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九章
魚たちに祈りを捧げる
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それから二週間が過ぎた。金曜の夜に実家に向かい、土日の二日間をかけてSEED水田の管理を行ない、日曜の夜に帰る、というパターンがすでに定着していた。
資金に関しては親父が最初の一週間で五〇〇万、用意してくれた。
「とりあえずはこれだけだ」
親父はこともなげにそう言うと、正座して並ぶおれたち三人の前に五〇〇万の札束を放り出して見せたものである。
「さすがに右から左とはいかなくてな。あとの工面にはもう少しかかりそうだ。まあ、さしあたってはこれで何とかやってくれ」
森崎先輩はその札束を両手で押し戴き、神棚にでも捧げるようにかかげて見せた。
「感謝いたします、お父上。このご厚意、決して無駄にはいたしません。必ずや成功させてご覧に入れます」
神妙な表情で厳かにそう語る森崎先輩の姿は高貴なまでのオーラに包まれ、もはや生徒会長どころか『武家の妻』の域だった。おれと雪森もごく自然に頭をさげた。それにしても――。
五〇〇万。
五〇〇万円の札束。
一万円札が五〇〇枚。
ウォール街辺りで働いている金融マンなら一日分の小遣い程度にしかならないはした金なのだろう。でも、おれのような零細農家の息子にとってはまさに夢の大金。その札束には何と言うかこう、畏れ多いというか、威圧感というか、そんなものが感じられた。
しかし、親父はどうやってこの金を用意したのだろう? 貯金だってそんなになかったはずだし、知り合いから借りるといってもうちと付き合いがあるのはどっこいどっこいの小規模農家ばかりだし。
土地を担保に銀行から借りた、という線か? しかし、それにしたっていまの時代にそうほいほい貸してくれるはずもない。まして、都会の一等地とでも言うならともかく、人もまばらな田舎の田んぼ。それほどの価値があるはずもない。そのなかでこれだけの金を工面するのは大変なはずなんだけど……無理を言って頼んでおいてこう言うのもなんだけど、くれぐれもヤバいところには手を出していてほしくない。
「別にヤバいところに手を出したわけじゃない。心配するな」
親父はおれの気持ちを見透かしたように言った。
「まあ、お前たち、若い者は結果を恐れずド~ンとやってみることだ。失敗したとしても気にすることはない。どうせ、農業で新しいことをはじめようと思えば一〇〇〇万や二〇〇〇万の金はかかる。それでもうまく行くとは限らないのが農業だ。じいさんの代からこんな苦労は何度も乗り越えてきた。それと同じことだ」
たしかに。どんなに努力をしても成功するとは限らないのが農業だ。どんなに丹精込めて世話をしても、病気や害虫が大発生することはある。天候不順ですべて枯れたり、台風で全滅、ということもある。豊作になればなったで今度は値崩れを防ぐためにトラクターで踏み潰し、捨てなければならない。手塩にかけて育てた、我が子も同然の作物を自らの手で踏み潰すそのやるせなさ。台風で全滅した田んぼを見るよりもつらいことだ。
それでも泣いてはいられない。立ちあがり、土をたがやし、新しい種を蒔き、苗を植えつける。つらいからと言って悲しんでいる暇はない。そうしなければ生きていけない。思いどおりにならないからと言っていちいち腹をたてたり、落ち込んでいたりしては農家は勤まらない。
そのなかで生き抜いてきただけに多少のことではビクともしない、と言ったところか。泰然たる親父の姿に原初の力強さとでも言うべきものを見た気がする。おれもかくあろう。そう誓った。
親父はそれきり何も言わず、部屋を出ていった。『この金をどう使うのか?』なんて聞く気もないようだ。いったん任せた以上、とことん任す。そういうつもりなんだろう。うちの親父ってひょっとして大物なのか? 全然、知らなかったぞ。
「少年」
森崎先輩がしみじみと言った。
「大人物だな、お前のお父上は。お前は果報者だぞ」
おれは照れもせずにうなずいていた。
その金でまず、池に放す生き物を買い集めた。コイ、フナ、ドジョウ、ナマズ、ヌマエビ、ザリガニ、川貝などだ。もちろん、SEEDシステムの要となるホテイアオイを忘れはしない。一〇〇株ほどを放り込んだ。一種類だけではつまらないというのでハスも入れた。これは夏祭りのときに切り花などにして売るつもりだ。
仕上げにたっぷりの米糠肥料をぶち込んだ。この米糠肥料が水のなかのミジンコをふやす餌となり、ミジンコたちが魚を養う餌となる。うまく行けば、だが。
これでもう、おれたちにできることは何もない。あとはSEED水田に放した生き物たちがその環境に適応し、生き延びてくれることを祈るだけだ。
「さあ、元気に育ってくれよ」
「頼むぞ。お前たちが頼りなんだからな」
おれはいちいち話しかけながら生き物を田んぼに放していく。森崎先輩も雪森もおかしな目をしたりはしない。何と言ってもSEEDシステムの成否はこの魚たちが元気に育ってくれるかどうかにかかっているのだ。もし、水に合わずに全滅、などということになれば食料・エネルギー同時作は失敗。誰の興味も引けず、夏祭りも開けなくなる。そうなればあとに残るのは借金だけ。それを思えばいちいち話しかけ、お願いせずにはいられない。届くかどうかなど関係ない。切羽詰まった人間心理というやつだ。
森崎先輩と雪森もおれと同じ気持ちなのだ。だからこそ、おれのことを変な目で見たりはしない。
――おれたちは心をひとつにした同志だ。
そう感じられておれはうれしかった。
資金に関しては親父が最初の一週間で五〇〇万、用意してくれた。
「とりあえずはこれだけだ」
親父はこともなげにそう言うと、正座して並ぶおれたち三人の前に五〇〇万の札束を放り出して見せたものである。
「さすがに右から左とはいかなくてな。あとの工面にはもう少しかかりそうだ。まあ、さしあたってはこれで何とかやってくれ」
森崎先輩はその札束を両手で押し戴き、神棚にでも捧げるようにかかげて見せた。
「感謝いたします、お父上。このご厚意、決して無駄にはいたしません。必ずや成功させてご覧に入れます」
神妙な表情で厳かにそう語る森崎先輩の姿は高貴なまでのオーラに包まれ、もはや生徒会長どころか『武家の妻』の域だった。おれと雪森もごく自然に頭をさげた。それにしても――。
五〇〇万。
五〇〇万円の札束。
一万円札が五〇〇枚。
ウォール街辺りで働いている金融マンなら一日分の小遣い程度にしかならないはした金なのだろう。でも、おれのような零細農家の息子にとってはまさに夢の大金。その札束には何と言うかこう、畏れ多いというか、威圧感というか、そんなものが感じられた。
しかし、親父はどうやってこの金を用意したのだろう? 貯金だってそんなになかったはずだし、知り合いから借りるといってもうちと付き合いがあるのはどっこいどっこいの小規模農家ばかりだし。
土地を担保に銀行から借りた、という線か? しかし、それにしたっていまの時代にそうほいほい貸してくれるはずもない。まして、都会の一等地とでも言うならともかく、人もまばらな田舎の田んぼ。それほどの価値があるはずもない。そのなかでこれだけの金を工面するのは大変なはずなんだけど……無理を言って頼んでおいてこう言うのもなんだけど、くれぐれもヤバいところには手を出していてほしくない。
「別にヤバいところに手を出したわけじゃない。心配するな」
親父はおれの気持ちを見透かしたように言った。
「まあ、お前たち、若い者は結果を恐れずド~ンとやってみることだ。失敗したとしても気にすることはない。どうせ、農業で新しいことをはじめようと思えば一〇〇〇万や二〇〇〇万の金はかかる。それでもうまく行くとは限らないのが農業だ。じいさんの代からこんな苦労は何度も乗り越えてきた。それと同じことだ」
たしかに。どんなに努力をしても成功するとは限らないのが農業だ。どんなに丹精込めて世話をしても、病気や害虫が大発生することはある。天候不順ですべて枯れたり、台風で全滅、ということもある。豊作になればなったで今度は値崩れを防ぐためにトラクターで踏み潰し、捨てなければならない。手塩にかけて育てた、我が子も同然の作物を自らの手で踏み潰すそのやるせなさ。台風で全滅した田んぼを見るよりもつらいことだ。
それでも泣いてはいられない。立ちあがり、土をたがやし、新しい種を蒔き、苗を植えつける。つらいからと言って悲しんでいる暇はない。そうしなければ生きていけない。思いどおりにならないからと言っていちいち腹をたてたり、落ち込んでいたりしては農家は勤まらない。
そのなかで生き抜いてきただけに多少のことではビクともしない、と言ったところか。泰然たる親父の姿に原初の力強さとでも言うべきものを見た気がする。おれもかくあろう。そう誓った。
親父はそれきり何も言わず、部屋を出ていった。『この金をどう使うのか?』なんて聞く気もないようだ。いったん任せた以上、とことん任す。そういうつもりなんだろう。うちの親父ってひょっとして大物なのか? 全然、知らなかったぞ。
「少年」
森崎先輩がしみじみと言った。
「大人物だな、お前のお父上は。お前は果報者だぞ」
おれは照れもせずにうなずいていた。
その金でまず、池に放す生き物を買い集めた。コイ、フナ、ドジョウ、ナマズ、ヌマエビ、ザリガニ、川貝などだ。もちろん、SEEDシステムの要となるホテイアオイを忘れはしない。一〇〇株ほどを放り込んだ。一種類だけではつまらないというのでハスも入れた。これは夏祭りのときに切り花などにして売るつもりだ。
仕上げにたっぷりの米糠肥料をぶち込んだ。この米糠肥料が水のなかのミジンコをふやす餌となり、ミジンコたちが魚を養う餌となる。うまく行けば、だが。
これでもう、おれたちにできることは何もない。あとはSEED水田に放した生き物たちがその環境に適応し、生き延びてくれることを祈るだけだ。
「さあ、元気に育ってくれよ」
「頼むぞ。お前たちが頼りなんだからな」
おれはいちいち話しかけながら生き物を田んぼに放していく。森崎先輩も雪森もおかしな目をしたりはしない。何と言ってもSEEDシステムの成否はこの魚たちが元気に育ってくれるかどうかにかかっているのだ。もし、水に合わずに全滅、などということになれば食料・エネルギー同時作は失敗。誰の興味も引けず、夏祭りも開けなくなる。そうなればあとに残るのは借金だけ。それを思えばいちいち話しかけ、お願いせずにはいられない。届くかどうかなど関係ない。切羽詰まった人間心理というやつだ。
森崎先輩と雪森もおれと同じ気持ちなのだ。だからこそ、おれのことを変な目で見たりはしない。
――おれたちは心をひとつにした同志だ。
そう感じられておれはうれしかった。
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