方向で、島民たちの思いが一致したのだ。もちろん、自然と一致したわけではなく、そこにはトウナの必死の説得があったわけだが。
ともあれ、タラの島は医療都市として新たな第一歩を踏み出すことになった。医療都市初代の市長として、トウナは誇り高く宣言した。
「医療都市の目指すものは、すべての人々に医療を届け、安心して暮らせる世界を作ること。医療都市は、その目的を叶えるために存在します。医療都市は、その目的に賛同する人々を民として求めます」
その宣言は文書として印刷され、タラの島が運営するコーヒーハウスに置かれた。聞くものとてほとんどなく、コーヒーハウスに置かれた宣言書は誰にも見向きもされずに朽ち果てていく。そんな 寂しいほどのはじまりだったが、これは実は歴史的な出来事だった。
都市と市民が争うのではなく、協調する。都市は自分たちの存在理由を、都市として目指すべき未来を公式な声明として人々に伝え、その目的に賛同する人々が民となって移り住む。そして、都市と市民とが協力しあって目的達成に邁進する。
都市網社会の基本理念とも言うべきその形式がはじめて、世界に向かって放たれた瞬間だったのだ。この慎ましいはじまりから、それまでの社会の在り方を根本的にかえるうねりが巻き起こり、世界を飲み込むことになるのである。
一方、ロウワンは出陣に備えて多忙を極めていた。今日もブージからローラシアの情勢に関して情報を聞いているところだった。
「おおむね、あのセシルって小僧のもってきた手紙の内容通りだな。ローラシアを構成する六つの公国のうち五つまでは、すでに〝賢者〟たちに降伏。ただひとつ、ライン公国だけがなんとか抵抗をつづけているって状況だ」
ロウワンをはじめ、ビーブ、野伏、行者、メリッサたち、自由の国の主要な人員たちの集まる会議の場で、ブージがそう告げた。本来ならこの場にいるはずの自由の国第二代提督〝ブレスト〟は、連日の演習にいそがしく、会議には参加していない。
ブージは自由の国一番の嫌われものであるが同時に、情報・補給・輸送と言った、地味だが国の運命を左右する重要な職務を一手に握る身である。自由の国どころか、恐らくは世界中で、この男を好いている人間などひとりもいないのだが、役に立つことは確かだった。給料さえ支払えば。
ロウワンはブージの報告について尋ねた。
「ライン公国。それがセシルの兄、衛兵隊長ルドヴィクス卿の守る国なんだな?」
「ああ。そういうこった」
「ルドヴィクス卿は無事なのか?」
「そこまではわからねえな。なにしろ、噂の化け物兵に相当やられているらしいからな。ありったけの人脈を駆使して情報を集めちゃいるが、おおざっぱな状況がつかめるだけだ。人間一人ひとりの生き死にまではとてもとても」
「……そうか」
ブージの報告にロウワンはギュッと両の拳を握りしめた。
自分に対して助けを求めてきたセシリアの必死の表情が頭に浮かぶ。
助けてやりたいと思う。
兄を救いたいという思いを叶えてやりたいとは思う。
しかし、自分は神でもなければ、全能の魔法使いでもない。魔法の杖を振るってすべてを解決するなどできるはずもなく、セシリアに対して『必ず、兄を救ってみせる』と約束することもできはしない。ロウワンはそんな自分のふがいなさに歯がみする思いだった。
「報告によれば……」
野伏か言った。
自由の国最強の戦士であるこの剣客は、いまも漆黒の闇のように長い黒髪をたなびかせ、袴姿に太刀という出で立ち。上衣の裏地に描かれた大輪の牡丹の花が、その端だけをかすかに覗かせている。
「ライン公国は抵抗をつづけ、民の脱出もつづいているという。これは、組織的な行動がつづいているという証。つまりは、指揮官が存在するという証明だ。ならば、指揮官であるルドヴィクスは未だ健在。そう思っていいだろう」
「そうだね」
と、行者もうなずいた。
見た目はほんの少年でありながら、いったいどれほどの時を生きてきたのか誰もわからない空狩りの行者。かの人もまたいつも通り、その血のように紅い唇に、あるかなしかのかすかな微笑を浮かべながら、東方風に結いあげた髪に挿したかんざしの飾りをシャラシャラと鳴らしている。
「たしかに、指揮官を失ったら組織的な抵抗なんてできないからね。ルドヴィクス卿が死んでいたら、ライン公国の抵抗もとうに瓦解しているはずだよ。それがつづいていると言うことは、ルドヴィクス卿が無事だという証拠だよ」
いまはまだ、ね、と、行者は片目を閉じてイタズラっぽく微笑みながら付け加えた。行者を知らない人間が見れば『死ぬのを楽しみにでもしているのか⁉』と、怒り出しそうな表情である。
「だからね、ロウワン。余計なことに気を揉むよりは、一刻も早く準備を整えて出陣するべきだと思うよ。ルドヴィクス卿を助けたいならね」
行者のその言葉に――。
ロウワンは心からうなずいた。
まったく、行者の言うとおりだ。いま、この場で、いくら心配してみたところで、ルドヴィクスを救う役に立つわけではない。それよりも、一刻も早く助けに行けるよう準備に専念するべきだ。
「それとよ」
ブージが言った。
「他にもひとつ、気になることがある」
「気になること?」
「ああ。ローラシアの軍勢――これはつまり、化け物兵ではなくて人間の兵って意味だが――が、大挙してゴンドワナとの国境近くまで進軍しているそうだ」
「なんだって⁉」
ロウワンは驚きのあまり、腰を浮かせかけた。
「ゴンドワナに攻撃を仕掛けるつもりなのか⁉」
「驚くことではないだろう」と、野伏。
「〝賢者〟とやらは明確に、自分たちが世界を支配すると宣言している。ならば、ゴンドワナに攻め込むのは当然だ」
「そうだね。多分、そのローラシア兵たちは脅されて進軍させられているんだろうね。『従わなければ、お前たちから殺すぞ!』ってね」
家族を人質にとられるぐらいは、されているだろうしね。
と、行者は付け加えた。
行者の言葉の内容自体はなんとも深刻なものだったが、あまりにも涼やかな態度と口調で言うものだからやはり『楽しんでるのか⁉』と、真面目な人物からは怒られそうな印象になっている。
「だけど……ライン公国での抵抗がまだつづいているのに、他国に侵攻する余裕なんてあるものなのか?」
「その程度の微弱な抵抗と言うことだ」
ロウワンの疑問に答えたのは、一〇年に及ぶ旅の間に様々な戦場に身を置いてきた野伏だった。
「六公国のうち五つまでを支配したなら、残るひとつが抵抗をつづけていたところでどうと言うことはない。本気になって化け物兵を差し向ければ、いつでも制圧できる。その程度に考えているのだろう。それに……」
「それに?」
「その〝賢者〟たちとやらはしょせん、戦争には素人だろう。戦理に合わないことをやってもおかしくない」
「……たしかに」
と、ロウワンも野伏の正しさを認めた。
「キキキ、キイ、キイ、キイ」
ロウワンのきょうだい分にして相棒たる頼りになるサル、ビーブが声をあげた。
――おれもローラシアから渡ってきた鳥たちに聞いたけどよ。武装した大勢の人間たちが続々と南に向かっているのを、たしかに見たってよ。
「おいおい、ビーブ。『鳥に聞いた』って、そりゃ反則だろ」
ビーブの報告にブージは思いきり顔をしかめた。たしかに、空を飛ぶ鳥から話を聞けるのならば、人間の諜報員を使うよりもずっと多くの情報を、それも、正確に集めることができるだろう。ビーブにそんなことをされては、情報担当としての自分の価値がそれだけさがる。つまり、給料がさがる。それを心配してのしかめっ面だった。
「ビーブが言うならまちがいないな」
ロウワンのその言葉に――。
「おいおい、おれさまは信用できねえってのかよ」
と、腕を組んで拗ねてみせるブージであった。
「とにかく、ゴンドワナにまで〝賢者〟たちの手が及ぶとなればグズグズしてはいられない。一刻も早く準備を整えて、出発しないと」
「そこなんだけど」
と、行者が言った。紅い唇に浮かぶあるかなしかのかすかな微笑はそのままに、その瞳にはいままでにない真剣な色がたしかに浮いていた。
「気になることがあるんだよね」
「気になること?」
「ロウワン。君はローラシア兵と戦うことが……いや、ここで言葉を飾るのは粋ではないね。はっきり、言うよ。ロウワン。君はローラシア兵を殺すことができるのかい?」
「どういう意味だ、行者?」
「自由の国の目的はあくまでも〝賢者〟たち。自由の国はローラシアを、この世界を、〝賢者〟たちから守るために出陣する。そうだろう?」
「ああ。その通りだ」
「ならば、ローラシア兵は敵ではない。まして、この兵士たちは〝賢者〟たちに支配され、脅されて出撃してきている。言わば、被害者だ。その被害者たちを殺して道を切り開くことが君にできるのかい?」
君にできるのかい?
そう尋ねる行者の瞳には――。
はっきりと手厳しい色が浮いていた。
「それは……」
正面から問われてロウワンは明らかにたじろいだ。言葉に詰まった。野伏が追い打ちをかけた。
「その覚悟がないなら出撃などやめておけ。自由の国の兵が無駄に死ぬだけだ。他国の兵を思いやって自国の兵を死なせるなど、指揮官としてあってはならないことだ」
さらに、ブージも言った。
「おめえがローラシア兵に遠慮するってえなら、おれさまはケツを巻くらせてもらうぜ。おれは金のためにお前に協力してるんだ。お前の甘さのせいで死ぬ羽目になったら浮かばれねえからな」
「キイ、キイ、キキキ」
――相手の縄張りに攻め込んで、奪いとろうってんだ。容赦なく殺す気でいなけりゃ自分が死ぬことになるぞ。
ビーブにまでそう言われて、ロウワンはこの場にいる唯一の女性に視線を向けた。
「メリッサ師、あなたの意見は?」
メリッサは一瞬、眉を曇らせた。
「必ず、人間に戻す」
かつて、ロウワンがそう誓った天命の巫女。その天命の巫女によく似た美貌を曇らせながら、メリッサは答えた。
「わたしは戦いには素人だから、はっきりしたことは言えないけど……でも、野伏の言うことはもっともだと思うわ。戦うからには相手のことを気にしてはいられないでしょう」
「……そうですね」
そう言ってうつむくロウワンの姿は、痛々しいほどのものだった。
メリッサはそんなロウワンを見て、気遣う表情を浮かべた。内心の痛みを察して同情しながらそれでも、年長者としての義務と責任を優先したのだろう。ロウワンに告げた。
「ロウワン。戦いに際して、見てほしいものがあるの」
ロウワンのその号令のもと、自由の国では出陣の準備が急速に進められていた。兵が動員され、演習が行われ、水と食糧、武器弾薬、その他様々な物資が船に積み込まれていった。
そのさなか、トウナは生まれ育った島であるタラの島を医療都市イムホテピアと改名、独立を宣言した。そして、正式に自由の国と契約を結んだ。これにより、タラの島改め医療都市の司法及び防衛は、自由の国に任されることとなった。
タラの島は本来、パンゲアに所属する居留地。勝手に他の国に属してパンゲアを敵にまわすわけにはいかないので、いままで、正式に自由の国と契約を結ぶことはなかった。しかし、そのパンゲアから一切の情報が入ってこなくなってからすでに長い。定期的に訪れていた商人もひとりもやってこなくなった。となれば、島の人々からは、
「パンゲアはタラの島をすてたのか?」
という疑いの声もあがってくる。
となればもう、パンゲアに遠慮する必要もない。独立して、自分たちの望む暮らしを作る。もともと、タラの島はパンゲアの居留地と言っても関係が深かったわけではない。時折やってくる商人たちに、決められた量の海産物を渡し、その報酬を受けとる。
ただ、それだけの関係。何度、海賊に襲われようと軍を派遣して守ってくれるわけでもない。もともと、自分たちの力で生き抜いてきたのだ。
パンゲアから独立したところで、なにがかわるわけではない。それどころか、海賊から守ろうともしてくれないパンゲアより、実際に軍を派遣して自分たちを守ってくれる自由の国と組んだ方が心強いし、安心できる。
その方向で、島民たちの思いが一致したのだ。もちろん、自然と一致したわけではなく、そこにはトウナの必死の説得があったわけだが。
ともあれ、タラの島は医療都市として新たな第一歩を踏み出すことになった。医療都市初代の市長として、トウナは誇り高く宣言した。
「医療都市の目指すものは、すべての人々に医療を届け、安心して暮らせる世界を作ること。医療都市は、その目的を叶えるために存在します。医療都市は、その目的に賛同する人々を民として求めます」
その宣言は文書として印刷され、タラの島が運営するコーヒーハウスに置かれた。聞くものとてほとんどなく、コーヒーハウスに置かれた宣言書は誰にも見向きもされずに朽ち果てていく。そんな 寂しいほどのはじまりだったが、これは実は歴史的な出来事だった。
都市と市民が争うのではなく、協調する。都市は自分たちの存在理由を、都市として目指すべき未来を公式な声明として人々に伝え、その目的に賛同する人々が民となって移り住む。そして、都市と市民とが協力しあって目的達成に邁進する。
都市網社会の基本理念とも言うべきその形式がはじめて、世界に向かって放たれた瞬間だったのだ。この慎ましいはじまりから、それまでの社会の在り方を根本的にかえるうねりが巻き起こり、世界を飲み込むことになるのである。
一方、ロウワンは出陣に備えて多忙を極めていた。今日もブージからローラシアの情勢に関して情報を聞いているところだった。
「おおむね、あのセシルって小僧のもってきた手紙の内容通りだな。ローラシアを構成する六つの公国のうち五つまでは、すでに〝賢者〟たちに降伏。ただひとつ、ライン公国だけがなんとか抵抗をつづけているって状況だ」
ロウワンをはじめ、ビーブ、野伏、行者、メリッサたち、自由の国の主要な人員たちの集まる会議の場で、ブージがそう告げた。本来ならこの場にいるはずの自由の国第二代提督〝ブレスト〟は、連日の演習にいそがしく、会議には参加していない。
ブージは自由の国一番の嫌われものであるが同時に、情報・補給・輸送と言った、地味だが国の運命を左右する重要な職務を一手に握る身である。自由の国どころか、恐らくは世界中で、この男を好いている人間などひとりもいないのだが、役に立つことは確かだった。給料さえ支払えば。
ロウワンはブージの報告について尋ねた。
「ライン公国。それがセシルの兄、衛兵隊長ルドヴィクス卿の守る国なんだな?」
「ああ。そういうこった」
「ルドヴィクス卿は無事なのか?」
「そこまではわからねえな。なにしろ、噂の化け物兵に相当やられているらしいからな。ありったけの人脈を駆使して情報を集めちゃいるが、おおざっぱな状況がつかめるだけだ。人間一人ひとりの生き死にまではとてもとても」
「……そうか」
ブージの報告にロウワンはギュッと両の拳を握りしめた。
自分に対して助けを求めてきたセシリアの必死の表情が頭に浮かぶ。
助けてやりたいと思う。
兄を救いたいという思いを叶えてやりたいとは思う。
しかし、自分は神でもなければ、全能の魔法使いでもない。魔法の杖を振るってすべてを解決するなどできるはずもなく、セシリアに対して『必ず、兄を救ってみせる』と約束することもできはしない。ロウワンはそんな自分のふがいなさに歯がみする思いだった。
「報告によれば……」
野伏か言った。
自由の国最強の戦士であるこの剣客は、いまも漆黒の闇のように長い黒髪をたなびかせ、袴姿に太刀という出で立ち。上衣の裏地に描かれた大輪の牡丹の花が、その端だけをかすかに覗かせている。
「ライン公国は抵抗をつづけ、民の脱出もつづいているという。これは、組織的な行動がつづいているという証。つまりは、指揮官が存在するという証明だ。ならば、指揮官であるルドヴィクスは未だ健在。そう思っていいだろう」
「そうだね」
と、行者もうなずいた。
見た目はほんの少年でありながら、いったいどれほどの時を生きてきたのか誰もわからない空狩りの行者。かの人もまたいつも通り、その血のように紅い唇に、あるかなしかのかすかな微笑を浮かべながら、東方風に結いあげた髪に挿したかんざしの飾りをシャラシャラと鳴らしている。
「たしかに、指揮官を失ったら組織的な抵抗なんてできないからね。ルドヴィクス卿が死んでいたら、ライン公国の抵抗もとうに瓦解しているはずだよ。それがつづいていると言うことは、ルドヴィクス卿が無事だという証拠だよ」
いまはまだ、ね、と、行者は片目を閉じてイタズラっぽく微笑みながら付け加えた。行者を知らない人間が見れば『死ぬのを楽しみにでもしているのか⁉』と、怒り出しそうな表情である。
「だからね、ロウワン。余計なことに気を揉むよりは、一刻も早く準備を整えて出陣するべきだと思うよ。ルドヴィクス卿を助けたいならね」
行者のその言葉に――。
ロウワンは心からうなずいた。
まったく、行者の言うとおりだ。いま、この場で、いくら心配してみたところで、ルドヴィクスを救う役に立つわけではない。それよりも、一刻も早く助けに行けるよう準備に専念するべきだ。
「それとよ」
ブージが言った。
「他にもひとつ、気になることがある」
「気になること?」
「ああ。ローラシアの軍勢――これはつまり、化け物兵ではなくて人間の兵って意味だが――が、大挙してゴンドワナとの国境近くまで進軍しているそうだ」
「なんだって⁉」
ロウワンは驚きのあまり、腰を浮かせかけた。
「ゴンドワナに攻撃を仕掛けるつもりなのか⁉」
「驚くことではないだろう」と、野伏。
「〝賢者〟とやらは明確に、自分たちが世界を支配すると宣言している。ならば、ゴンドワナに攻め込むのは当然だ」
「そうだね。多分、そのローラシア兵たちは脅されて進軍させられているんだろうね。『従わなければ、お前たちから殺すぞ!』ってね」
家族を人質にとられるぐらいは、されているだろうしね。
と、行者は付け加えた。
行者の言葉の内容自体はなんとも深刻なものだったが、あまりにも涼やかな態度と口調で言うものだからやはり『楽しんでるのか⁉』と、真面目な人物からは怒られそうな印象になっている。
「だけど……ライン公国での抵抗がまだつづいているのに、他国に侵攻する余裕なんてあるものなのか?」
「その程度の微弱な抵抗と言うことだ」
ロウワンの疑問に答えたのは、一〇年に及ぶ旅の間に様々な戦場に身を置いてきた野伏だった。
「六公国のうち五つまでを支配したなら、残るひとつが抵抗をつづけていたところでどうと言うことはない。本気になって化け物兵を差し向ければ、いつでも制圧できる。その程度に考えているのだろう。それに……」
「それに?」
「その〝賢者〟たちとやらはしょせん、戦争には素人だろう。戦理に合わないことをやってもおかしくない」
「……たしかに」
と、ロウワンも野伏の正しさを認めた。
「キキキ、キイ、キイ、キイ」
ロウワンのきょうだい分にして相棒たる頼りになるサル、ビーブが声をあげた。
――おれもローラシアから渡ってきた鳥たちに聞いたけどよ。武装した大勢の人間たちが続々と南に向かっているのを、たしかに見たってよ。
「おいおい、ビーブ。『鳥に聞いた』って、そりゃ反則だろ」
ビーブの報告にブージは思いきり顔をしかめた。たしかに、空を飛ぶ鳥から話を聞けるのならば、人間の諜報員を使うよりもずっと多くの情報を、それも、正確に集めることができるだろう。ビーブにそんなことをされては、情報担当としての自分の価値がそれだけさがる。つまり、給料がさがる。それを心配してのしかめっ面だった。
「ビーブが言うならまちがいないな」
ロウワンのその言葉に――。
「おいおい、おれさまは信用できねえってのかよ」
と、腕を組んで拗ねてみせるブージであった。
「とにかく、ゴンドワナにまで〝賢者〟たちの手が及ぶとなればグズグズしてはいられない。一刻も早く準備を整えて、出発しないと」
「そこなんだけど」
と、行者が言った。紅い唇に浮かぶあるかなしかのかすかな微笑はそのままに、その瞳にはいままでにない真剣な色がたしかに浮いていた。
「気になることがあるんだよね」
「気になること?」
「ロウワン。君はローラシア兵と戦うことが……いや、ここで言葉を飾るのは粋ではないね。はっきり、言うよ。ロウワン。君はローラシア兵を殺すことができるのかい?」
「どういう意味だ、行者?」
「自由の国の目的はあくまでも〝賢者〟たち。自由の国はローラシアを、この世界を、〝賢者〟たちから守るために出陣する。そうだろう?」
「ああ。その通りだ」
「ならば、ローラシア兵は敵ではない。まして、この兵士たちは〝賢者〟たちに支配され、脅されて出撃してきている。言わば、被害者だ。その被害者たちを殺して道を切り開くことが君にできるのかい?」
君にできるのかい?
そう尋ねる行者の瞳には――。
はっきりと手厳しい色が浮いていた。
「それは……」
正面から問われてロウワンは明らかにたじろいだ。言葉に詰まった。野伏が追い打ちをかけた。
「その覚悟がないなら出撃などやめておけ。自由の国の兵が無駄に死ぬだけだ。他国の兵を思いやって自国の兵を死なせるなど、指揮官としてあってはならないことだ」
さらに、ブージも言った。
「おめえがローラシア兵に遠慮するってえなら、おれさまはケツを巻くらせてもらうぜ。おれは金のためにお前に協力してるんだ。お前の甘さのせいで死ぬ羽目になったら浮かばれねえからな」
「キイ、キイ、キキキ」
――相手の縄張りに攻め込んで、奪いとろうってんだ。容赦なく殺す気でいなけりゃ自分が死ぬことになるぞ。
ビーブにまでそう言われて、ロウワンはこの場にいる唯一の女性に視線を向けた。
「メリッサ師、あなたの意見は?」
メリッサは一瞬、眉を曇らせた。
「必ず、人間に戻す」
かつて、ロウワンがそう誓った天命の巫女。その天命の巫女によく似た美貌を曇らせながら、メリッサは答えた。
「わたしは戦いには素人だから、はっきりしたことは言えないけど……でも、野伏の言うことはもっともだと思うわ。戦うからには相手のことを気にしてはいられないでしょう」
「……そうですね」
そう言ってうつむくロウワンの姿は、痛々しいほどのものだった。
メリッサはそんなロウワンを見て、気遣う表情を浮かべた。内心の痛みを察して同情しながらそれでも、年長者としての義務と責任を優先したのだろう。ロウワンに告げた。
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