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第二部 絆ぐ伝説
第六話六章 そして、悪夢が生まれた
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――はははは。
――はははははは。
高らかな笑い声が祭室に、大聖堂ヴァルハラに、そして、パンゲア全土に響き渡る。
「亡道の司……」
アルテミシアは呻いた。
姉とも思えない、姉の態度。
この場にいるはずのない存在。
そして、その存在を頭上にいただきながら両腕を広げ、天を仰ぎ、笑いつづける姉の姿。
それだけの条件がそろえば、なにが起きたのかぐらいはわかる。わかりたくはないが、わかってしまう。信じたくはないが、目をそらすことはできない。
――パンゲアの教皇が亡道の司に意思を乗っ取られるなんて……。
やはり、亡道の司は人の手で制御できる存在などではなかった。利用しようなどとしていい存在ではなかった。それなのに、制御できると思い込み、利用しようとしたばかりに……。
ギュッ、と、アルテミシアは両手を握りしめた。唇を噛みしめた。可憐なバラのような唇から一筋の血が流れ落ちた。
「だから……だから、始末できるときに始末しておくべきだと……」
「はははは」
アルテミシアの呻きに対し、亡道の司は高らかな嘲弄で答えた。
「それはちがう。小さき人間よ。お前たちにこの亡道の司を始末できるときなどなかった」
「な、なにを……。我々の張った結界に捕らわれ、身動きひとつできなかったくせに!」
「はははは。愚かなり、小さき人間よ。人間ごときの結界で亡道の司を捕えることができるなど、本気で思っていたのか?」
「な、なに……?」
「はははは。愚かなり、おろかなり。一〇年前、この世界に現われた我は忌々しきゼッヴォーカーたちの結果に阻まれ、世界に我が要素を広めることができなかった。そこにやってきたのが先代の教皇たち。
はははは。
はははははは。
先代の教皇たちはお前たちが思っているのとはちがい、我を利用しようとしていたのではない。結界に捕らわれている我を倒そうとしてやってきたのだ」
「なっ……!」
「我は教皇たちの意識を乗っ取り、我をこの地に運ばせた。ゼッヴォーカーたちの結界の外に出で、この世界に我の要素を広める、そのために。お前たちが我を利用していたのではない。我がお前たちの技術を利用したのだ。最初から、お前たちは我の手のひらの上」
――はははは。
――はははははは。
高らかに響く笑い声。
その声に包まれながらアルテミシアは、砕けそうになる膝を必死に支えていた。
最初から亡道の司の手のひらの上。利用しているつもりでいて利用されていた。自分たちが先代の教皇から、いや、代々の教皇から受け継いだと思っていた使命。その使命は亡道の司によってでっちあげられたもの。
そのことを知ったとき、アルテミシアは自分の拠って立つ大地そのものが崩れさる思いにさらされていた。
「はははは。礼を言うぞ、小さき人間よ。お前たちのおかげで我は忌々しきゼッヴォーカーたちの結界からはなれることができた。そして、この一〇年の時をかけて、パンゲア全土に我が要素を満たすことができた。もはや、このパンゲアにあるいかなる存在も我と無縁ではない。我に呑み込まれ、我の一部となる。いまこそ、この世界を我が世界に呑み込んでくれようぞ!」
「させない!」
アルテミシアは叫んだ。
キッ、と、亡道の司を睨んだ。ありったけの決意を込めて宣言した。
「それだけはさせない! 天帰教第二位、大司教の名において阻止してみせる」
「はははは。愚かなり、おろかなり。教皇たる身が我に呑み込まれたいま、それに劣る第二位の身でなにができる?」
「くっ……」
アルテミシアは唇を噛みしめた。
亡道の司の言うとおりだった。アルテミシアはあくまでも教会第二位。大司教であって教皇ではない。双子の妹とはいえ、代々の教皇だけに伝えられてきた秘儀を受け継いではいない。それは、教皇に選ばれた姉アルヴィルダただひとりだけが受け継いだものなのだ。
そのアルヴィルダでさえ、亡道の司に呑み込まれた。亡道に侵食され、自我を奪われた。それならば――。
アルヴィルダに劣る自分になにができる?
できるはずがない!
まして、代々の教皇が伝えてきた秘儀、亡道の司を倒すために磨かれ、蓄積されてきた知識と技。そのすべてが亡道の司のものになっているのだとすれば……。
――もう、この世の誰にも亡道の司をとめることはできない。
その絶望がアルテミシアを覆い尽くす。目の前から光が消え、暗黒の世界に取り込まれる……そう思えた、その瞬間。
――……ミシア。
――……アルテミシア。
かすかな、しかし、たしかに意思のある声を心に感じた。
――……逃げなさい、アルテミシア。
「姉さま!」
アルテミシアは叫んだ。その意思の持ち主の名を。
その身と心を亡道に侵食されながら、それでも必死に心の奥深くに押し隠し、守り抜いたかすかな自我。そのわずかに残されたアルヴィルダの自我がいま、自らの分身とも言うべき双子の妹に語りかけていた。
「ほう……」
と、亡道の司も感心したように呟いた。
「己が意思と自我。我が要素から守り抜いたか」
大したものだ。
亡道の司の呟きにはたしかに、その思いが込められていた。
――アルテミシア。逃げるのです。我々は過ちを犯した。途方もない過ちを。でも、まだ敗けていない。終わってはいない。あなたはこの国を出てロウワンのもとに向かうのです。
「ロウワン? ロウワンのもとへ?」
――そうです。ロウワンならばきっと、我々の過ちを正し、世界を守ってくれる。伝えるのです、ロウワンに。なにが起きたかを。我々がなにをしてしまったのかを。
「で、でも、それなら、姉さまご自身が……」
――わたしの身と心は亡道に侵食されすぎてしまった。もう、わたしは助からない。でも、あなたなら……あなたならまだ間に合う。あなたに代々、伝えられてきた教皇の秘儀を託します。それをもってロウワンに会うのです!
アルヴィルダの心が叫んだ。そして――。
アルテミシアの心のなかに膨大な量の記憶が流れ込んできた。
それは、知識。そして、技。代々の教皇が亡道の司と戦うために磨き、蓄積し、蓄えてきた力のすべて。それがいま、アルヴィルダからアルテミシアに託されたのだ。
アルヴィルダは亡道の司にその精神を侵食されながら、その知識と技を守り抜くために必死に戦っていたにちがいない。これだけは亡道の司に渡すまいと、その知識と技のすべてを自分の精神から切りはなし、心の奥深くに封じ込めた。いま、このとき、妹に託し、未来への希望をつなげるために。
あるいは――。
あるいは、その知識と技のすべてを使い、戦いを挑んでいれば、亡道の司による侵食に対抗できたかも知れない。侵食を防ぎ、自らを保つことができたかも知れない。
しかし、それができたという保証はない。戦いを挑み、敗北すれば代々、伝えられてきたすべての知識と技は亡道の司の知るところとなってしまう。亡道の司を倒すどころか、亡道の司自身の力になってしまう。そうなればもう、誰にも亡道の司はとめられない。この世界は確実に亡道に呑み込まれ、滅びてしまう。だから――。
アルヴィルダは自らが亡道に呑み込まれるのを承知で、伝えられてきた秘儀を守ることを選んだのだ。
――行きなさい、アルテミシア! その力だけは亡道の司に渡してはなりません!
「くっ……」
アルテミシアは唇を噛みしめた。身をひるがえした。大司教の聖衣をひるがえして全力で駆けた。
――逃げる、いまは逃げる。いえ、ちがう。そうではない。逃げるのではない! いつか必ず、亡道の司を倒す力をもってこの地に戻り、パンゲアを取り戻す! そのためにいま、撤退する。わたしは必ず戻ってくる!
必死にそう自分に言い聞かせ、アルテミシアは走る。走りつづける。唇を噛みしめ、両手を握りしめ、目にいっぱいに涙を溜めながら、その後ろからは亡道の司の高らかな笑い声が響いてくる。
「はははは。大したものだ、小さき人間よ。この亡道の司からついに代々の秘儀を守り抜いたとはな」
――ええ。その通りよ、亡道の司。あなたの思念に心のなかを探りまわられ、どれほどつらい思いをしたか。でも、それももう終わり。代々の秘儀は妹に託した。わたしのなかにはもうなにも残っていない。これでもう、いくら、わたしの心をまさぐろうと教皇の秘儀を手に入れることはできない。あなたの敗けよ、亡道の司。
「はははは。無駄ムダむだ。いまや、我が要素はこの国の隅々にまで至っているのだ。この国から逃れることはできぬ。今度はあやつの心を探り、ゆっくりと教皇の秘儀を手に入れるまで」
――させない! わたしは教皇アルヴィルダ! 妹が逃げるまでの時間は稼いでみせる!
神の奇跡。
いや、妹を思う姉の奇跡。
そう言うべきだろう。アルヴィルダが最後の力を振り絞って放った波動はパンゲアの隅々にまで張り巡らされた亡道の要素をたどり、逆にその要素を縛りあげた。
パンゲア全土で刻がとまった。
すべての刻が凍りつき、動くもののひとつない刻の凍った世界となった。そして――。
それから、どれだけの時がたっただろう。
大聖堂のなかに再び、亡道の司の高らかな笑い声が響き渡った。
――はははは。
――はははははは。
「大したものだ、実に大したものだ、小さき人間よ。パンゲア全土に行き渡った我が要素を逆に利用して、すべての刻をとめるとはな。おかげでずいぶんと長い時間、縛られてしまった。まさか、ここまでのことができるとは思わなかったぞ、小さき人間よ。だが」
――はははは。
――はははははは。
高らかな笑い声が大聖堂のなかに満ちる、みちる。
「それが限界。そなたはそのすべての力を使い果たした。もはや、我に抵抗することはできぬ。そなたの身と心のすべて、我のものだ!」
――はははは。
――はっーはっはっはっ!
荘厳なるステンドグラスが反射する無数の色彩の光を浴びて――。
大聖堂のなかに、亡道の司とは異なる笑い声が響き渡った。
それは、アルヴィルダ。
教皇アルヴィルダの笑い声だった。
アルヴィルダは笑っていた。両腕を広げ、天を仰ぎ、愉快そうに、嬉しそうに、喜びに充ち満ちて。
「はははははっ! わたしはなにを怯えていたのでしょう! 世界のすべてが亡道に呑み込まれ、ひとつとなる! それでこそ、すべての争いはなくなり、平穏に満ちた世界となる! それこそ、神の望み、わたしの望みそのものではありませんか!」
アルヴィルダの笑い声が響くなか――。
その声に誘われて、亡道の使徒がステンドグラスに埋め尽くされた荘厳なる祭室に集まってくる。
総将ソロモン。
パンゲアの七二将。
忠実なる無数の軍兵たち。
アルヴィルダと同じく、その身と心のすべてを亡道に侵食され、亡道のものと成り果てた存在たち。
その存在たちに向かい、アルヴィルダは高らかに宣言した。
「さあ、起ちなさい、パンゲアの子らよ! いまこそ、我らの悲願を叶えるのです! 亡道の司のもと、この世界をひとつに!」
おおおっー。
アルヴィルダの宣告に――。
亡道の使徒たちが地の底から響き渡るようなどよめきを発する。
人類の知識と技術を併せ持ち、生きていないがゆえに死ぬこともない不死身の戦士たち。
史上最悪の亡道の軍勢がここに、誕生したのである。
――はははははは。
高らかな笑い声が祭室に、大聖堂ヴァルハラに、そして、パンゲア全土に響き渡る。
「亡道の司……」
アルテミシアは呻いた。
姉とも思えない、姉の態度。
この場にいるはずのない存在。
そして、その存在を頭上にいただきながら両腕を広げ、天を仰ぎ、笑いつづける姉の姿。
それだけの条件がそろえば、なにが起きたのかぐらいはわかる。わかりたくはないが、わかってしまう。信じたくはないが、目をそらすことはできない。
――パンゲアの教皇が亡道の司に意思を乗っ取られるなんて……。
やはり、亡道の司は人の手で制御できる存在などではなかった。利用しようなどとしていい存在ではなかった。それなのに、制御できると思い込み、利用しようとしたばかりに……。
ギュッ、と、アルテミシアは両手を握りしめた。唇を噛みしめた。可憐なバラのような唇から一筋の血が流れ落ちた。
「だから……だから、始末できるときに始末しておくべきだと……」
「はははは」
アルテミシアの呻きに対し、亡道の司は高らかな嘲弄で答えた。
「それはちがう。小さき人間よ。お前たちにこの亡道の司を始末できるときなどなかった」
「な、なにを……。我々の張った結界に捕らわれ、身動きひとつできなかったくせに!」
「はははは。愚かなり、小さき人間よ。人間ごときの結界で亡道の司を捕えることができるなど、本気で思っていたのか?」
「な、なに……?」
「はははは。愚かなり、おろかなり。一〇年前、この世界に現われた我は忌々しきゼッヴォーカーたちの結果に阻まれ、世界に我が要素を広めることができなかった。そこにやってきたのが先代の教皇たち。
はははは。
はははははは。
先代の教皇たちはお前たちが思っているのとはちがい、我を利用しようとしていたのではない。結界に捕らわれている我を倒そうとしてやってきたのだ」
「なっ……!」
「我は教皇たちの意識を乗っ取り、我をこの地に運ばせた。ゼッヴォーカーたちの結界の外に出で、この世界に我の要素を広める、そのために。お前たちが我を利用していたのではない。我がお前たちの技術を利用したのだ。最初から、お前たちは我の手のひらの上」
――はははは。
――はははははは。
高らかに響く笑い声。
その声に包まれながらアルテミシアは、砕けそうになる膝を必死に支えていた。
最初から亡道の司の手のひらの上。利用しているつもりでいて利用されていた。自分たちが先代の教皇から、いや、代々の教皇から受け継いだと思っていた使命。その使命は亡道の司によってでっちあげられたもの。
そのことを知ったとき、アルテミシアは自分の拠って立つ大地そのものが崩れさる思いにさらされていた。
「はははは。礼を言うぞ、小さき人間よ。お前たちのおかげで我は忌々しきゼッヴォーカーたちの結界からはなれることができた。そして、この一〇年の時をかけて、パンゲア全土に我が要素を満たすことができた。もはや、このパンゲアにあるいかなる存在も我と無縁ではない。我に呑み込まれ、我の一部となる。いまこそ、この世界を我が世界に呑み込んでくれようぞ!」
「させない!」
アルテミシアは叫んだ。
キッ、と、亡道の司を睨んだ。ありったけの決意を込めて宣言した。
「それだけはさせない! 天帰教第二位、大司教の名において阻止してみせる」
「はははは。愚かなり、おろかなり。教皇たる身が我に呑み込まれたいま、それに劣る第二位の身でなにができる?」
「くっ……」
アルテミシアは唇を噛みしめた。
亡道の司の言うとおりだった。アルテミシアはあくまでも教会第二位。大司教であって教皇ではない。双子の妹とはいえ、代々の教皇だけに伝えられてきた秘儀を受け継いではいない。それは、教皇に選ばれた姉アルヴィルダただひとりだけが受け継いだものなのだ。
そのアルヴィルダでさえ、亡道の司に呑み込まれた。亡道に侵食され、自我を奪われた。それならば――。
アルヴィルダに劣る自分になにができる?
できるはずがない!
まして、代々の教皇が伝えてきた秘儀、亡道の司を倒すために磨かれ、蓄積されてきた知識と技。そのすべてが亡道の司のものになっているのだとすれば……。
――もう、この世の誰にも亡道の司をとめることはできない。
その絶望がアルテミシアを覆い尽くす。目の前から光が消え、暗黒の世界に取り込まれる……そう思えた、その瞬間。
――……ミシア。
――……アルテミシア。
かすかな、しかし、たしかに意思のある声を心に感じた。
――……逃げなさい、アルテミシア。
「姉さま!」
アルテミシアは叫んだ。その意思の持ち主の名を。
その身と心を亡道に侵食されながら、それでも必死に心の奥深くに押し隠し、守り抜いたかすかな自我。そのわずかに残されたアルヴィルダの自我がいま、自らの分身とも言うべき双子の妹に語りかけていた。
「ほう……」
と、亡道の司も感心したように呟いた。
「己が意思と自我。我が要素から守り抜いたか」
大したものだ。
亡道の司の呟きにはたしかに、その思いが込められていた。
――アルテミシア。逃げるのです。我々は過ちを犯した。途方もない過ちを。でも、まだ敗けていない。終わってはいない。あなたはこの国を出てロウワンのもとに向かうのです。
「ロウワン? ロウワンのもとへ?」
――そうです。ロウワンならばきっと、我々の過ちを正し、世界を守ってくれる。伝えるのです、ロウワンに。なにが起きたかを。我々がなにをしてしまったのかを。
「で、でも、それなら、姉さまご自身が……」
――わたしの身と心は亡道に侵食されすぎてしまった。もう、わたしは助からない。でも、あなたなら……あなたならまだ間に合う。あなたに代々、伝えられてきた教皇の秘儀を託します。それをもってロウワンに会うのです!
アルヴィルダの心が叫んだ。そして――。
アルテミシアの心のなかに膨大な量の記憶が流れ込んできた。
それは、知識。そして、技。代々の教皇が亡道の司と戦うために磨き、蓄積し、蓄えてきた力のすべて。それがいま、アルヴィルダからアルテミシアに託されたのだ。
アルヴィルダは亡道の司にその精神を侵食されながら、その知識と技を守り抜くために必死に戦っていたにちがいない。これだけは亡道の司に渡すまいと、その知識と技のすべてを自分の精神から切りはなし、心の奥深くに封じ込めた。いま、このとき、妹に託し、未来への希望をつなげるために。
あるいは――。
あるいは、その知識と技のすべてを使い、戦いを挑んでいれば、亡道の司による侵食に対抗できたかも知れない。侵食を防ぎ、自らを保つことができたかも知れない。
しかし、それができたという保証はない。戦いを挑み、敗北すれば代々、伝えられてきたすべての知識と技は亡道の司の知るところとなってしまう。亡道の司を倒すどころか、亡道の司自身の力になってしまう。そうなればもう、誰にも亡道の司はとめられない。この世界は確実に亡道に呑み込まれ、滅びてしまう。だから――。
アルヴィルダは自らが亡道に呑み込まれるのを承知で、伝えられてきた秘儀を守ることを選んだのだ。
――行きなさい、アルテミシア! その力だけは亡道の司に渡してはなりません!
「くっ……」
アルテミシアは唇を噛みしめた。身をひるがえした。大司教の聖衣をひるがえして全力で駆けた。
――逃げる、いまは逃げる。いえ、ちがう。そうではない。逃げるのではない! いつか必ず、亡道の司を倒す力をもってこの地に戻り、パンゲアを取り戻す! そのためにいま、撤退する。わたしは必ず戻ってくる!
必死にそう自分に言い聞かせ、アルテミシアは走る。走りつづける。唇を噛みしめ、両手を握りしめ、目にいっぱいに涙を溜めながら、その後ろからは亡道の司の高らかな笑い声が響いてくる。
「はははは。大したものだ、小さき人間よ。この亡道の司からついに代々の秘儀を守り抜いたとはな」
――ええ。その通りよ、亡道の司。あなたの思念に心のなかを探りまわられ、どれほどつらい思いをしたか。でも、それももう終わり。代々の秘儀は妹に託した。わたしのなかにはもうなにも残っていない。これでもう、いくら、わたしの心をまさぐろうと教皇の秘儀を手に入れることはできない。あなたの敗けよ、亡道の司。
「はははは。無駄ムダむだ。いまや、我が要素はこの国の隅々にまで至っているのだ。この国から逃れることはできぬ。今度はあやつの心を探り、ゆっくりと教皇の秘儀を手に入れるまで」
――させない! わたしは教皇アルヴィルダ! 妹が逃げるまでの時間は稼いでみせる!
神の奇跡。
いや、妹を思う姉の奇跡。
そう言うべきだろう。アルヴィルダが最後の力を振り絞って放った波動はパンゲアの隅々にまで張り巡らされた亡道の要素をたどり、逆にその要素を縛りあげた。
パンゲア全土で刻がとまった。
すべての刻が凍りつき、動くもののひとつない刻の凍った世界となった。そして――。
それから、どれだけの時がたっただろう。
大聖堂のなかに再び、亡道の司の高らかな笑い声が響き渡った。
――はははは。
――はははははは。
「大したものだ、実に大したものだ、小さき人間よ。パンゲア全土に行き渡った我が要素を逆に利用して、すべての刻をとめるとはな。おかげでずいぶんと長い時間、縛られてしまった。まさか、ここまでのことができるとは思わなかったぞ、小さき人間よ。だが」
――はははは。
――はははははは。
高らかな笑い声が大聖堂のなかに満ちる、みちる。
「それが限界。そなたはそのすべての力を使い果たした。もはや、我に抵抗することはできぬ。そなたの身と心のすべて、我のものだ!」
――はははは。
――はっーはっはっはっ!
荘厳なるステンドグラスが反射する無数の色彩の光を浴びて――。
大聖堂のなかに、亡道の司とは異なる笑い声が響き渡った。
それは、アルヴィルダ。
教皇アルヴィルダの笑い声だった。
アルヴィルダは笑っていた。両腕を広げ、天を仰ぎ、愉快そうに、嬉しそうに、喜びに充ち満ちて。
「はははははっ! わたしはなにを怯えていたのでしょう! 世界のすべてが亡道に呑み込まれ、ひとつとなる! それでこそ、すべての争いはなくなり、平穏に満ちた世界となる! それこそ、神の望み、わたしの望みそのものではありませんか!」
アルヴィルダの笑い声が響くなか――。
その声に誘われて、亡道の使徒がステンドグラスに埋め尽くされた荘厳なる祭室に集まってくる。
総将ソロモン。
パンゲアの七二将。
忠実なる無数の軍兵たち。
アルヴィルダと同じく、その身と心のすべてを亡道に侵食され、亡道のものと成り果てた存在たち。
その存在たちに向かい、アルヴィルダは高らかに宣言した。
「さあ、起ちなさい、パンゲアの子らよ! いまこそ、我らの悲願を叶えるのです! 亡道の司のもと、この世界をひとつに!」
おおおっー。
アルヴィルダの宣告に――。
亡道の使徒たちが地の底から響き渡るようなどよめきを発する。
人類の知識と技術を併せ持ち、生きていないがゆえに死ぬこともない不死身の戦士たち。
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