壊れたオルゴール ~三つの伝説~

藍条森也

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第二部 絆ぐ伝説

第六話二〇章 シゴキ

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 「あう!」
 『砂漠の踊り子』号の甲板かんぱんの上。
 そこで、小さな悲鳴が響いた。
 甲高かんだかい声だ。
 子どもの声だ。
 その声につづいて小さな体が吹き飛ばされ、甲板かんぱんに叩きつけられた。
 セシリアだった。セシリアが思いきりぶん殴られ、吹き飛ばされ、甲板かんぱんの上に転ばされたのだ。
 そのセシリアを、顔中を覆った布の隙間からのぞく切れ長の目が冷ややかに見つめている。
 〝ブレスト〟。
 〝ブレスト〟・ザイナブ。
 自由の国リバタリアの第二代提督にして、『砂漠の踊り子』号のあるじたる〝ブレスト〟がセシリアをぶん殴り、吹き飛ばしたのだ。
 「情けない」
 〝ブレスト〟は、視線以上に冷ややかな声で告げた。
 「こんな一撃も受けられないなんてね。どれだけ手加減すれば、まともに受けとめられる?」
 「くっ……」
 セシリアは甲板かんぱんに突っ伏したまま唇を噛みしめた。そのほおにはすでにいくつものあざがあり、口からは血がにじんでいる。
 「『キャアッ!』なんていう娘のような悲鳴をあげなくなっただけマシではあるけど。なにをしているの。かかってきなさい。伯爵家の息子でしょう。剣のひとつも使えないようでは、家名の名折なおれ」
 「くっ……」
 セシリアは歯を食いしばって立ちあがろうとした。手にした剣を杖のように甲板かんぱんについて、どうにか体を立ちあがらせた。口元からしたたる血を右手でぬぐう。ここ数日の重労働ですっかり荒れた手が朱に染まった。
 セシリアは〝ブレスト〟を睨みつけた。その視線の強さ、激しさは、ちょっと前までの『貴族の箱入り娘』に過ぎなかったセシリアには到底とうてい、持ち得ないものだった。その視線を兄たるルドヴィクスが見れば、あまりのかわりように驚いたことだろう。
 セシリアはギュッと唇を引き結んで剣を構えた。そうしていなければ、たちまち口のなかの血がしたたってしまう。口のなかいっぱいに血の味が広がるのを感じながら、セシリアは〝ブレスト〟に向かっていった。本来は片手で扱う剣を両手でもち、真っ向から振りおろす。
 剣術の基礎さえ身についていない、まともな握り方すらできていない一撃。力も、速さも、新米兵士の水準にさえ遠く及ばない。ちょっとでも訓練した人間であれば、こんな攻撃は決して食らわない。まして、〝ブレスト〟である。かのにしてみれば、攻撃を受けるまで一〇〇回はあくびをするほどの余裕があった。
 〝ブレスト〟の右腕が抜く手も見せずに動いた。弧を描いて振るわれ、易々やすやすとセシリアが手にした剣をはじきとばした。そのまま〝ブレスト〟の右腕は翼あるもののように急角度に天に向かって跳ねあがった。そこからさらにひるがえってセシリア相手に振りおろされた。強烈な一撃が容赦ようしゃなくセシリアの肩に叩き込まれた。
 「わあっ!」
 セシリアは口のなかにたまった血とともに叫び声を吐き出した。
 さすがに、〝ブレスト〟も素人の子ども相手に剣など使っていない。手にしているものは単なる木の棒である。しかし――。
 木の棒で殴られれば人は死ぬ。まして、〝ブレスト〟が使えば、素人の使う剣よりもよほど危険な凶器となる。その危険な凶器で、〝ブレスト〟はすでにセシリアの身を幾度となく打ち据えていた。その全身に青黒いあざを刻み込んでいた。
 剣の稽古けいこ
 一応、形だけを見ればそういうことになるのだろう。新入り相手に先輩が剣技を叩き込んでいると。しかし――。
 はたから見れば、とてもそんなものではない。その激しさ、過酷さは荒事あらごとには慣れている海賊たちでさえ顔色をかえ、言葉を失うほどのものだった。
 セシリアが剣技に関してはずぶの素人であることは誰だってわかる。そんな素人相手に『稽古けいこをつける』には明らかにやり過ぎ。稽古けいこなどではなく、イジメにしか見えない光景だった。それでも――。
 「剣を手放してどうする? 剣がなければ戦えない。生き残りたければ、剣は決して手放さないようにしなさい」
 さっさと、剣を拾いなさい。
 〝ブレスト〟のその言葉に、セシリアは黙って剣を拾う。そして、再び、〝ブレスト〟に斬りかかり、はね除けられ、その身に木の棒の一撃を食らう。
 セシリアは昔から活発なたちであったから、貴族の令嬢としてはめずらしく剣の心得こころえはある。兄たちを相手に稽古けいこしたこともある。とは言え、そんなものはもちろんほんのお遊び。ルドヴィクスにせよ、アルバートにせよ、幼い妹相手に本気で打ちあう気などあるはずもなく、セシリアがかわいい声をあげて打ちかかってくるのを、微笑ほほえましく眺めながら受けとめるだけ。たまに、自分から斬りかかることはあっても、それはすべて、セシリアがきちんと受けとめられるよう充分に手加減してのもの。
 ローラシアがいまだ、〝賢者〟たちの脅威にさらされることなく、貴族の令嬢が戦場で剣を振るう必要があるなどとは考えられもしなかった頃のこと。ルドヴィクスも、アルバートも、幼い妹を本気で鍛えようなどというつもりはもちろんなかった。妹のおままごとに付き合っていただけのこと。本気の一撃などもちろん、いままで一度だって受けたことはない。
 そんな貴族の令嬢が――いまは『息子』を名乗っているとは言え――実戦に次ぐ実戦で鍛えられた〝ブレスト〟の攻撃を受けているのだ。ぬくぬくと暖炉だんろの前でばかり育った子ネコが野生のトラの牙にかかったようなもの。トラの側がいくら手加減しようと、その痛みは言語を絶する。皮膚は裂け、肉は傷み、骨はじんじんと痺れる。それでも――。
 それでも、セシリアは歯を食いしばって〝ブレスト〟に挑みつづけた。その姿は百戦ひゃくせん錬磨れんまの海賊たちにして言葉を失うほどに鬼気迫るものだった。
 ――男にならなくちゃ。
 誰よりも、セシリア自身がその必要性を知っていた。
 サラスヴァティー長海ちょうかいを下っている頃、カタール一味に狙われたとき、自分はなにもできなかった。たまたま、〝ブレスト〟が通りがかってくれたから助かったものの、そうでなければカタールたちに捕まり、売り飛ばされていた。
 そうなればもちろん、自由の国リバタリアには行けない。ロウワンにも会えない。長兄ルドヴィクスから与えられた使命を果たすこともできないまま、ぼろ雑巾のように使い捨てられる人生を送る羽目になっていた。だからこそ、
 ――男になる!
 セシリアは必死に自分に向かってそう叫びつづける。
 ――男になって強くなる! そうして、ルドヴィクス兄さまやアルバート兄さまと一緒に戦って、以前の暮らしを取り戻す!
 その思いだけで剣を構え、〝ブレスト〟に向かっていく。
 〝ブレスト〟はその思いを感じとっていたのだろうか。容赦ようしゃなくセシリアの剣を跳ね飛ばし、その身に木の棒を叩きつける。
 「クワアッー」
 甲高かんだかい鳥の声が響いた。
 船縁ふなべりにとまって羽繕はづくろいしていた鸚鵡おうむが、宙を飛んで〝ブレスト〟の肩に飛び乗った。
 ――そこまでにしておけ。
 そう言わんばかりに布に覆われた〝ブレスト〟のほおを、くちばしでカリカリとかく。
 その言に従ったのだろうか。〝ブレスト〟は木の棒を放り出すと、言った。
 「時間ね。仕事に戻りなさい」
 その声を聞いたものにとっては、その言葉は『冷ややか』などというものではなかっただろう。狂気の産物としか思えなかったはずだ。
 なにしろ、セシリアは全身をあざだらけにして、あちこちから血を流している。もう立っているのもやっとの状態。まともな意識があるかどうかもわからないありさまなのだ。そんな状態の子どもにかける言葉では絶対になかった。
 「無茶だ、提督!」
 船員のひとりがたまりかねて叫んだ。
 「そいつはまだ子どもだ。日頃の仕事だけでも身に過ぎるって言うのに、そんなに叩きのめされては……医者に診せて、休ませてやらなきゃ」
 「骨の一本や二本、怪我のうちには入らねえっ!」
 そう笑い飛ばし、酒をあおっては、死の恐怖などどこ吹く風と受け流し、自ら死地に飛び込んでいく。その海賊にして、そんな一般人染みたことを言うほどに、セシリアの姿はむごいものだった。しかし――。
 「仕事に戻りなさい」
 それ以上にむごい言葉を、〝ブレスト〟は平然と投げかける。
 それはもはや『イジメ』さえ通りこして、『狂気』を感じさせる言葉だった。その狂気に――。
 海賊たちでさえ言葉を失い、薄気味悪いものを見る目で〝ブレスト〟を見つめ、身を遠ざけた。そして、セシリアは――。
 〝ブレスト〟の言葉を受けて、ノロノロと歩きだした。意識があるかどうかもわからない状況で自分の仕事に向かっていく。船員たちの『理解できない!』という思いを込めた視線を浴びながら。

 そして、夜。
 就寝しゅうしんの時刻。
 セシリアは、〝ブレスト〟による壮絶なイジメ――〝ブレスト〟自身『稽古けいこ』などと言う言い訳は一切、言っていない――のあとの重労働。甲板かんぱんを洗い、船内を掃除し、荷を運び、食事を配膳はいぜんし……それだけでも充分に過酷な労働をこなしたあとのボロボロの体を引きずるようにして、あてがわれた船室に向かう。何人もの船員が詰め込まれた大部屋へと。
 そこで、すっかりこわばった体を無理やり動かし、服を着替える。女であることがバレないよう物陰に隠れながら着替えるのだが、実のところ、そんな必要はなかった。
 〝ブレスト〟の部下たちはその多くが男装した女たちであり、この部屋にいるものは全員、そういう種類の女たちだった。それぞれに訳あって海の世界にたどり着き、男として生きている女たち。それだけに、セシリアが娘であることはわかっていたが、あえて、見て見ぬ振りをしていた。しかし――。
 それでも、あざだらけの体にはどうしても目がいってしまう。痛ましいものを見る目でチラチラとのぞき見ては視線をそらす。
 なぜ、〝ブレスト〟が、まだほんの少女であるセシリアに対してこうもつらく当たるのか誰もわからない。わからないながらに口出しすることもできず、見守っているしかなかった。だが――。
 そのなかでただひとり、〝ブレスト〟に意見するものがいた。
 船長のサップである。
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