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第二部 絆ぐ伝説
第六話二二章 〝ブレスト〟の素顔
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「なんのご用でしょう?」
セシリアはまっすぐに背筋を伸ばし、顔をあげて〝ブレスト〟に相対した。〝ブレスト〟に対し、怯えたり、たじろいだりする姿はまったくない。自分をさんざんに痛めつけている相手に対し、怯むことなく堂々と対峙している。
そこに立っているのはもはや、貴族令嬢として蝶よ、花よと育てられたセシリアではない。日に焼かれて色褪せた金髪。潮風に吹きつけられて赤く染まった肌。日々の重労働によって荒れ果てた指先。そして、なによりも、〝ブレスト〟その人によって全身に刻み込まれた痣と傷。
顔はいまも腫れあがり、右目などはほとんどふさがっている。親が見ても一瞬、セシリアだとわかるかどうか。それぐらい、変わり果てた姿。それでも――。
貴族の娘として育てられた気品と風格までは失われていない。そして、その誇りも。その誇りがセシリアをして〝ブレスト〟と真っ向から対峙させていた。
〝ブレスト〟はセシリアを無言で迎えた。卓の上にふたつの杯を置いた。セシリアのためには水。自分のためにはワイン。海賊御用達のラム酒ではない。〝ブレスト〟の故郷である砂漠地帯を発祥の地とする血のように紅い酒。
鸚鵡が止まり木に止まったまま、〝ブレスト〟にも、セシリアにも飛び移ろうとしないのはもう『自分が関わる必要はない』と判断しているからだろうか。
――顔中を布で覆っているのに、お酒?
セシリアは不思議に思ったが、すぐに驚きに目を丸くした。
セシリアの目の前、かの人の見ているまさにその場所で、〝ブレスト〟が顔中に巻きつけている布をほどきはじめたのだ。
やがて、すべての布が解かれ、〝ブレスト〟の素顔が露わになった。セシリアの視線はその素顔に吸い付けられた。
それは、まさに歴史的な瞬間だった。
〝ブレスト〟が――その名で呼ばれるようになって以来――人前で素顔をさらしたのはこれが最初で最後。これ以降、決して、他人に素顔を見せることはなかった。そして――。
セシリアもまた、そのことを他人に語ることはなかった。
セシリアはこの世が終わるまで、〝ブレスト〟の素顔を知るたったひとりの人間になったのである。
〝ブレスト〟は卓の上に置いた自分のグラスを手にとった。血のように紅い酒を軽くあおった。唇についた酒のしずくを赤い唇で舐めあげた。
「わたしがなぜ、男を憎むのか。その理由を話しておく」
「えっ……?」
なぜ、自分に対してそんなことを話すのか。
その理由が見当もつかないまま、セシリアはその場に立ち尽くしていた。
鸚鵡もまた、〝ブレスト〟の言葉にじっと耳を傾けようとしている。
〝ブレスト〟は話しはじめた。それは、セシリアに対して話すと言うより、自分自身に改めて言い聞かせているように見えた。
「わたしには愛する人がいた」
「愛する人……」
「わたしはゴンドワナの隣、砂漠のなかの小さな国の出身。旅の一座の踊り子だった。わたしは……その国の姫を愛していた。いや、恋していた」
それは、ゴンドワナのさらに東、乾燥した砂漠地帯に生まれた小さな国。家畜の群れを引き連れて砂漠を渡り歩く遊牧民たちがより集まり、あちこちに点在する小さなオアシスをつないで出来た蜃気楼のような国。
規模は小さく、人口は少なく、これといった産業もない。それでも、砂漠に鍛えられた女たちの、野性味あふれる独特の美しさと、夜の砂漠を旅する人々が旅の無聊の慰みに生み出してきた数々の歌と踊り、そして、物語があった。
国中のあちこちに大きな天幕が立てられ、そのなかで女たちが唄い、踊り、物語を語った。それは周辺諸国でも話題となり、女たちの歌と踊りを目当てに多くの観光客がやってくるようになった。おかげで、小さいなりに豊かな国となった。
〝ブレスト〟の生まれた一座もまた、それらの天幕を巡り歩いては歌と踊りを披露し、物語を語っていた。旅の一座とは言え、その優れた技量によって知られ、他国の要人を歓待する際には王宮に招かれて歌舞音曲を披露するほどに格式のある一座だった。〝ブレスト〟はそんな一座に生まれ、物心ついたときからごく自然に歌と踊りに親しみ、数々の芸を身につけていた。
その日、まだ一〇歳にもならなかった〝ブレスト〟は、一座と共にはじめて王宮を訪れた。はじめて見る王宮。見たことのないものばかり。物珍しさに子どもらしい怖い物知らずの好奇心を刺激され、一座からはなれて王宮中を見てまわった。
そして、出会ったのだ。
砂漠の国のなかに技術の粋を集めて作られた巨大な噴水と、そのまわりに広がる絢爛たる庭園。焼けた空気と乾いた砂の匂いに包まれるその国のなかで、そこだけは水の匂いと花の香りに満たされ、別世界の装いだった。
そのなかに響き渡るおかしそうな笑い声。見ると、自分と同じくらいのドレス姿の女の子が噴水に落ちてずぶ濡れになり、楽しそうに笑っていた。
〝ブレスト〟はその女の子に駆けよった。助けようとした。ところが――。
その女の子は、〝ブレスト〟に気がつくと思いきり水をかけてきた。笑いながら、楽しそうに。何度もなんども。
こうなると、〝ブレスト〟も子どものこととて負けん気が頭をもたげてくる。自分も噴水のなかに飛び込み、お返しとばかりに女の子に水をかけまくった。
ふたりはしばらくの間、キャアキャア言いながら水をかけ合った。そして、ふたりともずぶ濡れになった姿で思いきり笑いあった。それが――。
〝ブレスト〟と、その国の小さな姫との出会いだった。
思えば、〝ブレスト〟はそのときすでに恋に落ちていたのだ。自分と同い年の無邪気で愛らしい姫君に。
「わたしとその姫さまは同い年の女の子同士と言うことで、すぐに仲良くなった。一座が王宮によるつど必ず会って、一緒に遊んだ。わたしは姫さまに会えるのが楽しみだったし、姫さまもわたしに合うことを楽しみにしてくれていた。
姫さまは美しい方だった。砂漠に舞い散る雪のように。無邪気で、天真爛漫で、天使のように愛らしい方だった。王宮のなかで蝶よ、花よと育てられ、政治とも軍事とも無縁だったけれど、誰をも等しく包み込む優しさと愛情あふれるお人柄とで、誰からも愛されていた。でも……」
ほう、と、〝ブレスト〟は溜め息をついた。
「わたしたちがまだお前とそう歳のかわらない頃、はやり病によって姫さまの両親、国王とその妃が亡くなった。姫さまは次の王として即位なされた。でも、政治とも軍事とも無縁に過ごしてきたお姫さま。国を保っていくなどできるはずもない。だから、姫さまは隣国の王と結婚した。二〇以上も歳上だったけれど、姫さまが国を守っていくためにはその王と結婚し、将来を任せるしかなかった。
わたしの姫さまが国を守るために二〇以上も年かさの男と結婚する。
悲しかったけれど、仕方のないことだと納得はできた。しょせん、王族に生まれて、自由などあるはずがないのだから。それに、わたし自身、その王のことは知っていた。何度か会ったこともあった。歳ははなれていたけれど、いつでも姫さまに対しては礼儀正しく、紳士的に振る舞っていた。姫さまだけではなく、単なる旅芸人の娘に過ぎないわたしに対しても同じだった。だから、安心していた。
『この王さまならきっと、姫さまを守ってくれる』
無邪気にもそう思っていた。でも……!」
〝ブレスト〟は、その手にした杯を握りつぶした。その怒りの激しさにセシリアは目を見開いた。
「すべては演技だった! あの男は、あの男は自分の野望のために、わたしたちの国を狙い、そのために姫さまに近づいていただけ! いつか、姫さまを籠絡して我が物とするために、優しい男を演じていただけだった。あの男は結婚した途端、本性をむき出しにした。姫さまを幽閉し、もとからの家臣を追放して自らの子飼いの部下で固め、わたしたちの国を奪いとった。そして、そして……姫さまをさんざんもてあそんだあげくに売り飛ばした」
「売り……飛ばした?」
セシリアは眉をひそめた。
『売り飛ばした』という言葉に、カタールの姿を思い出し、胸が悪くなった。
「そう。それから、姫さまがどんな目に遭ったかなんて貴族の箱入りであるお前には想像だってできるはずがない。そのとき、わたしは一座と共に国中を巡っていて、姫さまのお側にいることができなかった。数年ぶりに王宮に戻り、すべてを知ったあと、わたしは姫さまを取り戻すために一座を抜けて旅に出た。楽器のかわりに剣をもち、唄い、踊るために鍛えた身のこなしを戦うためのものにかえて。
女ひとりの旅。一言で言えば地獄だった。あらゆる苦難を背負わなければならなかった。それでも、わたしは歯を食いしばって耐えた。旅をつづけた。姫さまを取り戻す。その一心で。でも……どこまで追っても姫さまはいなかった。すでに新しい場所に売られたあとだった。それでも、わたしは後を追いつづけた。そして、何年もたってようやく、姫さまを見つけ出した」
「助け出せたのですね⁉」
セシリアの表情が輝いた。このときばかりは貴族の令嬢としての顔に戻っていた。屋敷で呼んだ恋愛小説を思い出していた。それらの小説のなかでは主人公は必ず姫君を助け出し、ふたりで幸福になったものだ。だから、
『助け出せたのですね⁉』
そう叫んだ。幸せの予感に表情を輝かせた。しかし――。
現実は物語のように都合良くはいかない。
「……助けられなかった。ようやく見つけ出した姫さまは、あまりの苦難にすでに心が壊れてしまっていた。わたしは姫さまを救うために、この手で殺した」
「殺した⁉」
それは、セシリアにとってあまりにも衝撃的な結末だった。
「そうだ。わたしはこの手で姫さまを、わたしの愛したたったひとりの人を殺した」
「そんな……それ以外の方法はなかったのですか? お医者に診せるとか……」
「わからない。あるいは、そうしていれば壊れた心をもとに戻すこともできたのかも知れない。でも、あのときのわたしには、姫さまのそんな姿を見ていることは耐えられなかった。わたしはもしかしたら姫さまを助けるつもりで、わたしのなかの姫さまの偶像を守るためだけに殺したのかも知れない」
「……そんな」
「そして、姫さまを裏切ったあの男は……そうして得たわたしたちの国の財力を使い、近隣諸国に戦争を仕掛けた。
砂漠の国すべてを支配し、砂漠の覇者となる。
それが、あの男の野望。姫さまは、そして、わたしたちの国はその野望のために利用された。何年にもわたる争いの果てに、わたしたちの国は滅びた。いまでは住むものもなく、砂漠のなかに廃墟をさらしている」
「……そんな」
「そして、あの男、姫さまを裏切り、わたしたちの国を滅ぼしたあの男もまた、戦いのなかに死んだ。戦場で堂々と戦って死ぬなど、あの男には過ぎた死に方。この手でできるだけむごたらしく殺してやるつもりだったのに、それすらもできなかった。
そして、わたしは誓った。わたしの姫さまを不幸にし、わたしたちの国を滅ぼした男。この世のすべての男に復讐してやると」
「……すべての男性を恨むのは筋がちがうのでは?」
セシリアはおずおずと、遠慮がちにそう口にした。
〝ブレスト〟は迷いなく答えた。
「姫さまをもてあそんだのはあの男ひとりではない。姫さまを買った男すべてが、姫さまをもてあそび、不幸にした」
そう言われては、セシリアとしてもそれ以上、なにも言えない。
〝ブレスト〟はつづけた。
「男たちに復讐する。すべての男たちを殺す。そのために、海賊になった。でも……」
「……でも?」
「まちがっていたのかも知れない。そう思うこともある。復讐してもふくしゅうしても、泣かされる女たちはいる。だったら、わたしのするべきことは男たちへの復讐ではなく、そんな女たちを助けることだったかも知れない。そう思うこともある」
それきり――。
〝ブレスト〟は、なにも言わなかった。
そこではじめて、鸚鵡が翼を広げた。音もなく飛び立つと〝ブレスト〟の肩に降り立ち、はじめて明かされた素顔に自分の頭をこすりつけた。
その場を、月に照らされる夜の砂漠のような沈黙が支配した。
「……どうして」
その沈黙に耐えきれず、セシリアが酸素を求めてあえぐ金魚のように言った。
「どうして、そんな話をわたし、いえ、僕に?」
「単なる気まぐれ。そう思っていればいい」
「気まぐれ?」
スッ、と、〝ブレスト〟はそのしなやかな手を振った。
「用はすんだ。もうさがりなさい。明日も朝早くから仕事なのだから」
「……はい」
いきなり呼びつけて、一方的に話すだけ話して、その理由も言わず、もう帰れと言う。
勝手と言えばあまりにも勝手な態度だが、セシリアはなぜか逆らえないものを感じた。貴族らしく礼儀正しい挨拶を残して、その場を去った。そして――。
「……女たちを助けるべきだったかも知れない、か」
ひとり残った〝ブレスト〟は、ポツリと呟いた。
「そうね、鸚鵡。もし……自由の国がもう何年か早く生まれていれば、そんな道もあったかも知れない。でも、わたしはすでにこの手を血で汚しすぎた。いまさら、別の生き方なんてできはしない。だからこそ、『もうひとつの道』を託せる誰かがほしかった。ガレノアがトウナに『女が女として生きられる世界』を託したように」
セシリアを見たとき、セシリアが自分にとってのトウナになるかと思った。セシリアはまだ誰も殺していない。傷つけてもいない。その手はきれいなまま。そのセシリアであれば、女たちを暗闇から救い出す役にもつけるだろう。でも――。
そのためには力がいる。
戦うための力。
戦い抜くための意思の力が。
姫にはその力がなかった。誰よりも優しく、愛情にあふれた人だった。世か世ならその愛情によって国民を包み込み、人々に幸せを分け与えることができただろう。でも、その優しさも、愛情も、飢えた男たちの野望の前には無力だった。
「……そう。力がなかったから姫さまは」
セシリアにはその役を担うだけの力があるだろうか。
それを確かめるためにあえてつらく当たった。耐えられないなら、逃げ出すなら、それでよし。ごく当たり前の貴族の娘として生きていけばいい。でも――。
幸か不幸か、いや、恐らくは不幸なことに、セシリアは耐え抜くだけの気概と根性を見せてしまった。
「……わたしは、あの子に重すぎる荷を背負わせることになるのかも知れないわね。鸚鵡。」
鸚鵡が翼を広げ、一声、鳴いた。
セシリアはまっすぐに背筋を伸ばし、顔をあげて〝ブレスト〟に相対した。〝ブレスト〟に対し、怯えたり、たじろいだりする姿はまったくない。自分をさんざんに痛めつけている相手に対し、怯むことなく堂々と対峙している。
そこに立っているのはもはや、貴族令嬢として蝶よ、花よと育てられたセシリアではない。日に焼かれて色褪せた金髪。潮風に吹きつけられて赤く染まった肌。日々の重労働によって荒れ果てた指先。そして、なによりも、〝ブレスト〟その人によって全身に刻み込まれた痣と傷。
顔はいまも腫れあがり、右目などはほとんどふさがっている。親が見ても一瞬、セシリアだとわかるかどうか。それぐらい、変わり果てた姿。それでも――。
貴族の娘として育てられた気品と風格までは失われていない。そして、その誇りも。その誇りがセシリアをして〝ブレスト〟と真っ向から対峙させていた。
〝ブレスト〟はセシリアを無言で迎えた。卓の上にふたつの杯を置いた。セシリアのためには水。自分のためにはワイン。海賊御用達のラム酒ではない。〝ブレスト〟の故郷である砂漠地帯を発祥の地とする血のように紅い酒。
鸚鵡が止まり木に止まったまま、〝ブレスト〟にも、セシリアにも飛び移ろうとしないのはもう『自分が関わる必要はない』と判断しているからだろうか。
――顔中を布で覆っているのに、お酒?
セシリアは不思議に思ったが、すぐに驚きに目を丸くした。
セシリアの目の前、かの人の見ているまさにその場所で、〝ブレスト〟が顔中に巻きつけている布をほどきはじめたのだ。
やがて、すべての布が解かれ、〝ブレスト〟の素顔が露わになった。セシリアの視線はその素顔に吸い付けられた。
それは、まさに歴史的な瞬間だった。
〝ブレスト〟が――その名で呼ばれるようになって以来――人前で素顔をさらしたのはこれが最初で最後。これ以降、決して、他人に素顔を見せることはなかった。そして――。
セシリアもまた、そのことを他人に語ることはなかった。
セシリアはこの世が終わるまで、〝ブレスト〟の素顔を知るたったひとりの人間になったのである。
〝ブレスト〟は卓の上に置いた自分のグラスを手にとった。血のように紅い酒を軽くあおった。唇についた酒のしずくを赤い唇で舐めあげた。
「わたしがなぜ、男を憎むのか。その理由を話しておく」
「えっ……?」
なぜ、自分に対してそんなことを話すのか。
その理由が見当もつかないまま、セシリアはその場に立ち尽くしていた。
鸚鵡もまた、〝ブレスト〟の言葉にじっと耳を傾けようとしている。
〝ブレスト〟は話しはじめた。それは、セシリアに対して話すと言うより、自分自身に改めて言い聞かせているように見えた。
「わたしには愛する人がいた」
「愛する人……」
「わたしはゴンドワナの隣、砂漠のなかの小さな国の出身。旅の一座の踊り子だった。わたしは……その国の姫を愛していた。いや、恋していた」
それは、ゴンドワナのさらに東、乾燥した砂漠地帯に生まれた小さな国。家畜の群れを引き連れて砂漠を渡り歩く遊牧民たちがより集まり、あちこちに点在する小さなオアシスをつないで出来た蜃気楼のような国。
規模は小さく、人口は少なく、これといった産業もない。それでも、砂漠に鍛えられた女たちの、野性味あふれる独特の美しさと、夜の砂漠を旅する人々が旅の無聊の慰みに生み出してきた数々の歌と踊り、そして、物語があった。
国中のあちこちに大きな天幕が立てられ、そのなかで女たちが唄い、踊り、物語を語った。それは周辺諸国でも話題となり、女たちの歌と踊りを目当てに多くの観光客がやってくるようになった。おかげで、小さいなりに豊かな国となった。
〝ブレスト〟の生まれた一座もまた、それらの天幕を巡り歩いては歌と踊りを披露し、物語を語っていた。旅の一座とは言え、その優れた技量によって知られ、他国の要人を歓待する際には王宮に招かれて歌舞音曲を披露するほどに格式のある一座だった。〝ブレスト〟はそんな一座に生まれ、物心ついたときからごく自然に歌と踊りに親しみ、数々の芸を身につけていた。
その日、まだ一〇歳にもならなかった〝ブレスト〟は、一座と共にはじめて王宮を訪れた。はじめて見る王宮。見たことのないものばかり。物珍しさに子どもらしい怖い物知らずの好奇心を刺激され、一座からはなれて王宮中を見てまわった。
そして、出会ったのだ。
砂漠の国のなかに技術の粋を集めて作られた巨大な噴水と、そのまわりに広がる絢爛たる庭園。焼けた空気と乾いた砂の匂いに包まれるその国のなかで、そこだけは水の匂いと花の香りに満たされ、別世界の装いだった。
そのなかに響き渡るおかしそうな笑い声。見ると、自分と同じくらいのドレス姿の女の子が噴水に落ちてずぶ濡れになり、楽しそうに笑っていた。
〝ブレスト〟はその女の子に駆けよった。助けようとした。ところが――。
その女の子は、〝ブレスト〟に気がつくと思いきり水をかけてきた。笑いながら、楽しそうに。何度もなんども。
こうなると、〝ブレスト〟も子どものこととて負けん気が頭をもたげてくる。自分も噴水のなかに飛び込み、お返しとばかりに女の子に水をかけまくった。
ふたりはしばらくの間、キャアキャア言いながら水をかけ合った。そして、ふたりともずぶ濡れになった姿で思いきり笑いあった。それが――。
〝ブレスト〟と、その国の小さな姫との出会いだった。
思えば、〝ブレスト〟はそのときすでに恋に落ちていたのだ。自分と同い年の無邪気で愛らしい姫君に。
「わたしとその姫さまは同い年の女の子同士と言うことで、すぐに仲良くなった。一座が王宮によるつど必ず会って、一緒に遊んだ。わたしは姫さまに会えるのが楽しみだったし、姫さまもわたしに合うことを楽しみにしてくれていた。
姫さまは美しい方だった。砂漠に舞い散る雪のように。無邪気で、天真爛漫で、天使のように愛らしい方だった。王宮のなかで蝶よ、花よと育てられ、政治とも軍事とも無縁だったけれど、誰をも等しく包み込む優しさと愛情あふれるお人柄とで、誰からも愛されていた。でも……」
ほう、と、〝ブレスト〟は溜め息をついた。
「わたしたちがまだお前とそう歳のかわらない頃、はやり病によって姫さまの両親、国王とその妃が亡くなった。姫さまは次の王として即位なされた。でも、政治とも軍事とも無縁に過ごしてきたお姫さま。国を保っていくなどできるはずもない。だから、姫さまは隣国の王と結婚した。二〇以上も歳上だったけれど、姫さまが国を守っていくためにはその王と結婚し、将来を任せるしかなかった。
わたしの姫さまが国を守るために二〇以上も年かさの男と結婚する。
悲しかったけれど、仕方のないことだと納得はできた。しょせん、王族に生まれて、自由などあるはずがないのだから。それに、わたし自身、その王のことは知っていた。何度か会ったこともあった。歳ははなれていたけれど、いつでも姫さまに対しては礼儀正しく、紳士的に振る舞っていた。姫さまだけではなく、単なる旅芸人の娘に過ぎないわたしに対しても同じだった。だから、安心していた。
『この王さまならきっと、姫さまを守ってくれる』
無邪気にもそう思っていた。でも……!」
〝ブレスト〟は、その手にした杯を握りつぶした。その怒りの激しさにセシリアは目を見開いた。
「すべては演技だった! あの男は、あの男は自分の野望のために、わたしたちの国を狙い、そのために姫さまに近づいていただけ! いつか、姫さまを籠絡して我が物とするために、優しい男を演じていただけだった。あの男は結婚した途端、本性をむき出しにした。姫さまを幽閉し、もとからの家臣を追放して自らの子飼いの部下で固め、わたしたちの国を奪いとった。そして、そして……姫さまをさんざんもてあそんだあげくに売り飛ばした」
「売り……飛ばした?」
セシリアは眉をひそめた。
『売り飛ばした』という言葉に、カタールの姿を思い出し、胸が悪くなった。
「そう。それから、姫さまがどんな目に遭ったかなんて貴族の箱入りであるお前には想像だってできるはずがない。そのとき、わたしは一座と共に国中を巡っていて、姫さまのお側にいることができなかった。数年ぶりに王宮に戻り、すべてを知ったあと、わたしは姫さまを取り戻すために一座を抜けて旅に出た。楽器のかわりに剣をもち、唄い、踊るために鍛えた身のこなしを戦うためのものにかえて。
女ひとりの旅。一言で言えば地獄だった。あらゆる苦難を背負わなければならなかった。それでも、わたしは歯を食いしばって耐えた。旅をつづけた。姫さまを取り戻す。その一心で。でも……どこまで追っても姫さまはいなかった。すでに新しい場所に売られたあとだった。それでも、わたしは後を追いつづけた。そして、何年もたってようやく、姫さまを見つけ出した」
「助け出せたのですね⁉」
セシリアの表情が輝いた。このときばかりは貴族の令嬢としての顔に戻っていた。屋敷で呼んだ恋愛小説を思い出していた。それらの小説のなかでは主人公は必ず姫君を助け出し、ふたりで幸福になったものだ。だから、
『助け出せたのですね⁉』
そう叫んだ。幸せの予感に表情を輝かせた。しかし――。
現実は物語のように都合良くはいかない。
「……助けられなかった。ようやく見つけ出した姫さまは、あまりの苦難にすでに心が壊れてしまっていた。わたしは姫さまを救うために、この手で殺した」
「殺した⁉」
それは、セシリアにとってあまりにも衝撃的な結末だった。
「そうだ。わたしはこの手で姫さまを、わたしの愛したたったひとりの人を殺した」
「そんな……それ以外の方法はなかったのですか? お医者に診せるとか……」
「わからない。あるいは、そうしていれば壊れた心をもとに戻すこともできたのかも知れない。でも、あのときのわたしには、姫さまのそんな姿を見ていることは耐えられなかった。わたしはもしかしたら姫さまを助けるつもりで、わたしのなかの姫さまの偶像を守るためだけに殺したのかも知れない」
「……そんな」
「そして、姫さまを裏切ったあの男は……そうして得たわたしたちの国の財力を使い、近隣諸国に戦争を仕掛けた。
砂漠の国すべてを支配し、砂漠の覇者となる。
それが、あの男の野望。姫さまは、そして、わたしたちの国はその野望のために利用された。何年にもわたる争いの果てに、わたしたちの国は滅びた。いまでは住むものもなく、砂漠のなかに廃墟をさらしている」
「……そんな」
「そして、あの男、姫さまを裏切り、わたしたちの国を滅ぼしたあの男もまた、戦いのなかに死んだ。戦場で堂々と戦って死ぬなど、あの男には過ぎた死に方。この手でできるだけむごたらしく殺してやるつもりだったのに、それすらもできなかった。
そして、わたしは誓った。わたしの姫さまを不幸にし、わたしたちの国を滅ぼした男。この世のすべての男に復讐してやると」
「……すべての男性を恨むのは筋がちがうのでは?」
セシリアはおずおずと、遠慮がちにそう口にした。
〝ブレスト〟は迷いなく答えた。
「姫さまをもてあそんだのはあの男ひとりではない。姫さまを買った男すべてが、姫さまをもてあそび、不幸にした」
そう言われては、セシリアとしてもそれ以上、なにも言えない。
〝ブレスト〟はつづけた。
「男たちに復讐する。すべての男たちを殺す。そのために、海賊になった。でも……」
「……でも?」
「まちがっていたのかも知れない。そう思うこともある。復讐してもふくしゅうしても、泣かされる女たちはいる。だったら、わたしのするべきことは男たちへの復讐ではなく、そんな女たちを助けることだったかも知れない。そう思うこともある」
それきり――。
〝ブレスト〟は、なにも言わなかった。
そこではじめて、鸚鵡が翼を広げた。音もなく飛び立つと〝ブレスト〟の肩に降り立ち、はじめて明かされた素顔に自分の頭をこすりつけた。
その場を、月に照らされる夜の砂漠のような沈黙が支配した。
「……どうして」
その沈黙に耐えきれず、セシリアが酸素を求めてあえぐ金魚のように言った。
「どうして、そんな話をわたし、いえ、僕に?」
「単なる気まぐれ。そう思っていればいい」
「気まぐれ?」
スッ、と、〝ブレスト〟はそのしなやかな手を振った。
「用はすんだ。もうさがりなさい。明日も朝早くから仕事なのだから」
「……はい」
いきなり呼びつけて、一方的に話すだけ話して、その理由も言わず、もう帰れと言う。
勝手と言えばあまりにも勝手な態度だが、セシリアはなぜか逆らえないものを感じた。貴族らしく礼儀正しい挨拶を残して、その場を去った。そして――。
「……女たちを助けるべきだったかも知れない、か」
ひとり残った〝ブレスト〟は、ポツリと呟いた。
「そうね、鸚鵡。もし……自由の国がもう何年か早く生まれていれば、そんな道もあったかも知れない。でも、わたしはすでにこの手を血で汚しすぎた。いまさら、別の生き方なんてできはしない。だからこそ、『もうひとつの道』を託せる誰かがほしかった。ガレノアがトウナに『女が女として生きられる世界』を託したように」
セシリアを見たとき、セシリアが自分にとってのトウナになるかと思った。セシリアはまだ誰も殺していない。傷つけてもいない。その手はきれいなまま。そのセシリアであれば、女たちを暗闇から救い出す役にもつけるだろう。でも――。
そのためには力がいる。
戦うための力。
戦い抜くための意思の力が。
姫にはその力がなかった。誰よりも優しく、愛情にあふれた人だった。世か世ならその愛情によって国民を包み込み、人々に幸せを分け与えることができただろう。でも、その優しさも、愛情も、飢えた男たちの野望の前には無力だった。
「……そう。力がなかったから姫さまは」
セシリアにはその役を担うだけの力があるだろうか。
それを確かめるためにあえてつらく当たった。耐えられないなら、逃げ出すなら、それでよし。ごく当たり前の貴族の娘として生きていけばいい。でも――。
幸か不幸か、いや、恐らくは不幸なことに、セシリアは耐え抜くだけの気概と根性を見せてしまった。
「……わたしは、あの子に重すぎる荷を背負わせることになるのかも知れないわね。鸚鵡。」
鸚鵡が翼を広げ、一声、鳴いた。
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まりぃべる
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うちの家族は、ふつうとちょっと違うんだって。ぼくには良く分からないけど、友だちや知らない人がいるところでは力を隠さなきゃならないんだ。本気で走ってはダメとか、ジャンプも手を抜け、とかいろいろ守らないといけない約束がある。面倒だけど、約束破ったら引っ越さないといけないって言われてるから面倒だけど仕方なく守ってる。
それでね、十二月なんて一年で一番忙しくなるからぼく、いやなんだけど。
そんなぼくの話、聞いてくれる?
☆まりぃべるの世界観です。楽しんでもらえたら嬉しいです。
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昨日の敵は今日のパパ!
波湖 真
児童書・童話
アンジュは、途方に暮れていた。
画家のママは行方不明で、慣れない街に一人になってしまったのだ。
迷子になって助けてくれたのは騎士団のおじさんだった。
親切なおじさんに面倒を見てもらっているうちに、何故かこの国の公爵様の娘にされてしまった。
私、そんなの困ります!!
アンジュの気持ちを取り残したまま、公爵家に引き取られ、そこで会ったのは超不機嫌で冷たく、意地悪な人だったのだ。
家にも帰れず、公爵様には嫌われて、泣きたいのをグッと我慢する。
そう、画家のママが戻って来るまでは、ここで頑張るしかない!
アンジュは、なんとか公爵家で生きていけるのか?
どうせなら楽しく過ごしたい!
そんな元気でちゃっかりした女の子の物語が始まります。
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