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第二部 絆ぐ伝説
第三話七章 なにかが起きている……。
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「……いつまでついてくる気だ?」
漆黒の夜の闇のように黒い長髪、妙にくすんだ色合いの見栄えの良くない袴、腰に差した長大な太刀。そんな出で立ちの剣客はうんざりした様子で歩をとめると、振り返りながら言った。
その視線の先にはロウワン、ビーブ、トウナの三人が並んで立っている。三人はそれぞれの態度で剣客の視線を受けとめた。ロウワンは堂々と胸を張って見返し、ビーブはなにやら挑むように牙をむき、トウナはなんとも居心地悪そうに身じろぎしている。
「……別にあたしは、あなたについまわるつもりはないんだけど」
トウナが言い訳がましく言うその横で、ロウワンはきっぱりと言った。
「だから、言っているでしょう。あなたにはぜひ、自由の国に参加してもらいたい。自由の国の顔たる戦士として。人と人の争いをなくす、そのために」
ロウワンは、少年らしいまっすぐな瞳で訴えかける。心の汚れたおとなであればまぶしすぎでまともに見返すことも出来ない。そんな輝きに満ちた目だ。
剣客はさらにうんざりした様子で溜め息をついた。
――子どもの夢に付き合っていられるか。
剣客自身、まだ二十歳そこそこだろうに、そう言いたげな溜め息だった。
「たしかに、何度も聞いた。そのたびに答えた。おれにはやらなくてはならないことがある。お前に付き合っている暇はない」
「あなたの、やらなくてはならないことに協力できる」
「なに?」
「あなたはヌーナ共和国に行きたいのでしょう? でも、ヌーナ共和国行きの馬車はすべてとまっている。そのために足止めを食らい、あせっている。あなたがなぜ、なんのためにヌーナ共和国に向かうのかは知らない。だけど、あなたの様子を見ていれば必死なのはわかる。おれなら、あなたのためにヌーナ共和国行きの馬車を用意できる」
「……どうやってだ? おれはすでに町中の馬車に当たった。だが、答えはどれも同じ。
『道中で奇妙な事態が起きている。事態が判明するまで馬車を出すわけには行かない』
そればかりだ。それをなぜ、お前が用意できる?」
ロウワンはちょっと、余裕めいた笑みを浮かべて見せた。
「どの世界にも金さえ出せば引き受ける命知らずはいるものですよ。そして、おれにはそんな命知らずを承知させるだけの金がある。すでに、そんな御者のひとりに当たりはつけてあります」
出発前、念のためにとブージから教えてもらった闇世界の有力者たち。そのなかのひとりと連絡をとり、金次第で命を張る御者を用意してもらったのだ。
「おれはあなたの目的の達成を手伝う。そのかわり、おれの話を聞いてもらいたい。人と人の争いをなくす、そのために」
――人と人の争いをなくす、そのために。
ロウワンは重ねて言った。それこそが、ロウワンが生涯を懸けて取り組もうとしている目的であったから。それは誰が相手であれ、何度でも言うべきことだった。
剣客はロウワンをじっと見た。それから、視線をそらした。遙か遠く、ヌーナ共和国のある北東を見た。
「……おれの目的地はヌーナではない。ヌーナよりさらに先、山奥に入った先だ。その途中に小さな村がある」
「村?」
「そこで、やってもらいたいことがある。それを果たしてくれるなら話を聞こう」
ロウワンは満面の笑みで手を打った。
「決まりだ! すぐに手配する。さっきのコーヒーハウスでまっていてくれ」
ロウワンはそう言うと身をひるがえした。駆けだした。ビーブとトウナがあわてて後を追った。ふいに、ロウワンが立ちどまった。ビーブとトウナはその背にぶつかりそうになり、あわててとまった。ロウワンは振り返った。剣客にいまさらながらに尋ねた。
「そう言えば、あなたの名前を聞いていない。なんて呼べばいい?」
剣客は短く答えた。
「……野伏。そう呼べ」
クベラ山地。
それは。レムリア伯爵領の北にあり、始祖国家パンゲアとレムリア伯爵領とを隔てる大陸屈指の険しい山岳地帯である。この山岳が互いの行き来を困難なものにしているため、レムリア伯爵領はパンゲアからたやすく分離・独立することが出来たのだ。
クベラ山地はレムリア伯爵領の北全体を屋根のごとく覆っており、西はサラスヴァティー長海、東はガンガ長海にぶつかっている。東ではこのガンガ長海からさらに北上し、その先で大陸最大の山脈である大アトラス山嶺につながっている。このガンガ長海と大アトラス山嶺を結ぶ線。この乗り越えることの困難な一線が、大陸中央と東方とをわける境界となっている。
西に向かうとサラスヴァティー長海の北はアドニス回廊と呼ばれる細長い平原地帯であり、さらにその北は紅蓮地獄と呼ばれる極寒の氷雪地帯となる。サラスヴァティー長海と紅蓮地獄を結ぶ線。この線が大陸中央と西方とをわける境界、と言うわけだ。
言ってみれば、始祖国家パンゲアの存在する大陸中央北部は北を氷海、東と南を山脈に囲まれた閉ざされた世界なわけだ。
外の世界につながっているのは唯一、西にあるアドニス回廊だけ。『回廊』と呼ばれるにふさわしいこの細長い平原地帯だけが、大陸中央北部と外の世界をつなげる唯一の自然の通路である。
この自然の要害とも言える地理こそが千年前、亡道の司の侵略に遭った人類が立てこもり、戦いをつづけることのできた理由。千年前のあのとき、騎士マークスと人類騎士団とは大陸中央北部から南下してクベラ山地を越え、レムリア半島の先端、後にデーヴァヴァルマンと呼ばれることになる港から大船団を率いて出陣し、亡道の司との決戦に望んだのだ。
そのクベラ山地の山道のなかを、ロウワンとビーブ、トウナ、そして、野伏。四人を乗せた馬車が走っている。
御者の名はトドル。いかにも人の良さそうな中年の男で、馬車を引く四頭の愛馬を紹介しながら言ったものである。
「任せてくだせえ。クベラ山地はおれっちの庭みたいなもんですからね。隅々まで知ってまさあ。どんな事態が起きているにせよ必ず、無事にヌーナまでお届けしますぜ」
人好きのする顔にホクホクの笑顔を浮かべてトドルはそう請け負った。もちろん、ホクホク顔の理由はロウワンがたんまりと報酬を支払ったからである。
馬車を引く四頭のウマは名前をキンカ、ギンカ、ドウカ、タクサンと言い、きょうだいだそうである。トドルに言わせれば『生まれた頃から世話してきた子どもみたいなもの』とのことである。体は小さく、足は短く、町中を走る馬車を引くウマたちに比べるとどことなく不格好。しかし、トドルはムキになって主張したものである。
「ウマの価値は見た目じゃねえっすよ。険しい山道を行くには見た目ばっかり立派な乗用馬なんて役に立たねえ。こいつらみたいな体格こそがピッタリなんでさあ」
その言葉を証明するかのようにここまでのところ、馬車は険しい山道を困ることもなく進んでいた。
馬車のなかの空気は控えめに言っても『重苦しい』というものだった。理由は主に野伏と名乗る剣客にあった。
――『野伏』と言うのは本名ではないよな。格好からして長く東方にいたみたいだし、そっちで東方風の名前をつけたといったところか。
ロウワンはそう判断していた。
実際には『野伏』とは人の名前ではなく、『野に伏せるもの』つまり、野山に潜む野盗や盗賊、あるいは、主をもたずに各地を放浪する武士のことを指すのだが、東方世界に疎いロウワンはそこまでは知らない。
それはともかく、この野伏、馬車に乗った直後から両目を閉じてむっつりと押し黙り、話しかけても最低限の答えしかしない。おかげで、空気がとにかく重い。
結局、目的地はどこなのか、なにをしに行くのか。
そんなことをいくら尋ねても『説明するのは、おれの依頼を果たしてからだ』の一点張り。愛想がないことおびただしい。
――ロウワンのおかげで馬車を手配できたんだから、少しは愛想良くしてもいいでしょうに。
トウナがそう不満をもつのももっともな態度ではあった。
「そんなに大事な用があるなら、どうしてさっさと歩いて行かなかったの? 馬車を探してまわるより、その方が早かったんじゃないの?」
トウナが腹立ちまぎれにそう尋ねると、野伏はめずらしくまともに返事をした。
「単純に、道を知らない」
「道を知らない? 目的地なのに?」
「故郷を出たときは陸路で東に向かった。東方世界で一〇年ほどを過ごし、帰りには船を使った。デーヴァヴァルマンを訪れたのははじめてだ。クベラ山地の山道のことなどなにも知らん。だから、馬車を探していた。まさか、『奇妙な事態』とやらのせいで足止めを食らうとは思わなかった」
「陸路で東に向かっただって⁉」
ロウワンが叫んだ。驚きのあまり、腰を浮かせかけた。
「それじゃまさか、大アトラス山嶺を越えたのか?」
大アトラス山嶺は大陸最大の山脈であり、大陸最高峰の山々が連なる魔境である。そんな場所を通って東に向かうなどどれほどの苦難なことか。それは、想像することしか出来ないが、尋常な労苦ではないことはわかる。
「修行でもあったからな」
野伏は短く答えた。
「修行? そんな修行をしなくちゃならないなんて、なにがあったんだ?」
「事情を説明するのはおれの依頼を果たしたあと。そう言っている」
そう言ったきり、野伏は再び押し黙った。その態度に――。
トウナが大いに腹を立てたのは言うまでもない。
「そ、そうだ、野伏!」
その雰囲気をかえようとでも思ったのか、ロウワンがいきなり声を出した。トウナが思わずびっくりするほどの大声で、腰も浮かせかけている。それだけでロウワンの意気込みがわかる態度だった。
「一〇年もの間、東方を旅していたというならずいぶんと色々な土地を巡ったんだろう?」
「まあな」
「だったら、聞きたいことがある! なにか、妙な人とか、集団の噂を聞いたことはないか?」
曖昧に過ぎるその質問に、野伏はさすがに眉をひそめた。
「ずいぶんと漠然とした物言いだな。『妙な集団』とはどういう存在だ?」
「それは……説明するのは難しいんだけど」
ロウワンは一瞬、言葉に詰まり、顔をしかめた。なんとか、内心の思いを言葉にしようと苦心しながら説明する。
「……そうだな。例えば、世間的には知られていないかわった研究をしている人とか、めずらしい技術をもっている集団とか、そう言うものだな」
その言葉に――。
トウナはハッとした。
――ハルキス先生の仲間のことを聞いているのね。
ロウワンにとってどれほど師の最後の願いが重いものか改めて確認して、トウナは胸が痛む思いになった。
ロウワンの質問に対する野伏の言葉は、事情を知るものにとっては『無慈悲で冷酷』と思えるようなものだった。野伏の答えはただ一言、
「知らんな」
それだけだった。
「……そうか」
ロウワンはガックリと肩を落とした。いかにも気落ちした表情で座り直すその姿は、トウナでなくても気の毒に思うようなものだった。
数日の間、山道の旅はつつがなく進んだ。
トドルの愛馬たちは自慢するだけのことはあり、険しい山道を難儀することなく車を運んだ。しかし――。
「とまれ」
ふいに、野伏がトドルに言った。
トドルは反射的にウマをとめると尋ねた。
「ど、どうしました、旦那? なにかありましたかい?」
「なにかがいる」
「へっ?」
「敵意をもったなにかだ。襲ってこようとしている」
「……ロウワン」
トウナがその言葉の真偽を確認するようにロウワンを見た。ロウワンは肯定のうなずきを返した。野伏だけではなくビーブもまた、全身の毛を逆立てて警戒の念をむき出しにしていたからだ。
胆力の座ったビーブがこれほど警戒するのはめずらしい。それだけで『なにか』とやらがきわめて危険な存在であることが知れた。
「降りろ。ロウワン、お前とそのサルの腕があれば外に出て迎え撃った方がいい」
「あたしだって役立たずじゃないわ」
トウナが、自分の名前を呼ばれなかったことに腹を立てて言った。
タラの島の村長として、商人の道を歩むことにしたトウナだが、護身用として剣の修行はつづけている。もともと、島では同世代のなかでいちばん、喧嘩に強かったのだ。男子にだって負けたことはない。腕っ節には相応の自身がある。
もちろん、喧嘩と実戦はちがうし、その剣の技量は野伏はもちろん、ロウワンやビーブにも遠く及ばない。そのことは自覚している。だからと言って、足手まといになるほど弱いつもりはない。戦いとなれば役に立ってみせるつもりである。
ともかく、ロウワンたちは野伏と共に馬車を降りた。ロウワンはいつも通り、〝鬼〟の大刀を背中に担いだまま両手にカトラスを握った。ビーブもまたいつも通り、尻尾にカトラスを握り、四つん這いになって警戒の念をむき出しにしている。トウナも負けじとカトラスを握り、四方に視線を配っている。野伏だけがまだ太刀を抜かず、その場に突っ立っている。
御者のトドルが不安そうに口にした。主人の不安が移ったのか、四頭のウマたちも落ち着かない様子である。
「お、おれっちとウマたちは、どうすりゃいいんです?」
「そこでじっとしていろ。お前やウマたちが傷ついて困るのはおれたちだ。お前たちのことは守る」
野伏はそう答えつつ、心に尋ねた。
――どうだ? やつは嘘をついているか?
トドルは見た目はいかにもお人好しのような顔立ちだが、金を積まれれば命を張ろうという極道者である。見た目通りの善良な人間であろうはずがない。客を運ぶ途中、わざと危険な場所を通ることで客を怯えさせ、一刻も早く通過するという名目で追加料金をむしりとる、ぐらいのことは当たり前にしてきたはずだ。しかし、今回はどうか?
――嘘はついていない。本心から不安がっている、か。面倒だな。当人の仕込みの方がよかったのだが。
トドルの仕込みであれば少なくとも、そこに存在する危険はトドルの知っているものであるはずだ。そうである以上、当然、逃れ方も知っている。そうでなければ客を無事に運び、金をむしり取ることは出来ない。
その場合はトドルに任せておけばいい。追加料金はとられるが、無事に通りすぎることは出来る。ロウワンにしても闇社会に手をまわして『金で命を売る』輩を雇った以上、その程度の出費は覚悟しているだろう。しかし、『クベラ山地は自分の庭』と豪語する御者が知らない危険が迫っているのだとすれば――。
『それ』に最初に気がついたのはやはり、毛の専門家とも言うべきビーブだった。ビーブはその変化をロウワンとトウナに告げた。ふたりは『それ』に気がついて目を見張った。 「な、なんだ、あれ……?」
ロウワンが思わず小声で呟いた。
ロウワンたちの視線の先、そこでは野伏の髪が奇妙な動きを見せていた。漆黒の滝のようにたなびくまっすぐな長い髪。その先端がチリチリと立ちあがっている。まるで、絵画で表現される『怒髪天を突く』という言葉が毛先だけに現れたかのように。
「風……じゃないわよね。そんな風は吹いていないし、なにより、あの髪の毛、てんでバラバラな方を向いている」
「……ああ。まるで、昆虫の触角が、なにかを探っているみたいだ」
ロウワンがそう言ったそのときだ。
「ギイッ!」
突然、ビーブが叫んだ。丹念な毛繕いで整えられた自慢の毛並みが、これ以上ないほどに逆立っている。
『なにか』が来た。
こちらに向かって。
恐ろしく疾い。
その姿を確かめることすら出来はしない。なにか黒っぽいものが飛んでくる。そうとしか思えなかった。
野伏が太刀を抜いた。弧を描いて放った。白刃が空を裂いて煌めき、金属が肉を裂く音がした。黒っぽい塊はそのまま速度を落とすことなく山の奥に消え去った。
「野伏!」
ロウワンが叫んだ。
「キイ、キイ、キキイッ!」
ビーブも盛んに叫んでいる。
「ビーフが言っている。『いまのはただの獣なんかじゃない』って」
「同感だ」
野伏が短く言った。
「ただの獣であればおれの太刀から逃れられるわけがない。それに、見ろ」
野伏は太刀の刀身をロウワンたちにさらして見せた。ロウワンたちの顔色がかわる。白い刀身はなにやら黒い液体でベットリと濡れていた。
「な、なにそれ⁉ まさか、血なの?」
トウナがさすがに気色悪そうに身震いした。ロウワンも口には出さないが不気味なものを感じている。
「血か、体液か。いずれにしても、こんな黒い液体の流れている生き物など見たことがない。それに……」
「それに?」
「この太刀が、この液体を『食う』ことをきらっている」
野伏はそう言うと懐から懐紙を取りだし、刃についた黒い液体をきれいにぬぐいとった。それから、太刀を鞘に納める。
「たしかに……『なにか』が起きているようだ」
野伏はそう言った。そのとき――。
その漆黒の髪は逆立つことをやめていた。
漆黒の夜の闇のように黒い長髪、妙にくすんだ色合いの見栄えの良くない袴、腰に差した長大な太刀。そんな出で立ちの剣客はうんざりした様子で歩をとめると、振り返りながら言った。
その視線の先にはロウワン、ビーブ、トウナの三人が並んで立っている。三人はそれぞれの態度で剣客の視線を受けとめた。ロウワンは堂々と胸を張って見返し、ビーブはなにやら挑むように牙をむき、トウナはなんとも居心地悪そうに身じろぎしている。
「……別にあたしは、あなたについまわるつもりはないんだけど」
トウナが言い訳がましく言うその横で、ロウワンはきっぱりと言った。
「だから、言っているでしょう。あなたにはぜひ、自由の国に参加してもらいたい。自由の国の顔たる戦士として。人と人の争いをなくす、そのために」
ロウワンは、少年らしいまっすぐな瞳で訴えかける。心の汚れたおとなであればまぶしすぎでまともに見返すことも出来ない。そんな輝きに満ちた目だ。
剣客はさらにうんざりした様子で溜め息をついた。
――子どもの夢に付き合っていられるか。
剣客自身、まだ二十歳そこそこだろうに、そう言いたげな溜め息だった。
「たしかに、何度も聞いた。そのたびに答えた。おれにはやらなくてはならないことがある。お前に付き合っている暇はない」
「あなたの、やらなくてはならないことに協力できる」
「なに?」
「あなたはヌーナ共和国に行きたいのでしょう? でも、ヌーナ共和国行きの馬車はすべてとまっている。そのために足止めを食らい、あせっている。あなたがなぜ、なんのためにヌーナ共和国に向かうのかは知らない。だけど、あなたの様子を見ていれば必死なのはわかる。おれなら、あなたのためにヌーナ共和国行きの馬車を用意できる」
「……どうやってだ? おれはすでに町中の馬車に当たった。だが、答えはどれも同じ。
『道中で奇妙な事態が起きている。事態が判明するまで馬車を出すわけには行かない』
そればかりだ。それをなぜ、お前が用意できる?」
ロウワンはちょっと、余裕めいた笑みを浮かべて見せた。
「どの世界にも金さえ出せば引き受ける命知らずはいるものですよ。そして、おれにはそんな命知らずを承知させるだけの金がある。すでに、そんな御者のひとりに当たりはつけてあります」
出発前、念のためにとブージから教えてもらった闇世界の有力者たち。そのなかのひとりと連絡をとり、金次第で命を張る御者を用意してもらったのだ。
「おれはあなたの目的の達成を手伝う。そのかわり、おれの話を聞いてもらいたい。人と人の争いをなくす、そのために」
――人と人の争いをなくす、そのために。
ロウワンは重ねて言った。それこそが、ロウワンが生涯を懸けて取り組もうとしている目的であったから。それは誰が相手であれ、何度でも言うべきことだった。
剣客はロウワンをじっと見た。それから、視線をそらした。遙か遠く、ヌーナ共和国のある北東を見た。
「……おれの目的地はヌーナではない。ヌーナよりさらに先、山奥に入った先だ。その途中に小さな村がある」
「村?」
「そこで、やってもらいたいことがある。それを果たしてくれるなら話を聞こう」
ロウワンは満面の笑みで手を打った。
「決まりだ! すぐに手配する。さっきのコーヒーハウスでまっていてくれ」
ロウワンはそう言うと身をひるがえした。駆けだした。ビーブとトウナがあわてて後を追った。ふいに、ロウワンが立ちどまった。ビーブとトウナはその背にぶつかりそうになり、あわててとまった。ロウワンは振り返った。剣客にいまさらながらに尋ねた。
「そう言えば、あなたの名前を聞いていない。なんて呼べばいい?」
剣客は短く答えた。
「……野伏。そう呼べ」
クベラ山地。
それは。レムリア伯爵領の北にあり、始祖国家パンゲアとレムリア伯爵領とを隔てる大陸屈指の険しい山岳地帯である。この山岳が互いの行き来を困難なものにしているため、レムリア伯爵領はパンゲアからたやすく分離・独立することが出来たのだ。
クベラ山地はレムリア伯爵領の北全体を屋根のごとく覆っており、西はサラスヴァティー長海、東はガンガ長海にぶつかっている。東ではこのガンガ長海からさらに北上し、その先で大陸最大の山脈である大アトラス山嶺につながっている。このガンガ長海と大アトラス山嶺を結ぶ線。この乗り越えることの困難な一線が、大陸中央と東方とをわける境界となっている。
西に向かうとサラスヴァティー長海の北はアドニス回廊と呼ばれる細長い平原地帯であり、さらにその北は紅蓮地獄と呼ばれる極寒の氷雪地帯となる。サラスヴァティー長海と紅蓮地獄を結ぶ線。この線が大陸中央と西方とをわける境界、と言うわけだ。
言ってみれば、始祖国家パンゲアの存在する大陸中央北部は北を氷海、東と南を山脈に囲まれた閉ざされた世界なわけだ。
外の世界につながっているのは唯一、西にあるアドニス回廊だけ。『回廊』と呼ばれるにふさわしいこの細長い平原地帯だけが、大陸中央北部と外の世界をつなげる唯一の自然の通路である。
この自然の要害とも言える地理こそが千年前、亡道の司の侵略に遭った人類が立てこもり、戦いをつづけることのできた理由。千年前のあのとき、騎士マークスと人類騎士団とは大陸中央北部から南下してクベラ山地を越え、レムリア半島の先端、後にデーヴァヴァルマンと呼ばれることになる港から大船団を率いて出陣し、亡道の司との決戦に望んだのだ。
そのクベラ山地の山道のなかを、ロウワンとビーブ、トウナ、そして、野伏。四人を乗せた馬車が走っている。
御者の名はトドル。いかにも人の良さそうな中年の男で、馬車を引く四頭の愛馬を紹介しながら言ったものである。
「任せてくだせえ。クベラ山地はおれっちの庭みたいなもんですからね。隅々まで知ってまさあ。どんな事態が起きているにせよ必ず、無事にヌーナまでお届けしますぜ」
人好きのする顔にホクホクの笑顔を浮かべてトドルはそう請け負った。もちろん、ホクホク顔の理由はロウワンがたんまりと報酬を支払ったからである。
馬車を引く四頭のウマは名前をキンカ、ギンカ、ドウカ、タクサンと言い、きょうだいだそうである。トドルに言わせれば『生まれた頃から世話してきた子どもみたいなもの』とのことである。体は小さく、足は短く、町中を走る馬車を引くウマたちに比べるとどことなく不格好。しかし、トドルはムキになって主張したものである。
「ウマの価値は見た目じゃねえっすよ。険しい山道を行くには見た目ばっかり立派な乗用馬なんて役に立たねえ。こいつらみたいな体格こそがピッタリなんでさあ」
その言葉を証明するかのようにここまでのところ、馬車は険しい山道を困ることもなく進んでいた。
馬車のなかの空気は控えめに言っても『重苦しい』というものだった。理由は主に野伏と名乗る剣客にあった。
――『野伏』と言うのは本名ではないよな。格好からして長く東方にいたみたいだし、そっちで東方風の名前をつけたといったところか。
ロウワンはそう判断していた。
実際には『野伏』とは人の名前ではなく、『野に伏せるもの』つまり、野山に潜む野盗や盗賊、あるいは、主をもたずに各地を放浪する武士のことを指すのだが、東方世界に疎いロウワンはそこまでは知らない。
それはともかく、この野伏、馬車に乗った直後から両目を閉じてむっつりと押し黙り、話しかけても最低限の答えしかしない。おかげで、空気がとにかく重い。
結局、目的地はどこなのか、なにをしに行くのか。
そんなことをいくら尋ねても『説明するのは、おれの依頼を果たしてからだ』の一点張り。愛想がないことおびただしい。
――ロウワンのおかげで馬車を手配できたんだから、少しは愛想良くしてもいいでしょうに。
トウナがそう不満をもつのももっともな態度ではあった。
「そんなに大事な用があるなら、どうしてさっさと歩いて行かなかったの? 馬車を探してまわるより、その方が早かったんじゃないの?」
トウナが腹立ちまぎれにそう尋ねると、野伏はめずらしくまともに返事をした。
「単純に、道を知らない」
「道を知らない? 目的地なのに?」
「故郷を出たときは陸路で東に向かった。東方世界で一〇年ほどを過ごし、帰りには船を使った。デーヴァヴァルマンを訪れたのははじめてだ。クベラ山地の山道のことなどなにも知らん。だから、馬車を探していた。まさか、『奇妙な事態』とやらのせいで足止めを食らうとは思わなかった」
「陸路で東に向かっただって⁉」
ロウワンが叫んだ。驚きのあまり、腰を浮かせかけた。
「それじゃまさか、大アトラス山嶺を越えたのか?」
大アトラス山嶺は大陸最大の山脈であり、大陸最高峰の山々が連なる魔境である。そんな場所を通って東に向かうなどどれほどの苦難なことか。それは、想像することしか出来ないが、尋常な労苦ではないことはわかる。
「修行でもあったからな」
野伏は短く答えた。
「修行? そんな修行をしなくちゃならないなんて、なにがあったんだ?」
「事情を説明するのはおれの依頼を果たしたあと。そう言っている」
そう言ったきり、野伏は再び押し黙った。その態度に――。
トウナが大いに腹を立てたのは言うまでもない。
「そ、そうだ、野伏!」
その雰囲気をかえようとでも思ったのか、ロウワンがいきなり声を出した。トウナが思わずびっくりするほどの大声で、腰も浮かせかけている。それだけでロウワンの意気込みがわかる態度だった。
「一〇年もの間、東方を旅していたというならずいぶんと色々な土地を巡ったんだろう?」
「まあな」
「だったら、聞きたいことがある! なにか、妙な人とか、集団の噂を聞いたことはないか?」
曖昧に過ぎるその質問に、野伏はさすがに眉をひそめた。
「ずいぶんと漠然とした物言いだな。『妙な集団』とはどういう存在だ?」
「それは……説明するのは難しいんだけど」
ロウワンは一瞬、言葉に詰まり、顔をしかめた。なんとか、内心の思いを言葉にしようと苦心しながら説明する。
「……そうだな。例えば、世間的には知られていないかわった研究をしている人とか、めずらしい技術をもっている集団とか、そう言うものだな」
その言葉に――。
トウナはハッとした。
――ハルキス先生の仲間のことを聞いているのね。
ロウワンにとってどれほど師の最後の願いが重いものか改めて確認して、トウナは胸が痛む思いになった。
ロウワンの質問に対する野伏の言葉は、事情を知るものにとっては『無慈悲で冷酷』と思えるようなものだった。野伏の答えはただ一言、
「知らんな」
それだけだった。
「……そうか」
ロウワンはガックリと肩を落とした。いかにも気落ちした表情で座り直すその姿は、トウナでなくても気の毒に思うようなものだった。
数日の間、山道の旅はつつがなく進んだ。
トドルの愛馬たちは自慢するだけのことはあり、険しい山道を難儀することなく車を運んだ。しかし――。
「とまれ」
ふいに、野伏がトドルに言った。
トドルは反射的にウマをとめると尋ねた。
「ど、どうしました、旦那? なにかありましたかい?」
「なにかがいる」
「へっ?」
「敵意をもったなにかだ。襲ってこようとしている」
「……ロウワン」
トウナがその言葉の真偽を確認するようにロウワンを見た。ロウワンは肯定のうなずきを返した。野伏だけではなくビーブもまた、全身の毛を逆立てて警戒の念をむき出しにしていたからだ。
胆力の座ったビーブがこれほど警戒するのはめずらしい。それだけで『なにか』とやらがきわめて危険な存在であることが知れた。
「降りろ。ロウワン、お前とそのサルの腕があれば外に出て迎え撃った方がいい」
「あたしだって役立たずじゃないわ」
トウナが、自分の名前を呼ばれなかったことに腹を立てて言った。
タラの島の村長として、商人の道を歩むことにしたトウナだが、護身用として剣の修行はつづけている。もともと、島では同世代のなかでいちばん、喧嘩に強かったのだ。男子にだって負けたことはない。腕っ節には相応の自身がある。
もちろん、喧嘩と実戦はちがうし、その剣の技量は野伏はもちろん、ロウワンやビーブにも遠く及ばない。そのことは自覚している。だからと言って、足手まといになるほど弱いつもりはない。戦いとなれば役に立ってみせるつもりである。
ともかく、ロウワンたちは野伏と共に馬車を降りた。ロウワンはいつも通り、〝鬼〟の大刀を背中に担いだまま両手にカトラスを握った。ビーブもまたいつも通り、尻尾にカトラスを握り、四つん這いになって警戒の念をむき出しにしている。トウナも負けじとカトラスを握り、四方に視線を配っている。野伏だけがまだ太刀を抜かず、その場に突っ立っている。
御者のトドルが不安そうに口にした。主人の不安が移ったのか、四頭のウマたちも落ち着かない様子である。
「お、おれっちとウマたちは、どうすりゃいいんです?」
「そこでじっとしていろ。お前やウマたちが傷ついて困るのはおれたちだ。お前たちのことは守る」
野伏はそう答えつつ、心に尋ねた。
――どうだ? やつは嘘をついているか?
トドルは見た目はいかにもお人好しのような顔立ちだが、金を積まれれば命を張ろうという極道者である。見た目通りの善良な人間であろうはずがない。客を運ぶ途中、わざと危険な場所を通ることで客を怯えさせ、一刻も早く通過するという名目で追加料金をむしりとる、ぐらいのことは当たり前にしてきたはずだ。しかし、今回はどうか?
――嘘はついていない。本心から不安がっている、か。面倒だな。当人の仕込みの方がよかったのだが。
トドルの仕込みであれば少なくとも、そこに存在する危険はトドルの知っているものであるはずだ。そうである以上、当然、逃れ方も知っている。そうでなければ客を無事に運び、金をむしり取ることは出来ない。
その場合はトドルに任せておけばいい。追加料金はとられるが、無事に通りすぎることは出来る。ロウワンにしても闇社会に手をまわして『金で命を売る』輩を雇った以上、その程度の出費は覚悟しているだろう。しかし、『クベラ山地は自分の庭』と豪語する御者が知らない危険が迫っているのだとすれば――。
『それ』に最初に気がついたのはやはり、毛の専門家とも言うべきビーブだった。ビーブはその変化をロウワンとトウナに告げた。ふたりは『それ』に気がついて目を見張った。 「な、なんだ、あれ……?」
ロウワンが思わず小声で呟いた。
ロウワンたちの視線の先、そこでは野伏の髪が奇妙な動きを見せていた。漆黒の滝のようにたなびくまっすぐな長い髪。その先端がチリチリと立ちあがっている。まるで、絵画で表現される『怒髪天を突く』という言葉が毛先だけに現れたかのように。
「風……じゃないわよね。そんな風は吹いていないし、なにより、あの髪の毛、てんでバラバラな方を向いている」
「……ああ。まるで、昆虫の触角が、なにかを探っているみたいだ」
ロウワンがそう言ったそのときだ。
「ギイッ!」
突然、ビーブが叫んだ。丹念な毛繕いで整えられた自慢の毛並みが、これ以上ないほどに逆立っている。
『なにか』が来た。
こちらに向かって。
恐ろしく疾い。
その姿を確かめることすら出来はしない。なにか黒っぽいものが飛んでくる。そうとしか思えなかった。
野伏が太刀を抜いた。弧を描いて放った。白刃が空を裂いて煌めき、金属が肉を裂く音がした。黒っぽい塊はそのまま速度を落とすことなく山の奥に消え去った。
「野伏!」
ロウワンが叫んだ。
「キイ、キイ、キキイッ!」
ビーブも盛んに叫んでいる。
「ビーフが言っている。『いまのはただの獣なんかじゃない』って」
「同感だ」
野伏が短く言った。
「ただの獣であればおれの太刀から逃れられるわけがない。それに、見ろ」
野伏は太刀の刀身をロウワンたちにさらして見せた。ロウワンたちの顔色がかわる。白い刀身はなにやら黒い液体でベットリと濡れていた。
「な、なにそれ⁉ まさか、血なの?」
トウナがさすがに気色悪そうに身震いした。ロウワンも口には出さないが不気味なものを感じている。
「血か、体液か。いずれにしても、こんな黒い液体の流れている生き物など見たことがない。それに……」
「それに?」
「この太刀が、この液体を『食う』ことをきらっている」
野伏はそう言うと懐から懐紙を取りだし、刃についた黒い液体をきれいにぬぐいとった。それから、太刀を鞘に納める。
「たしかに……『なにか』が起きているようだ」
野伏はそう言った。そのとき――。
その漆黒の髪は逆立つことをやめていた。
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