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一章
破れた夢からはじまる物語
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「我がSEED部の目的はただひとつ! 世界を救うことだ!」
おれの前に立つ三年女子はそう宣言した。
宮城県は仙台市内にある私立若竹学園。そのなかのいまはもう使われていない旧校舎の一角。古ぼけた部屋のなかでおれはただひとり、先輩の女子生徒と向かい合っていた。
漆黒の長髪にメガネ、ミサイルのように突き出た胸、制服の上にまとった白衣が反則的によく似合う。絵に描いたような生徒会長ふう――あくまでも『ふう』であって生徒会長ではない――のすごい美人。
こんなすごい美人の先輩と古ぼけた校舎のなかでふたりきり。これがもし、その手のマンガの世界ならそのまま男と女の世界に突入することだろう。しかし、おれの置かれている情況はそんな雰囲気からはまったくかけはなれたものだった。
生徒会長ふう美人先輩は凶悪な盛りあがりを誇る胸を堂々とそらせると、メガネの奥の目を見開き、拳をガッと握りしめた。突然、叫ぶ。
「昔のマンガのなかでは人類は21世紀には宇宙に飛び出し、異星人とも付き合っているはずだった! それが現実はどうだ⁉ いつまでたってもテロだの、紛争だのとそんな話ばかり。だから、私は決めた。人と人が争う必要のない新たな文明をこの手で築くことを!」
白衣の後ろから後光が差してくるかのようなその叫び。そのわけのわからない迫力におれは奈落の底へと落ちていくような感覚を味わった……。
◁ ▷
このおれ、藤岡耕一が若竹学園への進学を決めたのは中三の春のことだ。その日、おれは進学先をめぐって親父と口論――いや、口喧嘩をしていた。
「お前は理数系に進め」
農業高校に進みたいと言ったおれに対し、親父はそう言った。
「なんでだよ⁉ うちは代々つづく米農家じゃないか。その家業を継ぐって言ってるのに何で反対するんだよ。おれはずっとそのつもりだったんだぞ」
実際、うちの田んぼはおれにとって遊び場であり、家業を覚える修業場でもあった。
――この田んぼはおれが受け継ぐんだ。
そう思って、小さい頃からじいさんや親父の手伝いをしてきた。誇らしくもあったし、ワクワクもした。畔道に立って胸を張り、左手を腰に当て、右手で鼻をこすりながら、そう誓ったのだ。黄金色の田んぼを照らす夕日がやけにまぶしかったのをいまでも覚えている。
そのときのおれには幼いながらも確固たる意思があった。生きがいがあった。未来に向かって燃えていたのだ。だが――。
親父は静かに首を左右に振った。
「何百ヘクタールもの水田を扱うような大規模農家ならそれもいいだろう。だが、うちはちがう。二ヘクタールほどの小さな水田に少しばかりの野菜畑をもつだけの零細農家だ。そんな稼業を継いだところで将来なんぞない」
「何でそんなこと言うんだよ⁉ たしかにうちの田んぼは小さいけど……でも、ひいじいさんも、じいさんも、そのわずかばかりの田んぼを耕して暮らしてきたんだろ。親父だって継いだんじゃないか。なのに何でおれはダメなんだよ」
「いままではそれでもよかった。だが、これからはそうはいかん。低迷する米価、高騰する資材、押しよせる安い外国産作物。もう農業で食っていける時代じゃない。まして、うちのような零細農家ではな」
「で、でも……」
「おれの代はなんとかもつかも知れん。だが、お前の代は無理だ。代々つづいた農業もおれの代で終わりにする。お前は理数系に進め。そして、もっと将来性のある仕事に就け」
「けど……!」
親父の意外な言葉におれは思わずあぐらをかいていた腰を浮かせかけた。てっきり、喜んでくれるものとばかり思っていた。だって、そうだろう? 息子が自分の跡を継ぐと聞いて喜ばない親がどこにいる? それなのに……。
「そんなの……やってみなくちゃわからないじゃないか」
「『やってみなきゃわからない』でやって、ダメだったらどうする? お前の子供がいまのお前ぐらいの歳になったとき、いきなり壊滅したらどうなる? 妻子を抱えて路頭に迷いたいか? ネットカフェ難民なんぞになったら誰も助けてくれんぞ。『自己責任』で片付けられるだけだ」
「けど……!」
おれは叫んだ。
くやしかった。
メチャクチャにくやしかったのだ。
若い頃から農業一筋で働いてきた親父の口からこんな言葉を聞くことが。息子が『親の仕事を継ぐ』と言うのを喜べない、それどころか反対しなくてはならない、その現実が。
もちろん、おれだって日本の農業を取り巻く現実は知っている。
うちの場合、米は基本的に一キロあたり四〇〇円で売っている。一へクタールの田んぼでとれる米は平均して八〇俵ほど。一俵六〇キロだから四八〇〇キロ。二ヘクタールの田んぼからの収入は三八四万円ということになる。
一年間、毎日まいにち、田んぼに出て、世話をして、ようやくそれだけだ。それに、すべての米がその値段で売れるわけじゃない。安値でしか買い取ってもらえないクズ米もけっこう出るから、実際の収入は三〇〇万ちょっとにしかならない。しかも、『キロ四〇〇円』というのはかなり高い値段なのだ。業務用など一キロあたり二〇〇円台前半を求められることもある。
まして、これからどんどん安い外国産の作物が入ってこようという時代だ。見渡す限りの広大な農地で機械をガンガン使って作られた低価格の作物相手では、うちみたいな手作業の零細農家はとうてい太刀打ちできない。はっきり言って日本の農家はもう絶滅寸前の希少種でしかない。
そんなことはわかっている。親父に言われるまでもなく、骨身にしみてわかっている。でも、だからこそ、
――自分の手で代々伝えられてきた田んぼを守り、復活させたい。
そう思っていたのだ。
『子供らしい青臭い夢』と笑いたければ笑うがいい。だが、おれは真剣にそう願っていたのだし、それより大切なことなどそのときのおれにはなかったのだ。
いまの世の中はおれや、おれの世代が作ったものじゃない。自分の作ったわけでもない現実に負けたくなかった。少なくとも、戦いもせずに逃げたすのはいやだった。だけど――。
この現実を前にどうすればいい?
どうすれば戦える?
おれにはその方法がまったくわからなかった。
親父は重ねて言った。
「日本農業は終わりだ。単なる企業の倒産とはわけがちがう。業界そのものが消滅するんだ。うちがダメになったからよそに移って農業をつづける、などということはできん。まして、農業経験など他の職種では評価されん。農業を選んだりしたら将来を棒に振ることは目に見えている。それにだ。お前の友だちで『農業を継ぐ』と言っているやつはいるか?」
「……いや」
おれは目をそらしながらそう答えるしかなかった。水田地帯だから友だちもたいていは米農家の子供だ。だが、その誰ひとりとして『後を継ぐ』なんて言っていない。
「それではどうしようもないだろう。後継者がいないんじゃどうにもならん。そもそも、後継者を残せる情況じゃないしな。とにかく、どの道を選ぶにせよ、お前はここからはなれることだ。そうでなければ将来はない」
そう言うと親父は立ちあがった。
――もう話すことはない。
農業で鍛えられたたくましい背中でそう言いながら、親父は部屋を出ていった。
ひとり残されたおれはどうしても納得できなかった。あれほど必死になって田んぼを守ってきた親父があんな弱音を吐くのも、そんな弱音を吐かせる現実も、おれは認めたくなかった。でも、どうすればいい? おれになにができる?
とりあえず、おふくろに相談してみた。おふくろの意見も親父と同じだった。
「……そうだね。母ちゃんとしてはあんたに跡を継いでもらいたいけどね。けど、いまの情況を考えるととてもそうはいかないね。父ちゃんの言うとおり、他の道に行くことを勧めるよ」
おれの三倍はボリュームがありそうな、いかにも『農家のおかみさん』といった感じのおふくろの姿が、このときばかりはやけに小さく見えた。
おれはやりきれない思いを抱えたまま家を出た。あてもなく歩いているうちにいつの間にか田んぼの前にきていた。
――おれはこの田んぼで育ったんだ。
子供の頃、この田んぼでじいさんと一緒に田植えをした。ピクニック気分で家族で畔道に座り、おにぎりを頬張った。ドジョウやフナが好きなじいさんのために水路に入って網をふるい、魚を捕った。一人前のつもりでコンバインの刈り残した落ち摸をひろい、胸いっぱいに抱えて運んだ。その合間あいまにじいさんの子供の頃の話や昔話をいっぱい聞いた。
何でもできるじいさんだった。農家であり、木こりであり、木製品を作る木地師であり、炭焼き職人であり、魚取りの名人であり、山菜や薬草の専門家だった。
おれが小さい頃、熱を出すと、ひょこっと山に入って薬草を積んできて、それで治してくれた。山菜を摘んでは季節の味を味あわせてくれた。
ミツバチを飼い、新鮮なハチミツを作り、まわりにも分けていた。大工仕事もお手のもの。家の修理など自分で楽々やっていた。ちょっとした水車や風車まで自分で作り、手作りの生活を楽しんでいた。
――よくそんなに色々できたものだ。
そう思う。
でも、じいさんにとってはそれが当たり前のことだった。
『昔の人間はみんなそうだったさ。親や年長者の仕事ぶりを間近で見て、見様見真似で覚えていく。暮らしていくために必要なことは何でもできるのが当たり前だったさ』
そう言って陽気に笑った。
――何があろうと山さえあれば生きていける。
そう豪語する本当の意味での自立した人間だった。
おれもたくさんのことを教わった。学校の授業などよりよっぽど多くのことをじいさんから教わったのだ。
それがおれの原体験。おれという人間の核。そのじいさんもいまはいない。肺炎をこじらせて死んでしまった。まだ老衰というほどの歳ではなかったのに。
それまでは本当に元気でピンピンしていたのに。じいさんが死ぬなんて考えたこともなかった。でも、死んだ。
『おじいさんが死んだよ』
病院からのおふくろの電話でそう聞いたときのショックはいまも忘れられない。おれにとって生まれてはじめての身近な人間の死。それがあんなにも不安にさせられるものだなんて知らなかった。
いまではこの田んぼがじいさんの形見。じいさんの遺した財産だ。じいさんから数えきれないほど多くのことを教わったのに何ひとつ恩返しもできないうちに死んでしまった。だから、せめて……そう思っていたのに。
「いやだ!」
おれは叫んでいた。
「絶対にいやだ! おれはこの田んぼを守る。おれが受け継ぐんだ。絶対に……絶対に何か方法はあるはずだ」
おれは無我夢中で駆け出していた。家という家を駆け巡り、農家の息子を全員集め、みんなを前に思いの丈をぶちまけた。
――おれたちの親やじいさんたちが懸命に守ってきた田んぼじゃないか。これからもおれたちの手で守っていこう。みんなで力を合わせればきっとできる……!
映画だったらおれの熱意がみんなに伝わり、やる気になる……という感動的なシーンになったのかも知れない。でも、現実にはみんなの反応はいたって冷ややかなものだった。
「お前の気持ちもわからなくはないけどさ。現実的になれよ。事実として、もう日本では農家なんてやっていけないんだ」
「そういうこと。身を粉にして働いたってろくに利益も出ない。身を削るだけだ。それはお前だって知っているはずだろう?」
「金にもならない、女にもモテない。おれのおじさんなんて三〇過ぎてまだ独身だしな。あちこちのお見合いパーティーとかに出席して何とかしようと必死だけど、零細農家と聞いたとたん、みんな引いていくそうだよ。おれはそんな人生は送りたくない」
「うちの兄貴も『農家じゃ結婚もできん』って言って、東京に出ていったしな。おれも兄貴のところに世話になりながら、東京の高校に行くつもりだよ。農業とはおさらばさ」
「本当にそれでいいのかよ⁉ おれたちがやめたら米を作る人間はいなくなっちまうかも知れないんだぞ!」
「そんなの、おれたちの気にすることじゃないだろう」
「そうさ。国の考えることだ」
「だいたい、米作りなんてしても誰にも尊敬されないしな。球遊びをしているだけの連中が世界を舞台に戦い、一年に何億も稼ぎ、英雄になっている。なのに、米農家は尊敬されるどころか『ドンくさい』ぐらいにしか思われない。泥だらけになって米を作って、金にもならない、尊敬もされない、じゃ、割に合わないよ」
口々に言うみんなに対し、おれは一言もなかった。みんなの言うことはすべてもっともなもので、おれには反論する方法のひとつもなかったのだ。
みんな農家の息子だ。親たちがどんなに苦労しているか、それなのにどんなにわずかな利益しか得られないか、骨身に沁みて知っている。そのみんなを説得するには熱意や情熱なんて何の意味もない。
『こうすればやっていける』という確かなビジョンを示す必要がある。そしておれにはそんなビジョンはひとつもなかった。おれにあったのはただ、
――こんなのはいやだ!
という、子供のわがまま以外のなにものでもない思いだけだったのだ。
「悪いけど、お前に協力はできないよ。人生を棒に振る気はないからな。お前もよけいな夢は見ない方がいいぞ」
最後にそう付け加えたのはおれに対する思いやりだったのだろう。気がつくとおれはひとりになっていた。
おれは再び田んぼの前にやってきていた。死んだじいさんとの思い出がたくさんつまっ田んぼへと。
この一〇年、うちは完全無農薬でやってきた。うちでも昔は当たり前に除草剤や殺虫剤、殺菌剤などを使ってきた。おれは覚えていないけど、機械を使って一年に何度もなんども薬をまいたそうだ。それが使わなくなったのはおれが生まれたからだ。おれが五歳の頃、田んぼやそのまわりで遊んでいるのを見て、
――子供に農薬を浴びせるような真似はやめよう。
と、そう決心したのだそうだ。そして、親父は思い切って完全無農薬栽培に切り替えた。
だけど、そんな大転換が簡単にいくはずがない。無農薬栽培に切り替えた最初の年は惨憺たるありさまだった。害虫はウジャウジャ出る、病気は出る、生き残った稲もヒョロヒョロして見るからに弱々しい。当然、収穫量は激減した。
普通に農薬を使っているよその田んぼの稲は豊かな実りをつけて穂をたれているというのに、うちの田んぼはスカスカ。親父とおふくろ、それに当時はまだ生きていたじいさんが畔道に並んで立ち、丹精込めて世話してきた田んぼの無残な姿をくやしそうに見つめる姿は幼心にも痛々しく感じられた。
その年の収穫は四〇俵そこそこ。普通の四分の一ほどでしかなかった。大赤字もいいところだった。
それでも親父は無農薬栽培をあきらめなかった。何がなんでもやり遂げようとした。収入の減った分は出稼ぎに出て補った。秋、米の刈り入れが終わるとすぐに東京や大阪まで出かけ、春までそっちで働き、田植えの時期に帰ってくるのだ。当然、裏作の麦はおふくろとじいさんのふたりだけで作らなくてはならなかった。
それから数年してじいさんは死んだ。肺炎をこじらせて。誰もそうは言わないけど、冬の畑に出て麦の世話をしていたのが原因だったとおれは思っている。
じいさんの葬式のとき、親父がギュッと唇を噛みしめ、両拳を膝の上で握りしめ、押し黙っている姿はいまも忘れられない。あの頃、おれがせめていまの年齢だったなら……。
田んぼの方は三年ほどで収量が戻ってきた。五年たつと以前と同じ程度の収穫が得られるようになっていた。でも、まだ田んぼの状態が安定していないと見えて年ごとの差が大きかった。よくできるときはよくできるけど、悪いときは悪かった。
一見、穂が伸びてよくできているように見えても中身は空っぽだったり、粒が小さすぎたり、収量だけはあっても味が悪かったり……そんなこんなを乗り越えて一〇年たったいまようやく、質量ともに安定した収穫が得られるようになっていた。
いや、味の点では昔よりもよくなっている。生まれた頃から我が家の米を食べてきたおれが言うのだ。まちがいない。おふくろがその米をじいさんの仏壇に飾りながらしみじみと言ったものだ。
『おじいさんにもこの米を食べさせてあげたかったねえ』
みんなで苦労して、苦労して、ようやく成果が出た。味なら絶対、どこにも負けない。それなのにどうして、その成果が出たときになってこんなことにならなくてはならないのか。おれのなかにやり場のない怒りが渦巻いていた。
「……ごめん、じいさん」
おれは田んぼの前でうなだれた。目から涙があふれていた。
「この田んぼを守っていくことはできそうにないよ」
おれの前に立つ三年女子はそう宣言した。
宮城県は仙台市内にある私立若竹学園。そのなかのいまはもう使われていない旧校舎の一角。古ぼけた部屋のなかでおれはただひとり、先輩の女子生徒と向かい合っていた。
漆黒の長髪にメガネ、ミサイルのように突き出た胸、制服の上にまとった白衣が反則的によく似合う。絵に描いたような生徒会長ふう――あくまでも『ふう』であって生徒会長ではない――のすごい美人。
こんなすごい美人の先輩と古ぼけた校舎のなかでふたりきり。これがもし、その手のマンガの世界ならそのまま男と女の世界に突入することだろう。しかし、おれの置かれている情況はそんな雰囲気からはまったくかけはなれたものだった。
生徒会長ふう美人先輩は凶悪な盛りあがりを誇る胸を堂々とそらせると、メガネの奥の目を見開き、拳をガッと握りしめた。突然、叫ぶ。
「昔のマンガのなかでは人類は21世紀には宇宙に飛び出し、異星人とも付き合っているはずだった! それが現実はどうだ⁉ いつまでたってもテロだの、紛争だのとそんな話ばかり。だから、私は決めた。人と人が争う必要のない新たな文明をこの手で築くことを!」
白衣の後ろから後光が差してくるかのようなその叫び。そのわけのわからない迫力におれは奈落の底へと落ちていくような感覚を味わった……。
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このおれ、藤岡耕一が若竹学園への進学を決めたのは中三の春のことだ。その日、おれは進学先をめぐって親父と口論――いや、口喧嘩をしていた。
「お前は理数系に進め」
農業高校に進みたいと言ったおれに対し、親父はそう言った。
「なんでだよ⁉ うちは代々つづく米農家じゃないか。その家業を継ぐって言ってるのに何で反対するんだよ。おれはずっとそのつもりだったんだぞ」
実際、うちの田んぼはおれにとって遊び場であり、家業を覚える修業場でもあった。
――この田んぼはおれが受け継ぐんだ。
そう思って、小さい頃からじいさんや親父の手伝いをしてきた。誇らしくもあったし、ワクワクもした。畔道に立って胸を張り、左手を腰に当て、右手で鼻をこすりながら、そう誓ったのだ。黄金色の田んぼを照らす夕日がやけにまぶしかったのをいまでも覚えている。
そのときのおれには幼いながらも確固たる意思があった。生きがいがあった。未来に向かって燃えていたのだ。だが――。
親父は静かに首を左右に振った。
「何百ヘクタールもの水田を扱うような大規模農家ならそれもいいだろう。だが、うちはちがう。二ヘクタールほどの小さな水田に少しばかりの野菜畑をもつだけの零細農家だ。そんな稼業を継いだところで将来なんぞない」
「何でそんなこと言うんだよ⁉ たしかにうちの田んぼは小さいけど……でも、ひいじいさんも、じいさんも、そのわずかばかりの田んぼを耕して暮らしてきたんだろ。親父だって継いだんじゃないか。なのに何でおれはダメなんだよ」
「いままではそれでもよかった。だが、これからはそうはいかん。低迷する米価、高騰する資材、押しよせる安い外国産作物。もう農業で食っていける時代じゃない。まして、うちのような零細農家ではな」
「で、でも……」
「おれの代はなんとかもつかも知れん。だが、お前の代は無理だ。代々つづいた農業もおれの代で終わりにする。お前は理数系に進め。そして、もっと将来性のある仕事に就け」
「けど……!」
親父の意外な言葉におれは思わずあぐらをかいていた腰を浮かせかけた。てっきり、喜んでくれるものとばかり思っていた。だって、そうだろう? 息子が自分の跡を継ぐと聞いて喜ばない親がどこにいる? それなのに……。
「そんなの……やってみなくちゃわからないじゃないか」
「『やってみなきゃわからない』でやって、ダメだったらどうする? お前の子供がいまのお前ぐらいの歳になったとき、いきなり壊滅したらどうなる? 妻子を抱えて路頭に迷いたいか? ネットカフェ難民なんぞになったら誰も助けてくれんぞ。『自己責任』で片付けられるだけだ」
「けど……!」
おれは叫んだ。
くやしかった。
メチャクチャにくやしかったのだ。
若い頃から農業一筋で働いてきた親父の口からこんな言葉を聞くことが。息子が『親の仕事を継ぐ』と言うのを喜べない、それどころか反対しなくてはならない、その現実が。
もちろん、おれだって日本の農業を取り巻く現実は知っている。
うちの場合、米は基本的に一キロあたり四〇〇円で売っている。一へクタールの田んぼでとれる米は平均して八〇俵ほど。一俵六〇キロだから四八〇〇キロ。二ヘクタールの田んぼからの収入は三八四万円ということになる。
一年間、毎日まいにち、田んぼに出て、世話をして、ようやくそれだけだ。それに、すべての米がその値段で売れるわけじゃない。安値でしか買い取ってもらえないクズ米もけっこう出るから、実際の収入は三〇〇万ちょっとにしかならない。しかも、『キロ四〇〇円』というのはかなり高い値段なのだ。業務用など一キロあたり二〇〇円台前半を求められることもある。
まして、これからどんどん安い外国産の作物が入ってこようという時代だ。見渡す限りの広大な農地で機械をガンガン使って作られた低価格の作物相手では、うちみたいな手作業の零細農家はとうてい太刀打ちできない。はっきり言って日本の農家はもう絶滅寸前の希少種でしかない。
そんなことはわかっている。親父に言われるまでもなく、骨身にしみてわかっている。でも、だからこそ、
――自分の手で代々伝えられてきた田んぼを守り、復活させたい。
そう思っていたのだ。
『子供らしい青臭い夢』と笑いたければ笑うがいい。だが、おれは真剣にそう願っていたのだし、それより大切なことなどそのときのおれにはなかったのだ。
いまの世の中はおれや、おれの世代が作ったものじゃない。自分の作ったわけでもない現実に負けたくなかった。少なくとも、戦いもせずに逃げたすのはいやだった。だけど――。
この現実を前にどうすればいい?
どうすれば戦える?
おれにはその方法がまったくわからなかった。
親父は重ねて言った。
「日本農業は終わりだ。単なる企業の倒産とはわけがちがう。業界そのものが消滅するんだ。うちがダメになったからよそに移って農業をつづける、などということはできん。まして、農業経験など他の職種では評価されん。農業を選んだりしたら将来を棒に振ることは目に見えている。それにだ。お前の友だちで『農業を継ぐ』と言っているやつはいるか?」
「……いや」
おれは目をそらしながらそう答えるしかなかった。水田地帯だから友だちもたいていは米農家の子供だ。だが、その誰ひとりとして『後を継ぐ』なんて言っていない。
「それではどうしようもないだろう。後継者がいないんじゃどうにもならん。そもそも、後継者を残せる情況じゃないしな。とにかく、どの道を選ぶにせよ、お前はここからはなれることだ。そうでなければ将来はない」
そう言うと親父は立ちあがった。
――もう話すことはない。
農業で鍛えられたたくましい背中でそう言いながら、親父は部屋を出ていった。
ひとり残されたおれはどうしても納得できなかった。あれほど必死になって田んぼを守ってきた親父があんな弱音を吐くのも、そんな弱音を吐かせる現実も、おれは認めたくなかった。でも、どうすればいい? おれになにができる?
とりあえず、おふくろに相談してみた。おふくろの意見も親父と同じだった。
「……そうだね。母ちゃんとしてはあんたに跡を継いでもらいたいけどね。けど、いまの情況を考えるととてもそうはいかないね。父ちゃんの言うとおり、他の道に行くことを勧めるよ」
おれの三倍はボリュームがありそうな、いかにも『農家のおかみさん』といった感じのおふくろの姿が、このときばかりはやけに小さく見えた。
おれはやりきれない思いを抱えたまま家を出た。あてもなく歩いているうちにいつの間にか田んぼの前にきていた。
――おれはこの田んぼで育ったんだ。
子供の頃、この田んぼでじいさんと一緒に田植えをした。ピクニック気分で家族で畔道に座り、おにぎりを頬張った。ドジョウやフナが好きなじいさんのために水路に入って網をふるい、魚を捕った。一人前のつもりでコンバインの刈り残した落ち摸をひろい、胸いっぱいに抱えて運んだ。その合間あいまにじいさんの子供の頃の話や昔話をいっぱい聞いた。
何でもできるじいさんだった。農家であり、木こりであり、木製品を作る木地師であり、炭焼き職人であり、魚取りの名人であり、山菜や薬草の専門家だった。
おれが小さい頃、熱を出すと、ひょこっと山に入って薬草を積んできて、それで治してくれた。山菜を摘んでは季節の味を味あわせてくれた。
ミツバチを飼い、新鮮なハチミツを作り、まわりにも分けていた。大工仕事もお手のもの。家の修理など自分で楽々やっていた。ちょっとした水車や風車まで自分で作り、手作りの生活を楽しんでいた。
――よくそんなに色々できたものだ。
そう思う。
でも、じいさんにとってはそれが当たり前のことだった。
『昔の人間はみんなそうだったさ。親や年長者の仕事ぶりを間近で見て、見様見真似で覚えていく。暮らしていくために必要なことは何でもできるのが当たり前だったさ』
そう言って陽気に笑った。
――何があろうと山さえあれば生きていける。
そう豪語する本当の意味での自立した人間だった。
おれもたくさんのことを教わった。学校の授業などよりよっぽど多くのことをじいさんから教わったのだ。
それがおれの原体験。おれという人間の核。そのじいさんもいまはいない。肺炎をこじらせて死んでしまった。まだ老衰というほどの歳ではなかったのに。
それまでは本当に元気でピンピンしていたのに。じいさんが死ぬなんて考えたこともなかった。でも、死んだ。
『おじいさんが死んだよ』
病院からのおふくろの電話でそう聞いたときのショックはいまも忘れられない。おれにとって生まれてはじめての身近な人間の死。それがあんなにも不安にさせられるものだなんて知らなかった。
いまではこの田んぼがじいさんの形見。じいさんの遺した財産だ。じいさんから数えきれないほど多くのことを教わったのに何ひとつ恩返しもできないうちに死んでしまった。だから、せめて……そう思っていたのに。
「いやだ!」
おれは叫んでいた。
「絶対にいやだ! おれはこの田んぼを守る。おれが受け継ぐんだ。絶対に……絶対に何か方法はあるはずだ」
おれは無我夢中で駆け出していた。家という家を駆け巡り、農家の息子を全員集め、みんなを前に思いの丈をぶちまけた。
――おれたちの親やじいさんたちが懸命に守ってきた田んぼじゃないか。これからもおれたちの手で守っていこう。みんなで力を合わせればきっとできる……!
映画だったらおれの熱意がみんなに伝わり、やる気になる……という感動的なシーンになったのかも知れない。でも、現実にはみんなの反応はいたって冷ややかなものだった。
「お前の気持ちもわからなくはないけどさ。現実的になれよ。事実として、もう日本では農家なんてやっていけないんだ」
「そういうこと。身を粉にして働いたってろくに利益も出ない。身を削るだけだ。それはお前だって知っているはずだろう?」
「金にもならない、女にもモテない。おれのおじさんなんて三〇過ぎてまだ独身だしな。あちこちのお見合いパーティーとかに出席して何とかしようと必死だけど、零細農家と聞いたとたん、みんな引いていくそうだよ。おれはそんな人生は送りたくない」
「うちの兄貴も『農家じゃ結婚もできん』って言って、東京に出ていったしな。おれも兄貴のところに世話になりながら、東京の高校に行くつもりだよ。農業とはおさらばさ」
「本当にそれでいいのかよ⁉ おれたちがやめたら米を作る人間はいなくなっちまうかも知れないんだぞ!」
「そんなの、おれたちの気にすることじゃないだろう」
「そうさ。国の考えることだ」
「だいたい、米作りなんてしても誰にも尊敬されないしな。球遊びをしているだけの連中が世界を舞台に戦い、一年に何億も稼ぎ、英雄になっている。なのに、米農家は尊敬されるどころか『ドンくさい』ぐらいにしか思われない。泥だらけになって米を作って、金にもならない、尊敬もされない、じゃ、割に合わないよ」
口々に言うみんなに対し、おれは一言もなかった。みんなの言うことはすべてもっともなもので、おれには反論する方法のひとつもなかったのだ。
みんな農家の息子だ。親たちがどんなに苦労しているか、それなのにどんなにわずかな利益しか得られないか、骨身に沁みて知っている。そのみんなを説得するには熱意や情熱なんて何の意味もない。
『こうすればやっていける』という確かなビジョンを示す必要がある。そしておれにはそんなビジョンはひとつもなかった。おれにあったのはただ、
――こんなのはいやだ!
という、子供のわがまま以外のなにものでもない思いだけだったのだ。
「悪いけど、お前に協力はできないよ。人生を棒に振る気はないからな。お前もよけいな夢は見ない方がいいぞ」
最後にそう付け加えたのはおれに対する思いやりだったのだろう。気がつくとおれはひとりになっていた。
おれは再び田んぼの前にやってきていた。死んだじいさんとの思い出がたくさんつまっ田んぼへと。
この一〇年、うちは完全無農薬でやってきた。うちでも昔は当たり前に除草剤や殺虫剤、殺菌剤などを使ってきた。おれは覚えていないけど、機械を使って一年に何度もなんども薬をまいたそうだ。それが使わなくなったのはおれが生まれたからだ。おれが五歳の頃、田んぼやそのまわりで遊んでいるのを見て、
――子供に農薬を浴びせるような真似はやめよう。
と、そう決心したのだそうだ。そして、親父は思い切って完全無農薬栽培に切り替えた。
だけど、そんな大転換が簡単にいくはずがない。無農薬栽培に切り替えた最初の年は惨憺たるありさまだった。害虫はウジャウジャ出る、病気は出る、生き残った稲もヒョロヒョロして見るからに弱々しい。当然、収穫量は激減した。
普通に農薬を使っているよその田んぼの稲は豊かな実りをつけて穂をたれているというのに、うちの田んぼはスカスカ。親父とおふくろ、それに当時はまだ生きていたじいさんが畔道に並んで立ち、丹精込めて世話してきた田んぼの無残な姿をくやしそうに見つめる姿は幼心にも痛々しく感じられた。
その年の収穫は四〇俵そこそこ。普通の四分の一ほどでしかなかった。大赤字もいいところだった。
それでも親父は無農薬栽培をあきらめなかった。何がなんでもやり遂げようとした。収入の減った分は出稼ぎに出て補った。秋、米の刈り入れが終わるとすぐに東京や大阪まで出かけ、春までそっちで働き、田植えの時期に帰ってくるのだ。当然、裏作の麦はおふくろとじいさんのふたりだけで作らなくてはならなかった。
それから数年してじいさんは死んだ。肺炎をこじらせて。誰もそうは言わないけど、冬の畑に出て麦の世話をしていたのが原因だったとおれは思っている。
じいさんの葬式のとき、親父がギュッと唇を噛みしめ、両拳を膝の上で握りしめ、押し黙っている姿はいまも忘れられない。あの頃、おれがせめていまの年齢だったなら……。
田んぼの方は三年ほどで収量が戻ってきた。五年たつと以前と同じ程度の収穫が得られるようになっていた。でも、まだ田んぼの状態が安定していないと見えて年ごとの差が大きかった。よくできるときはよくできるけど、悪いときは悪かった。
一見、穂が伸びてよくできているように見えても中身は空っぽだったり、粒が小さすぎたり、収量だけはあっても味が悪かったり……そんなこんなを乗り越えて一〇年たったいまようやく、質量ともに安定した収穫が得られるようになっていた。
いや、味の点では昔よりもよくなっている。生まれた頃から我が家の米を食べてきたおれが言うのだ。まちがいない。おふくろがその米をじいさんの仏壇に飾りながらしみじみと言ったものだ。
『おじいさんにもこの米を食べさせてあげたかったねえ』
みんなで苦労して、苦労して、ようやく成果が出た。味なら絶対、どこにも負けない。それなのにどうして、その成果が出たときになってこんなことにならなくてはならないのか。おれのなかにやり場のない怒りが渦巻いていた。
「……ごめん、じいさん」
おれは田んぼの前でうなだれた。目から涙があふれていた。
「この田んぼを守っていくことはできそうにないよ」
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