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第二部 絆ぐ伝説
第六話一四章 フィルの漁師親子
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「通してください、通して……!」
セシリアはそう叫びながら、必死に人々の群れをかきわけて進もうとした。船の受け付けに向かおうとした。
無理な相談だった。
なにしろ、この場には恐慌にかられて逃げ出そうとする何百、何千というおとなたちが押しよせ、ひしめき合っているのだ。しかも、争いが起きたことでいっそう、殺気立っている。自分のことしか見えなくなっている。他人のことにかまっている余裕などない。
セシリアがいくら声を張りあげようとも誰も聞いてくれない。通してなどくれない。それどころか、
「邪魔だ、このガキ!」
その叫びと共に腕一本で吹き飛ばされてしまう。
一二歳の少女の身では、恐慌に駆られたおとなたちに対抗するなどできるはずもない。いくら必死になっても人混みに押され、はじき出されて、通るどころではない。受け付けに向かうどころか、近寄ることすらできはしない。
セシリアの大きな目に涙があふれ出しそうになる。必死に頭を振って、涙を吹き払った。泣くのをこらえた。
――泣いてもダメ! 自分でなんとかしなきゃならないのよ!
必死に自分にそう言い聞かせる。
でも、どうしたらいいんだろう?
どうしたら、船に乗せてもらえるんだろう?
それがわからない。
いくら覚悟を固めてもセシリアはしょせん、貴族の令嬢。蝶よ、花よと育てられた世間知らずの箱入り娘。いままで、自分でなにかをしたことなどない。テーブルマナーやダンスは身につけていても、いま、この場で、役に立つような技量や知識はなにひとつ持ち合わせていない。
困り果てたセシリアは結局、自分にできる唯一のことをした。
つまり、他人に頼むこと。
貴族の令嬢として、他人に頼んでなにかをやってもらうことだけには慣れている。だから、この場でもそうした。両親と同じような貴族の服装をしたおとなたちに近づき、お願いした。
「お願いです、わたしを自由の国に行く船に乗せてください」
片っ端からそう言ってまわった。しかし、誰にも相手にしてもらえない。
「邪魔だ、退け、小僧!」
その一言で振り払われ、押しのけられてしまう。
「お、お金ならあります。だから……」
「うるさい!」
そう一喝され、体の芯まで震えあがる。
皆、自分と自分の家族が逃れるために必死なのだ。まして、特権意識に凝り固まったローラシア貴族。薄汚れた平民の格好をした子どもになど、気を使うはずもなかった。
「お願いです! お金ならちゃんと払います。だから、わたしを自由の国に行く船に乗せてください!」
小さな両手いっぱいに硬貨を乗せて見せながら、セシリアはまわりの人々に訴えかける。セシリアはどこまでも貴族の箱入り娘だった。いま、この場で、多額の金銭を見せつける。それがどんなに愚かで、危険なことか。まるでわかっていなかった。
人々はセシリアの訴えなど無視して通りすぎる。貴族の令嬢としていままで、頼んだことはなんでもすぐにやってもらえる暮らしをしてきたセシリアである。自分の頼みを誰も聞いてくれないという、いまの状況が信じられない。
今度こそどうしていいかわからず、途方に暮れていると――。
「自由の国に行きたいのかね、お坊ちゃん?」
突然、声をかけられた。怯えたように声のした方を振り向くと、そこには柔和な表情の中年男と、その子どもらしいふたりの若い男女がいた。子どものうち、娘の方が優しく微笑んだ。まだ二十歳前と見える若くて優しそうな娘。その娘の微笑みがセシリアをわずかながらに安心させた。
「そ、そうです。わたしは自由の国に行きたい、行かなくてはならないんです……」
「ふうむ。かわいそうだが、それはむずかしいな。なにしろ、見ての通り、避難民がどっと押しよせているのでな。船が足らんのだよ。お坊ちゃんが乗る分は、ま、ないだろうな」
「そ、そんな……」
「だが、お坊ちゃんは運が良い。わしはこのフィルの町で漁師を営んでいるグリムというものでな。こっちは息子のポールと、娘のマギー。わしら一家は船をもっておる。望むなら、その船でお坊ちゃんを自由の国まで送ってあげよう」
「本当ですか⁉」
セシリアの表情がバアッと明るくなる。その金髪が泥で汚されてさえいなければ、その場に太陽が出現したかのような輝きが振りまかれていたにちがいない。
ポールとマギーがそれぞれに笑いかけた。
「もちろんさ。小さな子どもをひとりにはしておけないからな」
「そういうこと。さあ、行きましょう」
と、マギーが手を差し出した。
セシリアは満面の笑顔となった。
「あ、ありがとうございます! お金ならちゃんと払いますから……」
セシリアは手のひらいっぱいの硬貨を差し出したが、グリムはその首を横に振った。
「いやいや、金などいらんよ。困っている子どもを助けるのは、おとなとして当然のことだからな」
「そういうこと。そのお金は今後のためにとっておきなさい」
マギーもそう言って微笑んだ。
「ありがとうございます!」
――良かった。いい人たちに会えた。姉さま、これで、自由の国に行けます。姉さまとお会いできます。ルドヴィクス兄さま、アルバート兄さま、まっていてください。セシリアは必ず、助けを連れてローラシアに戻ります。それまで、どうかご無事でいてください……。
セシリアはその思いに夢中で気がついていなかった。柔和な善人に見えるグリムとその子どもたち。その三人の顔に浮かぶ邪悪な笑みに。
セシリアはそう叫びながら、必死に人々の群れをかきわけて進もうとした。船の受け付けに向かおうとした。
無理な相談だった。
なにしろ、この場には恐慌にかられて逃げ出そうとする何百、何千というおとなたちが押しよせ、ひしめき合っているのだ。しかも、争いが起きたことでいっそう、殺気立っている。自分のことしか見えなくなっている。他人のことにかまっている余裕などない。
セシリアがいくら声を張りあげようとも誰も聞いてくれない。通してなどくれない。それどころか、
「邪魔だ、このガキ!」
その叫びと共に腕一本で吹き飛ばされてしまう。
一二歳の少女の身では、恐慌に駆られたおとなたちに対抗するなどできるはずもない。いくら必死になっても人混みに押され、はじき出されて、通るどころではない。受け付けに向かうどころか、近寄ることすらできはしない。
セシリアの大きな目に涙があふれ出しそうになる。必死に頭を振って、涙を吹き払った。泣くのをこらえた。
――泣いてもダメ! 自分でなんとかしなきゃならないのよ!
必死に自分にそう言い聞かせる。
でも、どうしたらいいんだろう?
どうしたら、船に乗せてもらえるんだろう?
それがわからない。
いくら覚悟を固めてもセシリアはしょせん、貴族の令嬢。蝶よ、花よと育てられた世間知らずの箱入り娘。いままで、自分でなにかをしたことなどない。テーブルマナーやダンスは身につけていても、いま、この場で、役に立つような技量や知識はなにひとつ持ち合わせていない。
困り果てたセシリアは結局、自分にできる唯一のことをした。
つまり、他人に頼むこと。
貴族の令嬢として、他人に頼んでなにかをやってもらうことだけには慣れている。だから、この場でもそうした。両親と同じような貴族の服装をしたおとなたちに近づき、お願いした。
「お願いです、わたしを自由の国に行く船に乗せてください」
片っ端からそう言ってまわった。しかし、誰にも相手にしてもらえない。
「邪魔だ、退け、小僧!」
その一言で振り払われ、押しのけられてしまう。
「お、お金ならあります。だから……」
「うるさい!」
そう一喝され、体の芯まで震えあがる。
皆、自分と自分の家族が逃れるために必死なのだ。まして、特権意識に凝り固まったローラシア貴族。薄汚れた平民の格好をした子どもになど、気を使うはずもなかった。
「お願いです! お金ならちゃんと払います。だから、わたしを自由の国に行く船に乗せてください!」
小さな両手いっぱいに硬貨を乗せて見せながら、セシリアはまわりの人々に訴えかける。セシリアはどこまでも貴族の箱入り娘だった。いま、この場で、多額の金銭を見せつける。それがどんなに愚かで、危険なことか。まるでわかっていなかった。
人々はセシリアの訴えなど無視して通りすぎる。貴族の令嬢としていままで、頼んだことはなんでもすぐにやってもらえる暮らしをしてきたセシリアである。自分の頼みを誰も聞いてくれないという、いまの状況が信じられない。
今度こそどうしていいかわからず、途方に暮れていると――。
「自由の国に行きたいのかね、お坊ちゃん?」
突然、声をかけられた。怯えたように声のした方を振り向くと、そこには柔和な表情の中年男と、その子どもらしいふたりの若い男女がいた。子どものうち、娘の方が優しく微笑んだ。まだ二十歳前と見える若くて優しそうな娘。その娘の微笑みがセシリアをわずかながらに安心させた。
「そ、そうです。わたしは自由の国に行きたい、行かなくてはならないんです……」
「ふうむ。かわいそうだが、それはむずかしいな。なにしろ、見ての通り、避難民がどっと押しよせているのでな。船が足らんのだよ。お坊ちゃんが乗る分は、ま、ないだろうな」
「そ、そんな……」
「だが、お坊ちゃんは運が良い。わしはこのフィルの町で漁師を営んでいるグリムというものでな。こっちは息子のポールと、娘のマギー。わしら一家は船をもっておる。望むなら、その船でお坊ちゃんを自由の国まで送ってあげよう」
「本当ですか⁉」
セシリアの表情がバアッと明るくなる。その金髪が泥で汚されてさえいなければ、その場に太陽が出現したかのような輝きが振りまかれていたにちがいない。
ポールとマギーがそれぞれに笑いかけた。
「もちろんさ。小さな子どもをひとりにはしておけないからな」
「そういうこと。さあ、行きましょう」
と、マギーが手を差し出した。
セシリアは満面の笑顔となった。
「あ、ありがとうございます! お金ならちゃんと払いますから……」
セシリアは手のひらいっぱいの硬貨を差し出したが、グリムはその首を横に振った。
「いやいや、金などいらんよ。困っている子どもを助けるのは、おとなとして当然のことだからな」
「そういうこと。そのお金は今後のためにとっておきなさい」
マギーもそう言って微笑んだ。
「ありがとうございます!」
――良かった。いい人たちに会えた。姉さま、これで、自由の国に行けます。姉さまとお会いできます。ルドヴィクス兄さま、アルバート兄さま、まっていてください。セシリアは必ず、助けを連れてローラシアに戻ります。それまで、どうかご無事でいてください……。
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