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第二部 絆ぐ伝説
第六話八章 抵抗者たち
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「ルドヴィクス隊長! 防衛線を突破されました。我々の武器ではあの化け物どもをとめられません!」
「荷車でも、家具でもなんでもいい! 持ち運べるものはすべて持ちだして道をふさげ! 少しでもやつらの進軍を遅らせて、人々が逃げる時間を稼ぐんだ!」
「し、しかし……」
命令を受けた兵士の顔に不満と、それを上回る心細さが浮かんでいる。
――武器の通じない化け物相手に戦ってどうするんだ? 他の公国はもう皆、降伏したというし、我々もさっさと降伏した方が……。
口には出さないその思いが表情ににじみ出ている。ルドヴィクスはそんな兵士の弱気を吹き飛ばすように声を張りあげた。
「脅されて言うことを聞いていれば一生、脅される! 自分の未来を守りたければ『いくら脅しても無駄だ』という気概を見せつけろ!」
「は、はい……!」
一喝されてその兵士はようやく、命令を遂行するために駆け出していった。そこへ、別の兵士が血相をかえてやってきた。
「ルドヴィクス隊長、すぐに来てください! またも貴族と奴隷が揉めています!」
「チィッ、またか!」
ルドヴィクスは忌々しさをたっぷり込めて舌打ちした。武器の通用しない化け物どもに襲われ、人々を避難させるために必死の抵抗戦をつづけなくてはならない状況だというのに、貴族と奴隷の揉め事の仲裁にまで駆り出されるとは……!
――おれにそんな暇があるか! それぐらい、お前たちでなんとかしろ!
そう叫びたいところだが、そうはいかない。わざわざ隊長であるルドヴィクスを呼びに来たと言うことは、揉め事を起こしているのは、そこらの弱小貴族などではなく名のある大貴族だと言うことだ。そんな貴族相手に平民出身の兵士がなにを言えるわけもない。たとえ、ローラシアという国が事実上、崩壊したいまのこの状況下にあっても。
それが、ローラシアという国、ローラシア人の心の奥深くまで刻み込まれた精神というものだった。
ルドヴィクスが現場に着くとそこはまさに揉め事の真っ最中。三〇代と思える大柄な黒人奴隷と、その主である貴族とが、地面においた荷物を前に言い争っているところだった。
「き、きききさま、奴隷の分際で主人の言うことが聞けないというのか……⁉」
「こんな状況でなにが主人だ! 文句があったら、いつもみたいに鞭で打って言うことをきかせてみやがれ!」
奴隷――いや、すでに元奴隷か――にすごまれて、貴族は明らかに怯んだ。色艶のいい顔を青く染めて、身を震わせている。
奴隷の側はさすがに知らないが、貴族の方は知っていた。ちょっとは名の知られた侯爵家の当主である。六〇代半ばの年齢だが体格は堂々としており、頭髪もなお豊か。見事に整えられた口髭が自慢の人物である。
侯爵ともなれば、伯爵家の息子であるルドヴィクスから見れば雲の上の人物。ローラシアの秩序が保たれていた頃であれば、かの人の前に出れば下僕のごとく直立不動。一声、声をかけられれば一も二もなく従わなければならない。要するに、常にへいこらしていなければならない相手だ。
事実、いままでに何度もそうやって接してきた。しかし、いまのこの状況ではそんな『秩序ある世界』での取り決めなど通用しない。
「やめろ! この緊急時になにを揉めている⁉」
ルドヴィクスは敬語を使う余裕もなく、両者の間に割って入った。
侯爵は露骨にホッとした表情になった。ローラシアの軍人であれば無条件に貴族である自分の味方になる。いまのこの状況でなお、そう信じて疑っていないのだ。
「こ、こやつが、無礼にも奴隷の分際で、私の荷物をもつことを拒否したのだ」
侯爵閣下は大柄な黒人奴隷に指を突きつけると、その罪を弾劾した。
態度ばかりは偉そうだし、声は大きかったが、そこには威厳も貫禄もない。怯えながら必死に虚勢を張っているだけ。そのことは子どもの目にも明らかだった。
怯えるのも無理はない。この侯爵閣下は見た目ばかりは堂々たる体格をしているし、金のかかった高級服を着ていることで、外見だけは実に立派に見える。しかし、その実体はと言えば連日連夜の美酒と美食、それに、運動不足でたるみきった体。まともに走ることさえできはしない。もし、殴りあいになろうものなら、日々の重労働で鍛えられている大柄な奴隷に敵うわけがない。いくら、選民思想に凝り固まったローラシア貴族であろうともその程度のことはわかる。
身分制度という秩序が失われ、奴隷たちを容赦なく鞭打つ監督官もいないなかで、自らの腕力で無理やり従わせる……などという真似ができるわけがなかった。
ルドヴィクスはチラリと大柄な奴隷を見た。その奴隷は憤然たる表情で主人、いや、かつての主人を睨んでいる。見下ろしている。いまにも殴りかかりそうな表情だ。しかし、背中には大きな荷物を背負い、両手にも大きなバッグをもっている。
それに対し、侯爵の方は完全に手ぶら。誰がどう見ても地面に置かれている荷物は侯爵自身がもつべきだと思うだろう。しかし――。
ローラシアではちがう。荷物はすべて使用人がもつべきものであり、主人に荷物をもたせるのは使用人の恥。荷物をもつのは主人の恥。それが、ローラシアの常識。その意味では、この侯爵は単に常識に従って行動しているに過ぎない。問題は、その常識を保証する秩序がすでに崩壊しているという点だった。
ルドヴィクスは無言で地面に置かれている荷物の中身を確かめた。
「なにをする⁉」
と、侯爵閣下は血相をかえて仰せられたが、ルドヴィクスはかまわずに中身を探りつづけた。そして――。
その中身が豪奢な服の数々であることを確認すると、まとめて遠くに放り投げた。
「な、なにをする……⁉ 無礼であるぞ、私が誰がわかっておるのか⁉」
「緊急事態だ。身のまわりの貴重品だけをもって避難するよう指示したはずだ」
「わ、私の大切な着替えが貴重品ではないと申すか⁉」
侯爵閣下は顔を白黒されて主張なされたが、ルドヴィクスはいちいちなだめようとはしなかった。奴隷の側に言った。
「貴公もだ。よけいな荷物をもつ必要はない。本当に必要な最小限の荷物だけをもって早く避難してくれ」
言われた途端――。
その黒人は背中と両手にもっていた荷物をきれいさっぱり捨て去り、国境目指して走り出した。高貴なる侯爵閣下にはとうてい不可能な、見事な走りっぷりだ。
侯爵は泡を食った表情でルドヴィクスに食ってかかった。指を突きつけ、弾劾した。その指先がブルブルと震えている。
「き、きききききさま、無礼であろう、伯爵家のせがれの分際で。わしはこの国に名高い侯爵の……」
伯爵家のせがれ。
そう言ったとこを見ると、侯爵の方でもルドヴィクスのことを覚えていたらしい。格下のものが格上のものの顔と名前を覚えないのは死に値する罪だが、格上のものが格下のものの顔と名前を覚えなくても無礼には当たらない。それが、常識のローラシア貴族としてはなかなかに礼儀をわきまえていると言えるだろう。しかし、ルドヴィクスはそんなことで感動したりはしなかった。
「そんなことを言っている場合か⁉ 現実を見ろ。ローラシアはすでに滅びた。〝賢者〟を名乗るわけのわからない連中と、そいつらの操る化け物によって滅ぼされた。このままここに留まっていれば、あんたも奴隷にされるぞ!」
奴隷にされる。
その一言に――。
高貴なる侯爵閣下は魂までも青く染めて震えあがった。
「思い出せ。自分がいままで奴隷に対してしてきたことを。今度はあんたがその仕打ちを受ける番になる。それでもいいのか?」
そう言われて――。
侯爵はブルブルと、自慢の口髭を生やした顔を左右に振った。
いくら特権意識に凝り固まった貴族と言えど、自分がいままで奴隷たちをどのように扱ってきたかぐらいは覚えている。今度は自分自身がそんな仕打ちを受ける羽目になる。そう思えば、恐怖に駆られるのが当然だった。
「だったら、さっさと逃げろ! 他人の振る舞いを気にしている場合じゃない。生き残りたければ、奴隷にされたくなければ自分の脚で、自分の荷は自分でもって、一刻も早く逃げるんだ。国境を越えてゴンドワナに入れ。急げ!」
そう一喝されて――。
侯爵閣下もようやく現実を受け入れる気になられたご様子だった。泡を食った表情で、打ち捨てられた荷物になど目もくれず、その身ひとつで国境目指して走り出した。先ほどの奴隷の万分の一も見事ではないよたよたとした走り方ではあっだ。
ふう、と、その様子を見てルドヴィクスは一息ついた。
得体の知れない化け物たちの侵攻を受けて、他の公国が続々と降伏するなか、ただひとつライン公国だけが衛兵隊長ルドヴィクスの指揮のもと、必死の抵抗をつづけていた。
〝鬼〟によって六公爵が皆殺しにされたあと、守るべき主を失った大公邸でそれでも衛兵たちをまとめあげ、職務をつづけていた。だが――。
〝賢者〟たちの突然の宣告。
それにつづく化け物どもの出現。
それらにかつてない危機を感じたルドヴィクスは、衛兵たちとともに首都ユリウスを脱出。ユリウスに残っていた他の軍人や官僚、その家族たちも連れて故郷であるライン公国へと戻ってきた。そして、なにが起きたのかわからずうろたえるばかりの父を叱咤して公国内のありったけの兵をかきあつめ、公国民を国外脱出させるための防衛戦をはじめたのだ。
大公邸の飾り人形。
それが、大公邸を守る衛兵たちに対するもっぱらの認識だった。
その認識を証明するかのように、衛兵として採用されるのは一〇代から二〇代の若く、見目麗しい中級貴族の子弟ばかり。ルドヴィクス自身、ライン公国の中級貴族である伯爵家の息子であり、いまだ二四歳。その家柄と『外見だけ』で一〇代の頃に衛兵隊に採用された。そして、上のものが『容色の衰え』だけを理由に解雇されていくなかで、言わば年功序列で隊長になった。それは、衛兵隊にとってはいたって普通のことで、『伝統』と呼んでも差し支えのないものだった。
その事実がなおさら、衛兵隊を『飾り人形』と呼ばせていた。
本人たちもそのことに憤るどころか、『衛兵隊に選ばれたのは容姿が優れている証拠』と、『飾り人形』であることを誇りに思っていた。職務と言っても大公邸でつっ立っているだけ。戦場に出る必要などなかったし、そんな期待もかけられていなかった。
ルドヴィクスが隊長になって以来、軍事訓練だけは熱心に行っていたが、それも『万一に備えて』などという殊勝な理由からではなく、『銃を使う姿を見せれば女にモテる』という理由からだった。言わば、『スポーツとして』軍事訓練を行ってきたのだ。
飾り人形。
まさに、そう呼ばれるにふさわしい存在だった。
その飾り人形たちがまさにいま、命を懸けて人々を避難させるために戦っている。武器の通用しない化け物相手に必死の抵抗を見せている。それを支えているものはかつて、ルドヴィクスが聞いたロウワンの叫び、
「脅されて言うことを聞いていれば一生、脅される! 自分の未来を守りたければ『いくら脅しても無駄だ』という気概を見せつけろ!」
と言う、その叫びだった。
――そうだ。ロウワンどのの言うとおりだ。ここで従えばおれたちは一生、〝賢者〟を名乗るわけのわからない連中に支配される。化け物どもに脅かされる。そんな未来はごめんだ。
ならば、戦う。
抵抗する。
それしかなかった。
ルドヴィクスは決して高潔とか、善良とか言うような人間ではなかった。ローラシア貴族として物心ついたときから当たり前に奴隷を使ってきたし、幾度となく年長の奴隷たちを鞭で叩いてきた。それが当たり前だと思い、罪の意識などもったこともない。実際、ローラシアの秩序においては、それはごくごく当たり前で自然なことに過ぎなかった。
――そのおれがいま、自分が奴隷にされるのが嫌さに戦っているわけか。鞭で叩かれて働かされるのはごめんだと。おれが鞭で叩いてきた奴隷たちだって同じ思いをしていたろうにな。
ルドヴィクスの端正な顔に笑みがもれた。それは、自分自身に対する冷笑だったが、単に『冷笑』というには苦みがありすぎた。
「ルドヴィクス隊長、駄目です! 化け物どもの進軍をとめられません!」
「第二防衛線まで後退! 途中にある家や建物はすべて大砲で砲撃して瓦礫にかえろ! 総出で瓦礫を積みあげて防壁にするんだ。その上に油を撒いて火をつけろ。少しでも時間を稼ぎ、その間に堀を掘って進軍をとめるんだ。怯むな! やつらはたしかに化け物だが、不死身じゃない。大砲の砲撃を集中すれば倒すことは可能だ。進軍を遅らせ、一体いったいに砲撃を集中して倒していくんだ」
ルドヴィクスは一息にそう言った。自分や、その立場に対する矛盾はどうあれ、いま、このとき、人々を避難させるために抵抗をつづけることにはたしかに意味があるはずだった。
「は、はい……! ですが……」
「なんだ?」
「その……第二防衛線までの途上には隊長のご実家も……」
「……家にはおれが行く。お前たちはいまの命令を確実に遂行しろ」
「はい!」
「忘れるなよ。おれたちはローラシアの軍人だ。ローラシアの国民を守る使命を負っている。人々が安全な場所に逃げるまで、なんとしても時間を稼ぐんだ」
「はい!」
その兵士は、隊長の言葉に対して敬礼を返した。その頬が紅潮しているのは、この苦境にあってもルドヴィクスの言葉に兵士としての使命感を刺激されたからだろう。受けた命令を他の兵士たちに伝えるべく、駆けていく。
その後ろ姿を見送って宣戦。
ルドヴィクスも駆け出した。自分自身の生まれ育った屋敷を瓦礫の山にかえるために。
「荷車でも、家具でもなんでもいい! 持ち運べるものはすべて持ちだして道をふさげ! 少しでもやつらの進軍を遅らせて、人々が逃げる時間を稼ぐんだ!」
「し、しかし……」
命令を受けた兵士の顔に不満と、それを上回る心細さが浮かんでいる。
――武器の通じない化け物相手に戦ってどうするんだ? 他の公国はもう皆、降伏したというし、我々もさっさと降伏した方が……。
口には出さないその思いが表情ににじみ出ている。ルドヴィクスはそんな兵士の弱気を吹き飛ばすように声を張りあげた。
「脅されて言うことを聞いていれば一生、脅される! 自分の未来を守りたければ『いくら脅しても無駄だ』という気概を見せつけろ!」
「は、はい……!」
一喝されてその兵士はようやく、命令を遂行するために駆け出していった。そこへ、別の兵士が血相をかえてやってきた。
「ルドヴィクス隊長、すぐに来てください! またも貴族と奴隷が揉めています!」
「チィッ、またか!」
ルドヴィクスは忌々しさをたっぷり込めて舌打ちした。武器の通用しない化け物どもに襲われ、人々を避難させるために必死の抵抗戦をつづけなくてはならない状況だというのに、貴族と奴隷の揉め事の仲裁にまで駆り出されるとは……!
――おれにそんな暇があるか! それぐらい、お前たちでなんとかしろ!
そう叫びたいところだが、そうはいかない。わざわざ隊長であるルドヴィクスを呼びに来たと言うことは、揉め事を起こしているのは、そこらの弱小貴族などではなく名のある大貴族だと言うことだ。そんな貴族相手に平民出身の兵士がなにを言えるわけもない。たとえ、ローラシアという国が事実上、崩壊したいまのこの状況下にあっても。
それが、ローラシアという国、ローラシア人の心の奥深くまで刻み込まれた精神というものだった。
ルドヴィクスが現場に着くとそこはまさに揉め事の真っ最中。三〇代と思える大柄な黒人奴隷と、その主である貴族とが、地面においた荷物を前に言い争っているところだった。
「き、きききさま、奴隷の分際で主人の言うことが聞けないというのか……⁉」
「こんな状況でなにが主人だ! 文句があったら、いつもみたいに鞭で打って言うことをきかせてみやがれ!」
奴隷――いや、すでに元奴隷か――にすごまれて、貴族は明らかに怯んだ。色艶のいい顔を青く染めて、身を震わせている。
奴隷の側はさすがに知らないが、貴族の方は知っていた。ちょっとは名の知られた侯爵家の当主である。六〇代半ばの年齢だが体格は堂々としており、頭髪もなお豊か。見事に整えられた口髭が自慢の人物である。
侯爵ともなれば、伯爵家の息子であるルドヴィクスから見れば雲の上の人物。ローラシアの秩序が保たれていた頃であれば、かの人の前に出れば下僕のごとく直立不動。一声、声をかけられれば一も二もなく従わなければならない。要するに、常にへいこらしていなければならない相手だ。
事実、いままでに何度もそうやって接してきた。しかし、いまのこの状況ではそんな『秩序ある世界』での取り決めなど通用しない。
「やめろ! この緊急時になにを揉めている⁉」
ルドヴィクスは敬語を使う余裕もなく、両者の間に割って入った。
侯爵は露骨にホッとした表情になった。ローラシアの軍人であれば無条件に貴族である自分の味方になる。いまのこの状況でなお、そう信じて疑っていないのだ。
「こ、こやつが、無礼にも奴隷の分際で、私の荷物をもつことを拒否したのだ」
侯爵閣下は大柄な黒人奴隷に指を突きつけると、その罪を弾劾した。
態度ばかりは偉そうだし、声は大きかったが、そこには威厳も貫禄もない。怯えながら必死に虚勢を張っているだけ。そのことは子どもの目にも明らかだった。
怯えるのも無理はない。この侯爵閣下は見た目ばかりは堂々たる体格をしているし、金のかかった高級服を着ていることで、外見だけは実に立派に見える。しかし、その実体はと言えば連日連夜の美酒と美食、それに、運動不足でたるみきった体。まともに走ることさえできはしない。もし、殴りあいになろうものなら、日々の重労働で鍛えられている大柄な奴隷に敵うわけがない。いくら、選民思想に凝り固まったローラシア貴族であろうともその程度のことはわかる。
身分制度という秩序が失われ、奴隷たちを容赦なく鞭打つ監督官もいないなかで、自らの腕力で無理やり従わせる……などという真似ができるわけがなかった。
ルドヴィクスはチラリと大柄な奴隷を見た。その奴隷は憤然たる表情で主人、いや、かつての主人を睨んでいる。見下ろしている。いまにも殴りかかりそうな表情だ。しかし、背中には大きな荷物を背負い、両手にも大きなバッグをもっている。
それに対し、侯爵の方は完全に手ぶら。誰がどう見ても地面に置かれている荷物は侯爵自身がもつべきだと思うだろう。しかし――。
ローラシアではちがう。荷物はすべて使用人がもつべきものであり、主人に荷物をもたせるのは使用人の恥。荷物をもつのは主人の恥。それが、ローラシアの常識。その意味では、この侯爵は単に常識に従って行動しているに過ぎない。問題は、その常識を保証する秩序がすでに崩壊しているという点だった。
ルドヴィクスは無言で地面に置かれている荷物の中身を確かめた。
「なにをする⁉」
と、侯爵閣下は血相をかえて仰せられたが、ルドヴィクスはかまわずに中身を探りつづけた。そして――。
その中身が豪奢な服の数々であることを確認すると、まとめて遠くに放り投げた。
「な、なにをする……⁉ 無礼であるぞ、私が誰がわかっておるのか⁉」
「緊急事態だ。身のまわりの貴重品だけをもって避難するよう指示したはずだ」
「わ、私の大切な着替えが貴重品ではないと申すか⁉」
侯爵閣下は顔を白黒されて主張なされたが、ルドヴィクスはいちいちなだめようとはしなかった。奴隷の側に言った。
「貴公もだ。よけいな荷物をもつ必要はない。本当に必要な最小限の荷物だけをもって早く避難してくれ」
言われた途端――。
その黒人は背中と両手にもっていた荷物をきれいさっぱり捨て去り、国境目指して走り出した。高貴なる侯爵閣下にはとうてい不可能な、見事な走りっぷりだ。
侯爵は泡を食った表情でルドヴィクスに食ってかかった。指を突きつけ、弾劾した。その指先がブルブルと震えている。
「き、きききききさま、無礼であろう、伯爵家のせがれの分際で。わしはこの国に名高い侯爵の……」
伯爵家のせがれ。
そう言ったとこを見ると、侯爵の方でもルドヴィクスのことを覚えていたらしい。格下のものが格上のものの顔と名前を覚えないのは死に値する罪だが、格上のものが格下のものの顔と名前を覚えなくても無礼には当たらない。それが、常識のローラシア貴族としてはなかなかに礼儀をわきまえていると言えるだろう。しかし、ルドヴィクスはそんなことで感動したりはしなかった。
「そんなことを言っている場合か⁉ 現実を見ろ。ローラシアはすでに滅びた。〝賢者〟を名乗るわけのわからない連中と、そいつらの操る化け物によって滅ぼされた。このままここに留まっていれば、あんたも奴隷にされるぞ!」
奴隷にされる。
その一言に――。
高貴なる侯爵閣下は魂までも青く染めて震えあがった。
「思い出せ。自分がいままで奴隷に対してしてきたことを。今度はあんたがその仕打ちを受ける番になる。それでもいいのか?」
そう言われて――。
侯爵はブルブルと、自慢の口髭を生やした顔を左右に振った。
いくら特権意識に凝り固まった貴族と言えど、自分がいままで奴隷たちをどのように扱ってきたかぐらいは覚えている。今度は自分自身がそんな仕打ちを受ける羽目になる。そう思えば、恐怖に駆られるのが当然だった。
「だったら、さっさと逃げろ! 他人の振る舞いを気にしている場合じゃない。生き残りたければ、奴隷にされたくなければ自分の脚で、自分の荷は自分でもって、一刻も早く逃げるんだ。国境を越えてゴンドワナに入れ。急げ!」
そう一喝されて――。
侯爵閣下もようやく現実を受け入れる気になられたご様子だった。泡を食った表情で、打ち捨てられた荷物になど目もくれず、その身ひとつで国境目指して走り出した。先ほどの奴隷の万分の一も見事ではないよたよたとした走り方ではあっだ。
ふう、と、その様子を見てルドヴィクスは一息ついた。
得体の知れない化け物たちの侵攻を受けて、他の公国が続々と降伏するなか、ただひとつライン公国だけが衛兵隊長ルドヴィクスの指揮のもと、必死の抵抗をつづけていた。
〝鬼〟によって六公爵が皆殺しにされたあと、守るべき主を失った大公邸でそれでも衛兵たちをまとめあげ、職務をつづけていた。だが――。
〝賢者〟たちの突然の宣告。
それにつづく化け物どもの出現。
それらにかつてない危機を感じたルドヴィクスは、衛兵たちとともに首都ユリウスを脱出。ユリウスに残っていた他の軍人や官僚、その家族たちも連れて故郷であるライン公国へと戻ってきた。そして、なにが起きたのかわからずうろたえるばかりの父を叱咤して公国内のありったけの兵をかきあつめ、公国民を国外脱出させるための防衛戦をはじめたのだ。
大公邸の飾り人形。
それが、大公邸を守る衛兵たちに対するもっぱらの認識だった。
その認識を証明するかのように、衛兵として採用されるのは一〇代から二〇代の若く、見目麗しい中級貴族の子弟ばかり。ルドヴィクス自身、ライン公国の中級貴族である伯爵家の息子であり、いまだ二四歳。その家柄と『外見だけ』で一〇代の頃に衛兵隊に採用された。そして、上のものが『容色の衰え』だけを理由に解雇されていくなかで、言わば年功序列で隊長になった。それは、衛兵隊にとってはいたって普通のことで、『伝統』と呼んでも差し支えのないものだった。
その事実がなおさら、衛兵隊を『飾り人形』と呼ばせていた。
本人たちもそのことに憤るどころか、『衛兵隊に選ばれたのは容姿が優れている証拠』と、『飾り人形』であることを誇りに思っていた。職務と言っても大公邸でつっ立っているだけ。戦場に出る必要などなかったし、そんな期待もかけられていなかった。
ルドヴィクスが隊長になって以来、軍事訓練だけは熱心に行っていたが、それも『万一に備えて』などという殊勝な理由からではなく、『銃を使う姿を見せれば女にモテる』という理由からだった。言わば、『スポーツとして』軍事訓練を行ってきたのだ。
飾り人形。
まさに、そう呼ばれるにふさわしい存在だった。
その飾り人形たちがまさにいま、命を懸けて人々を避難させるために戦っている。武器の通用しない化け物相手に必死の抵抗を見せている。それを支えているものはかつて、ルドヴィクスが聞いたロウワンの叫び、
「脅されて言うことを聞いていれば一生、脅される! 自分の未来を守りたければ『いくら脅しても無駄だ』という気概を見せつけろ!」
と言う、その叫びだった。
――そうだ。ロウワンどのの言うとおりだ。ここで従えばおれたちは一生、〝賢者〟を名乗るわけのわからない連中に支配される。化け物どもに脅かされる。そんな未来はごめんだ。
ならば、戦う。
抵抗する。
それしかなかった。
ルドヴィクスは決して高潔とか、善良とか言うような人間ではなかった。ローラシア貴族として物心ついたときから当たり前に奴隷を使ってきたし、幾度となく年長の奴隷たちを鞭で叩いてきた。それが当たり前だと思い、罪の意識などもったこともない。実際、ローラシアの秩序においては、それはごくごく当たり前で自然なことに過ぎなかった。
――そのおれがいま、自分が奴隷にされるのが嫌さに戦っているわけか。鞭で叩かれて働かされるのはごめんだと。おれが鞭で叩いてきた奴隷たちだって同じ思いをしていたろうにな。
ルドヴィクスの端正な顔に笑みがもれた。それは、自分自身に対する冷笑だったが、単に『冷笑』というには苦みがありすぎた。
「ルドヴィクス隊長、駄目です! 化け物どもの進軍をとめられません!」
「第二防衛線まで後退! 途中にある家や建物はすべて大砲で砲撃して瓦礫にかえろ! 総出で瓦礫を積みあげて防壁にするんだ。その上に油を撒いて火をつけろ。少しでも時間を稼ぎ、その間に堀を掘って進軍をとめるんだ。怯むな! やつらはたしかに化け物だが、不死身じゃない。大砲の砲撃を集中すれば倒すことは可能だ。進軍を遅らせ、一体いったいに砲撃を集中して倒していくんだ」
ルドヴィクスは一息にそう言った。自分や、その立場に対する矛盾はどうあれ、いま、このとき、人々を避難させるために抵抗をつづけることにはたしかに意味があるはずだった。
「は、はい……! ですが……」
「なんだ?」
「その……第二防衛線までの途上には隊長のご実家も……」
「……家にはおれが行く。お前たちはいまの命令を確実に遂行しろ」
「はい!」
「忘れるなよ。おれたちはローラシアの軍人だ。ローラシアの国民を守る使命を負っている。人々が安全な場所に逃げるまで、なんとしても時間を稼ぐんだ」
「はい!」
その兵士は、隊長の言葉に対して敬礼を返した。その頬が紅潮しているのは、この苦境にあってもルドヴィクスの言葉に兵士としての使命感を刺激されたからだろう。受けた命令を他の兵士たちに伝えるべく、駆けていく。
その後ろ姿を見送って宣戦。
ルドヴィクスも駆け出した。自分自身の生まれ育った屋敷を瓦礫の山にかえるために。
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