壊れたオルゴール ~三つの伝説~

藍条森也

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第二部 絆ぐ伝説

第六話一五章 長海下り

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 「こ、これが船……なのですか?」
 セシリアは自分の目が信じられなかった。
 グリム親子によって連れてこられたのは、フィルの町から少し下流にくだった場所にある小さな船着き場。地元の漁師たちが自分の舟をつけておくのに使っている場所で、桟橋さんばしというよりも、岸から人の背丈ほどの板が伸びているだけ。
 そう言った方が正しい。
 それでも、普段なら何艘かの小舟がつないであるのだが、いまはそんな小舟でさえすべて出払っている。ただ一艘、漁船とも言えないような釣り用の小舟がとまっているだけ。船室などはもちろんない、手漕ぎの小さな舟である。
 「こんな……粗末なものが船?」
 セシリアは思わず、そう言っていた。
 セシリアにとって『船』と言えば、実家で毎年、夏の間に行われる園遊会で繰り出される観覧船のことである。領地内の湖に浮かべ、宴を開き、花火を見物するためのその船は、大きさといい、設備といい、海を往く交易船並に立派なものだった。遊興のための船である分、『快適さ』という点では交易船などをはるかに凌ぐ。
 船体はいつでもピカピカに磨かれ、『見栄えのためだけ』に張られていると言っていい大きなが堂々とひるがえる。ぜいらした装飾そうしょくほどこされ、船内のあちこちには高価な美術品。
 水に浮かぶ宝石箱。
 そう言ってもいいような船だった。
 それに比べて、目の前の小舟ときたら……。
 木をくりぬいただけのような単純な形。板を貼り合わせただけの頼りない船体。塗装とそうもろくにされておらず、木目もくめがむき出しのまま。などはもちろんあるはずもなく、ただ一本のかいがおかれているだけ。
 セシリアにしてみれば、こんなものを『船』だと言われても信じられない。平民の子どもたちが川に浮かべて遊んでいる玩具おもちゃの船だとしか思えない。
 セシリアの言葉にさすがにグリムも気を悪くしたらしい。柔和にゅうわな顔に少々、不満そうな表情を浮かべた。
 「これはこれは。なかなかに手厳しいことをおっしゃってくれますな、お坊ちゃま。いいところの坊ちゃんにはそう見えるかも知れませんが、わしにとっては生計を支えてくれる大切な相棒なのですよ」
 「も、申し訳ありません……!」
 セシリアはあわてて頭をさげた。
 グリムの機嫌をそこねて船に乗れなくなれば、自由の国リバタリアに行けなくなる。自由の国リバタリアに行けなければソフィアと再び会うこともできない。セシリアとしては必死だった。
 「で、ですが、こんなそ……いえ、小さな船で、本当に自由の国リバタリアにまで行けるのですか?」
 セシリアのその言葉に――。
 グリムは機嫌を直したようにニッコリと微笑んだ。その表情は我が子の自慢をする親に似ていた。
 「ご心配なく。わしらは代々、このサラスヴァティー長海ちょうかいで漁をしてきた一族。長海ちょうかいのことは知り尽くしております。必ずや、自由の国リバタリアまでお届けしますよ」
 「そうとも。この長海ちょうかいでおれたちの右に出るやつはいねえよ」
 「そうよ。安心して任せておいて」
 グリムのふたりの子ども、ポールとマギーも口々に請け負った。ポールは茶目っ気たっぷりのイタズラっ子のように明るく、マギーはいかにも優しい女性らしく柔らかく笑いながら。そのマギーの笑顔がセシリアを安心させた。
 「おっと、そう言えば、お坊ちゃまのお名前をまだ聞いておりませんでしたな」
 「し、失礼しました! わたしはセシリ……いえ、セシルと申します」
 「セシルですか。いいお名前ですな。では、セシルぼっちゃま。さっそく、出発するとしましょう」
 「はい……!」

 そうして、舟はサラスヴァティー長海ちょうかいをくだりはじめた。
 息子のポールがかいを握り、陽気な舟歌などを歌いながら舟をあやつり、進んでいく。ポールのとしての技量はなかなかのもので、粗末な小舟とは思えない速度で、なめらかにくだっていく。舟歌の方も決して『うまい』というほどではないが声量豊かで、声には張りがあり、いかにも『海のおとこの唄!』という感じでなかなかに心地良い。とくに、酒盛りしながら聞く分には格別だろう。
 人によってはなかなかにのどかで心地よい船旅。しかし、貴族令嬢であるセシリアにとっては拷問にも等しかった。
 晴天に恵まれている分、雨風にさらされたり、船がグラグラと揺れる……などと言うことはなかったが、その分、ギラギラと輝く太陽の光と熱が容赦なく全身を照りつける。
 釣り用の小さな舟。日陰などもちろんあるはずもなく、全身を焼かれつづける。そして、ここには主人の娘のために、傘を差して日差しをさえぎってくれる奴隷はいない。太陽に肌を焼かれながら舟の上でじっと座って耐えているしかないのだ。
 『じっと座って』と言うのもつらいことだった。
 フィルの町に来るまでの数日間の旅はつらいものとはいえ、体を動かすことはできた。ウマに乗って走ることはできた。夜になれば水を汲んだり、たきぎを集めたり、食糧となる草や木の実、イモムシなどを探したり……と、やることもたくさんあった。
 ここでは、そんなことはなにもできない。本当にすることがなにもない。ただ小舟のなかに座り込み、日が過ぎるのをまつだけ。
 活発な一二歳の子供にはつらい。
 瑞々しい肉体が運動を求めてうずきはじめる。だからと言って、不安定な小舟の上でダンスの訓練などできるはずもない。うずく体を必死に押さえつけていなければならず、それだけでも経験したことのない苦しさだった。
 「おやおや、セシル坊ちゃま。困りますな。そのように体を揺すられては。じっとしていてください。でなければ、舟の安定を保てません」
 「で、でも……」
 セシリアは体をモゾモゾさせながら泣きそうな顔で訴える。活力に富んだ肉体が運動を求めて泣き叫んでいるのだ。
 「舟の上で下手に動かれれば転覆てんぷくしやすくなります。転覆てんぷくしてしまえば自由の国リバタリアには行けませんぞ。それでも、よろしいのですか?」
 「そ、それなら、せめて、なにかすることを……! 本かなにかはありませんか?」
 「さてさて。無学な漁師の身であれば、読み書きなどできませんのでね。本などというものは、手にとったこともありませんな」
 にべもなくそう言われて、セシリアは黙りこむしかなかった。
 その調子で日がな一日、小さな舟の上でじっとしているのだ。食欲などわくわけもない。
 その食事がまた粗末なものだった。
 セシリアにとって食事と言えば、家族皆で大きな卓につき、何人もの使用人に給仕されて行うものだった。まずは甘く温かいショコラからはじまり、前菜、スープ、魚料理、そして、メインである肉料理へと至る。食後にはもちろん、デザート。
 一流の菓子職人が腕を振るって作ったかわいらしいケーキや、はるか北にある紅蓮ぐれん地獄じごくから持ち帰った氷で作った氷菓子などが日々の食卓を彩ったものだ。
 ここには、そんなものはなにもない。あるものと言えば、やたらと塩辛い干し肉にしけったビスケット、それに、かび臭い水だけ。
 ただでさえ食欲のちっともわかないところにそんなものが出てくるのだ。食べる気になどとてもならない。塩辛い干し肉も、しけったビスケットも、手にしただけで胸がいっぱいになる。水でさえ、飲む気になれなかった。とは言え――。
 食べなければ体力がもたない。
 セシリアもここまでの旅の間にそのことを学んでいた。食べたくなくても食べなければならないのだと言うことを思い知っていた。体力がつづかなければ自由の国リバタリアに行くことなどできはしないのだ。
 ――食べなくちゃ、食べなくちゃ。食べなければ体力がもたない。自由の国リバタリアに行けなくなる。そうなれば、ソフィア姉さまにも会えない。ルドヴィクス兄さまやアルバート兄さまを助けに行くことだってできない。
 一二歳の少女はその思いで必死に食欲のない胃袋に食物を押し込んだ。塩辛い干し肉を噛みしめ、しけったビスケットを噛み砕き、かび臭い水で飲みくだす。ちっとも喉をおりそうにない食物を水の勢いで流し込み、目をつぶって必死に飲み込む。ともすれば、すべてを戻しそうになる胃袋を必死に押さえつける。そのたびに、涙がにじんだ。
 セシリアはそれでも、どうにか、こうにか、食事をつづけた。そして、食べるものを食べたからには出すものも出さなければならない。それがまた難題だった。
 こんな小舟にトイレなどあるはずもない。そもそも、トイレが必要なほど長時間にわたって乗りつづけるための舟ではない。
 陸にあがることさえできれば、どこかの草むらにでも隠れて用を足す、ということもできるのだが、サラスヴァティー長海ちょうかいは川ではない。大陸の割れ目に海が入り込んだ巨大な入り江だ。
 両岸のほとんどは高い断崖絶壁に覆われており、舟をつけて上陸できる場所などそうはない。サラスヴァティー長海ちょうかいにある港町はどれも『比較的』なだらかな場所を選んで、多くの人手を使って地面を削り、平らにし、水面との高さを合わせることで作られている。自然のままで上陸できるような地形などないのだ。すべてをこの小舟の上ですませなければならない。
 これが、海を往く帆船はんせんであれば舳先へさきに板を渡してそこから用を足すのだが、こんな小舟ではそんなこともできない。古いおけを尻の下にあてがい、用を足す。そして、中身は海に捨てる。もちろん、ひとり一桶ひとおけなどというわけにはいかず、全員でひとつのおけを使うのだ。
 グリムたちが用を足したために、強烈な異臭のするそのおけを自分の尻の下にあてがい、用を足す。
 セシリアにとっては、想像するだけで気を失うような行いだった。
 貴族令嬢である自分が野外で、それも、他人の目のある場所でおけに用を足す。
 数日前までのセシリアならとうていできなかった。
 「そんなはしたない真似をするくらいなら、このまま海に飛び込んだ方がマシ!」
 そう叫び、本当に発作を起こして海に飛び込んだことだろう。
 しかし、いまのセシリアには旅の間、兄と姉から叩き込まれた『生きる力』があった。なにがなんでも自由の国リバタリアに行かなければならないという使命感があった。そのふたつがかろうじてセシリアの精神をつなぎとめ、その受け入れられない状況を受け入れさせた。
 「む、向こうを向いていてください」
 せめてもの救いにと、そう頼んだ。
 そして、ズボンをおろして尻を出し、悪臭の立ちのぼるおけの上にまたがり、用を足す。想像したこともない屈辱に身を焦がしながら。
 ――ダメよ! 泣いちゃダメ。泣いたってなんにもならない。誰も助けてくれない。そんなことはもうわかっているでしょう!
 必死に自分を叱りつける。
 すべては自由の国リバタリアに行くため。
 自由の国リバタリアにたどり着き、ソフィアで再会し、助けを得てルドヴィクスとアルバートを救いに行く。
 すべてはそのため。
 セシリアはそう自分に言い聞かせながら小舟の旅をつづけていた。
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