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第二部 絆ぐ伝説
第三話一六章 ビーブがいない⁉
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ロウワン、トウナ、ビーブ。そして、野伏。
四人は『もうひとつの輝き』の人員たちを引き連れ、洞窟を出た。と言っても、全員が移動するわけではない。洞窟内の資料や機材をすべて運び出すなど不可能である以上、それらを管理する人間は残しておかなくてはならない。それに、出稼ぎに出ている男たちが戻ってきたときに出迎える人間も必要だ。
そこで、メリッサをはじめ二〇代、三〇代の若くて体力のある人員五人が移動することになった。
「ヌーナに行くまででも険しい山道を進むことになる。山道は歩けるのか?」
そう尋ねる――と言うより、疑う――野伏に対し、メリッサは胸を張って答えたものである。
「甘く見ないで。わたしたちだって洞窟にこもってばかりじゃない。気晴らしも兼ねて自分たちで狩りをすることもある。山道には慣れているわ」
そう言って、狩り用の銃を掲げてみせる。
千年にわたり、ただひたすらに新しい知識、新しい技術を追求してきた『もうひとつの輝き』製の銃だけあって、一般に広まっている銃よりも格段に性能が高いらしい。
「連射も効くし、威力、射程距離とも数段、上よ」
「すごいな。そんなものが広く出回ったらたしかに、戦争の在り方もかわってしまいますね」と、ロウワン。
「ええ。戦場での死者は飛躍的に増えるし、どこかの国が独占しようものなら確実に大陸の覇権を握れるでしょうね。それだけに、外の世界に出すわけには行かなかったのよ」
一行は山道を進んでいく。
先頭に立つのは案内役と護衛を兼ねる野伏。そのすぐ後ろにビーブ。本来なら、野伏が先頭に立つならビーブは最後方について後方からの襲撃に備えているところだ。しかし、弱っているいま、その役目を負わせるわけにはいかない。野伏についていけばいい二番手を歩かせている。
ビーブにつづいてメリッサ以下、『もうひとつの輝き』の人員たち。全員が狩猟用の銃を背負っている。そのあとにトウナ、そして最後尾にロウワンという一列縦隊である。
旅は快調、とは行かなかった。『もうひとつの輝き』の人員たちは狩りの経験はあるとは言えしょせん、そんなものは洞窟内の近くで少しばかりうろつきまわるだけのこと。いまのように何日もの間、山道を歩いた経験などない。まして、快適な地下住居で暮らしてきた人間たちだ。野山で用を足さなければならない、と言うだけでも精神的な抵抗が多いし、疲れもする。
それでも、『亡道の司との戦いに備える』という使命感からだろう。全員、良く耐えて一言も不平や愚痴はもらさなかった。とは言え、体力を考え、普通以上に休みを入れながら進まなくてはならなかった。
そして、なによりもビーブ。本来ならば木の繁る野山とあって『我が庭!』とばかりに飛びまわっているはずのビーブがひどく弱っているので、気を使わなければならない。その点も行程が進まない理由となっていた。
「ふう」
と、小休止の間、車座になって座っているとき、メリッサが息を吐き出した。良く耐えて弱音ひとつ吐かないが、疲れているのは隠しようもない。盛んに脚をもみほぐしている。
「……いちいち、移動しなくてはいけないなんてやっかいなものね。早く、はなれた場所でも会話ができる時代にしたいわ」
「そんなこと、出来るんですか?」
ロウワンが驚いて尋ねた。
メリッサはちょっと小首をかしげた。そんな仕種一つひとつにおとなの女らしい色香がある。
「一応、理論は出来ているのよ。実用には遠いけど。資金も、資材も不足していたし、なにより、洞窟のなかでは遠距離通話の実験なんて出来ないから」
そう言われて――。
ロウワンは『任せて!』とばかりに胸を叩いて見せた。
「それなら大丈夫! これからは自由の国が全力で支援します。資金にも、資材にも不自由はさせませんよ。はなれた場所で話が出来る時代を作ってください」
「ふふ。ありがとう。頼りにしているわ、ロウワン」
「は、はい……!」
メリッサに優しく微笑まれて顔を真っ赤にして答えるロウワンを見て、トウナが野伏にささやいた。
「……ねえ。ロウワンって、メリッサさん相手だと妙に格好つけてない?」
「年上の女に憧れる時期というのはあるものだ」
「あなたもそうだったの?」
そう聞かれて――。
顔をそらし、ダンマリを決め込む野伏だった。
小休止を終えて旅を再開した。真っ先にそのことに気がついたのはやはり、ロウワンだった。
「ビーブがいない⁉」
野伏のすぐ後について歩いていたはずのビーブ。そのビーブの姿がどこにもない。
「そう言えば……いつの間にいなくなってたの?」
「弱っていたからついてこれなかったのかも知れない……! くそっ、弱っているのはわかっていたんだから、もっと注意してやらなくちゃいけなかったのに……」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ、探しに行かなきゃ!」
「もちろんだ!」
ロウワンは叫んだ。元来た道を戻ろうとした。そのロウワンとトウナを野伏の鋭い声がとめた。
「まてっ!」
「とめないでくれっ! ビーブは大切なきょうだいなんだ」
「そうよ。ビーブを見捨ててはいけないわ」
「敵がいる」
「えっ?」
思いがけない言葉にロウワンとトウナが固まった。メリッサたちが銃を手にした。
斬ッ!
大気を裂く音がして、茂みのなかから黒い影が飛び出してきた。
恐ろしい疾さだった。並の人間ではその姿を捉えることすらできない。その勢いはまさに撃ち出された銃弾そのものだった。だが――。
野伏は並の人間ではなかった。
自らの背骨を削り出して作った太刀を引き抜き、一撃を浴びせた。
ガッ!
黒い影と太刀が交差した。漆黒の飛沫を弾けさせながら、黒い影は方角をかえた。その影に向かって野伏が叫ぶ。
「二度は逃がさん!」
剣客としての誇りを懸けたその言葉。長大な太刀が空中で翻り、再び黒い影に襲いかかる。
――燕返し。
東方世界で師事したひとりから学んだ、その名で呼ばれる技だった。
肉と骨を真っ二つに断ち切る音がして、黒い影は重い音を立てて地面に落ちた。その影にロウワンたちが集まる。思わず、口元を押さえた。
「な、なんだ、これ……」
思わず吐き気をこらえるような声を出したのも無理はない。
そこにいたのはおぞましき異形の獣。オオカミの背にサルの下半身と両腕の先をめり込ませた、二重の姿の獣だった。その異形の獣が縦に真っ二つにされ、漆黒の体液にまみれて転がっていたのだ。
「この山にはこんな獣が普通に住んでいる……わけじゃないわよね?」
恐るおそる尋ねるトウナに対し、メリッサがうなずいた。
「もちろんよ。こんな獣、見たことないわ」
「あの動き、黒い体液、もしかしてこいつ、ヌーナに行く山道で襲ってきたやつか?」
ロウワンの言葉に野伏が答えた。
「同じ個体、と言うわけではないだろう。だが、見ろ」
野伏は太刀を掲げて見せた。その刀身には黒い体液がべったりとついている。
「すべてを食らい尽くすはずのこの太刀が、この体液を食うことを拒んでいる。あのときの『なにか』と同じだ。同種であることはまちがいないだろう」
「ちょ、ちょっとまってよ。それじゃ、こんなやつが二匹も、三匹もいるって言うの?」
「桁がひとつ、足りないようだぞ」
「えっ……?」
野伏の答えに――。
トウナはあたりを見た。
いつの間にか、当たりは異形の獣たちに囲まれていた。その数は二〇か、三〇、あるいはそれ以上か。
口のなかに人間の顔をおさめ、両腕を大蛇にかえたクマがいる。
体の両脇からオオカミの上半身を生やした三つ首のシカがいる。
左肩からもうひとつの頭を生やし、下半身を木にかえているとしか思えないサルがいる。
その他、どこを見ても異形の獣ばかり。
それは、この世にいてはならない存在。『秩序』という概念を嘲笑い、冒涜する、この世ならざる存在だった。
「……おれに気付かせることなく、ここまで接近するとはな」
野伏が舌打ちした。
気付きもせずに周囲を囲まれてしまうなど、案内役、そして、護衛役としてあるまじき失態。しかし、その理由はすでにわかっていた。この異形の獣たちは気配を隠していたのではない。気配が溶け込んでいるのだ。
あたり一帯を包み込む異様な緊張感。
ビーブをあれほどまでに弱らせた濃密な気配。
異形の獣たちの気配はそれとまったく同じものだった。言ってみれば、濃密な魚の匂いが立ちこめるなかで魚をもってこられてもそれとは気付かない、それと同じ。気配が完全にあたりに溶け込んでいるために、野伏をもってしても接近していることに気がつけなかったのだ。
野伏の身を形作る妖怪たちがざわめいている。警告している。
――やつらは、この世の存在ではない。
声をそろえて、そう叫んでいる。
そんなことは見ればわかる。こんな存在が人の世にいようはずもない。しかし、妖怪そのものが人の世から外れた存在なのだ。その人外の存在たる妖怪たちがさらに『この世ならざる』と語るものたち。
いったい、何者なら妖怪たちがそんなことを語るのか。
「そんな……。こんな連中がいるなんて」
ロウワンがいまにも吐きそうな嫌悪感を込めて言った。
「自然の世界にこんな獣たちがいるはずがない。まさか……天命の理によって作られた存在?」
「いいえ、ちがうわ」
ロウワンの疑念をメリッサが即座に否定した。手にした銃を異形の獣たちに向けている。と言っても、まわりをすっかり囲まれているのでどこに向けていいのかわからないのだが。
「天命の理はあくまでも、あるものの天命を別のものに移すこと。こんな風に肉体まで融合させられるわけじゃないわ」
「それじゃあ……」
「こんなことが出来るのは……」
ロウワンとメリッサ。
ふたりの頭に同じ名前が浮かんだ。
――亡道の司。
「だとすれば……これは、亡道の司がこの世界に出現していることのはじめての証拠となるわね」
「とりあえずは、この場を生きて逃れることを考えるのだな」
野伏が短く言った。
野伏ひとりであれば別段、脅威でもない。『野伏』を名乗っているのは伊達ではない。野に伏せ、山に隠れることにかけては獣以上。たとえ、相手が一〇〇体、二〇〇体いようとも、野山に隠れ、一体いったい始末していくなど造作もない。逃げるだけならもっと簡単だ。
だが、いまはひとりではない。守らなければならない幾人もの同行者がいる。
ロウワンならば一対一なら充分、渡り合える。トウナでも守りに徹すれば短時間なら持ちこたえることはできるだろう。だが、メリッサをはじめとする『もうひとつの輝き』の人員たちはどうか。
銃をもち、狩りの経験もあるとは言えしょせん、素人。気晴らしに狩りの真似事をしていただけの人間たちだ。異形の獣たちのあの疾さ、あの動き。あれは、熟練の狩人でも容易に捉えられるものではない。まして、素人に捉えきれるものではない。その上、慣れない山歩きで心身ともに疲れている。銃があったところで当てることなど出来ないだろう。それに――。
――数が多すぎる。
異形の獣たちの数は、少なく見積もってもこちらの三倍。視界の届かない茂みのなかにどれだけの数が潜んでいるかわからない。常に複数でこちらを襲ってこられる。ロウワンと言えど、二体以上を同時に相手にしてはひとたまりもあるまい。
いくら異形とはいえ、自分が殺されるとは思わない。しかし、同時にすべてを相手にすることも出来ない。自分が数体を相手にしている間にロウワン以下の同行者たちは全員、食い殺されているにちがいない。
――妖怪たちを放つか。
野伏は思った。
それをすれば自分の身がどうなるかはわかっている。鬼を倒したときと同様、すべての肉が腐り落ち、本来の姿である死体に戻ることだろう。マークスの船長服と〝鬼〟の大刀の加護も、二度までも効くとは限らない。しかし――。
――ロウワンたちを生かすにはそれしかないか。
野伏がひとり静かに決意を固めた、まさにそのとき。
異形の獣たちが動いた。
一斉に襲いかかってきた。
「守りを固めろ!」
野伏が叫んだ。妖怪たちを解き放とうとした。その寸前――。
異形の獣たちとはちがう音がした。灰色の塊が茂みのなかから飛びだし、異形の獣に食らいついた。
ひとつ、
ふたつ、
三つ、
四つ……。
灰色の塊は次々と飛び出し、異形の獣たちに食らいつき、組み伏せる。
「オオカミ……⁉」
それは確かに、この山を縄張りとするハイイロオオカミの群れだった。そして――。
ひときわ大きな音がして、オオカミたちを圧倒する巨体が飛び出してきた。地鳴りのようなうなり声をあげ、巨大な腕を振るって異形の獣たちをなぎ倒す。
それはクマ。
野性の王たる巨大なクマだった。
そして、その背に乗る小さな陰。それを見たとき、ロウワンは叫んだ。
「ビーブ!」
四人は『もうひとつの輝き』の人員たちを引き連れ、洞窟を出た。と言っても、全員が移動するわけではない。洞窟内の資料や機材をすべて運び出すなど不可能である以上、それらを管理する人間は残しておかなくてはならない。それに、出稼ぎに出ている男たちが戻ってきたときに出迎える人間も必要だ。
そこで、メリッサをはじめ二〇代、三〇代の若くて体力のある人員五人が移動することになった。
「ヌーナに行くまででも険しい山道を進むことになる。山道は歩けるのか?」
そう尋ねる――と言うより、疑う――野伏に対し、メリッサは胸を張って答えたものである。
「甘く見ないで。わたしたちだって洞窟にこもってばかりじゃない。気晴らしも兼ねて自分たちで狩りをすることもある。山道には慣れているわ」
そう言って、狩り用の銃を掲げてみせる。
千年にわたり、ただひたすらに新しい知識、新しい技術を追求してきた『もうひとつの輝き』製の銃だけあって、一般に広まっている銃よりも格段に性能が高いらしい。
「連射も効くし、威力、射程距離とも数段、上よ」
「すごいな。そんなものが広く出回ったらたしかに、戦争の在り方もかわってしまいますね」と、ロウワン。
「ええ。戦場での死者は飛躍的に増えるし、どこかの国が独占しようものなら確実に大陸の覇権を握れるでしょうね。それだけに、外の世界に出すわけには行かなかったのよ」
一行は山道を進んでいく。
先頭に立つのは案内役と護衛を兼ねる野伏。そのすぐ後ろにビーブ。本来なら、野伏が先頭に立つならビーブは最後方について後方からの襲撃に備えているところだ。しかし、弱っているいま、その役目を負わせるわけにはいかない。野伏についていけばいい二番手を歩かせている。
ビーブにつづいてメリッサ以下、『もうひとつの輝き』の人員たち。全員が狩猟用の銃を背負っている。そのあとにトウナ、そして最後尾にロウワンという一列縦隊である。
旅は快調、とは行かなかった。『もうひとつの輝き』の人員たちは狩りの経験はあるとは言えしょせん、そんなものは洞窟内の近くで少しばかりうろつきまわるだけのこと。いまのように何日もの間、山道を歩いた経験などない。まして、快適な地下住居で暮らしてきた人間たちだ。野山で用を足さなければならない、と言うだけでも精神的な抵抗が多いし、疲れもする。
それでも、『亡道の司との戦いに備える』という使命感からだろう。全員、良く耐えて一言も不平や愚痴はもらさなかった。とは言え、体力を考え、普通以上に休みを入れながら進まなくてはならなかった。
そして、なによりもビーブ。本来ならば木の繁る野山とあって『我が庭!』とばかりに飛びまわっているはずのビーブがひどく弱っているので、気を使わなければならない。その点も行程が進まない理由となっていた。
「ふう」
と、小休止の間、車座になって座っているとき、メリッサが息を吐き出した。良く耐えて弱音ひとつ吐かないが、疲れているのは隠しようもない。盛んに脚をもみほぐしている。
「……いちいち、移動しなくてはいけないなんてやっかいなものね。早く、はなれた場所でも会話ができる時代にしたいわ」
「そんなこと、出来るんですか?」
ロウワンが驚いて尋ねた。
メリッサはちょっと小首をかしげた。そんな仕種一つひとつにおとなの女らしい色香がある。
「一応、理論は出来ているのよ。実用には遠いけど。資金も、資材も不足していたし、なにより、洞窟のなかでは遠距離通話の実験なんて出来ないから」
そう言われて――。
ロウワンは『任せて!』とばかりに胸を叩いて見せた。
「それなら大丈夫! これからは自由の国が全力で支援します。資金にも、資材にも不自由はさせませんよ。はなれた場所で話が出来る時代を作ってください」
「ふふ。ありがとう。頼りにしているわ、ロウワン」
「は、はい……!」
メリッサに優しく微笑まれて顔を真っ赤にして答えるロウワンを見て、トウナが野伏にささやいた。
「……ねえ。ロウワンって、メリッサさん相手だと妙に格好つけてない?」
「年上の女に憧れる時期というのはあるものだ」
「あなたもそうだったの?」
そう聞かれて――。
顔をそらし、ダンマリを決め込む野伏だった。
小休止を終えて旅を再開した。真っ先にそのことに気がついたのはやはり、ロウワンだった。
「ビーブがいない⁉」
野伏のすぐ後について歩いていたはずのビーブ。そのビーブの姿がどこにもない。
「そう言えば……いつの間にいなくなってたの?」
「弱っていたからついてこれなかったのかも知れない……! くそっ、弱っているのはわかっていたんだから、もっと注意してやらなくちゃいけなかったのに……」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ、探しに行かなきゃ!」
「もちろんだ!」
ロウワンは叫んだ。元来た道を戻ろうとした。そのロウワンとトウナを野伏の鋭い声がとめた。
「まてっ!」
「とめないでくれっ! ビーブは大切なきょうだいなんだ」
「そうよ。ビーブを見捨ててはいけないわ」
「敵がいる」
「えっ?」
思いがけない言葉にロウワンとトウナが固まった。メリッサたちが銃を手にした。
斬ッ!
大気を裂く音がして、茂みのなかから黒い影が飛び出してきた。
恐ろしい疾さだった。並の人間ではその姿を捉えることすらできない。その勢いはまさに撃ち出された銃弾そのものだった。だが――。
野伏は並の人間ではなかった。
自らの背骨を削り出して作った太刀を引き抜き、一撃を浴びせた。
ガッ!
黒い影と太刀が交差した。漆黒の飛沫を弾けさせながら、黒い影は方角をかえた。その影に向かって野伏が叫ぶ。
「二度は逃がさん!」
剣客としての誇りを懸けたその言葉。長大な太刀が空中で翻り、再び黒い影に襲いかかる。
――燕返し。
東方世界で師事したひとりから学んだ、その名で呼ばれる技だった。
肉と骨を真っ二つに断ち切る音がして、黒い影は重い音を立てて地面に落ちた。その影にロウワンたちが集まる。思わず、口元を押さえた。
「な、なんだ、これ……」
思わず吐き気をこらえるような声を出したのも無理はない。
そこにいたのはおぞましき異形の獣。オオカミの背にサルの下半身と両腕の先をめり込ませた、二重の姿の獣だった。その異形の獣が縦に真っ二つにされ、漆黒の体液にまみれて転がっていたのだ。
「この山にはこんな獣が普通に住んでいる……わけじゃないわよね?」
恐るおそる尋ねるトウナに対し、メリッサがうなずいた。
「もちろんよ。こんな獣、見たことないわ」
「あの動き、黒い体液、もしかしてこいつ、ヌーナに行く山道で襲ってきたやつか?」
ロウワンの言葉に野伏が答えた。
「同じ個体、と言うわけではないだろう。だが、見ろ」
野伏は太刀を掲げて見せた。その刀身には黒い体液がべったりとついている。
「すべてを食らい尽くすはずのこの太刀が、この体液を食うことを拒んでいる。あのときの『なにか』と同じだ。同種であることはまちがいないだろう」
「ちょ、ちょっとまってよ。それじゃ、こんなやつが二匹も、三匹もいるって言うの?」
「桁がひとつ、足りないようだぞ」
「えっ……?」
野伏の答えに――。
トウナはあたりを見た。
いつの間にか、当たりは異形の獣たちに囲まれていた。その数は二〇か、三〇、あるいはそれ以上か。
口のなかに人間の顔をおさめ、両腕を大蛇にかえたクマがいる。
体の両脇からオオカミの上半身を生やした三つ首のシカがいる。
左肩からもうひとつの頭を生やし、下半身を木にかえているとしか思えないサルがいる。
その他、どこを見ても異形の獣ばかり。
それは、この世にいてはならない存在。『秩序』という概念を嘲笑い、冒涜する、この世ならざる存在だった。
「……おれに気付かせることなく、ここまで接近するとはな」
野伏が舌打ちした。
気付きもせずに周囲を囲まれてしまうなど、案内役、そして、護衛役としてあるまじき失態。しかし、その理由はすでにわかっていた。この異形の獣たちは気配を隠していたのではない。気配が溶け込んでいるのだ。
あたり一帯を包み込む異様な緊張感。
ビーブをあれほどまでに弱らせた濃密な気配。
異形の獣たちの気配はそれとまったく同じものだった。言ってみれば、濃密な魚の匂いが立ちこめるなかで魚をもってこられてもそれとは気付かない、それと同じ。気配が完全にあたりに溶け込んでいるために、野伏をもってしても接近していることに気がつけなかったのだ。
野伏の身を形作る妖怪たちがざわめいている。警告している。
――やつらは、この世の存在ではない。
声をそろえて、そう叫んでいる。
そんなことは見ればわかる。こんな存在が人の世にいようはずもない。しかし、妖怪そのものが人の世から外れた存在なのだ。その人外の存在たる妖怪たちがさらに『この世ならざる』と語るものたち。
いったい、何者なら妖怪たちがそんなことを語るのか。
「そんな……。こんな連中がいるなんて」
ロウワンがいまにも吐きそうな嫌悪感を込めて言った。
「自然の世界にこんな獣たちがいるはずがない。まさか……天命の理によって作られた存在?」
「いいえ、ちがうわ」
ロウワンの疑念をメリッサが即座に否定した。手にした銃を異形の獣たちに向けている。と言っても、まわりをすっかり囲まれているのでどこに向けていいのかわからないのだが。
「天命の理はあくまでも、あるものの天命を別のものに移すこと。こんな風に肉体まで融合させられるわけじゃないわ」
「それじゃあ……」
「こんなことが出来るのは……」
ロウワンとメリッサ。
ふたりの頭に同じ名前が浮かんだ。
――亡道の司。
「だとすれば……これは、亡道の司がこの世界に出現していることのはじめての証拠となるわね」
「とりあえずは、この場を生きて逃れることを考えるのだな」
野伏が短く言った。
野伏ひとりであれば別段、脅威でもない。『野伏』を名乗っているのは伊達ではない。野に伏せ、山に隠れることにかけては獣以上。たとえ、相手が一〇〇体、二〇〇体いようとも、野山に隠れ、一体いったい始末していくなど造作もない。逃げるだけならもっと簡単だ。
だが、いまはひとりではない。守らなければならない幾人もの同行者がいる。
ロウワンならば一対一なら充分、渡り合える。トウナでも守りに徹すれば短時間なら持ちこたえることはできるだろう。だが、メリッサをはじめとする『もうひとつの輝き』の人員たちはどうか。
銃をもち、狩りの経験もあるとは言えしょせん、素人。気晴らしに狩りの真似事をしていただけの人間たちだ。異形の獣たちのあの疾さ、あの動き。あれは、熟練の狩人でも容易に捉えられるものではない。まして、素人に捉えきれるものではない。その上、慣れない山歩きで心身ともに疲れている。銃があったところで当てることなど出来ないだろう。それに――。
――数が多すぎる。
異形の獣たちの数は、少なく見積もってもこちらの三倍。視界の届かない茂みのなかにどれだけの数が潜んでいるかわからない。常に複数でこちらを襲ってこられる。ロウワンと言えど、二体以上を同時に相手にしてはひとたまりもあるまい。
いくら異形とはいえ、自分が殺されるとは思わない。しかし、同時にすべてを相手にすることも出来ない。自分が数体を相手にしている間にロウワン以下の同行者たちは全員、食い殺されているにちがいない。
――妖怪たちを放つか。
野伏は思った。
それをすれば自分の身がどうなるかはわかっている。鬼を倒したときと同様、すべての肉が腐り落ち、本来の姿である死体に戻ることだろう。マークスの船長服と〝鬼〟の大刀の加護も、二度までも効くとは限らない。しかし――。
――ロウワンたちを生かすにはそれしかないか。
野伏がひとり静かに決意を固めた、まさにそのとき。
異形の獣たちが動いた。
一斉に襲いかかってきた。
「守りを固めろ!」
野伏が叫んだ。妖怪たちを解き放とうとした。その寸前――。
異形の獣たちとはちがう音がした。灰色の塊が茂みのなかから飛びだし、異形の獣に食らいついた。
ひとつ、
ふたつ、
三つ、
四つ……。
灰色の塊は次々と飛び出し、異形の獣たちに食らいつき、組み伏せる。
「オオカミ……⁉」
それは確かに、この山を縄張りとするハイイロオオカミの群れだった。そして――。
ひときわ大きな音がして、オオカミたちを圧倒する巨体が飛び出してきた。地鳴りのようなうなり声をあげ、巨大な腕を振るって異形の獣たちをなぎ倒す。
それはクマ。
野性の王たる巨大なクマだった。
そして、その背に乗る小さな陰。それを見たとき、ロウワンは叫んだ。
「ビーブ!」
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